9 / 10
第9話
しおりを挟む
桜が満開になった日。
生憎の嵐だった。
玄関で靴を履く僕の耳には、風雨が家を叩く音が、くわんくわんと響いている。
傘はあまり役に立たないかもしれない、それでも持って行った方がいいだろう。
僕が傘立てから一本引き抜いたのは、もう何年も使っている黒い傘。ボタンと柄に点々と錆が浮いている。
パン屋へのいつもの道。石畳は雨に濡れて、花びらが表面にくっついていた。
ソメイヨシノは不憫だ。咲いたと思ったら直ぐに散って。
生温い強風が傘をあおって、雨が足元を濡らす。
パン屋に着いた時にはすでに、ズボンの膝下は色が変わっていた。
ドアを開けて店内に入ると、店の奥から彼が出てきた。
僕はいつもと同じパンをトレーに乗せようとして、はた、と止まった。チーズマフィンがなかった。
プレーンとオレンジピール、そしてココアはあるのだが、チーズだけが売り切れてしまったのか、いつもの場所になかった。仕方なく、ロールパン二個だけを載せて、僕はレジに向かった。
これが最後。
ロールパン二個ではポイントはつかないから、今日はお金だけ、と考える自分は滑稽だった。
「いつもありがとうございます。いつものマフィンが売り切れになってしまっていて、申し訳ありません」
会計をする彼から初めて、ありがとうございます以外の言葉を聞いた。
僕は、いえ。と、視線をカウンターの上に滑らせた。
早く店から出よう。
そう思ったのに、彼は一向にパンが入った袋を渡してくれない。
「お客さんにこんな事を聞くのは失礼なんですけれど、同じ高校に通ってた井戸田さんですよね」
「え、」
「俺は井戸田さんと同じクラスだったはずなんです、でも全然覚えてなくて。卒業アルバムを見ていたら、学園祭写真のところに小さく俺と井戸田さんが一緒に写っていて」
「あれ、そうでしたか?」
僕は彼が持っているパンの袋を掴んでやんわりと引いた。しかし、彼、浩(こう)は袋を離してくれなかった。
外では嵐が吹き荒れて、パン屋の薄い窓ガラスがガタガタと音を立てている。
「僕もう帰らないと」
そう言って浩の方を見たのは失敗だった。
彼は真摯に僕の方を見て、口をへの字に曲げていた。頑固さを滲ませるその表情も、僕はとても好きだった。
「井戸田さんは知っているんでしょう、俺が何を忘れているかって」
春が騒いでいる。
彼は思い出せない中で必死にもがいていた。
「あなたは毎日のように店に来てくれていた。妹が言うんです、橋の上ですれ違った人、兄さんの友達でしょうって。でも俺は全然分からなかった」
「吉田さん、いいんですよ忘れていて」
何故だろう、すんなりとそう言うことができた。
僕がやった事は、正しくはなかった。でも。
僕は、いつの間にか浩の手が僕の手首を握っていることに気付いた。
「いいんです、固執しなくて。忘れていた方が良いことだってあると思いますよ」
泣きそうだったけど、ちゃんと触れて欲しかったその手を一度でも手に入れられて、僕はその手を僕じゃない誰かに渡そうと思った。
「明日は、チーズマフィン多めに焼きますから。きっと来てください」
浩の握力が緩んだ。
僕は上手く笑えているだろうか。
「お気持ちだけ。吉田さん、僕ね今日が最後なんです、ここに来られるの。引っ越しするんですよ。本当は黙っていようと思っていたのですが、チーズマフィンが無駄になるといけないので」
「……この時期にですか」
「この時期だからです。パン、美味しかったです。お元気で」
浩をパン屋のレジに残して、僕は狂ったような春の中に飛び出した。
生憎の嵐だった。
玄関で靴を履く僕の耳には、風雨が家を叩く音が、くわんくわんと響いている。
傘はあまり役に立たないかもしれない、それでも持って行った方がいいだろう。
僕が傘立てから一本引き抜いたのは、もう何年も使っている黒い傘。ボタンと柄に点々と錆が浮いている。
パン屋へのいつもの道。石畳は雨に濡れて、花びらが表面にくっついていた。
ソメイヨシノは不憫だ。咲いたと思ったら直ぐに散って。
生温い強風が傘をあおって、雨が足元を濡らす。
パン屋に着いた時にはすでに、ズボンの膝下は色が変わっていた。
ドアを開けて店内に入ると、店の奥から彼が出てきた。
僕はいつもと同じパンをトレーに乗せようとして、はた、と止まった。チーズマフィンがなかった。
プレーンとオレンジピール、そしてココアはあるのだが、チーズだけが売り切れてしまったのか、いつもの場所になかった。仕方なく、ロールパン二個だけを載せて、僕はレジに向かった。
これが最後。
ロールパン二個ではポイントはつかないから、今日はお金だけ、と考える自分は滑稽だった。
「いつもありがとうございます。いつものマフィンが売り切れになってしまっていて、申し訳ありません」
会計をする彼から初めて、ありがとうございます以外の言葉を聞いた。
僕は、いえ。と、視線をカウンターの上に滑らせた。
早く店から出よう。
そう思ったのに、彼は一向にパンが入った袋を渡してくれない。
「お客さんにこんな事を聞くのは失礼なんですけれど、同じ高校に通ってた井戸田さんですよね」
「え、」
「俺は井戸田さんと同じクラスだったはずなんです、でも全然覚えてなくて。卒業アルバムを見ていたら、学園祭写真のところに小さく俺と井戸田さんが一緒に写っていて」
「あれ、そうでしたか?」
僕は彼が持っているパンの袋を掴んでやんわりと引いた。しかし、彼、浩(こう)は袋を離してくれなかった。
外では嵐が吹き荒れて、パン屋の薄い窓ガラスがガタガタと音を立てている。
「僕もう帰らないと」
そう言って浩の方を見たのは失敗だった。
彼は真摯に僕の方を見て、口をへの字に曲げていた。頑固さを滲ませるその表情も、僕はとても好きだった。
「井戸田さんは知っているんでしょう、俺が何を忘れているかって」
春が騒いでいる。
彼は思い出せない中で必死にもがいていた。
「あなたは毎日のように店に来てくれていた。妹が言うんです、橋の上ですれ違った人、兄さんの友達でしょうって。でも俺は全然分からなかった」
「吉田さん、いいんですよ忘れていて」
何故だろう、すんなりとそう言うことができた。
僕がやった事は、正しくはなかった。でも。
僕は、いつの間にか浩の手が僕の手首を握っていることに気付いた。
「いいんです、固執しなくて。忘れていた方が良いことだってあると思いますよ」
泣きそうだったけど、ちゃんと触れて欲しかったその手を一度でも手に入れられて、僕はその手を僕じゃない誰かに渡そうと思った。
「明日は、チーズマフィン多めに焼きますから。きっと来てください」
浩の握力が緩んだ。
僕は上手く笑えているだろうか。
「お気持ちだけ。吉田さん、僕ね今日が最後なんです、ここに来られるの。引っ越しするんですよ。本当は黙っていようと思っていたのですが、チーズマフィンが無駄になるといけないので」
「……この時期にですか」
「この時期だからです。パン、美味しかったです。お元気で」
浩をパン屋のレジに残して、僕は狂ったような春の中に飛び出した。
0
あなたにおすすめの小説
寂しいを分け与えた
こじらせた処女
BL
いつものように家に帰ったら、母さんが居なかった。最初は何か厄介ごとに巻き込まれたのかと思ったが、部屋が荒れた形跡もないからそうではないらしい。米も、味噌も、指輪も着物も全部が綺麗になくなっていて、代わりに手紙が置いてあった。
昔の恋人が帰ってきた、だからその人の故郷に行く、と。いくらガキの俺でも分かる。俺は捨てられたってことだ。
執着
紅林
BL
聖緋帝国の華族、瀬川凛は引っ込み思案で特に目立つこともない平凡な伯爵家の三男坊。だが、彼の婚約者は違った。帝室の血を引く高貴な公爵家の生まれであり帝国陸軍の将校として目覚しい活躍をしている男だった。
君に望むは僕の弔辞
爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。
全9話
匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意
表紙はあいえだ様!!
小説家になろうにも投稿
愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない
了承
BL
卒業パーティー。
皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。
青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。
皇子が目を向けた、その瞬間——。
「この瞬間だと思った。」
すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。
IFストーリーあり
誤字あれば報告お願いします!
そんなの真実じゃない
イヌノカニ
BL
引きこもって四年、生きていてもしょうがないと感じた主人公は身の周りの整理し始める。自分の部屋に溢れる幼馴染との思い出を見て、どんなパソコンやスマホよりも自分の事を知っているのは幼馴染だと気付く。どうにかして彼から自分に関する記憶を消したいと思った主人公は偶然見た広告の人を意のままに操れるというお香を手に幼馴染に会いに行くが———?
彼は本当に俺の知っている彼なのだろうか。
==============
人の証言と記憶の曖昧さをテーマに書いたので、ハッキリとせずに終わります。
久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…
十七歳の心模様
須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない…
ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん
柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、
葵は初めての恋に溺れていた。
付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。
告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、
その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。
※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる