ダイヴのある風景

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第四章

第四章 ⑩

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 男がゆっくりと立ち上がった。靴を履いたまま、一歩踏み出す。リリィが後退するたびに前進する。まるで、リリィとの距離を一定に保っておきたいかのように。
「正直に言うとね。それが原因で仕事、クビになっちゃったんですよ。まあ、傷害罪で訴えられなかっただけでもよかったかな。あはは。でもねぇ。そのせいでお嬢さんに会えなくなっちゃったんですよね。お嬢さんはお嬢さんで私に黙って引越しちゃうし」
 ふうう、と男が大仰なため息をつく。つきながらも、リリィとの間合いを一定に保ちながら、ゆっくりと歩き続ける。
「だから、こうして直接、会いに来たわけなんですよ。我慢できなくなってね。あ、心配しなくてもいいですよ。どうせ私はつまらないゴミみたいな人間です。お嬢さんと釣り合うなんて、これっぽっちも思っていません。お嬢さんの愛が欲しい、付き合ってほしいなんて、口が裂けてもいいませんから。その代わりね。今日は別のものをいただきに来たんです」
 男が急に大きく踏み出した。リリィとの距離が一気に縮まる。
 リリィは、遠目にもわかるほど、がたがたと震えだした。まるで、この世のものではない存在を目にしたかのように。
「二つめの目的、つまりお嬢さん。あなたのセックスが欲しいんです」
 男は顔色一つ変えず、前に前に進み続ける。
「あなたの身体を、感触を記憶したいんです」
 二人の距離がなくなった。男が両手を上げた。
「あなたの記憶にも、私のセックスを刻んでさしあげます。一生、心に残るように」
 男の両手がリリィの肩にかかった。ぐい、と指が肉に食い込む。
「いやああああっ!」
 金縛りから解放されたかのように、リリィは叫んだ。叫びながら男の両手を払いのけ、台所に向かって走った。手近にあった椅子をつかみ、胸の前に抱え上げ、振り向いた。
 男は意外にもゆっくりと近づいてくる。再びあの柔らかい微笑みを顔に張り付かせたまま、ゆっくりと、だが確実に獲物に向かって足を進める。
「おやおや。お嬢さん、そんな危ないものを抱えて、なにをするつもりなんですか? それで私を叩きのめすとでも?」
「ち、近寄らないでよ。それ以上近寄ると、窓に向かって投げるから」
「窓に?」
 男が首を傾げる。
「はて。それ、どういう意味なんですか?」
「隣り近所は留守でもね、突然、窓が割れて、椅子が飛び出してきてみなさい。誰かしら気付いてくれるはずだわ。最悪、通行人がいなくてもね、この窓の下、坂になっているのよ。椅子は坂下の家にぶち当たるから、気付いてくれるに違いないわ。あたしだって、なるべくそんなことをしたくないから、今のうちにはやく出て行ってよ。あなたのためよ。さあ、はやく」
 リリィは、恐怖と戦うかのように歯を食い縛り、男を睨みつけて言った。パジャマはもう汗でぐしょぐしょになっている。
「ほほう、そうきましたか」
 男が嬉しそうに目を細めた。
「いいなあ、それ。いい、いい、いい、すごぉくいい。好きだな、こういうシチュエーションって。お嬢さん、あなた、やっぱり私が思っていたとおりの方だ。なんといってもドラマ性がある。華がある。ヒロインの資格、充分ですよぉ。あはは。でも、こういうのはどうかな」
 言うがはやいか、男が右足をリリィの方へ素早く振り出した。腰の高さで足を止めたとき、運動エネルギーを帯びた靴が飛び出し、リリィの顔を襲った。
「あっ」
 靴を避けようと、リリィは顔を伏せた。その瞬間、椅子がもの凄い力で引き剥がされた。
「うんうん。やっぱりかわいい女性は、すぐに逆転されないと絵にならないですよね。そのか弱さが、男心の危ない部分に火を点けちゃうんですよ。私、もう、たまらないなあ。我慢できないなあ。あはははは」
「く、狂ってる。狂ってるわ。なんなのよ、いったい! いやよやめてよ。なんでこんなことになるのよぉっ!」
 リリィは叫びながら流し台に走り、包丁をつかんだ。男に向き直り、両手で構える。
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