おぼろげひとり

柳谷あお

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明け方の逃避行

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明け方の薄明かりが東の空に淡く広がり始めた頃。
満は静かに家のドアを開けた。
夏の夜の湿った空気が肌に心地よくまとわりつく。まだ冷たいアスファルトの感触が肌に伝わる中、満はスマホだけを手に持ち、無言で歩き始めた。

受験勉強の重圧が彼の心と体を蝕んでいた。毎日同じ繰り返しの中で、彼は一瞬の解放を求めていた。部屋にこもり、冷房で冷やされた人工的な安息の中、参考書とにらめっこする日々。窓の外の世界はどれだけ変わっているのだろうかと、彼は思いを馳せた。
夜中に何度も目を覚まし、眠れないまま勉強机に向かうこともあった。過去問の山、参考書のページ。どれだけ勉強しても、焦りと不安が消えることはなかった。「このままでは合格できないのではないか」という恐怖が、想像してはいけない来年の落胆の日が、彼の心を締めつけていた。遊ぶことも、家族と笑い合うことも、全てが遠い過去のように感じられた。

「満、成績が伸びないと厳しいんじゃないの?」
母親のその言葉が頭の中で何度も反芻される。成績表を見つめる父親の厳しい目線、模擬テストのE評価の文字。彼らの不安が入り混じった表情が、満の胸に重くのしかかっていた。親の期待に応えたい気持ちと、自分なりにもがいても這い上がれぬ終わりのない沼のような努力のその狭間で彼は喘いでいた。

それだけではなかった。友達からの誘いを断るたびに感じる孤独感も、彼を苦しめていた。世間で流れる旅行のCM、夏祭り、映画館での新作映画。全て投げ出して、諦めて、甘い誘いに乗ってしまいたいという気持ちと、勉強しなければならないというプレッシャーとの間で、彼の心は引き裂かれそうになっていた。

夏に、サッカー部を引退した。手放した今、一年生の頃からずっとプレイしてきた仲間がひどく恋しかった。あの時の歓声、汗にまみれたユニフォーム、勝利の喜びと敗北の悔しさ。全てが彼の心に深く刻まれていた。残した後輩たちの成長を見守ることができない寂しさも、彼の胸を締めつけた。後輩たちがこれからの試合でどれだけ頑張るかを考えると、自分がその場にいられない悔しさが募るばかりだった。
頑張れと送ったメッセージは、何よりも、自分にズシンと重くのしかかった。
頑張らなければ行けないのは自分の方だろう、と、嗚咽を漏らしかけた。

通りにはまだ人影はなく、静寂が支配していた。鳥の囀りが微かに聞こえ、遠くで車のエンジン音が響く。満はその静けさの中を歩きながら、朧気に覚醒した意識のまま歩いた。夏の匂い、湿った草の香り、そして徐々に強まる朝の光。静けさの中でも命が確かに息をしていた。

公園に差し掛かると、満は一つのベンチに腰を下ろした。ここで、彼は少しの間、何も考えずに過ごしたかった。木々の葉が風に揺れ、光がその間を通り抜ける様子を見つめながら、彼は深呼吸をした。換気を済ませた肺の中は、湿気を帯びた陰鬱な気持ちを、僅かに和らげた。

目をやると、ベンチの脇に一つのサッカーボールが転がっているのが見えた。近所の子供だろうか、誰かが忘れていったのだろう。満は立ち上がり、そのボールを手に取った。手にした瞬間、過去の記憶が鮮明に蘇った。
学校の帰りに、試合前でもないのにこの公園でボールを蹴りあったチームメイトたち。
彼らは今も眠りの中だろうかと、一人思いを馳せる。
ボールを足元に転がし、軽くキックをしてみた。ボールが地面を滑る感触が、彼にとって何よりも懐かしく感じられた。ボールが跳ねる音がする度に、彼は段々と無邪気になった。楽しかった。笑い合う友達はここにはいないが、自分の中には楽しかった思い出が強く残っていた。
しばらくの間、彼はボールを蹴りながら公園を歩いた。周りの声が何一つない今、プレッシャーから解放されるひとときが、本来の彼を取り戻させつつあった。
その後、彼はボールを元の場所に戻し、再びベンチに腰掛けた。朝の光が徐々に強まり、東の空が美しいオレンジ色に染まっていく。満はスマホを取り出し、その壮大な朝日の光景を一枚の写真に収めた。シャッター音が静寂を破り、何もいない明け方の空を切りとった。

写真を撮り終えると、またゆっくりと家に向かって歩き始めた。今度はたっぷりと時間をかけて歩いた。通りの車の姿が増えて、庭の花に水やりをする老婆に会釈した。
家に帰れば、またうんざりするような繰り返しの日々が始まる。しかし、この一瞬の解放が彼に新たな力を与えてくれた。
蝉がじわりじわりとなく。
産声に背を向けて、彼は家のドアを静かに閉じた。
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