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樹里の告白

第2話 樹里の真心

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ハッと気気付いたら、衡さんがこちらを見ていた。

「課題進んでる?」

ううん、とは言えずに首を頷かせる。彼は笑顔を見せると樹里を外に誘い出してくれた。外は風が吹いていて気持ちが良い。ふと道路向こうに小さな男の子が見えた。此方にお尻を向けて一生懸命何かをつついている。可愛い。その背中がふと霞んで誰かに重なる。

——椿。

可愛い娘。殆ど一緒に居ることが出来なかったけど、中将様との間に授かった大事な女の子。
きっと母を恨んだろう。罪人の子を何故産んだのかと。鎌倉に行って帰って来ない薄情な母だと。今、樹里は幼稚園の先生になりたいと思っている。本当は椿に償いをしたいけど、それが叶わないから、せめても同じくらいの小さな子の為に何かがしたかった。でも、もしかしたら椿もこの世界に産まれてきてくれるだろうか?償いをさせて貰えるだろうか?

——償い。

その言葉にはあまり良い響きがないように感じていた。


 でも衡さんが自分に償おうとしてくれているように、自分は娘に償いたいと思っている。償う必要が無ければ逢うことも出来なかったかも知れない。そう考えるのは図々しいだろうか。


「私、保育園か幼稚園の先生になりたいんです。過去、自分のことばかりで、娘を顧みなかったので」

そう言ったら衡さんは優しい顔をして頭を撫でてくれた。でも、ややして重い声が届く。


「済まない。俺は君を苦しめてばかりだ」

——あ、いけない。言うべきではないことを口にしてしまった。

「いいえ。中将様が、いえ、衡さんがそんな風に悩まれることは一切ありません。貴方の子が欲しいと願ったのは私なのですから」

慌てて衡さんの袖口を引っ張る。すると衡さんが樹里の両腕を掴んだ。

「だったら、幼稚園の先生になるのではなくて、また俺の子を産んで育ててくれないか?」

驚いて衡さんの顔を見上げる。

——え、また?


過去に千手の前が娘を身ごもったことを中将様は知らない筈。自分も懐妊に気付いたのは、中将様が亡くなられたと聞いた後。


——でも。

 ああ、そうだ。自分が実家に戻り、川で溺れて死にかけた時、ううん、もうどうにも堪らなくなって「付いて行きたい」と願った時に、彼を呼んでしまった。そうしたら迎えに来てくれた。夢だと思った。でも夢ではなかった。魂が身体から離れた後も見守ってくれていたんだ。

そう、彼は自分のことを魂の半身だと言ってくれていた。心を寄せてくれていた。

なのに、そんな大切なことを自分はすっかり忘れていた。忘れて、都合のいい記憶ばかり追いかけて、スタイルがどうとか、どうせ愛玩動物なんだ、とかいじけていた。


——やだ、なんてこと。

過去の自分もけして美人ではなかったけれど、今の自分よりずっと素直に真っ直ぐ彼に向かっていた。懸命に笑顔を見せていた。

だって、辛い立場なのに明るく強く振る舞っておられる中将様に負けてはいけないと思ったから。負けるような自分なんかがお側についていてはいけないと思ったから。それだけ純粋に中将様を思っていた。

 それに比べて今の自分のなんて甘いこと。ちっちゃいこと。胸が小さいとか、女の子に見られてないとか、そんなどうでもいいことで悩んで、一番大切なことを見失っていた。

その時、

「ねぇ、ちゅーはしないの?」

 幼い声に記憶が蘇る。最初の、全て吸い込まれてしまいそうな激しい口付け。そして二度目のとろけるような甘い口付け。そして、その後に訪れた幸せの波のことも。

 その瞬間、全身の血がドッと沸き立った気がした。

——自分は確かに愛されていた。そして、愛していた。他の何も目に入らないくらいに。


 でも、今の樹里を千手の前が、中将様が見たらなんと思うだろう?


——情けない。


 樹里はその場から逃げるしかなかった。

 でも少ししてポケットに入れておいたケータイが震える。衡さんからのメールだった。

「図書館に荷物全部忘れてるよ。駅まで持って行くから駅で待ってて」


言われた通りに大人しく駅前のベンチで待っていたら、衡さんが颯爽と現れた。長い手足にスッと伸びた背筋。迷いなく歩く姿は昔とまるで変わらない。

——ああ、やっぱり素敵な人だ。

 そう思う。それから慌てて駆け寄り、頭を下げる。


「あ、あの。ごめんなさい!」

衡さんは笑って首を横に振り、言ってくれた。

「幼稚園の先生になりたいって聞かせてくれてありがとう。嬉しかったよ」
「嬉しい?」
思わぬ言葉に聞き返したら、衡さんは頷いて樹里の耳たぶに触れた。
「樹里ちゃんの幼稚園の先生姿を想像したら、すごく似合ってて嬉しくなっちゃった。応援するから頑張って」

「あ、ありがとうございます」

 ぺこりとお辞儀をして頭を上げたら、その頭の上に手がポンと乗る。
「ございます、はいらないよ。今日はそろそろ帰らないとだね。また来週会える?」
「はい」

「じゃあ、また来週ね」

手を振って改札を通っていく背中を見送る。

——また、来週ね。

頭の中をリフレインする、少し掠れた声。

また会えるという幸せ。貴方がそこに居て、共に同じ時を生きているという幸せ。
自分は幸せだ。本当に幸せだ。


 その晩、机に向かいながら考える。


幸せの波——

過去に彼に幸せの波を感じさせて貰った。だから、今度は自分が彼に幸せの波を感じて貰いたい。


翌週の朝、樹里はクローゼットの前で暫し悩んでから、思い切ってそれを手に取った。藍色の少し大人っぽいワードローブ。今の自分に似合わないのは承知の上。でも、彼の為に精一杯の笑顔を見せたい。昔も今もその姿を見て気配を感じることが、どんなに嬉しくて幸せなことか。貴方に笑っていて貰いたい。少しでも心穏やかに過ごして貰いたい。それがいつも変わらぬ私の真心。猫でもヌイグルミでもなんでも構わない。過去も今も、それだけで自分は幸せなのだ。


 勇気を出して彼に向かう。

「今日は遅くなるって言って出て来たんです。だから勉強でなくて、あの」

——抱いてください。貴方を感じたい。貴方に感じて貰いたい。

そう口にしかけた瞬間、手を引かれた。あったかくて大きな手にグイグイ引っ張られて小さな部屋に入る。薄暗い部屋。その狭さと暗さに不思議と感じる懐かしさ。ベットが軋む金属音が過去の景色を遠ざけていく。彼の膝の上に座らされて後ろから抱き締められる。首筋にかかる熱い息。軽く啄まれたけど、すぐ唇は離れた。大きな手が胸元をまさぐっていく。ゆっくりと外されていくボタン。肩から滑り落ちる布の音。下着が外され、樹里はベットに横たえられた。

「今日は声を上げて平気だから」

言われて、思い出す。声を上げてはいけないと堪えていた過去の自分。

「はい」

素直に返事をしたら、衡さんはふわりと目を細めた。それから樹里の上に覆い被さってくる。心地の良い重み。重なる肌に重なる鼓動。

——そうだ。この世は全て波に包まれているのだった。

樹里の中に入ってこようとする熱いもの。それを阻もうとする樹里の表の意識。痛い。辛い。つい歯を食い締める。でも自分の奥の意識は知っている。その痛みすら幸せだと。

だから、じっと彼を見つめる。彼もまた自分を見つめている。表層の痛みもきっと伝わっている。止めようかと目が語りかけてくる。それを首を横に振って拒む。

——来て。
優しい人。強い人。私の好きになった人。貴方と一つに溶け合いたい。そして幸せの波を巻き起こしたい。

感じて——。
 貴方が側に居ることで、私がどれだけ幸せなのかを。幸せの波は、その揺らぎは隣り合う全てのものに伝わり、広がっていく。





——貴方をお慕いしています。いつも。何処に居ても。

そっと目を閉じる。

脳裏に浮かぶ、琵琶の優しいまろやかな姿。

ねぇ、千手の前殿、過去の私。

 私、千住樹里は、貴女に、過去の私に恥じないように生きることを誓います。真心を込めて。







——完。
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