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じぇねしす!
第13話 聖書の授業(右の頬をぶたれたら)
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聖ジェルジオ女学園には、一般教養の授業の他に『聖書』という授業がある。
文字通り聖書の勉強をする授業だ。さすがミッションスクール。
シスター姿の関先生が授業を受け持つ。
「マタイによる福音書第五章第三十九節〝しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もしだれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をむけてやりなさい〟。
右の頬をぶたれたら左の頬を出しなさいということです。
これを疑問に思ったことはないでしょうか?
どうして最初にぶたれるのが右の頬なのか?」
右の頬をぶたれるということは、ぶつ人は左手でぶったということだな。
「利き腕が右手の人が多いので、利き腕でぶつならぶたれるのは左頬のはずです。
では左手でぶったのでしょうか?
違います。左右の手の役割は決まっていて、ぶつときには左手は使いません。
右手を使っています。右手の甲でぶったのです」
関先生は漫才のツッコミのような仕草をした。
「当時、目下の人を侮辱するときには手の甲で頬をぶつようにしていました。
ぶつ方の立場としては身分の低い人をぶつのだから右手の甲でぶちますね。
ぶたれた側としては、何も抗議しなければ更に右手の甲でぶたれ続けるかもしれません。
でも、ここでぶってくれと言わんばかりに左頬を出したらどうなるでしょう?」
左手は使ってはいけない。手の甲でぶたなければいけない。
つまり、ぶつことができないのか!
「もし、仮に右の手のひらで左頬をぶった場合、それは相手を対等な立場の人間と認めたことになります。
格下と思っていた人間を対等な立場と認めるわけにはいけませんね。
だから、もうぶつことはできなくなるのです」
そんな意味があったのか!
「ここでイエス様が言っているのは非暴力、無抵抗で暴力に対してなすがままにするということではなく、非暴力で暴力に抵抗するということです」
なるほど、右の頬をぶたれたら、左の頬もぶってもらうマゾッ毛たっぷりな人の話じゃなかったんだ。
「マタイによる福音書第五章第四十節〝あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい〟とあります。
当時の人は上着に包まって寝ていました。上着は生活必需品だったのです。
出エジプト記二十二章二十六節〝もし隣人の上着を質に取るならば、日の入るまでにそれを返さなければならない〟とあります。
つまり、律法によって上着を取ることは、ほぼ認められていなかったのです。
上着を出すということは、相手が取れないものを出す抗議の行動なのです」
取れるもんなら取ってみろ。へへーん、できないだろ。ザマーミロ。っていうことかな?
「他にも、姦淫の罰で石打にされようとしている女性がいました。
何か口実を見つけてイエス様を訴えようとしている律法学者やパリサイ派の人が、姦淫の罪を犯した女性を連れてきて石打ちで殺そうとしてイエス様にどう思うか聞きました。
女性を救おうとして石打ちを止めたら律法に逆らうことになって捕らえられます。
逆に律法の通りにすると女性を見殺しにすることになります」
どっちを選択しても積んだ状態だ。
「イエス様は言われました。
ヨハネによる福音書第八章第七節〝彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして彼らに言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」〟
人間はすべて罪を背負って生きています。
学のある人間はそれを分かっていますから石を投げることはできません。
律法の否定もしたわけでもなく、女性を救うことができました。
このように、相手に言われるがまま、なすがままにするのではなく、非暴力で相手の動きを封じること。
これが我々に求められている資質なのです。
アーメン」
僕はキリスト教の教えは寛容の精神で、何でもかんでも許すのかと思っていたけど、勘違いだったらしい。
とんちで『できるもんならやってみろ』と能動的にプレッシャーをかけてくるようなものだったんだ。
まるで、一休さんが将軍様に屏風のトラを退治してくれと言われて、『できません』と言うのではなく、『退治するので屏風から出してください』と言った話みたいだ。
僕の中のクリスチャン像が変わった瞬間だった。
文字通り聖書の勉強をする授業だ。さすがミッションスクール。
シスター姿の関先生が授業を受け持つ。
「マタイによる福音書第五章第三十九節〝しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もしだれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をむけてやりなさい〟。
右の頬をぶたれたら左の頬を出しなさいということです。
これを疑問に思ったことはないでしょうか?
どうして最初にぶたれるのが右の頬なのか?」
右の頬をぶたれるということは、ぶつ人は左手でぶったということだな。
「利き腕が右手の人が多いので、利き腕でぶつならぶたれるのは左頬のはずです。
では左手でぶったのでしょうか?
違います。左右の手の役割は決まっていて、ぶつときには左手は使いません。
右手を使っています。右手の甲でぶったのです」
関先生は漫才のツッコミのような仕草をした。
「当時、目下の人を侮辱するときには手の甲で頬をぶつようにしていました。
ぶつ方の立場としては身分の低い人をぶつのだから右手の甲でぶちますね。
ぶたれた側としては、何も抗議しなければ更に右手の甲でぶたれ続けるかもしれません。
でも、ここでぶってくれと言わんばかりに左頬を出したらどうなるでしょう?」
左手は使ってはいけない。手の甲でぶたなければいけない。
つまり、ぶつことができないのか!
「もし、仮に右の手のひらで左頬をぶった場合、それは相手を対等な立場の人間と認めたことになります。
格下と思っていた人間を対等な立場と認めるわけにはいけませんね。
だから、もうぶつことはできなくなるのです」
そんな意味があったのか!
「ここでイエス様が言っているのは非暴力、無抵抗で暴力に対してなすがままにするということではなく、非暴力で暴力に抵抗するということです」
なるほど、右の頬をぶたれたら、左の頬もぶってもらうマゾッ毛たっぷりな人の話じゃなかったんだ。
「マタイによる福音書第五章第四十節〝あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい〟とあります。
当時の人は上着に包まって寝ていました。上着は生活必需品だったのです。
出エジプト記二十二章二十六節〝もし隣人の上着を質に取るならば、日の入るまでにそれを返さなければならない〟とあります。
つまり、律法によって上着を取ることは、ほぼ認められていなかったのです。
上着を出すということは、相手が取れないものを出す抗議の行動なのです」
取れるもんなら取ってみろ。へへーん、できないだろ。ザマーミロ。っていうことかな?
「他にも、姦淫の罰で石打にされようとしている女性がいました。
何か口実を見つけてイエス様を訴えようとしている律法学者やパリサイ派の人が、姦淫の罪を犯した女性を連れてきて石打ちで殺そうとしてイエス様にどう思うか聞きました。
女性を救おうとして石打ちを止めたら律法に逆らうことになって捕らえられます。
逆に律法の通りにすると女性を見殺しにすることになります」
どっちを選択しても積んだ状態だ。
「イエス様は言われました。
ヨハネによる福音書第八章第七節〝彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして彼らに言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」〟
人間はすべて罪を背負って生きています。
学のある人間はそれを分かっていますから石を投げることはできません。
律法の否定もしたわけでもなく、女性を救うことができました。
このように、相手に言われるがまま、なすがままにするのではなく、非暴力で相手の動きを封じること。
これが我々に求められている資質なのです。
アーメン」
僕はキリスト教の教えは寛容の精神で、何でもかんでも許すのかと思っていたけど、勘違いだったらしい。
とんちで『できるもんならやってみろ』と能動的にプレッシャーをかけてくるようなものだったんだ。
まるで、一休さんが将軍様に屏風のトラを退治してくれと言われて、『できません』と言うのではなく、『退治するので屏風から出してください』と言った話みたいだ。
僕の中のクリスチャン像が変わった瞬間だった。
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