ダイヴのある風景

mic

文字の大きさ
8 / 62
第二章

第二章 ⑦

しおりを挟む
   第二章 ⑦

「ちょっと待って」冴子が僕の手を止めた。「そんなにストレートじゃ、悲しいじゃない。胸のあと、すぐに下にいくんじゃなくて、キスぐらいくれなきゃ」
「そんなものかな」
「そんなものよ」
 僕は冴子を見下ろした。彼女の大きな目が僕を受け止めた。
 僕はゆっくりと顔を近づけていき、唇を合わせた。そこは、想像以上に柔らかかった。
 唇を離そうと思ったら、冴子が僕の背中に腕を回してきた。わずかに唇を外し、まだだめよ、と言ってから再び唇を押しつけてきた。
 しばらくして、僕は解放された。小さく息を吐きながら、僕は頭を起こした。
 冴子はじっと目を閉じたまま、全身の力を抜いて横たわっていた。急に身動きしなくなったので、僕は少し心配になった。でも、彼女には触れず、かといって声をかけるでもなく、彼女の様子を観察していた。
 冴子の顔に、次第に微笑みが浮かんできた。そして、うん、と言った。続けて二回、ん、ん、と言ってから、冴子は目を開けた。
「ねえ」冴子は満面に笑みを浮かべて言った。「キスのない身体の関係なんて、女にとってはうれしくもなんともないのよ。逆に悲しいくらい。心のメモリーにインプットしといたほうがいいわ」
 もちろん、僕に返す言葉はない。経験不足、いや、未経験というものは言葉をも奪ってしまうらしい。
 僕は始終無言のまま、なんとでもなれ精神で、再び冴子に触れた。そして、彼女を感じた。
 冴子は目を閉じたまま、まるで海に浮かべたビーチマットの上で真っ盛りの夏を楽しんでいるかのような、そんな表情をしていた。僕とは別次元にいるのかもしれないと思った。
 このへんでいいのかな、と思った僕は、冴子の上に身体を落とした。そして、最後の温もりを感じようとした。そのとき冴子が目を開けた。
「待って。髪留めが頭に当たって痛いの」そう言って冴子は上体を起こした。なぜか少しの間、そのままでじっとしていた。
 やがて緩慢な動作で髪から留め具を外して、それをベッドの枕元に置いた。そして、ゆっくりとした動作で横たわった。
「ごめんなさい」冴子はそう言って微笑んだ。両手を僕のほうへ伸ばして求める。「きて」
 僕はしばらく冴子を見つめていたけれど、もう一度身体を落とした。そのまま動かずにいた。しばらく動かずにいた。
「どうしたの?」冴子が僕の耳元で言う。「ねえ、祥一」
  僕は身体を起こした。冴子の目を見る。いつもの冴子の目じゃないと思った。いや、これが本当の冴子なのかもしれない。
「なんで黙っていたの?」僕は真っ直ぐに冴子の目を見て言った。「冴子も、本当は初めてなんだろう?」
 冴子の目が揺れた。薄茶色の瞳が僕の視線を逃れ、空中をさまよう。
 なにか言おうとした冴子を、僕はさえぎった。「もういいって。無理しなくてもいいよ。冴子はいつだって重いものが肩に乗っかっているように見えるんだよ。僕がこんなこと言うのって、信良が蝶ネクタイをするのと同じくらい似合わないかもしれないけどね、捨てちゃえば? パアッと。重いもの、ぜんぶ取っ払ってしまえば、もっと楽になると思うよ」
 空中をさまよっていた冴子の目が、僕に戻った。「どうしてわかったの?」
「冴子、時間が経つにつれて、あんまり僕に触らなくなっただろう? どうしてかなって思ってたんだけど。でも、キスをするときに僕に回した腕が、微妙に震えていたのに気づいたんだ。そして、いざというときになって、その震えがさらに大きくなったのをごまかすために、髪留めを外して一呼吸置いた。ゆっくりとした動きで時間を稼いでね」
 冴子は瞬きをしながら僕を見ていたけれど、やがて口元だけで笑った。
「イメージが先行すると、死ぬほどつらいって感じ、祥一にわかるかしら。あたし、見た目がちょっと大人っぽいでしょう。だから、初対面の人はみんな、この人は性格も行動も大人っぽいタイプの人間なんだって思ってしまうみたい。ところがところが」冴子が苦笑する。「実際の冴子っていう人間は、そんなに大人じゃないのよ。本当は消極的で、小心者で、なにか失敗する度にくよくよするタイプなの。あ、意地悪なところもあるかもね」
 僕は黙って冴子の話を聞いていた。
「あたしのことを経験豊富だって人は思っているけれど、とんでもない。そんな勇気なんて、これっぽっちもない女です、あたしは」
「だから、そのままの自分でいれば? そのほうが楽なんだろ?」
 冴子はなにか言いかけたけれど、そのまま口を閉じた。複雑な表情で笑う。
 僕は冴子の上からどいて、わきに横たわった。
 冴子が僕の動きを追う。「ねえ。それとこれとは別よ。変に気をつかわないで」
「いや、今日はやめとくよ。また続きは今度ってことで」
「いくじなし」ちょっと強めな口調で冴子が言った。僕をにらみつけている。その視線から、ふっと力が抜けた。「でも、ありがと。やっぱりあなた、優しいのね。ますます好きになりそうよ。やっぱり、今すぐ食べちゃおうかな」
 おどけて言う冴子に、僕は言った。「聞かなかったことにするよ」
「でもね、祥一。あなたは優しいけど、その百倍は憎らしいわよ。普通、こういうときって気づかないふりをして流れに身を任せるものよ。せっかく女の子が受け入れる準備をしたのに、その気持ちも考えてくれないと。それとも、誰か他の女の子のことが気になった?」ふふ、と冴子が笑う。
「いや、そういうわけじゃ」
「本当にいいの? 遠慮しなくていいのよ」
「ああ。僕は遠慮するタイプじゃないよ。君も知っている通りね」
「あーあ、やっぱりだめねえ。あなたをリードするつもりが、最終的にはリードされちゃうんだから。まあ、予想できなかったわけでもないけどね。それがあなたの魅力だから」
「魅力って、弥勒の親戚かい?」
 オヤジギャグはさておいて、と冴子は言い、僕のほうへ向き直る。
「でも、祥一。あなたそのままじゃいやでしょ。気をつかってくれたお礼じゃないけど、これでよかったら」そう言いながら、冴子は僕のペニスに手を伸ばした。手探りで位置を確認し、触れる。そして、依然、勃起したままのそれを、そっと握りしめた。
「待てよ、冴子。そんなのいいって。君こそ無理しなくていいよ」僕は冴子の手に触れた。僕の手を冴子が優しく払う。
「無理なわけないでしょ。あたしから誘ったのに。いいからじっとしてて」悪戯っぽい笑顔で僕を見つめる冴子は、やっぱり悪魔かもしれない。
「あ、ちょっと。まずいって。だめだったら」僕は急いで止めようとしたけれど、遅かった。正直に言うと、我慢の一歩手前にきていたのだ。
 僕の喉から、くぐもった声が漏れた。同時に、冴子の真っ白い腹の上に、放出してしまった。
 冴子は一瞬、驚いたようだったけれど、すぐにクスクス笑った。
「クールガイの焦ったところ、初めて見ちゃった。なんかすごく得した感じ。祥一って、意外とかわいいのね」少しだけ赤面した顔を両手で被いながら笑う冴子は、今までで一番かわいいと思った。僕は思わず、冴子こそすごくかわいいよ、と言いそうになり、慌てて口を閉じた。
「とりあえず、イメージ通りの冴子でいくわ」冴子はいつもの冴子に戻っていた。「そのほうが、はげたペンキを塗り直す手間もかからないしね。イメージを塗り替えるのって、大変そうだから」
 でも、と冴子。「誰かさんの前だけでは、時々、本当の冴子が登場するかもしれないわ」そう言いながら、意地悪そうに笑う。
 悪魔、復活。やれやれだ。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

むっつり金持ち高校生、巨乳美少女たちに囲まれて学園ハーレム

ピコサイクス
青春
顔は普通、性格も地味。 けれど実は金持ちな高校一年生――俺、朝倉健斗。 学校では埋もれキャラのはずなのに、なぜか周りは巨乳美女ばかり!? 大学生の家庭教師、年上メイド、同級生ギャルに清楚系美少女……。 真面目な御曹司を演じつつ、内心はむっつりスケベ。

おじさん、女子高生になる

一宮 沙耶
大衆娯楽
だれからも振り向いてもらえないおじさん。 それが女子高生に向けて若返っていく。 そして政治闘争に巻き込まれていく。 その結末は?

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

処理中です...