贖罪の篝火

ねりうむ

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第三話

◆1/落ちる希望とすがる絶望

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 拳は篝の目の前で急停止した。
 虚ろな瞳でそれを眺めていた篝に、誰かの取り乱した声が届く。
「え? なんで……? なんで篝がいるの……?」
 魂の残骸に音が沁み込んでいく。
 懐かしい音――。

 篝はゆっくりと視線を上げていく。

「夕霧……?」
 目の前に、あの日の夕霧が居た。
 渦巻くような狂気が、嘘のように消え去っている。
 優しさと懐かしさ、驚きと悲しさ。その全てが混在した、泣き笑いの表情を夕霧は浮かべていた。

「かがり……篝だ……。会いたかったよぉ……」
 おずおずと差し出された手が、篝の顔にそっと触れる。
 頬、頬骨、唇、首筋。夢の輪郭をなぞるように、夕霧の指が柔らかく動く。
 指の動きに合わせて、篝を覆っていた乾いた幕が、1枚ずつ剥がれていくようだった。

 長い年月を隔てた邂逅に、ふたりの目に熱いものがこみ上げる。篝の胸中に慈雨が降り注ぎ、乾いてひび割れた心を優しく潤していく。
 篝は夕霧の肩を抱きしめる。腕の中の小さな息遣い。世界の色が戻ってくるような感覚が広がる。
 夕霧は俯いたまま動かない。その肩は、何かを堪えるように微かに揺れ動いていた。

 トンッ――と軽く、肩を押された。

 ふたりの体が離れる。開いていく距離に、心さえも引き裂かれていく気がした。
「もう、ダメ……。抑えられない……」
「ゆう……ぎり……?」
「ダメなの! ずっと頭の中で叫んでるの! 助けてよ……。嫌だよぉ……」
 夕霧は今にも泣きだしそうな顔で、自分の顔に爪を立てる。
「きらいきらいきらい! 憎い憎い憎い!」
 夕霧が叫ぶ。食い込むほど突き立てられた爪の先が、うっすらと青く染まっている。
「あいつだけじゃない! 篝も! わたしも! 全部、全部――ぜんぶぜんぶッ‼」

 ――大嫌い‼

 短い憎悪の言葉。
 それに呼応するかのように、夕霧の周りに瘴気が渦を巻きながら集まっていく。
 自らの肩を抱き、拒絶するように身をよじるが、瘴気は腐肉にたかる蠅のように彼女を包み込む。

「夕霧! 夕霧ッ!」
 声を枯らし、喉が張り裂けそうなほど叫ぶ。
 彼女は応えない。
 伸ばした手は、渦巻く瘴気に弾かれた。

 また、救えなかった――。

 あの時も、今も。
 助けを求める夕霧を目の前に、自分は何もできない。

 そばにいたのに、気づかないふりをした。
 ――降り注ぐ自責の刃が、心を突き刺していく。

 そこにいるのに、手が届かなかった。
 ――繰り返す後悔の暴風が、心を削り取っていく。
 
 篝を包む世界の温度が、色が、音が消える。
 ピシリ――と、心の奥底にひびが走った。
 

 完全に球状となった瘴気は、まるで黒い太陽のようだった。
 憤炎で世界を灼き尽くす、暗黒の恒星。
 轟々と音を立てながら渦巻くそれが、唐突に弾けた。

 中に夕霧が立っている。
 その背には、黒く禍々しい尾が、九本。
 ひとつひとつが意志を持つように、ウネウネと蠢いている。
「ふふっ……」
 感情のスポイトから落とされた、雫のような笑い声。
「まだ残ってたんだ。困っちゃうよねー。ほんと……」
 白けたようなため息を吐き、髪をかき上げる。
 そして篝へ向き直り、ニコリと微笑んだ。

 コツ、コツ、コツ――。
 夕霧が、散歩にでも行くかのような、軽快な足取りで篝のもとへ歩いていく。
 後ろ手を組み、今にも鼻歌を歌い出しそうなほど。
 しかし、その瞳は噴火寸前の火山のような憎悪をたたえている。

 その歪な姿に気圧され、篝は後ずさる。
 篝の前に姿を現した過去の夕霧と、眼前のむき出しの殺意を感じさせる夕霧。
 どちらが本当の彼女なのか、篝はわからないでいた。
 震える足を何とか交互に動かすが、やがてもつれ、力なく崩れ落ちる。

 追いついた夕霧が、腰を曲げ顔を近づけてくる。お互いの鼻がくっつきそうなほどの距離。
 感じる吐息は冷たく、乾いていた。
 
 篝を見据える夕霧の目が昏く濁る。
「お前さぁ……。もしかして、まだ許してもらえると思ってんの?」
 冷めた侮蔑の視線が瞬時に熱量を上げ、憎悪の炎を噴き上げる。

「助けるばっかしてんじゃねーよ‼」

 黒い軌跡が走る。
 脇腹に押し潰されるような衝撃。
 骨の軋む音が、篝の内側で反響する。
 肺から空気が絞り出され、血が弾け飛ぶ。
「――っぐ、がぁっ……!」
 空気をひしぐ巨大な尾の一撃が、篝を吹き飛ばした。

 一瞬の浮遊感。
 遠のく夕霧の姿。
 背中に固い衝撃。
 跳ねるように転がっていく。
 骨が軋み、全身が悲鳴をあげる。
 意識が揺らぎ、視界がぼやける。

 現実との境目が曖昧なまま、それでも夕霧へ手を伸ばした。

「まだ、生きてんの?」
 呆れたような夕霧の声が、耳の奥で反響する。
「……ったく。いい加減、死んでくれないかなぁ」
 ガリガリと髪をかきむしり、全身から苛立ちを滲ませる。
「さすがに、疲れんだけ――どッ!」
 言葉の終わりと同時に、サッカーボールのように蹴飛ばされた。
 
 胃液を吐き出しながら、篝は地面を滑っていく。
 肌を削る地面の硬さが、意識をつなぎとめた。

 全身が激しく痛む。特に、尾で殴られたわき腹は、ギシギシと軋むような違和感があった。
 視界が狭まり、呼吸が浅くなる。ぐるぐると世界が回り、喉にすっぱいものがこみ上げてくる。
 (なにこれ。わけわかんない。……死にたくない。こんな、何もわからないまま、死にたくない!)
 混乱する思考の中、唯一はっきりとした輪郭をした衝動。
 それに突き動かされ、嗚咽交じりのうめき声をあげながら必死に地面を這いずる。力の入らない指を無理やり動かし、痛むわき腹に鞭を打つ。

 瘴気の緞帳が開き、夕霧が舞台女優のように現れる。
「あっはははは! なんなのそれ。なぁにぃその恰好。みじめでちゅねぇ~」
 目は爛々と輝き、嗜虐的な笑みを浮かべる。
 背後の黒い尾が炎のように揺らめいていた。
 
 壊れた夕霧が迫る。ゆっくりと――けれど、確実に。
 地面に爪を食い込ませるように手を伸ばす。
 コツリ、とブーツの足音がする。
 肌が擦れ、傷が出来るのも構わず足を押し出す。
 また、コツリ――。

 一歩。
 
 一歩。

 背後でブーツの音が止まった。
 
 最後に伸ばした手が――冷たい感触をつかむ。
 固くゴツゴツとした肌ざわりを確かめるように、震える手で撫でる。
 篝はそれを知っている。
 心中に希望のしずくが落ちた。

 オニを討つ武器――黒斧がそこにあった。
『わたしの造る武器が、あなたを守る盾になってくれる事を祈るわ』
 唐突に蘇る声。勇気でも、希望でもない。リンネの言葉にすがるように柄を握り、黒斧を抱きしめるように立ち上がった。
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