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第四章
第四章 ⑨
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「ひっ」
リリィは縮み上がった。男の発した声と打撃音への反射的な反応だった。
しかし、身体とは違い、脳はそれに対応しきれないらしく、リリィは呆けたように口をぽかんと開けた。
男は目を細めてリリィの顔をじっと見つめていたが、すぐに柔らかい表情に戻った。
「あはははは。いやいやいや。申し訳ありません、話がずれちゃって。私の悪いクセなんですよ。とにかく、ここでお嬢さんにお目にかかれたってことは、あの話、本当だったんですねぇ。ほら、交通事故でご両親を亡くされ、一人っきりになったあなたはどこかに引っ越されたって話。もっとも、私はその時にはすでに退社していたので、風の便りに聞いたのですけどね。それにしても、偶然って怖いですねぇ。まさか仕事を辞めてもまたお会いできるなんて」
男はリリィを見つめながら、アタッシュケースの表面を、両手で太鼓のように軽く叩き始めた。とん、ととん、とととん、とん。玄関にリズミカルな音が響く。
男が手を止めた。音がぴたり、と止んだ。
「偶然、じゃなかったりして」
男がリリィを見つめながら、ぼそりと言った。表情がない。温度の感じられない顔つきである。さきほどまでの柔らかい表情は消え失せ、血流とは無縁の、まるでロウ人形のように生気が感じられない。
「偶然どころか、知っていたりして。意図的に調べ上げていたりして。百パーセント計画的だったりして」
男が、今度は早口ではっきりと言葉を並べた。そして、もう一つ付け加えた。
「つまりは、狙っていたりして」
男の口の両端が、にぃ、と吊り上った。以前とは、明らかに笑いの種類が異なっていた。表情に温度が表れている。心臓を一瞬にして凍てつかせるほどの冷気を発する目。その目の奥に黒い炎がちろちろと見え隠れしている。
リリィは言葉が出なかった。かろうじて男をにらみつけてはいるものの、膝ががくがくと震え始めた。
「私がここに来た目的はね、二つあるんですよ。一つは仕事。ま、これは見ての通り、集荷物の営業ですよ。あとでゆっくり見積書でもごらんになっていただくことにします。そして、二つめの目的。なんだと思います?」
男はリリィに解答を求めるかのように少し間を置いた。眉を上げ、リリィをじっと見つめる。だが、本当に解答など期待している表情ではない。自分の話によりいっそうの効果を持たせるために間を置いた、そういう表情だった。
「二つめの目的」
男は右手の人差し指を垂直に立て、それをリリィへ向けて倒した。
「それは、お嬢さん。あなたなんですよ。リ、リ、ィ、さん」
男の芝居めいた異常な言動に、リリィの全身に鳥肌が立った。顔を引きつらせたまま、たまらず一歩、後退する。
「私はね、あなたの亡きお父さんに感謝しているんですよ。お父さん、すごい読書家だったでしょ。インターネットでの書籍の注文もたびたびありましたよね。実はね、それを届けていたのが、私だったんですよ。前のマンション、私の担当エリアだったんでね」
男は当時を懐かしむように、視線を宙にさまよわせる。
「おかげで、あなたという素敵な女性に会えたわけなんです。私は、即座に恋をしてしまいました。本を届けるたびに、ああ、またあなたに会える、あなたの顔が見える、なんて密かに心をときめかせたものです。しかし、物事は、そううまくいきませんよね。いつもあなたがお出になるとは限りません。お母さんのときだってある。そんな時は、ほんと、悲しくなっちゃいましたよ。このクソババァ、俺の恋路を邪魔する気か、なんて。あはははは」
男の乾いた笑い声が響き渡る。
「でも、経験ってすごいですねぇ。お届けの回数が増えるにつれて、あなたが在宅している曜日ごとの時間帯のパターンが、かなりの確率でわかってきたんですよ。あまり遊び歩かないお嬢さんのことだから、その確率は、けっこう高かったですよ。それで私は、配達順路をわざわざ変えてまで、その時間帯に合わせていたんです。どうです、涙ぐましい努力でしょ。ところが」
男の顔に、再び歪みが生じた。
「私の休みの日に、あなたのところへ荷物を配達した大バカ野郎がいたんですよ。信じられないでしょ? 人の物を横取りしやがって。私は、はらわたが煮え繰り返りそうになりましたが、まあ、それだけなら許してやってもよかったのですがね、そのバカ、とんでもないことを言ったんですよ。この私の前でね」
男の握り締めた拳が、震える。
「『あそこの娘、すんげぇかわいいなあ。純情そうなのにスタイル抜群でよ。あんな女と付き合いたいもんだぜ』って。ね、とんでもないでしょ。許されることではないでしょ。ああ、心配しなくても大丈夫ですよ。そのバカ、その日の帰りに待ち伏せして半殺しにしてやりましたから」
男は、まるで道に迷って困っている老人を助けた時のように、爽やかな顔つきをする。
リリィは、男の顔を見ながら、また一歩、後退した。そして、また一歩。額から顔から、滝のような汗が流れ出し、首筋を伝ってグレーのパジャマを黒く染め始める。
リリィは縮み上がった。男の発した声と打撃音への反射的な反応だった。
しかし、身体とは違い、脳はそれに対応しきれないらしく、リリィは呆けたように口をぽかんと開けた。
男は目を細めてリリィの顔をじっと見つめていたが、すぐに柔らかい表情に戻った。
「あはははは。いやいやいや。申し訳ありません、話がずれちゃって。私の悪いクセなんですよ。とにかく、ここでお嬢さんにお目にかかれたってことは、あの話、本当だったんですねぇ。ほら、交通事故でご両親を亡くされ、一人っきりになったあなたはどこかに引っ越されたって話。もっとも、私はその時にはすでに退社していたので、風の便りに聞いたのですけどね。それにしても、偶然って怖いですねぇ。まさか仕事を辞めてもまたお会いできるなんて」
男はリリィを見つめながら、アタッシュケースの表面を、両手で太鼓のように軽く叩き始めた。とん、ととん、とととん、とん。玄関にリズミカルな音が響く。
男が手を止めた。音がぴたり、と止んだ。
「偶然、じゃなかったりして」
男がリリィを見つめながら、ぼそりと言った。表情がない。温度の感じられない顔つきである。さきほどまでの柔らかい表情は消え失せ、血流とは無縁の、まるでロウ人形のように生気が感じられない。
「偶然どころか、知っていたりして。意図的に調べ上げていたりして。百パーセント計画的だったりして」
男が、今度は早口ではっきりと言葉を並べた。そして、もう一つ付け加えた。
「つまりは、狙っていたりして」
男の口の両端が、にぃ、と吊り上った。以前とは、明らかに笑いの種類が異なっていた。表情に温度が表れている。心臓を一瞬にして凍てつかせるほどの冷気を発する目。その目の奥に黒い炎がちろちろと見え隠れしている。
リリィは言葉が出なかった。かろうじて男をにらみつけてはいるものの、膝ががくがくと震え始めた。
「私がここに来た目的はね、二つあるんですよ。一つは仕事。ま、これは見ての通り、集荷物の営業ですよ。あとでゆっくり見積書でもごらんになっていただくことにします。そして、二つめの目的。なんだと思います?」
男はリリィに解答を求めるかのように少し間を置いた。眉を上げ、リリィをじっと見つめる。だが、本当に解答など期待している表情ではない。自分の話によりいっそうの効果を持たせるために間を置いた、そういう表情だった。
「二つめの目的」
男は右手の人差し指を垂直に立て、それをリリィへ向けて倒した。
「それは、お嬢さん。あなたなんですよ。リ、リ、ィ、さん」
男の芝居めいた異常な言動に、リリィの全身に鳥肌が立った。顔を引きつらせたまま、たまらず一歩、後退する。
「私はね、あなたの亡きお父さんに感謝しているんですよ。お父さん、すごい読書家だったでしょ。インターネットでの書籍の注文もたびたびありましたよね。実はね、それを届けていたのが、私だったんですよ。前のマンション、私の担当エリアだったんでね」
男は当時を懐かしむように、視線を宙にさまよわせる。
「おかげで、あなたという素敵な女性に会えたわけなんです。私は、即座に恋をしてしまいました。本を届けるたびに、ああ、またあなたに会える、あなたの顔が見える、なんて密かに心をときめかせたものです。しかし、物事は、そううまくいきませんよね。いつもあなたがお出になるとは限りません。お母さんのときだってある。そんな時は、ほんと、悲しくなっちゃいましたよ。このクソババァ、俺の恋路を邪魔する気か、なんて。あはははは」
男の乾いた笑い声が響き渡る。
「でも、経験ってすごいですねぇ。お届けの回数が増えるにつれて、あなたが在宅している曜日ごとの時間帯のパターンが、かなりの確率でわかってきたんですよ。あまり遊び歩かないお嬢さんのことだから、その確率は、けっこう高かったですよ。それで私は、配達順路をわざわざ変えてまで、その時間帯に合わせていたんです。どうです、涙ぐましい努力でしょ。ところが」
男の顔に、再び歪みが生じた。
「私の休みの日に、あなたのところへ荷物を配達した大バカ野郎がいたんですよ。信じられないでしょ? 人の物を横取りしやがって。私は、はらわたが煮え繰り返りそうになりましたが、まあ、それだけなら許してやってもよかったのですがね、そのバカ、とんでもないことを言ったんですよ。この私の前でね」
男の握り締めた拳が、震える。
「『あそこの娘、すんげぇかわいいなあ。純情そうなのにスタイル抜群でよ。あんな女と付き合いたいもんだぜ』って。ね、とんでもないでしょ。許されることではないでしょ。ああ、心配しなくても大丈夫ですよ。そのバカ、その日の帰りに待ち伏せして半殺しにしてやりましたから」
男は、まるで道に迷って困っている老人を助けた時のように、爽やかな顔つきをする。
リリィは、男の顔を見ながら、また一歩、後退した。そして、また一歩。額から顔から、滝のような汗が流れ出し、首筋を伝ってグレーのパジャマを黒く染め始める。
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