そらっこと吾妻語り

やまの龍

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第二章 諏訪の神御子姫

第8話 護符

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「手を放してください」


「放したら逃げるだろ」

「どうして逃げるって思うんですか」

「そんな風に見えるから」

「逃げませんから」

 そう言って手を引き込めようとするが、重隆の力は緩む気配がない。

 開耶は大きく息をついた。

 何でこんなことになっているのか。



 一一八九年二月、鎌倉。

 昨年の夏に祖父の流鏑馬を確かめて鎌倉を去った開耶だったが、また戻って来ていた。一つには祖父がまた流鏑馬に出ると聞いたから。またもう一つには鎌倉がもうすぐ戦に入るという噂を聞いたから。

 禰禰様を猫の姿のままで連れ、今度はひっそりと鎌倉入りしたのだが、流鏑馬を見物に来て重隆に見つかったのだ。

「ほら、ここ。ここならよく見えるだろ」

 引っ張って来られた場所は馬場の先頭の位置だった。正面からではないし、的からも大分離れていたが、立つ人も少なく確かに馬場が見渡せた。

「あれ? あの人は……」

 狩衣姿で馬を引く一人の少年に目をとめる。馬場の先頭で控えているその少年には見覚えがあった。昨年の流鏑馬の時に重隆に声をかけてきた少年だった。

「あいつは海野幸氏。俺の従兄弟だ」

 その声に何かの色が滲むのを感じて、開耶はチラと重隆の顔を仰ぎ見る。その顔は悔しそうに歪んでいた。

「何で俺じゃなくて幸氏が流鏑馬に選ばれたんだか」

「確かにあなたより弓が上手そうだものね」

「あぁ?」
 睨まれるが無視する。だって事実だから。

 弓はその心の力が一番に成果として現れる。

 従兄弟だと言っていたけれど、坊ちゃん坊ちゃんしているこの重隆よりも、年は若いけど幸氏と言われた少年の方が遥かに胆力がありそうだった。

「はっ!」

  鋭い一声と共に幸氏が馬を繰り出す。人馬一体となっての一分の隙も無駄もない美しい射の姿に開耶は息をのんだ。

「ちっ、全部当てやがった。外せばいいのにさ」

 口ぶりはひどいものだが、今度はそこに嬉しそうな色が滲むのを感じて開耶はそっと微笑む。素直な人だ。確か望月氏は信濃の東の方で大きな馬場を管理していたはず。育ちの良さからくる人の好さなのだろう。

「あ、金刺殿」

 重隆の言葉にギクリと顔をそちらに向ければ、いつの間にか諏訪の大祝、金刺盛澄が馬に騎乗してすぐ側にいた。

「確か、望月の」

「はい、望月国親が三男、重隆にございます」

「無事であったか」

「はい。どうにか永らえました」

「それは良かったこと」

「は。諏訪大明神のご加護のゆえです」


 頭を下げる重隆に、馬上のその人も僅かに微笑んで応える。

「有り難くも永らえたこの命、全て神に捧げますぞ」

 その目が一瞬開耶で止まる。開耶の喉がこくり、と鳴る。

——じじ様。

 でも金刺盛澄は、そのまま視線を流すと馬場へと目を据えた。

「では、参る!」

 わかるはずがない。子供の顔などすぐ変わるし、祖父は多忙でほとんど顔を見せなかった。

 それでも心の中で自分が祖父に対して何かを期待していたこと、そしてそれが叶わず失望したことにも気付いてしまう。

——生きてるだけでいいと思ったくせに。

 意志の弱い自分を叱咤する。確かに祖父は鎌倉で赦されたが、自分はその孫として名乗りを上げるわけにいかないのだ。母を探さなくてはいけないから。それに自分は頼朝にとってはけっして赦されない存在だから。

「俺、木曽の義仲公にさ、弓の腕を褒められたんだぜ」

 振り仰げば、憮然とした顔で重隆が前を見据えていた。

「義仲公が挙兵されて少し経った頃のことさ。戦勝祈願で神社での奉射が行われたんだ。あん時は幸氏なんか目じゃなくてさ、俺が百発百中、お褒めの言葉に刀まで賜ったってのにさ」

 ブチブチと文句を呟く重隆。

 開耶はその重隆の脛を思いっきり蹴り飛ばした。

 重隆は呻いて腰を折る。

「痛ぇな! 何すんだよ?」

 ムッとした顔の重隆の鼻先に指を突きつける。

「みっともないわね。過去の栄光にしがみついてグダ巻いてるなんて、このずくなし! 老兵ならいざ知らず、あなたはまだまだ戦えるでしょ! せめて言霊に誓ったことくらいやり遂げなさいよ」

「言霊? 何のことだよ」

「いつか自分もあそこで流鏑馬を披露するからな、って言ってたじゃない」

 重隆は顔を赤くして立ち上がった。

「ああ、するさ。してやるとも」

 その長身を折り曲げ、開耶の鼻先に顔を突き出す。鋭い目に睨み据えられ開耶は竦み上がった。

 そうだ、人が好さそうだとは言っても彼は武士だった。言葉には気をつけないといけない。怯えて退こうとした開耶は、後ろに立っていた男と当たりそうになる。だが、その瞬間手を強く引かれた。重隆に肩を抱かれ、馬場を向かされる。馬場の一本道を正面に、開耶の肩口から燕脂の直垂が馬場に向かって伸ばされる。

「あそこに立つ姿をお前に見せてやる。そん時は絶対鎌倉にいろよ」

「そんなの、約束出来ないわよ」

 耳の後ろから響く低い声。肩をしっかりと抑えられ、身動きが出来ない。開耶は硬直したまま、馬場を走り行く馬と人をただ目で追った。背中を冷たい汗が伝っていく。

 開耶は人に触れることが苦手だった。兄弟が近くにおらず、母も開耶にほとんど触れずに育ったせいかもしれない。人との距離を詰めることに恐怖を覚えた。

「今年は春に鎌倉に来たんだな。夏にはもう来ないのか?」

 そんな開耶の心中など知る由もない重隆は、開耶を腕に閉じ込めたままのんびりと喋る。開耶は必死で平気な風を装って返した。


「夏の頃には奥州に攻め入るかもしれないと聞いたから。まじないどころではなくなるでしょ」

「どうかな。その頃の方が儲かるんじゃねえか? 夫が出陣する女らは、こぞって無事の祈願を願うだろうし、男らは武勲を乞いに来るだろうさ」

 ふぅん、と適当に相槌を打って話を終わらせようとする。

 奥州の戦や儲け話になど興味はなかった。開耶にとって大切なのは母の行方。

 戦が始まればその手掛かりが探しにくくなる。

 その時、重隆がふと開耶の耳に口を寄せた。こんな距離で人の息遣いを感じたことなどない。開耶は思わず身を竦めた。

「あの護符がもう一枚欲しいんだけど」

 開耶にしか聞こえないようにひそめられた小さな声。驚いて振り向けば、重隆は少し頬を赤くして馬場の向こう端を見ていた。

「前の札、よく効いたんだ。あれからすぐ御家人として認められた。だから一応礼を言っておこうと由比に行ったのに、小屋ごと跡形もなく消えてんだもんな。神隠しかと思ったぜ」

 開耶はおかしくなって噴き出した。まじないの効力だと認めるのが気恥ずかしかったのだろう。だから、こうやって距離を縮めてごまかそうとしたのだ。そうとわかった途端、この青年に好感が湧く。

「ええ、いいわ。くれるわよ。でも今度は何を願うつもり? あ、もしかして流鏑馬に選ばれますようにって神頼みする気でしょ。駄目よ、そういうのはちゃんと努力をしないと」

 からかうように言ったら、重隆はフンと首を横に流した。

「違ぇよ。俺は奥州に出陣するんだ」

「え」

「奥州で武功を立てて、見事、流鏑馬の射手に選ばれて見せるさ」

 自信ありげに笑う顔が誰かに重なる。

 『だいじょぉ。僕は平気だから。だから泣かないで』

 目の前がグルンと回転したように感じて、開耶は思わず重隆の腕に縋り付いた。
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