8 / 10
第8話
しおりを挟む
『こうするべきだった』と後から思うとき。
それと双子のように生まれるのは、過去に戻ってもきっと僕はそうしないだろう、という確信めいたもの。
本当は、手を繋いでいる人が誰なのか、聞けばよかった。
でもあの時の僕はそうしなかったし、過去に戻っても僕はきっとそれを聞けない。
彼女が誰か、なんて僕にはどうでもよかったんだ。
彼が僕しか見えなくなればいい。
僕のことだけ考えて欲しい。
ずっと、抱えてた薄汚い独占欲。
あの場面に遭遇したのは、単なるきっかけに過ぎなかった。
そうして、ただ想いをぶつけるために魔法を使ってしまった僕の前にいたのは、僕のことをすっかり忘れてしまった彼だった。
彼の声が遠ざかり、現実を受け止めたくない僕だけ、橋の上に残された。
鋭敏さを喪って、そこに立ち尽くした僕の肩に『知らない誰か』がぶつかった。肩がどん、と押された直後、邪魔だというような舌打ちが、くっきりと耳に刻印される。
何とも思わなかった。
それよりも、はっきりと浮き上がって来たのは、彼と僕との関係性。僕の存在は彼にとって、こんな肩をぶつけて舌打ちをするような関係になり下がってしまったのだろうな。
想像すると、頬を張られたような衝撃が降りかかってくる。
泣けばいいのか笑えばいいのか、震える唇の端はどちらも選んでくれなくて。
僕はその場から逃げ出した。
桜の花の開花は、去年はいつもより早くて、満開のソメイヨシノとハクモクレン。漆喰壁のようなユキヤナギ。白い花弁と黄緑色の芽吹きの中を、ただひたすら「いなくなりたい」いう呪詛めいたものを吐き出しながら走った。
家に帰るのに、来た時と同じ列車は使えなかった。彼と鉢合わせるのは避けたかった。
それで、違う列車に乗るために選んだ駅へ行くバス。
その路線バスに乗ると、ハイキング帰りの年配の乗客で犇いていた。僕は他人の汗の隙間で、ようやっと安心して、幾度も幾度も、生きていることを確かめるように息を繰り返したのだった。
何を信じたくないのか、わからない。
僕が彼の記憶を消したことなのか。
彼が女性と手を繋いでいたことなのか。それでいて、僕に向けた表情に罪悪感のようなものは見えなかったこととか。
そもそも、あそこで出会ったのは、本物の彼だったのか。
息が落ち着いてからも、僕の頭はぼんやりしていた。
あれが魔法なのか。
いやそうだ、疑いようがない。
祖母に聞いていた通りだった。
魔法使いの血が呼ぶ『鍵』。
それを正しく使うことが魔法使いの使命であると。
僕は正しさを間違えてしまったのだ。
次の日。
僕は、彼が働くパン屋に、彼が僕のことを忘れてから初めて訪れた。
不自然にならないように、ディスプレイのガラス窓からそっと中を盗み見る。
パン屋には彼以外に二人。
彼の父だろう男性と、初老の女性がいた。
初老の女性は、午前中だけの手伝いだと聞いていた。あとは彼の父と彼の二人でまわす、小さな店。
無口な彼が、ぎこちない笑顔を見せながら接客している。そうなるまでに、彼も努力したのだろう。
僕のことを忘れても、きちんと社会に溶込んで必要とされる彼の姿を見ると、喉が熱くなった。
パン屋での彼の姿が、どうしても眼球に焼き付いてしまって。それからの数日間、僕は自室で泣いて頭をかきむしったり、ベッドの支柱を蹴飛ばしたりした。あまり寝られなかった。そして、何も解決しないまま時間だけが経過した。霞みがかった頭で外に出た僕が選んだのは、もう一度、彼が働くパン屋に行くことだった。
初日のようには取り乱さなかった。
接客してくれたのは彼だった。
ただの客と店員。
その関係だけを新たに構築して。
そして、僕はそれから今までの一年間、彼の記憶が戻ることを願いながら、毎日同じパンを買いに行くようになったのだった。
しかし、もう彼の記憶が戻ることはないのだろう。
僕がそう思い始めたのは冬を間近に控えた時だった。
あれから、あの鍵を掌に握ることが、だんだん自分の意思でできるようになっていたが、彼の記憶に関することは願えなかった。
魔法を使わずに、鍵を呼び出すだけ。鍵の美しさは、悪魔のよう。美しいものの恐ろしさに、もっと早くに気付ければ。
彼の記憶を戻すために、祖母が残した文献や書物を読んだけれど、手がかりはなかった。
パン屋に通っても、客と店員という関係は崩れない。
彼が僕を思い出すことはない、と考えたのは、ただの諦めだった。でも、その諦めは僕を幾分か楽にもした。
次に桜が満開になったら僕はもう、あの店に行くのをやめよう。
彼との思い出の中にあるものとは違う、公園のイチョウの木。その落葉を見ながら、僕はひっそりと決意したのだった。
そして今、僕が罪を犯してから一年が経ち、また春が来た。桜が開くのは早い。
僕たちの、二度目の別れが近づいていた。
それと双子のように生まれるのは、過去に戻ってもきっと僕はそうしないだろう、という確信めいたもの。
本当は、手を繋いでいる人が誰なのか、聞けばよかった。
でもあの時の僕はそうしなかったし、過去に戻っても僕はきっとそれを聞けない。
彼女が誰か、なんて僕にはどうでもよかったんだ。
彼が僕しか見えなくなればいい。
僕のことだけ考えて欲しい。
ずっと、抱えてた薄汚い独占欲。
あの場面に遭遇したのは、単なるきっかけに過ぎなかった。
そうして、ただ想いをぶつけるために魔法を使ってしまった僕の前にいたのは、僕のことをすっかり忘れてしまった彼だった。
彼の声が遠ざかり、現実を受け止めたくない僕だけ、橋の上に残された。
鋭敏さを喪って、そこに立ち尽くした僕の肩に『知らない誰か』がぶつかった。肩がどん、と押された直後、邪魔だというような舌打ちが、くっきりと耳に刻印される。
何とも思わなかった。
それよりも、はっきりと浮き上がって来たのは、彼と僕との関係性。僕の存在は彼にとって、こんな肩をぶつけて舌打ちをするような関係になり下がってしまったのだろうな。
想像すると、頬を張られたような衝撃が降りかかってくる。
泣けばいいのか笑えばいいのか、震える唇の端はどちらも選んでくれなくて。
僕はその場から逃げ出した。
桜の花の開花は、去年はいつもより早くて、満開のソメイヨシノとハクモクレン。漆喰壁のようなユキヤナギ。白い花弁と黄緑色の芽吹きの中を、ただひたすら「いなくなりたい」いう呪詛めいたものを吐き出しながら走った。
家に帰るのに、来た時と同じ列車は使えなかった。彼と鉢合わせるのは避けたかった。
それで、違う列車に乗るために選んだ駅へ行くバス。
その路線バスに乗ると、ハイキング帰りの年配の乗客で犇いていた。僕は他人の汗の隙間で、ようやっと安心して、幾度も幾度も、生きていることを確かめるように息を繰り返したのだった。
何を信じたくないのか、わからない。
僕が彼の記憶を消したことなのか。
彼が女性と手を繋いでいたことなのか。それでいて、僕に向けた表情に罪悪感のようなものは見えなかったこととか。
そもそも、あそこで出会ったのは、本物の彼だったのか。
息が落ち着いてからも、僕の頭はぼんやりしていた。
あれが魔法なのか。
いやそうだ、疑いようがない。
祖母に聞いていた通りだった。
魔法使いの血が呼ぶ『鍵』。
それを正しく使うことが魔法使いの使命であると。
僕は正しさを間違えてしまったのだ。
次の日。
僕は、彼が働くパン屋に、彼が僕のことを忘れてから初めて訪れた。
不自然にならないように、ディスプレイのガラス窓からそっと中を盗み見る。
パン屋には彼以外に二人。
彼の父だろう男性と、初老の女性がいた。
初老の女性は、午前中だけの手伝いだと聞いていた。あとは彼の父と彼の二人でまわす、小さな店。
無口な彼が、ぎこちない笑顔を見せながら接客している。そうなるまでに、彼も努力したのだろう。
僕のことを忘れても、きちんと社会に溶込んで必要とされる彼の姿を見ると、喉が熱くなった。
パン屋での彼の姿が、どうしても眼球に焼き付いてしまって。それからの数日間、僕は自室で泣いて頭をかきむしったり、ベッドの支柱を蹴飛ばしたりした。あまり寝られなかった。そして、何も解決しないまま時間だけが経過した。霞みがかった頭で外に出た僕が選んだのは、もう一度、彼が働くパン屋に行くことだった。
初日のようには取り乱さなかった。
接客してくれたのは彼だった。
ただの客と店員。
その関係だけを新たに構築して。
そして、僕はそれから今までの一年間、彼の記憶が戻ることを願いながら、毎日同じパンを買いに行くようになったのだった。
しかし、もう彼の記憶が戻ることはないのだろう。
僕がそう思い始めたのは冬を間近に控えた時だった。
あれから、あの鍵を掌に握ることが、だんだん自分の意思でできるようになっていたが、彼の記憶に関することは願えなかった。
魔法を使わずに、鍵を呼び出すだけ。鍵の美しさは、悪魔のよう。美しいものの恐ろしさに、もっと早くに気付ければ。
彼の記憶を戻すために、祖母が残した文献や書物を読んだけれど、手がかりはなかった。
パン屋に通っても、客と店員という関係は崩れない。
彼が僕を思い出すことはない、と考えたのは、ただの諦めだった。でも、その諦めは僕を幾分か楽にもした。
次に桜が満開になったら僕はもう、あの店に行くのをやめよう。
彼との思い出の中にあるものとは違う、公園のイチョウの木。その落葉を見ながら、僕はひっそりと決意したのだった。
そして今、僕が罪を犯してから一年が経ち、また春が来た。桜が開くのは早い。
僕たちの、二度目の別れが近づいていた。
0
あなたにおすすめの小説
愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない
了承
BL
卒業パーティー。
皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。
青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。
皇子が目を向けた、その瞬間——。
「この瞬間だと思った。」
すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。
IFストーリーあり
誤字あれば報告お願いします!
久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…
【完】君に届かない声
未希かずは(Miki)
BL
内気で友達の少ない高校生・花森眞琴は、優しくて完璧な幼なじみの長谷川匠海に密かな恋心を抱いていた。
ある日、匠海が誰かを「そばで守りたい」と話すのを耳にした眞琴。匠海の幸せのために身を引こうと、クラスの人気者・和馬に偽の恋人役を頼むが…。
すれ違う高校生二人の不器用な恋のお話です。
執着囲い込み☓健気。ハピエンです。
【完結】恋した君は別の誰かが好きだから
花村 ネズリ
BL
本編は完結しました。後日、おまけ&アフターストーリー随筆予定。
青春BLカップ31位。
BETありがとうございました。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
俺が好きになった人は、別の誰かが好きだからーー。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
二つの視点から見た、片思い恋愛模様。
じれきゅん
ギャップ攻め
幼馴染は俺がくっついてるから誰とも付き合えないらしい
中屋沙鳥
BL
井之原朱鷺は幼馴染の北村航平のことを好きだという伊東汐里から「いつも井之原がくっついてたら北村だって誰とも付き合えないじゃん。親友なら考えてあげなよ」と言われて考え込んでしまう。俺は航平の邪魔をしているのか?実は片思いをしているけど航平のためを考えた方が良いのかもしれない。それをきっかけに2人の関係が変化していく…/高校生が順調(?)に愛を深めます
番解除した僕等の末路【完結済・短編】
藍生らぱん
BL
都市伝説だと思っていた「運命の番」に出逢った。
番になって数日後、「番解除」された事を悟った。
「番解除」されたΩは、二度と他のαと番になることができない。
けれど余命宣告を受けていた僕にとっては都合が良かった。
何故よりにもよって恋愛ゲームの親友ルートに突入するのか
風
BL
平凡な学生だったはずの俺が転生したのは、恋愛ゲーム世界の“王子”という役割。
……けれど、攻略対象の女の子たちは次々に幸せを見つけて旅立ち、
気づけば残されたのは――幼馴染みであり、忠誠を誓った騎士アレスだけだった。
「僕は、あなたを守ると決めたのです」
いつも優しく、忠実で、完璧すぎるその親友。
けれど次第に、その視線が“友人”のそれではないことに気づき始め――?
身分差? 常識? そんなものは、もうどうでもいい。
“王子”である俺は、彼に恋をした。
だからこそ、全部受け止める。たとえ、世界がどう言おうとも。
これは転生者としての使命を終え、“ただの一人の少年”として生きると決めた王子と、
彼だけを見つめ続けた騎士の、
世界でいちばん優しくて、少しだけ不器用な、じれじれ純愛ファンタジー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる