別れさせ屋 ~番解消、承ります~

冬木水奈

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十年後——。


 雪がちらちらと舞っている。この日、東京都心はぐっと冷え込み、みぞれ混じりだった雨が夕方から雪になっていた。数年ぶりのホワイトクリスマスだ。
 会社のオフィスで書類仕事を終えた夏目拓海は大きく伸びをし、立ち上がった。
 クリスマスパーティをするから早く帰ってきてね、と自分を送り出した伴侶の顔を思い浮かべた瞬間、デスクに立てられた写真が目に入る。
 それは、二年前に二人で北海道を旅行したときの写真だった。
 一面の花畑を背景に、淡い緑のシャツを着た小柄なオメガ男性が小型犬を抱いて微笑んでいる。
 彼は八年前に結婚した夏目の夫、千春だった。

 佐藤千春と出会ったのは、約十年前に通い出した赤坂の料亭だった。商談のために利用したのがきっかけで気に入り、その後プライベートでも通うようになった店だ。そこで働いていたのが千春だった。
 千春は、洗練された立ち居振る舞いと小粋な掛け合いができる頭の回転の速さが特徴的な、京都出身の従業員だった。
 その店で給仕と接客を担当しているのは主にオメガで、その全員に教育が行き届いていたが、そのオメガ達を統括する立場にあるのが千春だった。
 当然、群を抜いて接客が上手く、気に入って担当に指名する客もいたという。
 当時四十歳を過ぎており、若いオメガが多い中でおそらく一番年上だったが、はんなりとした京言葉やミステリアスな雰囲気も相まって、なんとも言えぬ色気のある人だった。

 出会った当初からどことなく惹かれていた相手にしかし、夏目はそれ以上の関係を期待しなかった。千春は番を持たない証であるネックガードをしていたが、それが必ずしもオメガ同性愛者を表すわけではなかったからだ。
 アルファを好む異性愛者でも、番を持たないオメガはいる。だから、酒を美味しくする会話を提供してくれる相手としか認識していなかった。
 しかし、ある時『ディケの秤』というオメガ同性愛者専用のバーで偶然顔を合わせたことにより、互いの認識が変化した。その時から何となく意識し合うようになったのである。
 それから、店に行くたびに意味ありげな視線や思わせぶりな言葉を寄越されるようになった。
 そしてバーで会えば共に飲むようになり、飲食店で働くプロとして料亭では決して香水の類をつけない千春が、そこでは甘い香りを放っていた。
 また、店では決して使わないくだけた口調で甘えるようなことを言い、確信犯的にボディタッチをしてきたりした。
 その落差が恐ろしいほどに夏目を虜にし、深い関係になるまでにそう時間はかからなかった。底なし沼のような千春の魅力にズブズブとはまってゆき、そこから抜けられなくなっていったのだ。
 やがてバーだけでなく他の店で食事をするようになり、休みの日にドライブで遠出するようになり、互いの家を行き来するようになった。そして結婚というものまでが視野に入ってきた。
 その時点で、夏目は家業のことを話す決心をした。この先もっと深い関係になるならば、話しておかなければならないと思ったからだ。それで思い切って家業のことを打ち明けたのだった。

 夏目の家は、代々極道の家系である。父は大阪を本拠地とする指定暴力団『興隆会』の組長であり、中心部の繁華街一帯をシマにしていた。武器や違法薬物の売買、風俗店の経営等のほか、政治家からの依頼を受けて要人暗殺の仕事も請け負う、いわゆるヤクザである。
 かなり規模の大きい指定暴力団であるにもかかわらず、他の組のように徹底的に叩き潰されなかったのは大物政治家とのパイプがあったからだった。彼らの手足となって汚れ仕事を請け負うことにより、組織に大掛かりな捜査が及ぶことを防いでいる。
 そのため、組織は比較的安定して「商売」ができ、規模も拡大していた。

 そのように対外的には順調な興隆会もしかし、中に入れば跡目争いでドロドロだった。長兄である孝徳とその二歳下の姉、玲が後継者の座を争って常に互いを出し抜こうと知略謀略を巡らせていたのだ。
 二人ともアルファでその資格があり、父親がどちらを跡目にするかいまだに明言していないこともその争いに拍車をかけている。地元では兄や姉の側近がたびたび不審死していた。
 当初、夏目はその争いの蚊帳の外にいた。オメガだったからだ。
 しかし、跡目を継ぐことを諦めてはいなかった。アルファのきょうだい二人がいなくなれば、夏目家の直系はもう自分しかいない。そうなればいかにオメガ差別主義の組織とはいえ、自分を跡目として認めるだろうと思ったからだ。
 シェルター事業はその準備のためでもあった。ビジネスで成功して資金力をつければ有利になるし、それを見て日和見主義の構成員はこちら側につく。
 アルファだからというそれだけの理由で優遇され、父がやっているビジネスの一部を譲り受けた兄と姉の懐具合は悪くない。しかし自分がそれを上回る金を手にすれば風向きが変わるだろうと見立て、まずはビジネスで成功することに注力した。

 結果、それは良い判断だったといえる。
 実際、父親が夏目のシェルター事業を褒めてから、構成員が自分を見る目が微妙に変わったのだ。それを肌で感じた夏目は、更に事業を大きくするために東京に進出した。それが約十五年前だ。
 当初は苦労したが、やがて事業は軌道に乗った。利益が出るようになると、夏目はシェルター事業の統括を部下に任せ、その資金を元手にいくつかの会社を買収した。そして自身も経営に参画しながら専門家を雇って会社にテコ入れをし、経営状態を上向かせた。すると、ますます大きな利益を得るようになり、会社は大きくなっていった。
 夏目は潤沢な資金を手にし、ビジネスパーソンとして表社会で通用する社会的地位を得た。

 その頃になると、少し名の知れたビジネス誌でも取り上げられるようになっていった。
 オメガのシェルター事業という一種の慈善事業で身を立て、成功したオメガの経営者——メディアは夏目をそのように扱った。シェルター事業の裏に殺人と臓器売買があることも知らず、夏目が極道の家系であることも知らず、呑気にただのオメガの立身出世を信じる彼らを、本当に恵まれた環境で生きてきたのだなと思ったりもした。
 この世の中は「ただのオメガ」が成功できるような世界ではない。仮に夏目がいわゆる「実家が太い」生まれではなく、実家が極道という環境で非合法な手段を用いて資金を得ることができなかったら、こんな成功はしていない。そんなに甘くないのだ。
 実際、シェルター事業を始めるに当たって資金源となったのは親からの生前贈与で得た財産と、裏稼業で自らの手を汚して得た報酬だった。
 だが、楽な環境で育ってきたアルファ達はそれに思い至ることもない。おそらく一生気付かないだろう。
 だがそんなことはどうでもいい。若い頃なら憤ったかもしれないが、既にアルファに期待することをやめている夏目にとっては些末事だ。そんなことよりも、ビジネスパーソンとして確固たる地位を築き、興隆会の幹部達を味方につけることの方が重要だった。
 有り余る金で彼らを懐柔し、こちら側につかせて徐々に兄や姉の立場を悪くしてゆく。そして機が熟したら彼らを社会的、あるいは物理的に抹殺し、トップの座に就く。そういう計画だった。

 そのため、夏目は東京である程度事業を成功させたのち、地元京都に戻った。それが五年ほど前のことだ。そうして今は中国四国九州方面への事業展開と並行して組織内での足場固めにも精を出している。
 元々甘やかされて育った兄と姉は部下への態度が悪い。自分に付き従って当たり前、いうことをきいて当たり前だと思っているのだ。
 根っからの奴隷気質の古参の構成員はそれを疑問にも思っていないようだが、良く思わない者もいる。そういった部下とさりげなく接触を図り、こちら側に引き入れるということを繰り返していた。
 八十歳を過ぎている父親の健康状態は良くない。その時はもう間もなく訪れるだろう。
 死期を悟った父親は兄か姉を後継者に指名するかもしれない。
 だが、そんなことは関係ない。こちらにはもう相当数の幹部がついているし、莫大な資金力もある。もし兄か姉が指名されても、父親亡き後それを覆すことが可能だ——話し合い、あるいは暴力によって。

 そういった計画があるということを、千春に打ち明けたのが約八年前——結婚を真剣に考えている時期だった。
 やくざ者だと知ったら離れていくかもしれないという覚悟もしていたが、千春は思いのほかあっさり受け入れた。そして、「ええやん、トップ獲ろうや。僕もどうせやったら組長の夫になりたいわ」と言ったのだ。
 その反応に驚いて怖くないのかと聞くと、昔からそういう客は何人も接客してきたから慣れている、と答えた。実家が京都の老舗旅館で、自身もいくつもの料亭を渡り歩いてきた経験から、極道の客には慣れていたらしい。
 高級旅館や料亭には政治家や官僚だけでなく、そういった界隈の客も少なからず出入りしている。それは、政治家達が政敵や自身のスキャンダルを排除するためにヤクザを使うからだ。
 それで昔から裏社会の人間には慣れていたようだった。

 夏目はその答えを聞いてプロポーズを決意した。腹心の部下には組長を目指すならやめた方がいいと止められたが、夏目は翻意しなかった。千春がずっとその言葉を欲しがっているのをわかっていたからだ。
 また自分自身も千春を失いたくなかったし、千春じゃなければ一生そういう相手はできないだろうと思っていた。だから結婚を強行した。
 とはいえオメガ同士での同性婚は法律上認められていないので、地域のパートナーシップ制度を利用して届出を出し、式を挙げただけだが。しかしそれでも気持ちの上では結婚だった。
 そうして二人は家族になった。
 こういう展開になったこと自体、夏目自身も驚きだった。出会った当初は、ここまで深い関係になるとは思っていなかったからだ。
 これまでは誰と付き合っても、長く片想いしていた幼馴染み——篠塚幸生とどうしても比べてしまい、長続きしなかった。
 だが、千春と出会って、幼馴染みのことを全く思い出さなくなった。比べることもなくなった。それだけ千春が魅力的だったということだろう。

 結婚した二人は新しく部屋を借りて、千春の飼い犬二匹と共に暮らし始めた。それは、思った以上に穏やかな生活だった。
 家に伴侶がいて、伴侶の愛するペットがいて、常に人や動物の気配がある——そのことがこんなにも心安らぐことだとは。殺しや犯罪とは無縁のごく普通の一般人や、人畜無害な動物と共に暮らすことが、これほどに心を穏やかにするとは。
 その時初めて、夏目は巷の人間がやたらと家庭を欲しがる理由を理解したのだった。
 二人とももう子供を持てる年齢ではないので子供はいない。しかし、二人と二匹は確実に家族だったし、それに満足していた。
 夏目はそんなふうに家族に思いを馳せつつ、デスクの上の写真から視線を外した。そしてオフィスを出ようとしたとき、不意にドアが開いて部下の和久井が入ってきた。 
 不意をつかれ、思わず声を上げる。

「おっと、」
「あっ、すみません、」

 和久井貴裕は夏目の部下の中で唯一のオメガ男性で、まだ学生の頃から四十年来の付き合いの相手だ。小柄で凡庸な顔立ちの、会った数時間後には忘れるような見た目をしているが、非常に頭の回転が速く、いざという時に頼りになる。長兄がシェルター事業を乗っ取ろうと画策していることに真っ先に気付いてそれを防いだのも彼だった。
 その和久井が戸口に佇んでいる。夏目は立ち止まって聞いた。

「なんや、どうした?」
「ニュース、見ましたか?」
「何の?」
「R大の研究者がアルファ亜種の性フェロモンの同定に成功したそうです。それでその研究者っていうのが……ちょっと失礼しますね」

 和久井は断りを入れて中に入り、リモコンを操作して天井に設置されたテレビの電源を点けた。そしてチャンネルを変えてニュース番組にする。すると、都内の大学のバース研究所の教授と研究員が記者会見をする映像が流れてきた。
 スーツに身を包んだ壮年の女性と中年の男性二人が並んで会見している。その下のテロップには、『アルファ亜種の性フェロモン発見のR大研究チームがフェロモンの同定に成功 旧人類の性フェロモンと同種の可能性』と出ている。
 その映像と共に女性アナウンサーのナレーションが流れてきた。

『九年前にアルファ亜種の性フェロモン、通称ブルームフェロモンを発見したR大学の奥谷教授率いるバース研究グループが、同フェロモンの成分を突き止めることに成功したと発表しました。このフェロモンは約三万年前に絶滅した旧人類ホモ・シークレンスと同種のものである可能性が高いということです。アルファ亜種の性フェロモン同定に成功したのは国内初で、今後、バース医療分野での応用が期待されています』

 ナレーションが終わると音声が切り替わり、一人の男性研究員がアップになってその声が流れてきた。
 すっきりと襟足の短い艶やかな黒髪に秀でた額、くっきりした二重の切れ長の瞳に通った鼻筋、そして薄めの唇が黄金比率で配置された美形——男臭くならない程度に男らしく整った顔立ちの男性には見覚えがあった。しかし誰なのか思い出せない。
 誰だったかなと首を捻っているとその男性が話し始めた。

『……このような手法を用い、試行錯誤を繰り返してブルームフェロモンの同定に成功しました。組成としましては、一般のアルファの性フェロモンとは全く違う物質でして、ほとんどの人間は感知できません。ただ、一部それを感知でき、番になれるオメガが存在しまして、それが性フェロモン過敏症II型のオメガです。それは以前の研究発表で申し上げた通りです。その後、両者の遺伝子解析を行った結果、性フェロモンに関連する遺伝子の中にホモ・シークレンスの遺伝子多様体を有していることを発見しました。すなわち、アルファ亜種と性フェロモン過敏症II型のオメガはホモ・シークレンスの性フェロモン遺伝子のDNAを引き継いだ結果、通常とは異なる番形成に至るということです』

 そして画面が切り替わる際に一瞬机の前に貼られた名前の上部が映る。そこには『時籐』と書かれていた。

「時籐? 何や聞いたことあるような……」

 夏目が記憶を掘り起こしていると、和久井が言った。

「時籐啓君、覚えていませんか?」
「うーーーーん……うーんと……何や最近物忘れが激しくなってなぁ」

 首を捻っていると、和久井がヒントをくれた。

「じゃあ更科利人君は? 『ディケの秤』は?」
「あぁっ、あの商売敵か。小生意気なイケメンやったなー……覚えとるわ。番解消できる子ぉやろ? こっちに戻ってきてからはとんと会わんくなったけど、元気でやっとるんかな?」
「元気みたいですよ。手数料も毎月ちゃんと払いにきているようです」

 それで同業者だった更科からみかじめ料を徴収していたことを思い出す。
 ようやく記憶が戻った夏目は言った。

「で、その子が何や?」
「そこに出てる研究者、利人君の番ですよ。拓海さんが番にしたでしょう。うちの帳簿見たからタダでは帰せんって、遺体処理か番になるか選ばせたじゃないですか。覚えてないですか?」
「あーー……そんなこともあったなぁ……。そういやあん時、利人君が本当に番解消できるのか証明させたけど……あん時実験台になったの貴裕やったよな? よう名乗り出たなぁと思っててん」
「あの時は旦那とうまくいってなかったんで、別にいいかと思ったんですよ。しかし本当に番解消するとは思わなかったですけどね」
「けど、戻れてよかったよなぁ。また番になれる保証なんてなかったやろ」

 夏目の問いに、和久井は頷いた。

「そうですね。でもその時はその時って思ってたんで」
「さよか」
「はい。でもあの能力、本当便利ですよね。普通にもう一回番契約したら戻れたんで、番になったり離れたり自由自在っていうか……。副作用的なのもなかったですし」
「確かに。それにしても、あの利人君の番か……。あれ、でも、苗字変わってへんかったような」
「だいぶ前に結婚してますよ。当時ご報告したはずですが」
「ああ、せやったせやった! 苗字を啓君の方に合わせたんやったな」
「そうです。今は家族四人、啓君の連れ子二人と一緒に暮らしています。子供は二人とももう高校生ですね」
「子供いたんか」
「ええ」
「ああ、それであの時……」

 夏目は二人を番にした日のことを思い出す。啓がネックガードの暗証番号を利人に取りに行かせたがったのは、家に子供がいたからか。
 その時の蒼白な顔を思い出し、納得する。小さい子供のところにヤクザを行かせるわけにはいかないと、勇気を振り絞って提案したのだろう。
 あの時から肝の据わったオメガだとは思っていたが、頭も良かったらしい。
 夏目の言葉に和久井が聞き返す。

「あの時?」
「ああ、いや、二人が番になった日な、あの子がネックガードの暗証番号を利人君に取りに行かせたのは子供がいたからだったんかって納得した」
「だと思います。いいパパしてるみたいですよ」
「ふうん。で、それが何?」
「良いビジネスを思いついたんです。思いついたというか……前々から少し頭にはあったんですが」

 和久井は、番組が次のニュースに移ったところでテレビを消し、何かを計画しているような顔でこちらを見た。

「なんや?」
「啓君が、利人君がやる番解消は特殊なフェロモンによってなされているのではないか、という仮説を立てていたのは覚えてますか?」
「そんなこと言うてた?」
「言ってましたよ、うちへの手数料払いに来た時に」

 そんなことを言っていた記憶はない。夏目は首を捻った。

「そうやったっけなぁ……。あんた、相変わらず恐ろしい記憶力しとるな」
「ありがとうございます。それでですね、その時多分利人君はアルファ亜種やと思ったんですよ。拓海さんの家に来た時もアルファの匂いが全くしなかったじゃないですか」
「治験でフェロモンおかしなったって言うてた気がするけど」
「それもあると思います。ただ……啓君が大学でフェロモンの研究を始めたのが利人君と番になった後からなんですよ。研究所にも奥谷教授の推薦で入ったいう話でした。でも、その時点で啓君は研究者でも何でもないし、研究実績もなかった。変だと思いませんか?」
「……言われてみれば確かに」
「やから、啓君は何らかの重大な発見をしたんちゃうか、啓君自身が被験体としての価値があったんちゃうかって思ったんですわ。で、後日調べてみたらやはり利人君はアルファ亜種でした。ついでに啓君はアルファ亜種と番になれるとされている性フェロモン過敏症II型のオメガです」
「……なるほど」

 和久井は頷いて説明を続けた。

「性フェロモン過敏症II型は非常に希少な疾患です。そして、アルファ亜種の人口も非常に少ない……両者が出会い、番になれることが判明するというのは天文学的な確率でしょう。そもそもアルファ亜種は番を作れない、と言われていますから番になろうとすらしない人がほとんどやと思います。しかし、拓海さんが利人君と啓君を番にした日、二人には選択の余地がなかった。半ば強制的に番にされたようなものです。内心、番になれるかどうかは賭けだったんじゃないでしょうか? しかし、元々理系の大学でフェロモンについて学んでいた啓君は利人君から性フェロモンが出ているかもしれないことに気付いた。それで番になると言ったのではないでしょうか」
「自分の体使って実験したいうことか……」
「そして幸運にも番になれた。それでアルファ亜種から特殊な性フェロモンが出ている可能性に思い至ったんじゃないですか? それにニュースに啓君が出てましたけど、通常ああいった会見は教授クラスの研究者が出るものじゃないでしょうか。それをただの研究員に同席させるということは、啓君がこの研究の功労者だったのでは? そもそも研究の端緒となったのがあの日の発見だった可能性は高いと思います」
「そしたら俺らが一番の功労者やんけ。多少報酬貰ってもええよな? そういうことやろ?」
「まあ、それもそうなんですが、もっと儲かる方法を思いつきまして」
「何や? 言うてみい」

 すると、和久井は一拍間をおいてから言った。

「番解消薬の開発です。利人君から出る特殊なフェロモン、つまりアルファ亜種の性フェロモンが番解消を可能にしていたとしたら、そのフェロモンを使って番解消薬を作れるのではないかと思ったんです。啓君も同じようなことを思っていたようで、そういった話も少ししました。彼のゴールはどうやらそこらしいです。自分は、性フェロモンの同定はその準備段階だと思っています」
「ほんまか?」
「はい。海外ではつい最近番解消薬が開発されましたが、日本で承認される気配はありません。おそらく数十年はこのままかと思います。その薬が入ってくる前に国産の薬を開発したら、莫大な利益になると思いませんか? 一般に新薬の開発には最低でも十年かかると言われていますが、そのぐらい年月が経っても日本にはまだ番解消薬はないと思います。国内で開発しているところは確認した限り、今のところどこもありませんでしたから。もちろん、確実に成功する保証はありません。しかし、投資する価値はあるかと思います。ちょうどL製薬も買収しましたし」

 和久井には先見の明がある。そして非常に慎重でギャンブル性の高いことは絶対に勧めない。つまり、ある程度の公算があるということだろう。しかし疑問もある。
 夏目は顎を撫で、口を開いた。

「せやけど、啓君がうちに来る保証はあるんか? そんなんどこからも引く手あまたやろ。というか、大学で研究続けるんちゃうの?」
「それが、今の研究所では番解消薬の開発は難しいと言われたそうです。助成金が下りないと」
「いつものやつやな。アルファのお偉いさん達はそんなの作られたらたまったもんじゃないて思っとるんやろ」
「はい。啓君の方でもずいぶん粘ったようですが、なにぶん上司がアルファなのでそれで居づらくなってしまったようで……大学は近々辞めるようです」
「へえ……て連絡取ってたんか」

 それに和久井が少し得意げに頷く。

「ええ。少し前に啓君の研究論文が出たのを小耳にはさみましてね、読んだんですよ。それで今だと思いまして、すぐにコンタクトを取りました。そうしたら今再就職先を探しているっていうんで、うちの会社のパンフレットだけ送っておきました。こういうのは早い者勝ちですから」
「さすが、抜け目ないなぁ」
「まあ、早い者勝ちとはいってもそうそう手を挙げる会社もないと思いますが。番解消薬なんてどこも作りたがらないですから。まず会社の幹部のアルファがやりたがらないですし、開発に成功しても政府から承認下りるかもわからないですし。普通の製薬会社はやらないですよ。その点うちなら動かせる議員もいますし、最悪承認されなくても裏で流せます。この薬は絶対に需要があります。オメガ達は喉から手が出るほど欲しいでしょう。だからどんなに高くても売れます」
「良いかもしれんな。……俺も欲しかってん、その薬。俺と千春は番みたいなもんやけど、オメガ同士やから番にはなれん。せやから千春に万一のことがあったらっていつも心のどこかで思ってしまうんよ。特にこっちに戻って来てからは敵も多い。そいつらがいつ千春を襲って無理矢理番にせんとも限らん。もちろん護衛はつけとるけど、人生いつ何が起こるかわからんからな。せやから、万一の時のために番解消薬が欲しいと思っててん。できる見込みがあるなら金つぎ込むのも悪くないな」
「自分も欲しいです。今の番といつでも別れられるという保証が欲しい。今時一度番ったら死ぬまで一緒なんて流行んないですよ。もっと気楽に生きたい」
「ははっ、せやな」

 夏目は和久井と話しながらオフィスを出た。そして番解消薬の開発が成功する蓋然性がどの程度かを話しながらエレベーターで一階まで降り、正面玄関前で待機させていた車に乗った。
 一緒に乗り込んだ和久井が運転手に指示を出すと車が発進する。窓の外を見ると、ちらちらと舞う雪と周囲のビル群や対向車の明かりが後方へと流れていった。
 その少し眩しいぐらいの光を見ながら、夏目は呟くように言った。

「あの時、あの子らを殺さんで済んでよかったわ」
「自分もそう思います」
「な。そうよな」

 会社の帳簿を見てしまった利人に目の前のアルファを殺すか一緒に殺されるかを選べと迫ったあの日、世界線は二つに分岐したのかもしれない、と思う。啓が夏目の家に乗り込んできて利人が助かる今の世界線と、そうではない世界線に。
 きっと利人はあのアルファを殺せなかっただろう。そして、もし啓の介入がなければ自分はその利人を殺しただろう。その世界線において、日本で番解消薬ができる未来はなかったかもしれない。
 だが、今の世界線ではある。今後の夏目の行動如何によってはそれがたった十数年後に達成される可能性すらある。
 ならば、その可能性に賭けてみるべきなのかもしれない。
 同じような目的を達成するために光の中を歩いてきた二人と闇の中を歩いてきた自分の運命が、今再び交わろうとしているのだろうか。
 夏目は柄にもなく感傷的になりながら、そうやってしばらく後方に流れ去る窓の外の明かりを見つめているのだった。

                      【完】
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古森きり
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【書籍化決定しました!】 詳細が決まりましたら改めてお知らせにあがります! たくさんの閲覧、お気に入り、しおり、感想ありがとうございました! アルファポリス様の規約に従い発売日にURL登録に変更、こちらは引き下げ削除させていただきます。 政略結婚で嫁いだ先は、女狂いの伯爵家。 男のΩである僕には一切興味を示さず、しかし不貞をさせまいと常に監視される生活。 自分ではどうすることもできない生活に疲れ果てて諦めた時、夫の不正が暴かれて失脚した。 行く当てがなくなった僕を保護してくれたのは、元夫が口を開けば罵っていた政敵ヘルムート・カウフマン。 冷徹無慈悲と呼び声高い彼だが、共に食事を摂ってくれたりやりたいことを応援してくれたり、決して冷たいだけの人ではなさそうで――。 カクヨムに書き溜め。 小説家になろう、アルファポリス、BLoveにそのうち掲載します。

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