ダイヴのある風景

mic

文字の大きさ
上 下
7 / 62
第二章

第二章 ⑥

しおりを挟む
   第二章 ⑥

 その後、ここへきてからわかったことや見つけたもの、たとえば、この建物は、元は病院だったってことや、入り口に描かれてあるスプレーアートのことなどを、僕と信良は冴子と花江に説明してやった。とは言っても、もう他にはたいした収穫はなかったのだけれど。
 廃屋の二階には、直感的に行かなかったって言うと、花江がものすごく怖がった。
 そうそう、ガラスの件についての話題は避けた。ちゃんと説明したほうが変な誤解は解けるのだろうけれど、同時に信良のちょっと変わった趣味についても知られてしまうことになるからだ。
 信良が、それだけは困る、って耳打ちしてきたので、その話は封印することにした。
 僕と信良の説明が終わる頃、冴子はしきりに廃屋の二階を見上げていた。その様子から察するに、彼女の強力な好奇心は、廃屋の二階へ向けられているんだと思う。行ってみたいと思っていたのかもしれない。
 でも、冴子がショートパンツにTシャツ、花江はワンピースという僕以上に軽装だから、朽ち果てた廃屋の中へ入るのは勧められなかったし、それに、花江がとても怖がっているので、僕は首を横に振った。
 冴子はため息をついて、諦めたようだった。

 これ以上ここにいても、もうなにも得るものがないと思った僕は、今日は帰ろうと言った。
 みんな忘れ物がないかどうか確認してから、また来ればいいさ、と信良と話していたとき、空を見上げていた花江が歓声を上げた。
「わあ。星がきれい」次第に濃さを増していく青空に向かって、花江が両手を伸ばした。「もう星が見えてるよお。ねえ、ちょっとだけ星を見てから帰ろう」
 僕は空を見上げた。開けた木々の間から望める空は、ぽっかりといびつな形に切り取られている。まるで、池が天井に張り付いているようだ。
 空は、その変化が目に見えるくらいに急激に濃さと深さを増していた。星を映し出すスクリーンの準備を徐々に整えているらしい。
 スクリーンには、文字通り、すでにいくつかのスターが登場していた。輝度の違いはあるにせよ、それぞれが個性的な演技をするのだろう。一晩中。主役を太陽に奪われるまで。
 廃屋の正面の広場には、営業していた頃の名残だろう、切り株を利用して作ったテーブルと椅子がいくつか残されている。僕たちはそこに座って、しばらく星たちの演技を見ることにした。
「信ちゃん、こっちこっち」花江が信良を引っ張って、一番真ん中にあるテーブルに着いた。「ここが一番よおく見えると思うよお。はやく座って座って」
「わかったから裾を引っ張るなって」信良が頭を掻きながら花江の隣りに座った。
 僕と冴子は、廃屋の一番近くにあるテーブルに座った。僕が先に座り、その隣に冴子が座った。
「ここからだと、星の見える数が少ないね。もっと真ん中に行くかい?」
「ううん、あたしはここでいいわよ」冴子が空を見上げながら言う。「星が見えにくい分、星からも見えにくいでしょ。あたしたちの様子が」ふふ、と意味ありげに笑う。
 僕はそれには応えず、空を見上げた。
 花江のうれしそうな声が、森の中をかけっこしている。
 信良も、だんだん調子が出てきたのか、星を指さしながら、
「あれはツキノワグマの星だったっけ。ええと、そんなのあったかな。まあいいや、向こうの星は人間の顔みたいだな。なんか花江の顔に似てないか、顔がまん丸くて目と目の間が広いぞ。わはは」なんて手を叩いている。
「わあい。ありがとお。信ちゃんにほめられたあ」
「おい、今のは誉めたんじゃなくってだな、まあいいや」
 花江と信良のやりとりを微笑みながら聞いていた冴子が、僕に寄り添った。僕の肩に頭を乗せてくる。
「今度、続きをする?」冴子は僕にもたれたまま空を見上げた。そして、風のような声を出した。ぬるま湯以上の温度は感じられない、ごく自然な言葉だった。
「なにを?」僕も空を見ながら尋ねる。
「トランプを、って言うと思う?」冴子が頭を僕の肩にこつんと当てた。
 スクリーンは、ますます暗くなっていて、自分の存在を目立たないようにしていた。逆にその分、星たちの演技がいっそう目立ち、とても輝きのあるものとなっている。
「ねえ。カナともしたくなった?」
「なにを?」
 冴子は、もっと強く頭を当ててきた。「まだなんでしょ、彼女とは」
「まだもなにも」僕は冴子に横目を向けた。顔の下に、Tシャツの大きく膨らんだ胸が見えた。「冴子との一件から、まだそんなに経っていない」
「一件はないでしょ、一件は」冴子が苦笑する。「それに、時間の問題じゃないでしょ、そういうのって」
「まあ、そうかもしれない」僕は星から目を離してうつむいた。ショートパンツから伸びた冴子の脚が、わずかに動いた。それは、星明かりの中でいっそう白く見えた。
 一件、はひどかったかな、と僕は反省する。そして、冴子の寛大さに感謝した。
 人の第一印象なんて、まったくあてにならないと思う。
 人間は、「初対面用マスク」というのを常に準備してあって、みんな意識していようがなかろうが、そいつを被って初対面の人に接するようにできているんじゃないだろうか。
 そのマスクの厚さには個人差がある。厚いか薄いかは人それぞれ。それが第一印象の精度に影響しているのだと僕は思う。
 冴子の場合だってそうだ。第一印象なんて、そんなものは。
 冴子のマスクは、とっても分厚かったと思う。でも、彼女の場合は、マスクをしていないほうが絶対にいい。
 みんなマスクを装着した冴子しか知らないだろうし、そんな冴子はとても魅力的だ。
 でも、マスクを外した冴子のほうが、はるかに魅力的だ。それを僕は知っている。
 そう、あの「一件」は、マスクを外した冴子が引き起こしたものだったと思う。そんな冴子の魅力に僕は心を奪われたってことを白状しなければならないだろう。
 僕は、あの一件、つまり、冴子との体験を再び思い出した。冴子は僕と肌を触れ合った後に、本当の素顔を晒してくれたのだ。
 僕は空を見上げた。漆黒のスクリーンに散らばる星々の間に、あのときの情景がよみがえってきた。
しおりを挟む

処理中です...