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2.過去 ※
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時籐は大学二年の時、若宮修斗と出会った。バイトしていた飲食店に客として来ていた若宮に声をかけられたのがきっかけだ。
若宮は六歳年上の社会人で、いかにも軽薄そうな雰囲気のアルファだった。
会った瞬間に匂いでアルファだとわかったので、時籐は警戒して最初誘いを受けなかった。アルファに限らずオメガとみると誘ってくる男は多いものだが、アルファだと特に危険性が増す。
無理矢理番契約を結ばされる危険性があるからだ。本気であればまだしも、番にできるかどうかを賭けの材料にするようなとんでもないクズも中にはいる。
だから、何度誘われても決して頷かなかった。
すると若宮は、今度は大学の友人経由で誘ってきた。
どうやらこちらの素性を調べ上げ、友達に接触して仲良くなったらしい。
それに不気味さと怖さを感じ断ったが、また誘われた。
付き合いもあったため結局断り切れずに飲みの席へ行くと、若宮は思いのほか紳士的で、一気に距離を詰めてくるようなことはなかった。
軽薄そうな第一印象に反して意外と教養があり、ウィットに富んだ会話で場を盛り上げていたのだ。
そして時籐に、しつこくしてごめん、でもどうしても話したくて、と言い、こちらのペースに合わせて何でもない世間話をした。
そのような態度に、最初の印象とだいぶ違うな、と意外に思ったのを覚えている。
そういうことが何度かあって次第に心を許し始めた時、二人で会いたいと言われた。
時籐はそれまでアルファの女性としか付き合ったことがなく、男性と関係を深めることに若干不安を感じたが、結局承諾した。友達として会ってくれればいい、と言われたからである。
そうして初めて二人で会った日、若宮は時籐をドライブに連れてゆき、最高の景色を見せ、最高のレストランで食事をさせた。
そしてその間、時籐の趣味の話を興味深そうに聞き、折に触れては褒め、また様々な話題でこちらを楽しませた。
それまでそのような経験をしたことがなかった時籐は新鮮に感じ、若宮に好感を抱いた。過去にアルファの女性と付き合った際には、男としてリードすることしか求められなかったからだ。
その真逆の立場になるというのもなかなか面白かったので、その後も請われるままに若宮とあちこち出かけた。
そうして猛烈なアプローチを受けるうちにいつの間にか相手のことが好きになっていった。当初は警戒していたが、その後の若宮の言動で真剣なのがわかったからだ。
そのため、その後関係を進めることを承諾した。
それで二人は正式に付き合うこととなり、やがて体の関係も持った。
若宮は、相手が男だろうが女だろうが抱くことを好むアルファ男性の例に漏れずバリタチだったが、手慣れていて決してこちらに痛い思いはさせなかったし上手かったので、さして問題にはならなかった。
たまには抱かせてくれてもいいのに、と思うことがないではなかったが、不満になるほどではなかった。
若宮が後ろの快楽を巧みに教え込んだからだ。
抱く時とはまた違う深くて長い快楽に体は呆気なく陥落し、若宮の指先を見ただけで腰が疼くほどになってしまった。
そうして時籐は若宮を完全に受け入れ、恋人として付き合い始めた。
若宮はロマンチストで、時籐を景勝地や高級レストランに連れて行っては愛の言葉を囁いた。また、大学の友達ですら興味を示さないような話――当時関心を持っていたバース性研究の話やオメガ差別の話など――を興味深そうに聞き、将来は副作用の少ないヒート抑制剤を開発したいという夢も応援してくれた。
このように、恋人として完璧な立ち振る舞いをした若宮にどんどん溺れていった。
これほどに愛してくれるのならば将来を考えてもいい――そう思いさえしたのだ。
だが、それは間違いだった。若宮は、時籐を愛していたのではなく、自身の欲望を満たすためのオメガの体が欲しかっただけだったのだ。
それが発覚したのは付き合い始めて八か月ほどが経った頃だった。
ある日、若宮は急に結婚して番になりたいと言い出した。将来的な話をしているのかと問うと、すぐにしたいと言う。
まだ大学生でそんなことは考えられなかった時籐は断った。番や結婚といった話はまだまだ先のことだと思っていたし、こちらがその気がないのも伝わっていると思っていた。研究者になるという夢に向けて、今は学業に専念したいと話していたからだ。
だが、若宮には伝わっていなかったようだった。その日からことあるごとにその話を持ち出されるようになったのだ。
そのたびに断るのだが、番になることのメリットだとかを滾々と説き続けられるようになり、次第に別れたいと思うようになった。
オメガにとって、番になることには大きなリスクがあるからだ。
まず、番解消されたオメガは、深刻な心理的ダメージを負う。
重度のうつ状態となって入院が必要になったり、酷い場合自ら亡くなってしまうことさえあるほど、番解消というのはオメガにとってダメージが大きい。
そして番解消はオメガの同意がなくてもアルファが一方的にできる上、法的処罰もない。
これだけでも番契約がオメガにとってどれだけリスクがあるかがわかるというものだが、その上番となったオメガはしばしば番依存症を発症してしまう。
この番依存症というのは、オメガが番のアルファに非常に大きな好意を抱いて依存的になる状態を言い、番になったオメガの過半数がなるといわれている。
これを「オメガの最高の幸せ」と言う者もいるが、時籐はそう考えていなかった。
自我を失い、アルファに依存するような生き方はしたくなかったからだ。
だから、「運命のアルファ」を見つけて番いたい巷のオメガとは違い、そもそも番願望がなかった。
番になるとすればそれは番依存症の治療薬が――そんなアルファに都合の悪い薬は開発段階にもないだろうが――出た後だ、とさえ思っていたのだ。
そのため、執拗に番になることを求める若宮とは価値観の相違を感じ、次第に別れたくなっていった。
大事件が起こったのはそんなふうにいつ別れを切り出そうかと悩んでいた大学三年の夏休みだった。
◇
その頃、ちょうどヒートの時期に入っていた時籐は一人暮らしをしているマンションの自室にいた。
三ヶ月に一度、三週間続くヒートの間、オメガは出来る限り外出しない。
ヒートに誘発されたアルファや新ベータに襲われたり、発情を強制されたと訴えられるのを防ぐためだ。
オメガのヒートはアルファや新ベータの発情を誘発することがあり、例えば意図していなくてもこういったことでヒート事故が起こった場合には不同意発情誘発罪として罪に問われる可能性がある。
そのため、ヒート中はなるべく外出しないのが普通だった。
長期休暇のタイミングで来るなんてラッキーだな、と思いながらベッドに寝転んでゲームをしていると、不意にインターフォンが鳴った。
親しい友人達にはヒートと伝えてあるので彼らが来ることはない。
宅配だろうかと思ってモニターを見ると、若宮が佇んでいた。
時籐は少し憂鬱になりながらインターフォンに出た。
「はい」
「俺だけど」
「ヒート来ちゃって今家篭ってるんですけど。メッセージしましたよね?」
「うん、見た。だから抗フェロモン剤飲んできた。一緒に食おうと思ってうな重買ってきたんだよ~、これ好きだろ?」
時籐はためらった。いかに抗フェロモン剤を飲んでいるとはいえ、ヒートの影響を受けないというのはありえないと知っていたからだ。
アルファの抗フェロモン剤というのは、オメガフェロモンの影響を受けにくくする薬である。
これは主にフェロモン過敏症患者が使う薬だが、一般の人も試験や面接等の集中したい場面では飲むことがある。
だが、あくまで通常量のフェロモンの影響を和らげる薬であり、多量のフェロモンが出るヒート時のオメガ相手にはほぼ効かない。
そして、アルファは、建物などの遮蔽物なしでヒートのオメガの半径十メートル以内に近づくと、必ずラットというアルファの発情状態になる。
だから、若宮を部屋に入れれば百パーセントラットになることはわかっていた。
そして、それは若宮も承知のはずなのに、部屋に入りたいという。つまりヒートの時籐とそういった行為をしたいということだろう。
今までにもそれをしたことは何回かあり、非常に大きな快楽を得られるのはわかっているが、意識を飛ばすほど激しい行為になってしまうことも多く、あまり好みではなかった。
しかし、若宮は気に入っているらしく、ヒートが来るとこうして誘いをかけてくる。
それを前回断ってしまったという負い目もあり、時籐は結局玄関のドアを開けた。
その途端に若宮が抱きついてきて首筋に顔をうずめる。
「んー、すげえいい匂い」
「ちょっと……」
「はい、これ『菊十』のうな重」
そう言って形ばかりは差し入れを手渡すが、すぐに食べる気はなさそうだった。まあ、終わってから食べるのだろう。いつものことだ。
時籐は玄関の鍵を閉め、若宮に連れられるようにしてベッドに行った。
自分を組み敷いたその体から発されるフェロモン臭が一気に強くなり、若宮がラットになったことがわかる。
若宮はもどかしそうにシャツを脱ぎ捨てると、顔の横に手をついて時籐に深いキスをした。
そうして時籐の部屋着を脱がし、尻肉を割り開くようにして揉む。
それにより、それまで体の奥で燻っていた熱が一気に高まるのを感じた。
「んっ……」
「はぁ……」
片手を背中に回し、もう片方の手で局部を触ってやると若宮が息をつく。
そして時籐の体を愛撫した後、サイドボードの引き出しからジェルを取って指にぬりつけ、後孔に差し入れた。
ぐちゅぐちゅと卑猥な音と共に敏感な内壁を擦られ、腰が跳ねる。
「はぁ……あぁっ……」
喘ぐと前を口に含まれ、指は更に深く入って気持ちいいしこりを擦り始めた。
「っ……!」
電流のような快楽が背筋を駆け抜け、体がビクビクと震える。普段よりもはるかに感じやすくなっていた。
若宮は飴玉のように時籐の性器を口の中で転がしながら吸い上げ、指の動きを早めた。
「ッ……、ッ……、ッ……」
隣室に聞こえないよう手で口を塞いで声を殺していると、快楽がせりあがって来てついに前が爆ぜた。
「ン―――ッ!」
時籐は背中をのけぞらせて絶頂した。そして息をつく間もなく、今度は若宮自身が入ってくる。
熱くて太い楔に大きく吐息をつき、口元にあった手を再び若宮の背中に回してキスをする。
舌を絡めてその気持ちよさを味わっていると、若宮が動き出した。
指とは比べ物にならない質量のそれに感じる部分をゴリゴリと擦られ、イったばかりだというのにまた前が張り詰めてくる。
時籐は目を瞑ってひたすら快楽を追った。そして二度目の絶頂を迎えたその直後、若宮がネックガードに手をかけた。
「え――?」
そうしてカバーを開けて普段は収納されているダイヤル錠をむき出しにし、操作し始めた。
「な、何してんすか?」
そう言って止めようとするも、若宮の手はびくともしなかった。そうしてあっけなく四桁のダイヤル錠が開き、無防備な首筋が曝される。
時籐は咄嗟に首を手で覆った。しかし、若宮はそれをいとも簡単にはがし、時籐をうつぶせにして再び挿入した。
そしてまた首を隠そうとする時籐の手を引きはがし、ベッドに縫い付けて律動を始める。
若宮は終始黙ったままだった。それに大きな恐怖を感じる。
「修さん、ダメだって。やめて。俺嫌だって言ったじゃん」
それでも若宮は何も答えない。
そうしてあまりに突然のことで体が反応できずにいるうち、うなじに鋭い痛みが走った。
噛まれたのだ――よりによってヒートの時に。
次の瞬間、体に劇的な変化が訪れた。それまで体内で荒れ狂っていた熱が穏やかになり、若宮に包まれているという安心感と喜びが湧き上がってくる。
その時、番にされ、番依存症を発症したのだと悟った。
そのことに愕然とし、抗議しようとするが、時間が経つにつれてそんなことはどうでもよくなっていった。
若宮は満足げにこちらを見下ろし、愛の言葉を囁きながら行為を続けた。
そのようにして、その日時籐は無理矢理番にされたのだった。
◇
このようにして、時籐の平穏だった日々は奪われた。
後で聞いたところによると、若宮は事前に時籐の祖母の家に行って祖母からネックガードの暗証番号を聞き出していたらしい。
彼女はその際に『誘導』という、本来オメガに使うのは違法な行動操作フェロモンを使われたといっていた。
『誘導』というのはアルファのみが使える行動操作で、フェロモンを発することにより簡単な動作の命令ができる。
これにアルファは『威圧』等で対抗できるが、ベータとオメガはそれができないので、アルファ同士の使用以外は法律で禁じられていた。
だが、使っても物証が残らないという性質上、立件しにくい犯罪でもある。
実際祖母の場合も被害届は出したが、目撃証言や証拠となるものがなかったため、結局不起訴となった。
祖母はこの件に関し、時籐とその両親に土下座せんばかりだった。
申し訳なかったと何度も何度も頭を下げ、謝罪したのだ。
だが、オメガの祖母がアルファに『誘導』を使われてはどうしようもないというのが現実なので、責める気にはなれなかった。
時籐はその後結婚して若宮家に入り、子供を二人産んだ。
順風満帆そのものだった自分の人生が、たった一度の油断でこうも崩れようとは想像すらしていなかった。もし正常な状態ならば結婚も出産も決してしなかっただろう。
だが、当時は番依存症を発症し、若宮が世界の全てだったので相手の望むことが自分の望むことだった。
このように、番契約の厄介なところは、番にされたオメガは例えそれが無理矢理であろうと、相手を大好きになってしまうことである。
例に漏れず時籐も若宮を大好きになった。そして強制的な番契約という違法行為をした相手を通報することもなく、避妊もせずに行為をすることに疑問を抱くこともなく、むしろ若宮の子を妊娠し産み育てることに喜びを感じながら結婚生活を送ったのである。
だが時折、どうしようもなく虚しくなることがあり、時籐は当初から少々うつ気味だった。
それでも、時に薬に頼りながらもまあまあ順調な夫夫生活を送っていたある日、若宮の裏切りが発覚した。
別のオメガと浮気していたのである。
まだ小さい子供二人の世話で寝不足、かつ軽いうつ状態だった時籐はこれに激怒し、この頃から関係に亀裂が入り始めた。
時籐からしてみれば強引に自分を番にした相手が浮気するなど言語道断である。こちらの意に反して番にし、結婚させた以上は父親として、夫としての責任を果たすのは当然ではないか。
それなのに若宮は育児も家事も申し訳程度にしかやらず、その上不貞行為を働いたのだ。こちらが怒るのも当然だし、若宮は誠心誠意謝罪をし、心を入れ替えて自分の責務を果たすべきだと思った。そうしてくれるものだと思い込んでいた。
だが、相手はそうは思わなかったようだった。若宮は最初に軽く謝りはしたものの、反省した様子はなく、また浮気を繰り返した。そして家庭も顧みなかった。
それに憤慨した時籐は若宮を拒否し、責め続けた。
やがて二人の間では喧嘩が絶えなくなり、愛し合うこともなくなり、徐々に若宮の心は離れていった。そうして時籐が二十四歳の時、ついに別れを切り出されたのである。
その年の冬、若宮はもう愛が冷めたから番を解消し離婚してくれ、と言った。
これには開いた口が塞がらなかった。
自分のわがままで無理矢理番にし、子供まで産ませた相手を飽きたから捨てる? 番を解消されたオメガがどうなるかを知ったうえで?
とてもではないが理解できなかった。
当然、時籐の家族も大反対し、若宮の実家にまで行って直談判したが、結局若宮は翻意せず、番を解消し離婚した。それからは地獄の日々だった。
苦労して育てていた子供二人を「精神不安定」を理由に奪われ、一方的に捨てられ、ヒートが来るたび若宮を求めて苦しむ日々。まさに生き地獄。よく発狂しなかったと思えるほどにその苦しみは大きかった。
精神科医と家族の助けがなければ自殺していただろう。
そうして少しずつ少しずつ、一年かけて何とか持ち直した。だがそのとき、手元には何一つ残っていなかった。
若宮家から手切れ金のように渡された金は治療費で消え、子供もいない。番もいない。職もない。ないない尽くしのスタートだった。
一方の若宮といえばその頃新しい玩具、すなわちオメガと再婚してよろしくやっていた。
そのことを聞いた時籐ははらわたが煮えくり返り、家に押しかけてお前がやったことをSNSで拡散して社会的に破滅させてやる、それが嫌ならいい職を斡旋しろ、と脅迫した。
若宮の親族に大手企業の役員が何人かいたからだ。そこのコネで仕事を引っ張って来い、と要求したわけである。
若宮は鼻で笑ったが、時籐がここまで回復すると思っていなかったらしい若宮の親は焦ったようすでそのように手配する、と約束した。過保護な親だから少しでも若宮の経歴に傷がつくのを恐れたのだろう。それか家の体面を保つためか。
いずれにせよ、彼らは仕事を斡旋した。それは、通常オメガが入れないような一流企業の新入社員のポストだった。ご丁寧に大学院を卒業したという偽の学歴まで用意して。
それが、今勤める会社である。コネ入社の負い目もあって必死に働いた結果、入社五年で係長まで昇進し、今に至る。
だが、このポジションが中間管理職の中間管理職とでもいうべき板挟み職で、課長を立てつつ、課長の要求を中和して部下へと伝え、部下のやる気も出させる、という非常に神経を使う仕事だった。
時籐の所属している総務課というのは基本的に事務や会社の安全保全、社内行事の企画運営といった裏方の仕事が多く、社員の適性あるなしが比較的はっきり分かれる部署でもある。
時籐のように単純作業やマルチタスクが苦にならないタイプには適性があるが、荒木のように本来は商品の企画開発がやりたかったのにこちらに回された、というような、何か目に見える成果が欲しいタイプには合わない。
だからやる気を失ってしまうのも仕方がないといえるのだが、最低限担当した仕事くらいはやってほしいというのが本音だった。
その荒木の尻ぬぐいをすべく、今日も残業していたわけである。
総務課で残っているのは時籐一人で周りにひとけはなかった。それでもオフィスの向こう側、別の部署があるところにぽつぽつと明かりがついている空間があるのが心の支えだった。
時籐は残った気力を振り絞って神速でテンキーを打ち、正しい商品データの入力をし続けた。
しょぼしょぼしてきた目がそろそろ限界に達した頃、やっと作業が終わって伸びをする。卓上の時計を見ると時刻は間もなく二十一時になろうとしていた。
「ふぅ~、終わった」
息を吐き出し、データ表をしっかりと保存するとパソコンの電源を落として帰り支度をし、立ち上がる。十八時頃に軽くおにぎりを食べただけで夕食もまだだった。
すきっ腹を抱えてオフィスを出て、エレベーターで一階まで降り、ビルを出る。時籐の勤める菓子メーカーの自社ビルは、東京都心のど真ん中とでもいうべき場所にあった。
そこから自宅までは電車一本で約三十分。自宅は最寄り駅まで徒歩五分の築浅の分譲マンションの六階にあった。
一人暮らしにしては広く、間取りも3LDKで、時籐の年齢の平均的な会社員は少し無理をしないとローンを組めない物件だ。
だが、会社の給料がかなり良いため、生活費を切り詰めることなくローンを支払えていた。
まあそのくらいしてもらわなければ割に合わないが、と会社の最寄り駅で電車を待ちながら思う。
若宮は犯罪まがい、というか犯罪行為を働いた挙句に責任も取らずに捨て、子供も時籐の未来も奪ったのだ。このくらいの補償がなければやってられなかった。
そんなことを考え若干苛々しながら到着した電車に乗る。乗った車両の二両前は黄色いペイントが施されたオメガ専用車両で、正直そちらに乗りたい。
だが、この専用車両は男女の区別がないため、オメガ男性からオメガ女性への痴漢が問題となり、以降は実質的にはオメガ女性専用車両となっていた。
それの他にベータ女性専用車両もある。
だからそのどちらにも乗れないアルファ女性、およびオメガ男性は痴漢被害に遭いがちだった。
だからもういっそ自転車通勤にしようかとか、車を買おうかとかいろいろ考えたこともあったが、ただでさえ体力がない上残業で疲れているのに自転車なんて無理だったし、車も維持費がかかるしで結局実現はしていない。
電車はまあまあ混んでいたが、幸い今日も何事もなかった。時籐はほっとしながら電車に降り、会社と自宅最寄り駅との中間あたりにあるU駅に降り立った。
行きつけのダイニングバーがある駅だ。駅前はそこそこにぎわっているが、少し歩くとすぐに住宅街になる、落ち着いた雰囲気の街だった。
時籐は駅から出て少し離れた住宅街にひっそりとあるダイニングバー『Bar & Diner Fortissimo』の暖簾をくぐった。ここは食事も提供するバーで、アルファの男女とベータ男性入店お断りの店である。
ママのさくらさんは既婚のオメガ女性で、オメガが安心してくつろげる空間にしたい、というコンセプトで始めたという。こじんまりした店だが雰囲気はよく、ほとんど常連しか来ない落ち着いた店だった。
食事は基本イタリアンだが和食や、時にインドカレーなどの変わり種も用意してくれてメニューはバラエティに富んでいる。
残業した日や飲みたい日はここに来るのが習慣になっていた。
中に入ると、カウンターで食事を出していたママが明るい声でいらっしゃい、と声をかける。時籐は挨拶を返してカウンター席へと座った。
すると他の客への配膳を終えたママが近くにやってきた。
四十を過ぎているとは思えぬきめの細かい肌にくっきりした二重の目が印象的な美人だ。
ママは美しい顔に柔らかい笑みを浮かべ、こちらを見た。
「お疲れ様~、今日も残業?」
「うん。報告書に入れる商品データが丸々去年の奴だったからそれを直してたらこんな時間に」
「あらお疲れ様ねぇ~。またあの子やらかしちゃった?」
ママにはたまに荒木のことを愚痴っていた。
「そうだよ。もう何回目だよっていう……先帰っちゃうしさあ……。まあ若い子なんてこんなもんかね?」
「ふふっ、若いって啓ちゃんも十分若いじゃない。今年三十歳よね?」
「もうオッサンだよ。若い子の話題についてけないし、何考えてるかもわかんねえし」
「それはねえ~、子供を持つとわかるようになるよ。おぼろげ~にだけどね」
そう明るく言うママに胸の奥がずきりと痛む。ママには結婚していたことも、子供がいることも言っていなかった。
もう通い始めてだいぶ経つのに言えないのは、ママが信用できないからではなく、まだ傷が癒えていないからだ。
過去のことはまだ誰にも話す気になれなかった。
「ふふっ、おぼろげ、ですか? はっきりはわかんないんだ」
「そう、こう、霧のかかった先の先~にうっすら?見える感じ。まあ結局ほぼわかんないわよね。じゃあ今日もしっかり栄養つけて帰ってもらわなきゃね~。ご注文何にする?」
「じゃチキンのトマト煮とライスで」
「はい了解~」
注文を終えると時籐はさりげなくあたりを見回した。
奥にカウンター八席、手前の壁に沿うようにして二人掛けテーブルが四つあるだけの店内は間接照明で薄明るい。電球色の照明が温かな雰囲気を醸し出していた。
ここに来ていつも感じるのは圧倒的な安心感だ。日常生活において最も脅威であるアルファが絶対に入ってこない安心感。オメガであることを揶揄し、ともすれば性のはけ口にしようとするようなベータの男が絶対にいない空間。
この安心感は会社でも大学でも若宮家でも得られなかったものだった。
世間ではこういう店を白眼視する者もいる。逆差別だと言って批判する者もいる。
だがアルファとベータ男性が排除された空間がどれだけオメガに安心感をもたらすか――それはなってみなければわからない。
特に、己の生涯を左右するような番契約を簡単に結べるアルファが近くにいるというのは、それだけでオメガに緊張感をもたらす。
ネックガードをしていようとそれは変わらない。過敏だと言う者もいるが、実際そういうものなのだ。
だから『Fortissimo』は時籐にとって数少ない本当に安らげる店だった。
何年か通ううちオメガコミュニティの友人も何人かできた。彼らの生活環境と時籐のそれは全く違い、やってくるオメガの大半は低賃金の仕事か水商売をしている、または既婚の主婦や主夫であったが、やはり社会生活を送るうえでの大変さは皆共通するものがあるようで、エリートと揶揄されながらもそれなりに溶け込んでいた。
だからこの店は時籐にとってとても大事な存在だった。
店を見回し、今日は知り合いはいないようだな、と思いながらママがすぐに出してくれたポテトサラダに口をつけた時、不意にチリンチリン、とドアベルが鳴って客の来店を告げた。
次の瞬間、するはずのない匂いがぶわっと広がって鼻腔をつく。
時籐は驚愕に目を見開いて後ろを振り返り、入り口を見た。
そこには二人連れの男がいた。
一人は明らかにオメガの小柄な青年。艶やかな茶髪と、暗くて顔はよく見えないが同い年かそれより若く見える。
ネックガードはしていなかった。
そしてもう一人――その青年より一回り大きな男。暗がりにもわかる色素の薄い髪と肌に、すらりとした四肢が印象的な男ーー暗くて顔はよく見えないが、彼は間違いなくアルファだった。ここにいてはいけないはずの。
一見してベータに見えないこともない。アルファとベータの外見上の違いはほとんどないので、見た目でどちらかわかることは少ないのだ。
だから見分けるときに使うのはその体臭――俗にいうフェロモンである。
そのフェロモンが明らかにアルファだった。
ベータを除き全ての人が固有のフェロモンを発するが、その香りには第二性による違いがある。
オメガからすると、アルファは甘いフローラル、ウッド、あるいはムスク系の強い匂い、新ベータは穏やかなグリーン系の匂い、そしてオメガは甘酸っぱいシトラス系の匂いがする。そして、普通のベータからは全く匂いがしない。
アルファやベータ側からするとオメガが甘い匂いだったりとまた感じ方が違うらしいが、とにかくこのように外見というよりは体臭で相手の属性を見分けるのが一般的だった。
そして、今入ってきた男からは甘い金木犀のような匂いがする。店の端と端にいるのにわかるぐらいの強い匂いだ。
どこかで嗅いだような気がしつつ、あの男が疑いようもなくアルファであることを確信する。
こりゃ騒ぎになるな、と傍観しているとその男は小柄な青年を伴ってカウンター席の端の空いている席へ座った。
時籐の席からはオメガの青年を挟んで向こう側に座っているので顔は見えないが、さぞかしふてぶてしい顔をしているに違いない。
さあ、ママが動くぞ……そう思って見ていると、ママは二人に近づいて言った。
「ちぃちゃんお疲れ~」
「お疲れ様です。今日は無理言ってすみません」
どうやらちぃちゃんと呼ばれた小柄な青年の方はここの常連らしい。顔を見たことがある気もしたが、話したことはなかった。
ということは隣の男は彼の番――? いやいや、それでもダメなはずだ。
番になると番のアルファにしか興味がなくなるオメガと違い、アルファはたとえオメガと番になったとしても他の人間とセックスできる。
だから、アルファはたとえ常連の番であっても入店禁止と、前にママが言っていたはずだ。
だからすぐさま入店拒否するかと思いきや、ママは普通に話して注文をとっている。そして、周りのオメガも誰一人として彼に注意を向けていない。
「いったい……?」
これはいったいどうしたことか。まさか皆気づいていないのか? あれほど強い匂いがしたのに?
時籐は混乱しながら二人と話し終えたママを小声で呼んだ。
「ママ、あの人……」
「うん、イケメンだよねえ」
「じゃなくて、アルファじゃない?」
「えっ?」
「スゲー匂いしたじゃん入ってきたとき。気づかなかった?」
するとママは時籐を窺うように見た。
「全然しなかったよ。でもあの子がアルファっていうのは本当。……なんでわかるの?」
「いやだから匂い……。つーか、いいの?」
「うーんあの子はねえ、ちょっと特殊だから。ちぃちゃんに事前に連絡貰って、どうしてもここで話したかったみたいだったからオッケーしたんだけど……まさか気づかれちゃうなんてね。でもあの子強めの抑制剤も飲んできたみたいだし、周りも誰も気づいてないよね? 何で啓ちゃんだけわかったのかしら……」
抑制剤というのはフェロモン抑制剤のことで、オメガやアルファが服用するとフェロモンの量が抑えられる。
ヒートのときにオメガが使うものと思われがちだが、実際には公共の場でのマナーとしてアルファが服用する場合もあった。
フェロモンは、量は少ないものの発情期以外でも常時出ていて、その量には個人差があるが、量が生まれつき多い人もいる。
そういうタイプは、アルファの場合には周りが体調不良になったり、オメガの場合には周りを誘惑してしまったりするので、抑制剤を常用するのがマナーとされていた。
だからフェロモン抑制剤にはアルファ用とオメガ用があり、そのアルファ用を飲んできたということだろう。
だがそれにしても納得がいかなかった。
「特殊って? 特殊でもアルファはアルファじゃねえの?」
「うーんとねえ、あんまり詳しいことは言えないんだけど、とにかく私たちにとって危険じゃないというか……」
「だいたいあのアルファもアルファだろ。他の店行きゃいいのにこんなとこにわざわざ来てさ。図々しすぎんだろ」
喋っているうちにイライラが増してくる。アルファに対しては嫌悪感しかない。奴らは有害で危険で、いつもオメガを傷つける。
自分の特権を振りかざしてオメガをいいようにして、最低最悪の人種だ。
だから、仕事は仕方ないにしても私生活では絶対にかかわりたくなかった。
だからこの店に来ているのに、この安全な場所さえ脅かされる。
いったい何の権利があってそれほどまでにオメガを虐げるのか。アルファならばどんな店にも行けるのに、なぜわざわざアルファ入店禁止の店に来て嫌がらせするのか。
どうにもならない怒りが膨れ上がり、時籐は衝動的に席を立った。
「あっ、待って啓ちゃん」
ママの制止を無視し、カウンターの隅で何事かを話し込む二人の前に立ち、そこそこ大きい声で言い放つ。
「あんた、アルファだよな?」
その一言で店内の視線が一斉にこちらを向く。
一番端に座ったジャケット姿の男は、驚いたように顔を上げた。目と目が合う。
その顔を見た瞬間、時籐も驚愕した。
そしてフェロモンの匂いに覚えがあったことに納得する。
「……更科?」
「時籐?」
オメガフレンドリーな店にズカズカ入ってきた不届きなアルファは、中学時代の同級生だった。
若宮は六歳年上の社会人で、いかにも軽薄そうな雰囲気のアルファだった。
会った瞬間に匂いでアルファだとわかったので、時籐は警戒して最初誘いを受けなかった。アルファに限らずオメガとみると誘ってくる男は多いものだが、アルファだと特に危険性が増す。
無理矢理番契約を結ばされる危険性があるからだ。本気であればまだしも、番にできるかどうかを賭けの材料にするようなとんでもないクズも中にはいる。
だから、何度誘われても決して頷かなかった。
すると若宮は、今度は大学の友人経由で誘ってきた。
どうやらこちらの素性を調べ上げ、友達に接触して仲良くなったらしい。
それに不気味さと怖さを感じ断ったが、また誘われた。
付き合いもあったため結局断り切れずに飲みの席へ行くと、若宮は思いのほか紳士的で、一気に距離を詰めてくるようなことはなかった。
軽薄そうな第一印象に反して意外と教養があり、ウィットに富んだ会話で場を盛り上げていたのだ。
そして時籐に、しつこくしてごめん、でもどうしても話したくて、と言い、こちらのペースに合わせて何でもない世間話をした。
そのような態度に、最初の印象とだいぶ違うな、と意外に思ったのを覚えている。
そういうことが何度かあって次第に心を許し始めた時、二人で会いたいと言われた。
時籐はそれまでアルファの女性としか付き合ったことがなく、男性と関係を深めることに若干不安を感じたが、結局承諾した。友達として会ってくれればいい、と言われたからである。
そうして初めて二人で会った日、若宮は時籐をドライブに連れてゆき、最高の景色を見せ、最高のレストランで食事をさせた。
そしてその間、時籐の趣味の話を興味深そうに聞き、折に触れては褒め、また様々な話題でこちらを楽しませた。
それまでそのような経験をしたことがなかった時籐は新鮮に感じ、若宮に好感を抱いた。過去にアルファの女性と付き合った際には、男としてリードすることしか求められなかったからだ。
その真逆の立場になるというのもなかなか面白かったので、その後も請われるままに若宮とあちこち出かけた。
そうして猛烈なアプローチを受けるうちにいつの間にか相手のことが好きになっていった。当初は警戒していたが、その後の若宮の言動で真剣なのがわかったからだ。
そのため、その後関係を進めることを承諾した。
それで二人は正式に付き合うこととなり、やがて体の関係も持った。
若宮は、相手が男だろうが女だろうが抱くことを好むアルファ男性の例に漏れずバリタチだったが、手慣れていて決してこちらに痛い思いはさせなかったし上手かったので、さして問題にはならなかった。
たまには抱かせてくれてもいいのに、と思うことがないではなかったが、不満になるほどではなかった。
若宮が後ろの快楽を巧みに教え込んだからだ。
抱く時とはまた違う深くて長い快楽に体は呆気なく陥落し、若宮の指先を見ただけで腰が疼くほどになってしまった。
そうして時籐は若宮を完全に受け入れ、恋人として付き合い始めた。
若宮はロマンチストで、時籐を景勝地や高級レストランに連れて行っては愛の言葉を囁いた。また、大学の友達ですら興味を示さないような話――当時関心を持っていたバース性研究の話やオメガ差別の話など――を興味深そうに聞き、将来は副作用の少ないヒート抑制剤を開発したいという夢も応援してくれた。
このように、恋人として完璧な立ち振る舞いをした若宮にどんどん溺れていった。
これほどに愛してくれるのならば将来を考えてもいい――そう思いさえしたのだ。
だが、それは間違いだった。若宮は、時籐を愛していたのではなく、自身の欲望を満たすためのオメガの体が欲しかっただけだったのだ。
それが発覚したのは付き合い始めて八か月ほどが経った頃だった。
ある日、若宮は急に結婚して番になりたいと言い出した。将来的な話をしているのかと問うと、すぐにしたいと言う。
まだ大学生でそんなことは考えられなかった時籐は断った。番や結婚といった話はまだまだ先のことだと思っていたし、こちらがその気がないのも伝わっていると思っていた。研究者になるという夢に向けて、今は学業に専念したいと話していたからだ。
だが、若宮には伝わっていなかったようだった。その日からことあるごとにその話を持ち出されるようになったのだ。
そのたびに断るのだが、番になることのメリットだとかを滾々と説き続けられるようになり、次第に別れたいと思うようになった。
オメガにとって、番になることには大きなリスクがあるからだ。
まず、番解消されたオメガは、深刻な心理的ダメージを負う。
重度のうつ状態となって入院が必要になったり、酷い場合自ら亡くなってしまうことさえあるほど、番解消というのはオメガにとってダメージが大きい。
そして番解消はオメガの同意がなくてもアルファが一方的にできる上、法的処罰もない。
これだけでも番契約がオメガにとってどれだけリスクがあるかがわかるというものだが、その上番となったオメガはしばしば番依存症を発症してしまう。
この番依存症というのは、オメガが番のアルファに非常に大きな好意を抱いて依存的になる状態を言い、番になったオメガの過半数がなるといわれている。
これを「オメガの最高の幸せ」と言う者もいるが、時籐はそう考えていなかった。
自我を失い、アルファに依存するような生き方はしたくなかったからだ。
だから、「運命のアルファ」を見つけて番いたい巷のオメガとは違い、そもそも番願望がなかった。
番になるとすればそれは番依存症の治療薬が――そんなアルファに都合の悪い薬は開発段階にもないだろうが――出た後だ、とさえ思っていたのだ。
そのため、執拗に番になることを求める若宮とは価値観の相違を感じ、次第に別れたくなっていった。
大事件が起こったのはそんなふうにいつ別れを切り出そうかと悩んでいた大学三年の夏休みだった。
◇
その頃、ちょうどヒートの時期に入っていた時籐は一人暮らしをしているマンションの自室にいた。
三ヶ月に一度、三週間続くヒートの間、オメガは出来る限り外出しない。
ヒートに誘発されたアルファや新ベータに襲われたり、発情を強制されたと訴えられるのを防ぐためだ。
オメガのヒートはアルファや新ベータの発情を誘発することがあり、例えば意図していなくてもこういったことでヒート事故が起こった場合には不同意発情誘発罪として罪に問われる可能性がある。
そのため、ヒート中はなるべく外出しないのが普通だった。
長期休暇のタイミングで来るなんてラッキーだな、と思いながらベッドに寝転んでゲームをしていると、不意にインターフォンが鳴った。
親しい友人達にはヒートと伝えてあるので彼らが来ることはない。
宅配だろうかと思ってモニターを見ると、若宮が佇んでいた。
時籐は少し憂鬱になりながらインターフォンに出た。
「はい」
「俺だけど」
「ヒート来ちゃって今家篭ってるんですけど。メッセージしましたよね?」
「うん、見た。だから抗フェロモン剤飲んできた。一緒に食おうと思ってうな重買ってきたんだよ~、これ好きだろ?」
時籐はためらった。いかに抗フェロモン剤を飲んでいるとはいえ、ヒートの影響を受けないというのはありえないと知っていたからだ。
アルファの抗フェロモン剤というのは、オメガフェロモンの影響を受けにくくする薬である。
これは主にフェロモン過敏症患者が使う薬だが、一般の人も試験や面接等の集中したい場面では飲むことがある。
だが、あくまで通常量のフェロモンの影響を和らげる薬であり、多量のフェロモンが出るヒート時のオメガ相手にはほぼ効かない。
そして、アルファは、建物などの遮蔽物なしでヒートのオメガの半径十メートル以内に近づくと、必ずラットというアルファの発情状態になる。
だから、若宮を部屋に入れれば百パーセントラットになることはわかっていた。
そして、それは若宮も承知のはずなのに、部屋に入りたいという。つまりヒートの時籐とそういった行為をしたいということだろう。
今までにもそれをしたことは何回かあり、非常に大きな快楽を得られるのはわかっているが、意識を飛ばすほど激しい行為になってしまうことも多く、あまり好みではなかった。
しかし、若宮は気に入っているらしく、ヒートが来るとこうして誘いをかけてくる。
それを前回断ってしまったという負い目もあり、時籐は結局玄関のドアを開けた。
その途端に若宮が抱きついてきて首筋に顔をうずめる。
「んー、すげえいい匂い」
「ちょっと……」
「はい、これ『菊十』のうな重」
そう言って形ばかりは差し入れを手渡すが、すぐに食べる気はなさそうだった。まあ、終わってから食べるのだろう。いつものことだ。
時籐は玄関の鍵を閉め、若宮に連れられるようにしてベッドに行った。
自分を組み敷いたその体から発されるフェロモン臭が一気に強くなり、若宮がラットになったことがわかる。
若宮はもどかしそうにシャツを脱ぎ捨てると、顔の横に手をついて時籐に深いキスをした。
そうして時籐の部屋着を脱がし、尻肉を割り開くようにして揉む。
それにより、それまで体の奥で燻っていた熱が一気に高まるのを感じた。
「んっ……」
「はぁ……」
片手を背中に回し、もう片方の手で局部を触ってやると若宮が息をつく。
そして時籐の体を愛撫した後、サイドボードの引き出しからジェルを取って指にぬりつけ、後孔に差し入れた。
ぐちゅぐちゅと卑猥な音と共に敏感な内壁を擦られ、腰が跳ねる。
「はぁ……あぁっ……」
喘ぐと前を口に含まれ、指は更に深く入って気持ちいいしこりを擦り始めた。
「っ……!」
電流のような快楽が背筋を駆け抜け、体がビクビクと震える。普段よりもはるかに感じやすくなっていた。
若宮は飴玉のように時籐の性器を口の中で転がしながら吸い上げ、指の動きを早めた。
「ッ……、ッ……、ッ……」
隣室に聞こえないよう手で口を塞いで声を殺していると、快楽がせりあがって来てついに前が爆ぜた。
「ン―――ッ!」
時籐は背中をのけぞらせて絶頂した。そして息をつく間もなく、今度は若宮自身が入ってくる。
熱くて太い楔に大きく吐息をつき、口元にあった手を再び若宮の背中に回してキスをする。
舌を絡めてその気持ちよさを味わっていると、若宮が動き出した。
指とは比べ物にならない質量のそれに感じる部分をゴリゴリと擦られ、イったばかりだというのにまた前が張り詰めてくる。
時籐は目を瞑ってひたすら快楽を追った。そして二度目の絶頂を迎えたその直後、若宮がネックガードに手をかけた。
「え――?」
そうしてカバーを開けて普段は収納されているダイヤル錠をむき出しにし、操作し始めた。
「な、何してんすか?」
そう言って止めようとするも、若宮の手はびくともしなかった。そうしてあっけなく四桁のダイヤル錠が開き、無防備な首筋が曝される。
時籐は咄嗟に首を手で覆った。しかし、若宮はそれをいとも簡単にはがし、時籐をうつぶせにして再び挿入した。
そしてまた首を隠そうとする時籐の手を引きはがし、ベッドに縫い付けて律動を始める。
若宮は終始黙ったままだった。それに大きな恐怖を感じる。
「修さん、ダメだって。やめて。俺嫌だって言ったじゃん」
それでも若宮は何も答えない。
そうしてあまりに突然のことで体が反応できずにいるうち、うなじに鋭い痛みが走った。
噛まれたのだ――よりによってヒートの時に。
次の瞬間、体に劇的な変化が訪れた。それまで体内で荒れ狂っていた熱が穏やかになり、若宮に包まれているという安心感と喜びが湧き上がってくる。
その時、番にされ、番依存症を発症したのだと悟った。
そのことに愕然とし、抗議しようとするが、時間が経つにつれてそんなことはどうでもよくなっていった。
若宮は満足げにこちらを見下ろし、愛の言葉を囁きながら行為を続けた。
そのようにして、その日時籐は無理矢理番にされたのだった。
◇
このようにして、時籐の平穏だった日々は奪われた。
後で聞いたところによると、若宮は事前に時籐の祖母の家に行って祖母からネックガードの暗証番号を聞き出していたらしい。
彼女はその際に『誘導』という、本来オメガに使うのは違法な行動操作フェロモンを使われたといっていた。
『誘導』というのはアルファのみが使える行動操作で、フェロモンを発することにより簡単な動作の命令ができる。
これにアルファは『威圧』等で対抗できるが、ベータとオメガはそれができないので、アルファ同士の使用以外は法律で禁じられていた。
だが、使っても物証が残らないという性質上、立件しにくい犯罪でもある。
実際祖母の場合も被害届は出したが、目撃証言や証拠となるものがなかったため、結局不起訴となった。
祖母はこの件に関し、時籐とその両親に土下座せんばかりだった。
申し訳なかったと何度も何度も頭を下げ、謝罪したのだ。
だが、オメガの祖母がアルファに『誘導』を使われてはどうしようもないというのが現実なので、責める気にはなれなかった。
時籐はその後結婚して若宮家に入り、子供を二人産んだ。
順風満帆そのものだった自分の人生が、たった一度の油断でこうも崩れようとは想像すらしていなかった。もし正常な状態ならば結婚も出産も決してしなかっただろう。
だが、当時は番依存症を発症し、若宮が世界の全てだったので相手の望むことが自分の望むことだった。
このように、番契約の厄介なところは、番にされたオメガは例えそれが無理矢理であろうと、相手を大好きになってしまうことである。
例に漏れず時籐も若宮を大好きになった。そして強制的な番契約という違法行為をした相手を通報することもなく、避妊もせずに行為をすることに疑問を抱くこともなく、むしろ若宮の子を妊娠し産み育てることに喜びを感じながら結婚生活を送ったのである。
だが時折、どうしようもなく虚しくなることがあり、時籐は当初から少々うつ気味だった。
それでも、時に薬に頼りながらもまあまあ順調な夫夫生活を送っていたある日、若宮の裏切りが発覚した。
別のオメガと浮気していたのである。
まだ小さい子供二人の世話で寝不足、かつ軽いうつ状態だった時籐はこれに激怒し、この頃から関係に亀裂が入り始めた。
時籐からしてみれば強引に自分を番にした相手が浮気するなど言語道断である。こちらの意に反して番にし、結婚させた以上は父親として、夫としての責任を果たすのは当然ではないか。
それなのに若宮は育児も家事も申し訳程度にしかやらず、その上不貞行為を働いたのだ。こちらが怒るのも当然だし、若宮は誠心誠意謝罪をし、心を入れ替えて自分の責務を果たすべきだと思った。そうしてくれるものだと思い込んでいた。
だが、相手はそうは思わなかったようだった。若宮は最初に軽く謝りはしたものの、反省した様子はなく、また浮気を繰り返した。そして家庭も顧みなかった。
それに憤慨した時籐は若宮を拒否し、責め続けた。
やがて二人の間では喧嘩が絶えなくなり、愛し合うこともなくなり、徐々に若宮の心は離れていった。そうして時籐が二十四歳の時、ついに別れを切り出されたのである。
その年の冬、若宮はもう愛が冷めたから番を解消し離婚してくれ、と言った。
これには開いた口が塞がらなかった。
自分のわがままで無理矢理番にし、子供まで産ませた相手を飽きたから捨てる? 番を解消されたオメガがどうなるかを知ったうえで?
とてもではないが理解できなかった。
当然、時籐の家族も大反対し、若宮の実家にまで行って直談判したが、結局若宮は翻意せず、番を解消し離婚した。それからは地獄の日々だった。
苦労して育てていた子供二人を「精神不安定」を理由に奪われ、一方的に捨てられ、ヒートが来るたび若宮を求めて苦しむ日々。まさに生き地獄。よく発狂しなかったと思えるほどにその苦しみは大きかった。
精神科医と家族の助けがなければ自殺していただろう。
そうして少しずつ少しずつ、一年かけて何とか持ち直した。だがそのとき、手元には何一つ残っていなかった。
若宮家から手切れ金のように渡された金は治療費で消え、子供もいない。番もいない。職もない。ないない尽くしのスタートだった。
一方の若宮といえばその頃新しい玩具、すなわちオメガと再婚してよろしくやっていた。
そのことを聞いた時籐ははらわたが煮えくり返り、家に押しかけてお前がやったことをSNSで拡散して社会的に破滅させてやる、それが嫌ならいい職を斡旋しろ、と脅迫した。
若宮の親族に大手企業の役員が何人かいたからだ。そこのコネで仕事を引っ張って来い、と要求したわけである。
若宮は鼻で笑ったが、時籐がここまで回復すると思っていなかったらしい若宮の親は焦ったようすでそのように手配する、と約束した。過保護な親だから少しでも若宮の経歴に傷がつくのを恐れたのだろう。それか家の体面を保つためか。
いずれにせよ、彼らは仕事を斡旋した。それは、通常オメガが入れないような一流企業の新入社員のポストだった。ご丁寧に大学院を卒業したという偽の学歴まで用意して。
それが、今勤める会社である。コネ入社の負い目もあって必死に働いた結果、入社五年で係長まで昇進し、今に至る。
だが、このポジションが中間管理職の中間管理職とでもいうべき板挟み職で、課長を立てつつ、課長の要求を中和して部下へと伝え、部下のやる気も出させる、という非常に神経を使う仕事だった。
時籐の所属している総務課というのは基本的に事務や会社の安全保全、社内行事の企画運営といった裏方の仕事が多く、社員の適性あるなしが比較的はっきり分かれる部署でもある。
時籐のように単純作業やマルチタスクが苦にならないタイプには適性があるが、荒木のように本来は商品の企画開発がやりたかったのにこちらに回された、というような、何か目に見える成果が欲しいタイプには合わない。
だからやる気を失ってしまうのも仕方がないといえるのだが、最低限担当した仕事くらいはやってほしいというのが本音だった。
その荒木の尻ぬぐいをすべく、今日も残業していたわけである。
総務課で残っているのは時籐一人で周りにひとけはなかった。それでもオフィスの向こう側、別の部署があるところにぽつぽつと明かりがついている空間があるのが心の支えだった。
時籐は残った気力を振り絞って神速でテンキーを打ち、正しい商品データの入力をし続けた。
しょぼしょぼしてきた目がそろそろ限界に達した頃、やっと作業が終わって伸びをする。卓上の時計を見ると時刻は間もなく二十一時になろうとしていた。
「ふぅ~、終わった」
息を吐き出し、データ表をしっかりと保存するとパソコンの電源を落として帰り支度をし、立ち上がる。十八時頃に軽くおにぎりを食べただけで夕食もまだだった。
すきっ腹を抱えてオフィスを出て、エレベーターで一階まで降り、ビルを出る。時籐の勤める菓子メーカーの自社ビルは、東京都心のど真ん中とでもいうべき場所にあった。
そこから自宅までは電車一本で約三十分。自宅は最寄り駅まで徒歩五分の築浅の分譲マンションの六階にあった。
一人暮らしにしては広く、間取りも3LDKで、時籐の年齢の平均的な会社員は少し無理をしないとローンを組めない物件だ。
だが、会社の給料がかなり良いため、生活費を切り詰めることなくローンを支払えていた。
まあそのくらいしてもらわなければ割に合わないが、と会社の最寄り駅で電車を待ちながら思う。
若宮は犯罪まがい、というか犯罪行為を働いた挙句に責任も取らずに捨て、子供も時籐の未来も奪ったのだ。このくらいの補償がなければやってられなかった。
そんなことを考え若干苛々しながら到着した電車に乗る。乗った車両の二両前は黄色いペイントが施されたオメガ専用車両で、正直そちらに乗りたい。
だが、この専用車両は男女の区別がないため、オメガ男性からオメガ女性への痴漢が問題となり、以降は実質的にはオメガ女性専用車両となっていた。
それの他にベータ女性専用車両もある。
だからそのどちらにも乗れないアルファ女性、およびオメガ男性は痴漢被害に遭いがちだった。
だからもういっそ自転車通勤にしようかとか、車を買おうかとかいろいろ考えたこともあったが、ただでさえ体力がない上残業で疲れているのに自転車なんて無理だったし、車も維持費がかかるしで結局実現はしていない。
電車はまあまあ混んでいたが、幸い今日も何事もなかった。時籐はほっとしながら電車に降り、会社と自宅最寄り駅との中間あたりにあるU駅に降り立った。
行きつけのダイニングバーがある駅だ。駅前はそこそこにぎわっているが、少し歩くとすぐに住宅街になる、落ち着いた雰囲気の街だった。
時籐は駅から出て少し離れた住宅街にひっそりとあるダイニングバー『Bar & Diner Fortissimo』の暖簾をくぐった。ここは食事も提供するバーで、アルファの男女とベータ男性入店お断りの店である。
ママのさくらさんは既婚のオメガ女性で、オメガが安心してくつろげる空間にしたい、というコンセプトで始めたという。こじんまりした店だが雰囲気はよく、ほとんど常連しか来ない落ち着いた店だった。
食事は基本イタリアンだが和食や、時にインドカレーなどの変わり種も用意してくれてメニューはバラエティに富んでいる。
残業した日や飲みたい日はここに来るのが習慣になっていた。
中に入ると、カウンターで食事を出していたママが明るい声でいらっしゃい、と声をかける。時籐は挨拶を返してカウンター席へと座った。
すると他の客への配膳を終えたママが近くにやってきた。
四十を過ぎているとは思えぬきめの細かい肌にくっきりした二重の目が印象的な美人だ。
ママは美しい顔に柔らかい笑みを浮かべ、こちらを見た。
「お疲れ様~、今日も残業?」
「うん。報告書に入れる商品データが丸々去年の奴だったからそれを直してたらこんな時間に」
「あらお疲れ様ねぇ~。またあの子やらかしちゃった?」
ママにはたまに荒木のことを愚痴っていた。
「そうだよ。もう何回目だよっていう……先帰っちゃうしさあ……。まあ若い子なんてこんなもんかね?」
「ふふっ、若いって啓ちゃんも十分若いじゃない。今年三十歳よね?」
「もうオッサンだよ。若い子の話題についてけないし、何考えてるかもわかんねえし」
「それはねえ~、子供を持つとわかるようになるよ。おぼろげ~にだけどね」
そう明るく言うママに胸の奥がずきりと痛む。ママには結婚していたことも、子供がいることも言っていなかった。
もう通い始めてだいぶ経つのに言えないのは、ママが信用できないからではなく、まだ傷が癒えていないからだ。
過去のことはまだ誰にも話す気になれなかった。
「ふふっ、おぼろげ、ですか? はっきりはわかんないんだ」
「そう、こう、霧のかかった先の先~にうっすら?見える感じ。まあ結局ほぼわかんないわよね。じゃあ今日もしっかり栄養つけて帰ってもらわなきゃね~。ご注文何にする?」
「じゃチキンのトマト煮とライスで」
「はい了解~」
注文を終えると時籐はさりげなくあたりを見回した。
奥にカウンター八席、手前の壁に沿うようにして二人掛けテーブルが四つあるだけの店内は間接照明で薄明るい。電球色の照明が温かな雰囲気を醸し出していた。
ここに来ていつも感じるのは圧倒的な安心感だ。日常生活において最も脅威であるアルファが絶対に入ってこない安心感。オメガであることを揶揄し、ともすれば性のはけ口にしようとするようなベータの男が絶対にいない空間。
この安心感は会社でも大学でも若宮家でも得られなかったものだった。
世間ではこういう店を白眼視する者もいる。逆差別だと言って批判する者もいる。
だがアルファとベータ男性が排除された空間がどれだけオメガに安心感をもたらすか――それはなってみなければわからない。
特に、己の生涯を左右するような番契約を簡単に結べるアルファが近くにいるというのは、それだけでオメガに緊張感をもたらす。
ネックガードをしていようとそれは変わらない。過敏だと言う者もいるが、実際そういうものなのだ。
だから『Fortissimo』は時籐にとって数少ない本当に安らげる店だった。
何年か通ううちオメガコミュニティの友人も何人かできた。彼らの生活環境と時籐のそれは全く違い、やってくるオメガの大半は低賃金の仕事か水商売をしている、または既婚の主婦や主夫であったが、やはり社会生活を送るうえでの大変さは皆共通するものがあるようで、エリートと揶揄されながらもそれなりに溶け込んでいた。
だからこの店は時籐にとってとても大事な存在だった。
店を見回し、今日は知り合いはいないようだな、と思いながらママがすぐに出してくれたポテトサラダに口をつけた時、不意にチリンチリン、とドアベルが鳴って客の来店を告げた。
次の瞬間、するはずのない匂いがぶわっと広がって鼻腔をつく。
時籐は驚愕に目を見開いて後ろを振り返り、入り口を見た。
そこには二人連れの男がいた。
一人は明らかにオメガの小柄な青年。艶やかな茶髪と、暗くて顔はよく見えないが同い年かそれより若く見える。
ネックガードはしていなかった。
そしてもう一人――その青年より一回り大きな男。暗がりにもわかる色素の薄い髪と肌に、すらりとした四肢が印象的な男ーー暗くて顔はよく見えないが、彼は間違いなくアルファだった。ここにいてはいけないはずの。
一見してベータに見えないこともない。アルファとベータの外見上の違いはほとんどないので、見た目でどちらかわかることは少ないのだ。
だから見分けるときに使うのはその体臭――俗にいうフェロモンである。
そのフェロモンが明らかにアルファだった。
ベータを除き全ての人が固有のフェロモンを発するが、その香りには第二性による違いがある。
オメガからすると、アルファは甘いフローラル、ウッド、あるいはムスク系の強い匂い、新ベータは穏やかなグリーン系の匂い、そしてオメガは甘酸っぱいシトラス系の匂いがする。そして、普通のベータからは全く匂いがしない。
アルファやベータ側からするとオメガが甘い匂いだったりとまた感じ方が違うらしいが、とにかくこのように外見というよりは体臭で相手の属性を見分けるのが一般的だった。
そして、今入ってきた男からは甘い金木犀のような匂いがする。店の端と端にいるのにわかるぐらいの強い匂いだ。
どこかで嗅いだような気がしつつ、あの男が疑いようもなくアルファであることを確信する。
こりゃ騒ぎになるな、と傍観しているとその男は小柄な青年を伴ってカウンター席の端の空いている席へ座った。
時籐の席からはオメガの青年を挟んで向こう側に座っているので顔は見えないが、さぞかしふてぶてしい顔をしているに違いない。
さあ、ママが動くぞ……そう思って見ていると、ママは二人に近づいて言った。
「ちぃちゃんお疲れ~」
「お疲れ様です。今日は無理言ってすみません」
どうやらちぃちゃんと呼ばれた小柄な青年の方はここの常連らしい。顔を見たことがある気もしたが、話したことはなかった。
ということは隣の男は彼の番――? いやいや、それでもダメなはずだ。
番になると番のアルファにしか興味がなくなるオメガと違い、アルファはたとえオメガと番になったとしても他の人間とセックスできる。
だから、アルファはたとえ常連の番であっても入店禁止と、前にママが言っていたはずだ。
だからすぐさま入店拒否するかと思いきや、ママは普通に話して注文をとっている。そして、周りのオメガも誰一人として彼に注意を向けていない。
「いったい……?」
これはいったいどうしたことか。まさか皆気づいていないのか? あれほど強い匂いがしたのに?
時籐は混乱しながら二人と話し終えたママを小声で呼んだ。
「ママ、あの人……」
「うん、イケメンだよねえ」
「じゃなくて、アルファじゃない?」
「えっ?」
「スゲー匂いしたじゃん入ってきたとき。気づかなかった?」
するとママは時籐を窺うように見た。
「全然しなかったよ。でもあの子がアルファっていうのは本当。……なんでわかるの?」
「いやだから匂い……。つーか、いいの?」
「うーんあの子はねえ、ちょっと特殊だから。ちぃちゃんに事前に連絡貰って、どうしてもここで話したかったみたいだったからオッケーしたんだけど……まさか気づかれちゃうなんてね。でもあの子強めの抑制剤も飲んできたみたいだし、周りも誰も気づいてないよね? 何で啓ちゃんだけわかったのかしら……」
抑制剤というのはフェロモン抑制剤のことで、オメガやアルファが服用するとフェロモンの量が抑えられる。
ヒートのときにオメガが使うものと思われがちだが、実際には公共の場でのマナーとしてアルファが服用する場合もあった。
フェロモンは、量は少ないものの発情期以外でも常時出ていて、その量には個人差があるが、量が生まれつき多い人もいる。
そういうタイプは、アルファの場合には周りが体調不良になったり、オメガの場合には周りを誘惑してしまったりするので、抑制剤を常用するのがマナーとされていた。
だからフェロモン抑制剤にはアルファ用とオメガ用があり、そのアルファ用を飲んできたということだろう。
だがそれにしても納得がいかなかった。
「特殊って? 特殊でもアルファはアルファじゃねえの?」
「うーんとねえ、あんまり詳しいことは言えないんだけど、とにかく私たちにとって危険じゃないというか……」
「だいたいあのアルファもアルファだろ。他の店行きゃいいのにこんなとこにわざわざ来てさ。図々しすぎんだろ」
喋っているうちにイライラが増してくる。アルファに対しては嫌悪感しかない。奴らは有害で危険で、いつもオメガを傷つける。
自分の特権を振りかざしてオメガをいいようにして、最低最悪の人種だ。
だから、仕事は仕方ないにしても私生活では絶対にかかわりたくなかった。
だからこの店に来ているのに、この安全な場所さえ脅かされる。
いったい何の権利があってそれほどまでにオメガを虐げるのか。アルファならばどんな店にも行けるのに、なぜわざわざアルファ入店禁止の店に来て嫌がらせするのか。
どうにもならない怒りが膨れ上がり、時籐は衝動的に席を立った。
「あっ、待って啓ちゃん」
ママの制止を無視し、カウンターの隅で何事かを話し込む二人の前に立ち、そこそこ大きい声で言い放つ。
「あんた、アルファだよな?」
その一言で店内の視線が一斉にこちらを向く。
一番端に座ったジャケット姿の男は、驚いたように顔を上げた。目と目が合う。
その顔を見た瞬間、時籐も驚愕した。
そしてフェロモンの匂いに覚えがあったことに納得する。
「……更科?」
「時籐?」
オメガフレンドリーな店にズカズカ入ってきた不届きなアルファは、中学時代の同級生だった。
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キノア9g
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「君に義務は求めない」=ニート生活推奨!? ポジティブ転生者と、言葉足らずで愛が重い氷の伯爵様の、全力すれ違い新婚ラブコメディ!
あらすじ
「君に求める義務はない。屋敷で自由に過ごしていい」
貧乏男爵家の次男・ルシアン(前世は男子高校生)は、政略結婚した若き天才当主・オルドリンからそう告げられた。
冷徹で無表情な旦那様の言葉を、「俺に興味がないんだな! ラッキー、衣食住保証付きのニート生活だ!」とポジティブに解釈したルシアン。
彼はこっそり屋敷を抜け出し、偽名を使って憧れの冒険者ライフを満喫し始める。
「旦那様は俺に無関心」
そう信じて、半年間ものんきに遊び回っていたルシアンだったが、ある日クエスト中に怪我をしてしまう。
バレたら怒られるかな……とビクビクしていた彼の元に現れたのは、顔面蒼白で息を切らした旦那様で――!?
「君が怪我をしたと聞いて、気が狂いそうだった……!」
怒鳴られるかと思いきや、折れるほど強く抱きしめられて困惑。
えっ、放置してたんじゃなかったの? なんでそんなに必死なの?
実は旦那様は冷徹なのではなく、ルシアンが好きすぎて「嫌われないように」と身を引いていただけの、超・奥手な心配性スパダリだった!
「君を守れるなら、森ごと消し飛ばすが?」
「過保護すぎて冒険になりません!!」
Fランク冒険者ののんきな妻(夫)×国宝級魔法使いの激重旦那様。
すれ違っていた二人が、甘々な「週末冒険者夫婦」になるまでの、勘違いと溺愛のハッピーエンドBL。
【完結済】あの日、王子の隣を去った俺は、いまもあなたを想っている
キノア9g
BL
かつて、誰よりも大切だった人と別れた――それが、すべての始まりだった。
今はただ、冒険者として任務をこなす日々。けれどある日、思いがけず「彼」と再び顔を合わせることになる。
魔法と剣が支配するリオセルト大陸。
平和を取り戻しつつあるこの世界で、心に火種を抱えたふたりが、交差する。
過去を捨てたはずの男と、捨てきれなかった男。
すれ違った時間の中に、まだ消えていない想いがある。
――これは、「終わったはずの恋」に、もう一度立ち向かう物語。
切なくも温かい、“再会”から始まるファンタジーBL。
全8話
お題『復縁/元恋人と3年後に再会/主人公は冒険者/身を引いた形』設定担当AI /c
【完結】この契約に愛なんてないはずだった
なの
BL
劣勢オメガの翔太は、入院中の母を支えるため、昼夜問わず働き詰めの生活を送っていた。
そんなある日、母親の入院費用が払えず、困っていた翔太を救ったのは、冷静沈着で感情を見せない、大企業副社長・鷹城怜司……優勢アルファだった。
数日後、怜司は翔太に「1年間、仮の番になってほしい」と持ちかける。
身体の関係はなし、報酬あり。感情も、未来もいらない。ただの契約。
生活のために翔太はその条件を受け入れるが、理性的で無表情なはずの怜司が、ふとした瞬間に見せる優しさに、次第に心が揺らいでいく。
これはただの契約のはずだった。
愛なんて、最初からあるわけがなかった。
けれど……二人の距離が近づくたびに、仮であるはずの関係は、静かに熱を帯びていく。
ツンデレなオメガと、理性を装うアルファ。
これは、仮のはずだった番契約から始まる、運命以上の恋の物語。
アプリで都合のいい男になろうとした結果、彼氏がバグりました
あと
BL
「目指せ!都合のいい男!」
穏やか完璧モテ男(理性で執着を押さえつけてる)×親しみやすい人たらし可愛い系イケメン
攻めの両親からの別れろと圧力をかけられた受け。関係は秘密なので、友達に相談もできない。悩んでいる中、どうしても別れたくないため、愛人として、「都合のいい男」になることを決意。人生相談アプリを手に入れ、努力することにする。しかし、攻めに約束を破ったと言われ……?
攻め:深海霧矢
受け:清水奏
前にアンケート取ったら、すれ違い・勘違いものが1位だったのでそれ系です。
ハピエンです。
ひよったら消します。
誤字脱字はサイレント修正します。
また、内容もサイレント修正する時もあります。
定期的にタグも整理します。
批判・中傷コメントはお控えください。
見つけ次第削除いたします。
自己判断で消しますので、悪しからず。
【完結】その少年は硝子の魔術士
鏑木 うりこ
BL
神の家でステンドグラスを作っていた俺は地上に落とされた。俺の出来る事は硝子細工だけなのに。
硝子じゃお腹も膨れない!硝子じゃ魔物は倒せない!どうする、俺?!
設定はふんわりしております。
少し痛々しい。
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