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【完結】部屋とワセリンと鋏【甘め/鏡】
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しおりを挟む「おはようございまーす」
AM8:00
挨拶をするものの、店内にはまだ誰もいない。みんなが来るのはもう少し後だろう。
スタイリスト以上の子はみんな鍵開けれるけど、当番制にしてみた途端に遅刻者が続出したから自然と俺の仕事になった。
今日は早く行かないととか今日は遅くていいやとか、中途半端に時間がうろうろするより、みんな自分のペースで決まった時間に来る方が身体が動きやすいんだろう。それは俺もだし、上司が一番に出勤してるっていう緊張感も大事だよね。
とは言えそんなに早く来ても前日に開店準備まで済ませて帰ってるから朝はそんなにすることもないんだけど。精々、昨日夜に店を使った子がちゃんと片付けてるかを確認するくらい。予約の確認はミーティングでやるし。
あとはコーヒーを飲みながら新聞や雑誌を読んで情報を仕入れて、それでも時間が余ったら鏡の前に立って黙々と鋏を動かす。今更新聞紙を切ったりはしないけどこういう基礎練習はいくらやっても裏切らないと思ってる。
別にナルシストってわけじゃないけど、鏡の中の自分がどう見えるかも確認。あんまり猫背だったり、肩が強張ったりしてたらお客さんが不安になっちゃうから。
及川は今なにしてんだろうな。もっと朝早くに店に出て、俺よりもっと練習してるのかな。
ふと思い浮かんだ思考に、鋏に添えた指先がほんの一瞬強張った。
…これはこうやって他のことを考えながらでも正確に手が動くようにするための訓練だ。他意はない。
最後のお客さんが帰られて、カーテンを降ろして片付けにかかる。
これも特に当番が決まってるわけではなく、気付いた人間が気付いたところをやっていくスタイル。軽いミーティングや反省会も兼ねて、お互い喋りながらのんびりと。
「安田さんてさぁ、何でいっつもセルフカット一回挟んでくるんだろうな。直すの結構面倒くさいんだよ。何で自分で切れると思っちゃうのかなぁ」
愚痴っぽく零したのはスタイリストに上がって1年くらいの若い子だ。いかにも「不満です」という表情を隠しもせず、同期で入った子と二人でタオルを叩いて干している。
その言い方にちょっと思う所があって、二人の会話に意識をやった。
…さぁ、話しかけられた方は何て答えるかな?
俺は言いたいことをぐっと飲み込んで様子を伺った。で、その俺の様子をチーフアシスタントの子が苦笑いで見ている。うん、フォローは任せた。
「さぁ?カット代浮かせたいんじゃない?」
同期の子は興味なさげにそっけなく答えて、空になった籠を持ってとっとと裏に引っ込んでしまった。
「…だったら1000円カットにでも行けよな~」
その投げやりな物言いに、無意識に「ふふ」と鼻から笑い声が漏れた。思いあがったその考え方が可笑しくて。それにつられてニコリと口角が上がる。
俺、こういうの我慢するの苦手なんだよね。
「…浅野くん?」
声を掛けると、「はい?」と答えながらこちらを見た彼の顔がサッと青くなった。
ごめんな?ちょっとだけ説教するんだけど。
「1000円カットって見下したみたいに言うけどね、あれは時間単価上げるために一人当たり10分20分でカットしてるんだよ。浅野くん、同じことできる?」
できないよな。俺だって1人10分で切れって言われたらキツい。キツいし、楽しくない。
お客さんと話しながらお客さんの求める所を探って、それで提供したサービスにお客さんが喜んでる姿を見れるからこそこの仕事って楽しいんだ。
「そもそも、満足してたらお客様は自分でやろうとは思わないよ?提供するサービスにどこか不満があるから自分でやろうと思うんだ。セルフカットにぐちぐち言う前に、担当変えさせられずに通ってくれてることに感謝しろ」
浅野くんは干しかけたタオルを握ったり開いたりしておろおろと目をうろつかせてから、しゅんと肩を落として「すみませんでした」と小さく言った。
店全体に何とも言えない空気が落ちる。
あぁあ、やっちゃった。こういう時言いたいことを言ってしまうのは俺の悪い癖だ。でも、感情的になって言ってるわけじゃないし、間違ったことも言ってない。それに彼だって気付かないといけない。ただ、こんな空気になってしまうのは俺の言い方が悪いからなんだろう。できるだけ穏やかに伝えてるつもりなんだけど。
チーフアシスタントの子が苦笑いのまま浅野くんにフォローをいれてくれている。
…こういう時、及川だったらどうするのかな。
きっといつも通り涼し気な顔をして、もっと上手に教えてやれるんだろうな。
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