LYCAN

ナカハラ

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Chapter1

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「何……だよ」
 こんな風に触れられるのは嫌だと、グレイヴはルカの手を掴み払おうとする。
「………」
 一度は離れていく温もり。だが、再びルカの両手がグレイヴの両頬に添えられると、弱い力でそっと顔が引き寄せられた。次に感じるのは頬を滑る生温い感触。
「どうい……う……」
 つもりだ。そう文句を言おうと口を開いたと同時に、グレイヴは自分の身に起こったある事に気が付いたのだった。
「あ……」
 ルカの唇が掠めた皮膚は、何故かしっとりと濡れている。どうやら自分は、何時の間にか泣いていたらしい。彼が消そうとしたものが自身の流す涙だと気付いた時、グレイヴは目の前の男に縋って大きな声を上げ泣いた。
 どんなに気丈に振る舞っていたとしても、人の心は非常に脆い。普段から強い人間を演じれば演じるほど、小さな罅が入った瞬間呆気なく崩壊してしまう。溢れ出した涙と嗚咽は、今まで溜め込んでいたグレイヴの抱える弱さ。
 本当はずっと誰かに聞いて欲しかった。
 誰かに聞いて欲しくて、それでも誰にも言えなくて。
 そんな抑圧された感情が、たった一人の存在を前にした時、一気に弾けて崩壊してしまう。
 一度溢れ出した感情は、簡単には押さえる事が出来ない。泣く事を恥ずかしいと感じていても、こうなってしまうともうどうしようもなくなってしまう。
 昂ぶった感情が落ち着いたのは、彼が涙を流し始めて大分経った後。
 こんな風に泣いたのはいつ以来だろうか。
「悪かったな」
 罰が悪そうにそう呟くと、グレイヴはルカを伴いリビングへと移動する。流した涙の分だけ腫れた目が怠く、頭が重い。ルカにソファに腰掛けるよう指示を出し、グレイヴは一度キッチンへと向かう。
「突然泣いたりなんかしてよ」
 みっともない姿を見せてしまった事が恥ずかしくて仕方が無い。その気持ちを悟られないように視線を逸らしながら、ルカの座っているソファへと近付く。戻ってきたグレイヴの手には二つのマグカップ。その中身は、片方が真っ黒で片方が真っ白。二つの内の白い液体がある方をルカに手渡すと、彼は素直にそれを受け取り匂いを嗅いだ。
「飲んで良いぞ」
 彼に手渡したのは軽く温めたミルクだ。ここ数日で知ったのは、ルカがコーヒーを好まないということと、ミルクは好んで飲むと言うこと。せめてもの詫びにと作ったホットミルクは、ルカの手の中で甘い香りを放っている。彼の隣に腰掛けると、自分用のブラックコーヒーを口に含み、軽く喉を湿らせた。
「俺な……学生の頃、家族を全員、事故でなくしてるんだ」
 ぽつり、ぽつりと語られるのは、グレイヴという人間の辿ってきた人生と言う名の記録である。
 それは決して楽しい事ばかりではなく、ある時期を境に悲しみの色を濃くし、それは今現在も続いている。
 この話をしたからと言って、同情して欲しい訳ではない。それでも、今は誰かに聞いて欲しいんだ、と。今までこうやって自分の身の上話を他人にすることはなかったのに、今はその言葉がとても自然に溢れ出してしまう。
「家族が居なくなるまでさぁ……みんなが居ることは当たり前だと思ってた。そんな生活が当たり前じゃないことなんだって、それに全く気が付かなかったんだよ。それどころかさ、いつもと同じ日常は退屈だとすら思ってたんだよな」
 手を動かす度、カップの中でゆらゆらと揺れる真っ黒な液体。切りの良いところで一度言葉を切ると、ゆっくりとカップを持ち上げ口を付ける。味を柔らかくするものを一切入れていないそれは、安っぽい苦みを口の中に広げていくだけ。
「鬱陶しいと思うことももちろんあったさ」
 年齢に伴い家族という形に対して思う事は少しずつ変化していく。常にそれを恋しいと願う訳では無く、干渉が過ぎると煩わしく感じる事もあるし、悲しみに囚われれば寄り添って欲しいと願う事もあった。それでも、彼等と別れる直前までは、どちらかと言えば一人の時間が欲しいと、無意識に距離を置いていることの方が多かったように思う。
「早く自立して一人暮らしをしたいなんて思うことは常に思っていることだった」
 実家を出て自由な生活を満喫したい。それを目標に、色々と頑張ったあの頃が随分と懐かしい。
「それでもな……それが無くなった途端寂しいって感じちまったんだよ」
 突然奪われてしまった平凡な日常を恋しく思う事がある。失ってしまった存在との時間が開けば開くほど、悲しみだけはより色濃くなるのに、彼等の姿は酷く朧気で。彼等と過ごしたという事実だけが自分の手元にあって、彼等の残した様々なものは、一つずつグレイヴの前から姿を消していってしまうのだ。だからこそ、突然襲われてしまうのは『寂しい』という思い。
 再び込み上げてくる感情。カップを握った手が小さく震え出す。
「ある日な……突然、独りぼっちになっちまったんだ……」
 今でも忘れられない電話の音。
 何気なく取った受話器の向こう側から聞こえてくる声が告げた残酷な知らせに、目の前が真っ暗になったことを鮮明に思い出すことが出来る。
「あの時、みんなに何て言ったんだっけ? みんなが生きている時に最後に言った言葉は何だっただろう? 彼等はどんな顔をして俺を見ていたんだ? 家族のことを一生懸命思い出そうとしてもさ、なーんにも思い出せないんだよ……面白いくらいに……何も……」
 寄り古い記憶なら幾つか綺麗なものを思い出すことは出来るというのに、一番最後に交わした言葉と表情だけが、真っ白に塗りつぶされ記憶の中から抜け落ちてしまっている。それどころか、最も鮮明に思い出せる記憶が何かと言われれば、死体安置所のロッカーの中で横たわる三つの死体袋。その中に収められた無表情の三人の顔は生きている色を失い、閉ざされた瞼が開かれることはない。その後に続くものは、真っ黒な三つの棺と新しくできた三つの墓の映像。これは、互いの完全なる別れを意味している。
「染みっぽい話をしてすまなかった」
 腕の震えが強くなるにつれ、カップの中の水面は激しく揺れる。それが嫌だと感じたのだろう。カップを持った手と反対の手。それで己の手首を掴むと、グレイヴはゆっくりと深呼吸を繰り返した。
「こんな話、誰にもしたことねぇのに、変なの」
「…………」
 突然ぶれる視界。
「え?」
 ゆっくりとした速度で、手から落ちたカップが床の上に転がる。
「お……おい……」
「…………」
 背中に伝わるのは張りのあるソファの堅い弾力。どうやら自分はそこに押し倒されたようだ。目の前に広がる天井とグレイヴ自身を遮る様に、彼の上にルカが乗りかかっている。
「る……か……?」
「…………!」
 いつもは彼の方から一方的にグレイヴに甘えてくる。だが、今は、その時に見せる無邪気なものとは異なり、目の前に迫る顔は何処か切羽詰まっていて、今にも泣き出しそうな雰囲気。苦しそうな表情を浮かべながらルカはグレイヴを見おろす。
「どうした?」
「あうぅ……う……」
 グレイヴの手を取るとルーイは自分の頬に押しつけて頭を擦り寄せた。
「う……」
「……ああ、そうか……」
 まるでその行動は、『自分は此処に居るよ』とグレイヴに伝えているかのようで。言葉は無いが、ルカが必死なのは何となく肌で感じ取れる。何故彼がこんな行動を取るのかと理由を考えてみると、成る程。自分が今にも泣き出しそうな声でこんな話をしたからかなのか、と。そうグレイヴは思った。
「心配してくれんだな」
「う……」
 その言葉にルカは小さく頷くと、そっと目を伏せた後、グレイヴの胸に額を当て甘えてみせる。
「…………暖かいなぁ……お前」
 自分の上に乗る相手は堅く重たい。それでも、確かにそれは質量を持ち、手を伸ばせば確かに触れる事が出来る。今まで触れた感触とは異なる高めの体温は、未だこの手に馴染むことはないが、それでも自分以外の人間が『同じ空間に居る』のだという事が分かると、やはり嬉しいと感じてしまう。
 ルカの髪の毛を遊ばせるように指に絡めながら視線を床へと落とせば、転がった二つのマグカップ。片方から流れるのは黒い液体で、もう片方から流れ出たのは白い液体。それが少しずつ近寄り、重なり合ったた所で、その色を変えていく。
 いつの間にか、自分の上に乗る男は、悲しそうに眉を寄せると大粒の涙を流してしゃくり上げている。悲しむ事を諦めたグレイヴの代わりにと、見ず知らずの人間がその悲しみを受け入れている事が、恥ずかしくて居たたまれない。他人だからこそ、素直に言える言葉があったのかもしれない。誰とも接点が無いからこそ、その言葉を忘れてくれることを願っていたのかもしれない。それでも、自分の前に現れた不思議な男は、グレイヴの言葉を受け止め、その寂しさを受け取ろうと手を差し伸べる。
 こんなのは狡い。
 忘れていた感情が込み上げ、じんわりと溢れ出そうになってしまう涙。
「……はぁ……」
 家を売ったときに流したものが最後の涙だと思っていた。
 これから先は、もう涙は流すことがないと、勝手にそう決めつけていた。
 それでも、勝手に育っていく己の感情は、自分の意志に抗い隙あらば表面化しようと様子を窺っているようだ。些細なことで簡単に壊れてしまう感情の防衛癖は、自分が思っているよりももっと、ずっと、脆いものだったのかもしれない。
「後で……床、掃除しとかないと……」
 こんな時に浮かんできたのは本当にどうでも良い事で、グレイヴは思わず苦笑を浮かべた。
 
 少しずつ変化するのは己の心理と生活のリズム。
 今までは自ら人と触れ合う事を遠ざけ独りで居ることを好んでいた。
 それは、己がこれ以上傷付かないための自己防衛だったことは否定出来ない。
 だからといって、積もり積もった寂しさを忘れる事は出来ないようだ。
 幾ら気丈に振る舞っても、孤独を受け入れ笑い続ける事は限界がある。
 だからこそ……寄り添おうとする温もりが心地良い。
 触れられる事に得られる安堵。自分はまだ、独りではないという安心感に、つい無意識に溺れてしまいそうになる。
 いつの間にか、その温もりが傍にある事が当たり前だと思うように、ゆるやかに意識が変化していたのかもしれない。
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