【完結】あなたの波を感じさせてー中将様とちじゅの夢恋物語

やまの龍

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第1章 鎌倉

第8話 猫

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 中将の君は千寿を見つめて口を開いた。

「では、左手を」
掌を差し出され、その手に左手の指を乗せる。

「はい、右手」
言われた通りに右手を乗せる。
「次、顎」

——顎?
 不思議に思いながらも、おずおずと顎を掌の上に乗せる。中将の君はにっこりと微笑んだ。

「おお、良い子良い子」

 喉元を指でクリクリと摩られて気付く。
「私、猫の代わりですか?」

 中将の君は、ええと頷くと千寿の頬に両の掌を添わせ、顎下から耳の後ろにかけて猫にするように指を滑らかに動かし始めた。

——これは、猫のようにゴロゴロと喉を鳴らせということ?

 千寿は僅か躊躇ためらったが、家の庭によく遊びに来ていた猫の声を思い出して喉を鳴らしてみた。すると、それに応じるように中将の君の指は千寿の首筋を撫で、肩へと落ち、腕の裏側をやわらに辿った後、また肩に戻り、耳を攻め始める。

 くすぐったい。逃げ出したい。でも中将の君の指に触れられた所が熱を持ち、新たな刺激を求めるかのように、期待してじっと待ってしまう。やがて中将の君の指が顎を掠めておとがいが持ち上げられた。中将の君の目と目が交わる。

 中将の君は千寿をじっと見つめていた。その瞳の奥に何かの熱が含まれているように感じて千寿の胸がドクリと大きく鼓動する。その途端、中将の君は軽く目を下げ、千寿の顎にかけていた指を外すと掌を大きく広げた。その手を千寿の頭の上に乗せて撫で始める。

「千手猫、可愛い可愛い。千手はまことに良い子ですね」

 そう言う中将の君の顔はいつもの通り涼やかで綺麗な笑みをたたえていた。

——良かった。笑ってくれた。

ホッとする。

 でも安堵したのは束の間。中将の君は「ですが」と真顔に戻って口を開いた。

「素直が過ぎます。貴女は言われたことは何でもやるのですか?」

  それは、冷たく固まった声だった。
「中将様?」
「貴女は命じられれば何でもやるのですか?私という囚人の世話を断らなかったように、次の囚人の世話もするのでしょうか。今、私に向けてくれているその笑顔をそやつにも向けるのでしょうか。その声を聞かせるのでしょうか。甘い声を」

——え?

 何を言われたのか咄嗟に理解出来ずに目を瞬かせる。


——私、何か仕出かしてしまったんだろうか?何か、中将様の気を損ねてしまう何かを。そうだ、中将様に触れられて妙な気持ちになったのを見透かされて気を害したのかもしれない。けがらわしい女だと。

 頭の中が真っ白になる。どうしよう。どう詫びればいいのか。

 でも気付けば中将の君はその場にうずくまり、顔を伏せていた。千寿は言葉も発せず、ただそこに居るしかなかった。彷徨さまよわせた目が琵琶を捉える。琵琶は部屋の隅に寂しそうに立て掛けられていた。

——ごめんね。ごめんなさい。

声なく琵琶に語りかける。

——いいよ。大丈夫だよ。側に居るからね。

応えてくれる琵琶。千寿の相棒。

琵琶が返してくれた優しい気配に千寿の心が少しずつ落ち着いていく。

——うん、私も居よう。去れと言われるまで。中将様のお側に居るのが今の私の幸せなのだから。

 中将様はお辛い中にいるのに、その中でも強く明るく自分を保とうとされている。そんな中将様を自分は好きになったのだ。何があろうと言われようと自分もへこたれずにいなくては。
  ややして中将の君がゆっくりと頭を上げ、小さく声を発した。

「申し訳ない。言ってはならぬことを口にしてしまいました」

 千寿は黙って微笑むと首を横に振った。中将の君はその後も暫くじっと黙っていたけれど、やがて、パン!と自らの頬を音高く叩き、一つ大きな息を吐くと顔を上げて口を開いた。
済まないが、お水をいただけますか?大変ひど醜態しゅうたいを晒してしまった。気を落ち着けます。本当は一人になりたいくらい恥ずかしいのですが、今、貴女を外に出したくない。お水をいただいたら、久しぶりに笛を吹こうと思います。貴女も琵琶を聴かせていただけませんか?」

 千寿は小さく返事をすると水の入った椀を手渡した。琵琶を取ってきて中将様の斜め前に腰を下ろし、撥をしっかりと握って背筋を正し、弦に左手の指を添わせる。場を切り裂き、辺りを震わせる琵琶の音と、それに続いて舞い上がる笛の音。二つの音は蛇のように絡み合い、まじわり合って部屋の中を滅茶苦茶に飛び回った。

——負けない。

そう思いながら懸命に掻き鳴らす。

——そう、負けない。何があろうと言われようと平気。私の心は中将様に添うだけ。

 喧嘩のような音のぶつけ合い。琵琶なんかとは比べものにならないくらい体力を使う筈の竜笛。でも互いに負けじと競い合って激しく身と心を酷使している内に、恍惚こうこつを感じて千寿は身を投げ打った。暑い。汗ばんだ単。脱ぎたいけれど身体中が痺れていて動けない。目の前が真っ白になっていく。左腕を持ち上げられ、誰かに抱え上げられる。微かに香ったのは誰かの匂い。汗ばんで息を荒げた、でも優しく丁寧な誰かの。その誰かは千寿の汗ばんだ単を剥がしていく。やがてどこかに寝かされて、その上に温かく柔らかい何かがのしかかってくる。でも重たい瞼はもう開いてくれなかった。





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