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Chapter2
11
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遠回しに強要される『手放せ』という催促。その言葉に素直に頷きたくないと、無意識に表情を歪ませてしまう。「イエス」とも「ノー」とも言えぬまま、暫らく沈黙だけが室内を満たす。
「……………………」
この空間は実に、居心地が悪くて仕方が無い。それなのに、目の前の彼女がこの空気を変えてくれる雰囲気は無く、状況が変わる兆しは全く感じられない。
「…………はぁ」
これ以上は耐えられそうにない。そう判断し、グレイヴは仕方なく、その重たい口を開き言葉を紡いだ。
「アイツがここを出て行くと言うのならば、俺は引き留める事はしないと約束する」
「……………………」
「どうするのかを決めるのはアイツ自身だ。アイツの選択に任せるさ」
辛うじて出した答えは、非常に曖昧で狡いものだろう。それでも、グレイヴにはこれが精一杯。これ以上の言葉は何一つ思い付けないのだ。
「これで、満足か?」
これ以上は勘弁してくれ。そう目で訴えると、情けない声で彼女に向かって告げる。
「……そう……ですか……」
グレイヴの言葉を受け取った彼女は暫し考えてから、納得したように小さく頷きこう言葉を返した。
「貴方はとても狡い人、なんですね」
そう言って彼女は優しく微笑む。
「でも、それで構わない。あの人がこの場所に留まりたくないと言えば、私は貴方に遠慮する事なくあの人を連れて帰る事が出来ます」
その笑顔に隠された本心は、同情なのか軽蔑なのか。
「お話は以上です。さようなら。優しくて狡い人間さん」
言いたい事だけを伝え終わると、後は用事など無いらしい。彼女は軽く頭を下げた後、静かに部屋を後にする。廊下を数歩進んだ所で消えた人の気配。どうやら人の姿を解き、狼の姿に戻ったらしい。能力的にルカよりも上なんだなと頭の隅で感じながらも、グレイヴの思考は別の事に囚われたまま。
「なん……なんだ……よ」
彼女という存在が目の前から消えたことで、再び訪れる沈黙。耳が痛くなるほどの静けさのせいで、余計に考えは一つの事に向いてしまう。告げられた言葉の痛み。それは、いつだって後からやって来るのだ。
「狡いことなんて、俺が一番、よく、わかってるさ……」
手の中に握られた瓶。無意識にこもる力で、少なくなった中の液体がゆらりゆらりと揺れている。
「でも、ああいう風に答えるしかないじゃないか」
今更思い出した友人の言葉。それが頭の中でずっと回り続けている。我儘を通すんじゃなく、ルカの気持ちも考えてみろと。そう伝えられたあの時の一言が。
「なぁ……るか……」
俯いたまま瞼を伏せ、鼻を啜る。溢れ出た涙を必死に堪えながら、やっとの思いで吐き出す一言。
「おまえはどうしたいと願っているんだ?」
受け取る相手の居ない問いは、空気に掻き消されるようにして消える。その答えを知りたいと願いながらも、それを告げられることが怖いと震えてしまう。そんな自分がとても滑稽で、思わず乾いた笑いが零れる。
いずれにせよ、その事に対しての答えは、そう遠くない未来にはっきりと分かる事になるだろう。グレイヴ自身、そんな予感は何となく感じていた。
彼女がグレイヴに、ルカを返して欲しい頼んでから再びやってきた満月の夜。相変わらず月明かりは穏やかで、柔らかな空気が辺りを包んでいる。普段はそれを心地良いと感じるのだが、今日だけはどうしてもそんな風に思えない。
やけに静かすぎるその空気。それに朝から感じていたものは嫌な予感だった。
「行くんだな」
狼の姿をした彼女が態々、自分の前に姿を表した理由。それをグレイヴは初めから理解していた。身体に付いた傷は随分と前から癒えているのだ。これ以上彼女が、この家に留まる理由なんて何一つ無い。グレイヴという鎖に繋がれたルカという存在を解き放つ許可。それを得たのだから、これを機に姿を消す。そう判断するのは当たり前のこと。だからこそ、簡易的に述べるのは「さよなら」と言う言葉だけだった。
「……………………」
彼女という存在の狼は、ただ黙ってグレイヴを見つめた後、ゆっくりと背を向けて歩き出す。足が向かう先は、この家と外をつなぐ開かれた窓。そこから狼が出て行けば、二度とこの場所に戻ってくる事はないだろう。だが、そんなことは構わない。彼女には彼女の生き方があるのだから、引き留める必要は無いのだ。彼女にとってグレイヴと言う人間は、ただの通過点にしか過ぎない。グレイヴにとっての問題は、彼女の行動にルカがどう動くかと言うことだけ。
幾ら気にしないと強がっていても、やはり本音は気になって仕方が無い。そのため、廊下の壁にもたれ、悟られることの無いように気をつけながら室内の様子を探る。何も言葉を発する事なくただ耳だけを傾けて必死に追っていく音の動き。一枚の壁越しに感じられるのはもう一つの気配で、それは狼の後を追うようにして動き出す。
「…………」
窓から外に出る一瞬だけ、その気配が足を止め後ろを振り返った様な気がした。だがそれも本の僅かな間だけで、直ぐに気配は部屋の外へと、狼を追って出て行ってしまう。
「……やっぱり」
完全に気配が消えた事を確認してから、グレイヴは壁に預けていた背を離した。恐る恐る覗き込み確かめる室内の様子。大きく開かれたままのカーテンと窓の傍には、そこに在って欲しい姿がなく、残像すら残されて居ない現実に無意識に噛んだ唇が小さな痛みを訴える。
「これが、おまえがだしたこたえ……なんだな……るか……」
覚悟はしていた。
だから、思っていたよりは冷静に状況を受け入れる事が出来ただろう。
「ははっ……は……」
陽炎の様に消えてしまった、大好きだった存在。グレイヴの手元には、埋められる事のない深い寂しさだけが残されていた。
一枚の壁の向こうにグレイヴがいた事には気がついてはいたが、何となく近寄り難く感じ、気が付かない振りをしてルカは部屋の外へと出る。嗅ぎ慣れた室内とは異なる大気の新鮮な香り。それを肺一杯に吸い込み軽く背を伸ばす。目の前ではルカの事を待つかの様にじっと此方を見つめる狼が一匹。その狼に対して微笑むと、彼は躊躇う事なく地に足を付けた。
柔らかな月明かりの下、一匹の狼と一人の人間が歩く。僅ばかり狼が先を行き、その距離は一向に縮まる気配はない。導かれる様に森の奥へ、奥へと進む一人と一匹。
「…………」
どれぐらい歩いただろう。不意にルカが足を止め、来た道を振り返った。
それに気が付いた狼も、足を止め振り返る。暫く黙って自分の後をついて来ていた人間を眺めて居たが、一向に彼の興味が自分へともどらない事に不安を感じ甘えた声で鳴いてみせる。
「ううう」
その声に一瞬だけルカの興味が狼へと戻った。だが、直ぐに彼の視線は来た道へと戻されてしまう。
『……戻りたいの?』
とても聞き取りにくい不鮮明な音。だが、ルカの耳にはしっかりと届いた言葉。驚いて声のする方へと視線を向ける。
『貴方、あの家に戻りたいとか考えて居るの?』
声の出処を認識したルカが驚いて目を見開いた。聞き取りにくい不鮮明な言葉を紡いでいたのは、先ほどからルカの先を歩く狼。狼がグレイヴと同じ様に言葉を話すとは思って居なかった彼は、とても判りやすく狼狽えて見せる。
「あうう……」
何が起こって居るのかが分からない。この状況を説明して欲しくて無意識に探す存在。
『落ち着いて! 私は貴方と同じものよ、ルカ!』
叫び出す直前で響いた怒号。ルカは小さく悲鳴をあげその場に固まってしまう。
一体何から話したら良いだろう。狼は小さく溜息を吐く。思った以上に目の前の彼は知らない事が多すぎるらしい。仲間を知らない彼は、色んな意味で不完全で。それだけに状況を理解させるのは非常に厄介である。
「……………………」
この空間は実に、居心地が悪くて仕方が無い。それなのに、目の前の彼女がこの空気を変えてくれる雰囲気は無く、状況が変わる兆しは全く感じられない。
「…………はぁ」
これ以上は耐えられそうにない。そう判断し、グレイヴは仕方なく、その重たい口を開き言葉を紡いだ。
「アイツがここを出て行くと言うのならば、俺は引き留める事はしないと約束する」
「……………………」
「どうするのかを決めるのはアイツ自身だ。アイツの選択に任せるさ」
辛うじて出した答えは、非常に曖昧で狡いものだろう。それでも、グレイヴにはこれが精一杯。これ以上の言葉は何一つ思い付けないのだ。
「これで、満足か?」
これ以上は勘弁してくれ。そう目で訴えると、情けない声で彼女に向かって告げる。
「……そう……ですか……」
グレイヴの言葉を受け取った彼女は暫し考えてから、納得したように小さく頷きこう言葉を返した。
「貴方はとても狡い人、なんですね」
そう言って彼女は優しく微笑む。
「でも、それで構わない。あの人がこの場所に留まりたくないと言えば、私は貴方に遠慮する事なくあの人を連れて帰る事が出来ます」
その笑顔に隠された本心は、同情なのか軽蔑なのか。
「お話は以上です。さようなら。優しくて狡い人間さん」
言いたい事だけを伝え終わると、後は用事など無いらしい。彼女は軽く頭を下げた後、静かに部屋を後にする。廊下を数歩進んだ所で消えた人の気配。どうやら人の姿を解き、狼の姿に戻ったらしい。能力的にルカよりも上なんだなと頭の隅で感じながらも、グレイヴの思考は別の事に囚われたまま。
「なん……なんだ……よ」
彼女という存在が目の前から消えたことで、再び訪れる沈黙。耳が痛くなるほどの静けさのせいで、余計に考えは一つの事に向いてしまう。告げられた言葉の痛み。それは、いつだって後からやって来るのだ。
「狡いことなんて、俺が一番、よく、わかってるさ……」
手の中に握られた瓶。無意識にこもる力で、少なくなった中の液体がゆらりゆらりと揺れている。
「でも、ああいう風に答えるしかないじゃないか」
今更思い出した友人の言葉。それが頭の中でずっと回り続けている。我儘を通すんじゃなく、ルカの気持ちも考えてみろと。そう伝えられたあの時の一言が。
「なぁ……るか……」
俯いたまま瞼を伏せ、鼻を啜る。溢れ出た涙を必死に堪えながら、やっとの思いで吐き出す一言。
「おまえはどうしたいと願っているんだ?」
受け取る相手の居ない問いは、空気に掻き消されるようにして消える。その答えを知りたいと願いながらも、それを告げられることが怖いと震えてしまう。そんな自分がとても滑稽で、思わず乾いた笑いが零れる。
いずれにせよ、その事に対しての答えは、そう遠くない未来にはっきりと分かる事になるだろう。グレイヴ自身、そんな予感は何となく感じていた。
彼女がグレイヴに、ルカを返して欲しい頼んでから再びやってきた満月の夜。相変わらず月明かりは穏やかで、柔らかな空気が辺りを包んでいる。普段はそれを心地良いと感じるのだが、今日だけはどうしてもそんな風に思えない。
やけに静かすぎるその空気。それに朝から感じていたものは嫌な予感だった。
「行くんだな」
狼の姿をした彼女が態々、自分の前に姿を表した理由。それをグレイヴは初めから理解していた。身体に付いた傷は随分と前から癒えているのだ。これ以上彼女が、この家に留まる理由なんて何一つ無い。グレイヴという鎖に繋がれたルカという存在を解き放つ許可。それを得たのだから、これを機に姿を消す。そう判断するのは当たり前のこと。だからこそ、簡易的に述べるのは「さよなら」と言う言葉だけだった。
「……………………」
彼女という存在の狼は、ただ黙ってグレイヴを見つめた後、ゆっくりと背を向けて歩き出す。足が向かう先は、この家と外をつなぐ開かれた窓。そこから狼が出て行けば、二度とこの場所に戻ってくる事はないだろう。だが、そんなことは構わない。彼女には彼女の生き方があるのだから、引き留める必要は無いのだ。彼女にとってグレイヴと言う人間は、ただの通過点にしか過ぎない。グレイヴにとっての問題は、彼女の行動にルカがどう動くかと言うことだけ。
幾ら気にしないと強がっていても、やはり本音は気になって仕方が無い。そのため、廊下の壁にもたれ、悟られることの無いように気をつけながら室内の様子を探る。何も言葉を発する事なくただ耳だけを傾けて必死に追っていく音の動き。一枚の壁越しに感じられるのはもう一つの気配で、それは狼の後を追うようにして動き出す。
「…………」
窓から外に出る一瞬だけ、その気配が足を止め後ろを振り返った様な気がした。だがそれも本の僅かな間だけで、直ぐに気配は部屋の外へと、狼を追って出て行ってしまう。
「……やっぱり」
完全に気配が消えた事を確認してから、グレイヴは壁に預けていた背を離した。恐る恐る覗き込み確かめる室内の様子。大きく開かれたままのカーテンと窓の傍には、そこに在って欲しい姿がなく、残像すら残されて居ない現実に無意識に噛んだ唇が小さな痛みを訴える。
「これが、おまえがだしたこたえ……なんだな……るか……」
覚悟はしていた。
だから、思っていたよりは冷静に状況を受け入れる事が出来ただろう。
「ははっ……は……」
陽炎の様に消えてしまった、大好きだった存在。グレイヴの手元には、埋められる事のない深い寂しさだけが残されていた。
一枚の壁の向こうにグレイヴがいた事には気がついてはいたが、何となく近寄り難く感じ、気が付かない振りをしてルカは部屋の外へと出る。嗅ぎ慣れた室内とは異なる大気の新鮮な香り。それを肺一杯に吸い込み軽く背を伸ばす。目の前ではルカの事を待つかの様にじっと此方を見つめる狼が一匹。その狼に対して微笑むと、彼は躊躇う事なく地に足を付けた。
柔らかな月明かりの下、一匹の狼と一人の人間が歩く。僅ばかり狼が先を行き、その距離は一向に縮まる気配はない。導かれる様に森の奥へ、奥へと進む一人と一匹。
「…………」
どれぐらい歩いただろう。不意にルカが足を止め、来た道を振り返った。
それに気が付いた狼も、足を止め振り返る。暫く黙って自分の後をついて来ていた人間を眺めて居たが、一向に彼の興味が自分へともどらない事に不安を感じ甘えた声で鳴いてみせる。
「ううう」
その声に一瞬だけルカの興味が狼へと戻った。だが、直ぐに彼の視線は来た道へと戻されてしまう。
『……戻りたいの?』
とても聞き取りにくい不鮮明な音。だが、ルカの耳にはしっかりと届いた言葉。驚いて声のする方へと視線を向ける。
『貴方、あの家に戻りたいとか考えて居るの?』
声の出処を認識したルカが驚いて目を見開いた。聞き取りにくい不鮮明な言葉を紡いでいたのは、先ほどからルカの先を歩く狼。狼がグレイヴと同じ様に言葉を話すとは思って居なかった彼は、とても判りやすく狼狽えて見せる。
「あうう……」
何が起こって居るのかが分からない。この状況を説明して欲しくて無意識に探す存在。
『落ち着いて! 私は貴方と同じものよ、ルカ!』
叫び出す直前で響いた怒号。ルカは小さく悲鳴をあげその場に固まってしまう。
一体何から話したら良いだろう。狼は小さく溜息を吐く。思った以上に目の前の彼は知らない事が多すぎるらしい。仲間を知らない彼は、色んな意味で不完全で。それだけに状況を理解させるのは非常に厄介である。
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