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第二章 選別の船
誰か
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オオミ
アオチさんに呼ばれて梯子に乗った。
まずい、死ぬかも。本気でそう思った。登ってみた梯子は思っていたよりうんと長かった。海に落ちたらアオチさんも飛び込んでくれるだろうか。きっと助けてくれる。そう思ってそろり、そろりと進んだ。
「お前、怖いなら早く来いよ。そんなノロノロしているから揺れるんだ」
アオチさんの叫ぶ声が別の世界から響いているみたいに遠く感じる。
そっちを見たいのに足元ばかり見てしまう。下に覗く波が、僕が落ちるのを待っている舌のように動いている。震えが止まらない。
「なあ、俺を助けてくれよ」
今度のアオチさんの声ははっきりと耳に届いた。頑張れなんてくだらない言葉より俄然やる気が出る。
一気に隣の船へ降り立った。最後はアオチさんがよろける身体を支えてくれた。
「アオチさん、無事でしたか」
「こっちの台詞だよ。心臓に悪いぞ、お前の綱渡りみたいなやつ」
アオチさんの直ぐ後ろでは回収人さんがにやにや笑っている。この人も僕が海に落ちても必ず助けてくれそうな安心感がある。
問題はその隣の軽そうな男だ。
「よろしくね、僕は――」
そいつが手を伸ばして来たので思わず後ずさったのと、アオチさんが僕の前に立ったのと、回収人さんがそいつの腕を掴んだのが同時だった。
「俺の客に勝手に触るな。この眼鏡は俺に嫌がらせしかしないけど、一応客には違いない。前は死にかけを見捨てられるし、今度は勝手に梯子をかけるし……ろくな事をしないけどな」
「梯子は偶然です」
回収人さんは水に流すということが出来ないらしい。
でも今気になるのは――
「あなた、何であの人たちを殺したんですか」
「へー凄い勘が良いんだ。僕を助けてくれた彼は正義感が強いし、これは迷うね」
さっき向こうの船から見えたんだ。甲板に転がる三つの死体が起き上がって、頭を下に向けたままこのヘラヘラした男を指さしているのを。久しぶりの異様な光景に血の気が引いた。
僕はこんな経験を、この回収人さんに会ってから何度もしている。死人の彼らが怖いんじゃない。指をさされ、糾弾されているのをチラリと確認したうえで、にやりと笑ったこいつが怖かったんだ。
「質問の答えになってないです」
「あーそうだね。こっちの正義感の強い彼は聞いていたと思うけど、僕は判断が早いんだ。君たちの回収人はどこまで話したの? 僕らは全員を目的地まで連れて行くことが出来ない。だからいずれ人数を減らすなら情が湧かないうちの方が良いんだよ」
「だったら……それなら最初から乗せなきゃいいじゃないですか。目的地まで全員で行けないって、それは殺す理由になるんですか」
明るく話す男の目だけは回収人さんと同じ灰色なのに、排気ガスで汚れた雪のように忌々しいものに思えた。それでも確かめなければ。この船で起こったことは僕らの船でも起こり得る。
「後で俺から説明する。今はひとまず他に乗っているやつがいないか、二人で探して来てくれないか」
回収人さんがそう言うので、仕方なく従うことにした。
「わかりました。戻ってきたら、僕ら全員に本当のことを教えてください」
「ああ、そうするよ。あっちの背の高い兄ちゃんにもちゃんと話す。この船の構造は俺の船とほとんど同じだ。内装はかなり違うがな。誰かいたら、ここに連れて来てくれ」
大きく頷いて、僕はアオチさんとブリッジへ続く扉に向かった。
その時、甲板の上で死体に囲まれ、刃物を握ったまま波を見続けている女の人を見た。肩の辺りで揺れる茶色っぽいくせ毛がきれいだ。
両膝に埋めている顔は良くわからないけれど、物凄く白い。色白なのか、血の気が引いてそう見えるのか微妙なところだ。
そして左手に握りしめている刃物もさっきよりは良く見えた。
どこからでも切れる刃――そう見えた。色はアオチさんと僕が渡ってきた梯子にそっくりな、嘘みたいに艶やかな銀色だ。やっぱり柄の部分が無いような気がする。手に傷が付かないのはどういう訳なんだろう。
「オオミ、早く」
「はい、すみません。あの波を見ている女の人は大丈夫でしょうか」
アオチさんの後ろにぴったり付きながら尋ねた。
「俺たちの回収人がいるから大丈夫だろ。さっさと船内を周って、早く戻って来よう」
「良かった、誰もいなさそうだな」
楽観的なアオチさんを戒めるのが僕の務めだ。
「油断しないでください、ほら、アオチさんの後ろにいます」
顔だけ後ろを向いたアオチさんが驚き過ぎて声を出す隙もなく、僕を押して部屋の外に出ようとした。
僕たちの船とは全然違う、無機質な銀のグラデーションだけで作られているような船内をくまなく見て回り、最後に残った医務室に入った直後のことだ。
途中、二人ともビクついていたせいかほとんど会話もなく、最後の部屋になってやっとアオチさんが表情を緩めて僕に言ったのが、さっきの気も緩んだ言葉だ。
医務室といっても、それらしきものは解剖する死体を置くような、見るからに冷たそうなベッド二つだけだ。ベッドとわかったのも真っ白な枕と掛け布団ぽいものが置いてあったからで、そうでなければ鉄の荷台にしか見えない。
他にあるものは、長居をさせないために作ったのかと思うほど、硬質で座り心地の悪そうな椅子が四個、同じ材質の机が一つだけだ。
全く装飾のないキャビネットもあるにはあるが、中に人を癒すための薬が入っているのは想像できない。毒薬が並んでいる様子しか思い浮かばないのは、さっき話したこっちの船の回収人の顔がちらつくからだろうか。
ふと船は、それを動かす回収人を現しているのかも知れないと思った。僕たちの船の、木をベースにした温かくてクラシカルな内装はきっと回収人さんの個性そのものだ。ここはあの薄ら笑いを浮かべた殺人者の心の中――。
「君、大丈夫?」
そして問題は今、その無機質なキャビネットの裏に隠れている人みたいな何かだ。アオチさんが驚いたのもわかる。僕も実際これが人かどうかも怪しいまま声をかけていた。
赤黒い、大きな動く物体であることは確かだ。正体不明だし、かなり禍々しい見た目だが、不思議と怖くなかった。
「僕たちは味方だよ」
その何かが酷く怯えているような気がして優しく声をかけ、半歩ずつ、ゆっくり近づいた。
「驚かせてごめんな、出て来いよ」
気を取り直したアオチさんも言うが、この赤黒いのは別にびっくりしたりしていない。驚いていたのはアオチさんだけだ。
もぞもぞしていた塊が少しずつその姿をキャビネットの裏から現した。それを確認するなり、アオチさんが駆け寄って膝をついた。
さっき慌てて部屋を出ようとした人とは思えない。
「おい、これ……お前たちの回収人にやられたのか? 死ぬなよ。どうしたら良いかわからないけど、助けてやる」
「うう……」
薄々気がついていたけれど、こいつは喋れない。元々話せないのか、ローヌという男にやられたのかはわからない。
顔も身体も原型を留めていない。
強烈な炎で焼かれたのか、何か劇薬を浴びせられたのか、とにかくアオチさんが助けてやれるような状態ではないのは確かだ。
「おぶってやるからもう少しこっちに来いよ――うわああっ」
しゃがんでいた赤黒いやつが急に立ち上がった。自分で来いと言ったくせにアオチさんが大きな声を上げて、後ずさった。
そいつが思いのほか大きかったからだ。どうやってキャビネットの裏の隙間に隠れていられたのか不思議だ。
「ううん……」
そしてそのままアオチさんに突進した。一瞬襲いかかったのかと思ったが、直ぐに抱きついたのだとわかった。
アオチさんがよろけながらも抱き止め、物凄く微妙な顔をしている。モテるとは思っていたけどここまでとは……
赤黒いのはアオチさんの顔にすりすりを止めない。
「おい、落ち着け。重症なのにずいぶん元気だな」
「うるうぅーうるぅう」
「何だ、それ?」
アオチさんの言葉に反応して、そいつは「うるぅうるぅ」と声を上げ続けている。喜びの表現なのだろうか。
そもそも性別もわからないくらい皮膚がずり落ちてしまっているのに痛くないのか? 抱きつかれているアオチさんは、こんなことは言いたくないが気持ち悪くないのか。
「うる――」
こいつ、僕の考えが読めるんだろか。こっちに顔を向けて非難するような声を出した。
――鼻がない。正面から良く見ると、愛嬌のある目とぽかんと開いた口は目立つが、鼻も耳もない。いや、良く見ると鼻と耳のあるはずの場所に小さな穴ある。
「ごめん、ウルウ。アオチさんが好きなんだね」
うんうんとそいつが頷く。何だか可愛くなってきた。
「オオミ、こいつの名前がわかるのか。ウルウが名前なんだな」
「……たぶん、そうだと思います」
アオチさんはどうしてこう単純なんだろう。続けて疑問を口にしてみる。
「ウルウは皮膚が無いように見えますが、違うんですかね? 痛くはなさそうだし」
「そうだな、ウルウ触っていいか?」
そう言ってアオチさんが、タンポポの綿毛に触れるくらい軽い指の動きでウルウに触れた。さっきは一方的に強く抱きつかれていたので、感触がわからなかったようだ。
「うるうううううううう」
え? ウルウが目を潤ませ喜んでいる。皮膚があったら顔が真っ赤じゃないだろか。
「意外とツルツルしていて気持ちいいぞ。ウルウは最初からこういう皮膚なのかもな」
「う――」
アオチさんに褒められて至福の声だ。
「裸ん坊じゃかわいそうですね。何か着せてあげられる物は……あ、入院着みたいのがあります」
壁に供え付けの小さな棚に真っ白な入院着のような物が数枚、几帳面に畳まれて入っていた。その中の一番サイズが大きそうなやつを広げ、ウルウに見せる。
「ウルウ、これ着てみせてくれるかい? 君にきっと似合うよ」
出来るだけ優しく声をかけた。
「うるるるぅ」
こいつもアオチさん並みに単純な性格で良かった。嬉しそうに寄って来て「着せて、着せて」とせがんでいるみたいだ。
服に慣れていないのか、いたってシンプルなロングTシャツみたいな形状の物を着せるのに物凄い手間取ったが、何とか整った。
「う――」
アオチさんに自慢げに手を広げて見せている。
「おお、良く似合ってるぞ」
満面の笑顔でアオチさんが言うと、ウルウは踵を上下させ飛び上がる動作で嬉しさを表現する。僕たちはこの短時間ですっかり仲良くなった。
「ウルウ、ここは一人でいると危ない。俺たちと一緒に来てくれるか」
アオチさんの言葉に首をブンっと一回縦にふると、ウルウは僕たち二人に手を伸ばした。手を繋いで、と言いたいのか。
ゆっくり手を取ると、とても温かった。この呆れるほど冷たい船はウルウの温もりを失ったら氷の船に変ってしまうかも知れない、そう思った。
ウルウを真ん中に三人で――さすがにずっと手を繋いではいられなかったけれど、ブリッジに戻った。
ドアを開けて、まず目が合ったのは回収人さんだった。
僕の後ろのウルウを見ても驚く様子もなく、笑った。
「なんだ、こんなやつがいたのか」
「うるう――」
ウルウもちゃんと挨拶をする。良かった、思った通り回収人さんはこいつのことも守ってくれるに違いない。
「船の中にはこいつだけだった。あいつはどうした? ローヌと名乗ってた人殺しは」
「ちょっと言い争いになってな。うるさいから海に捨てた。安心しろ、鎖でつないでるから、後で引き上げてやる」
ローヌさんのことは全然心配ではなかったが社交辞令で聞いた。
「そんなことをして死んじゃったりしないんですか」
本当は良くやってくれた、とすら思っていたけど。
「知らねえよ、大丈夫だろ。お前、優しいな。あんなやつのこと心配してるのか」
「いえ、実はどうでも良いです」
回収人さんが笑う。この人の目尻のシワが好きだと初めて気づいた。
「眼鏡、お前の正直な所、嫌いじゃないぞ」
褒められると素直に嬉しい。子どもの頃、倒れていたこの人に勇気を持って話しかければ良かった。そうしたら何年もこの人と心を通わせて過ごせたかも知れないのに。
アオチさんの声が殺風景を絵に描いたブリッジに響いた。
「それで、どうする? 俺は早くお前の船に戻りたい。オオミと……このウルウも連れて。答えてくれるかわからないけど、甲板にいる女にも声をかけてみよう」
そうだ、こんな冷たい場所、回収人さんには似合わない。もちろん僕たちにも。早くあの温かくて柔らかくて、ちゃんと息をしている船に戻りたい。
「ああ、お前たちが帰って来たら戻ろうと思ってた。でも、この……ウルウとあの女……どっちが今強いのか……」
後半の方は独り言みたいだった。どうしよう、一人しか連れて行けないのかな。だとしたら、僕はウルウを連れて行きたい。あの人形のように生気のない刃物女より愛情が湧いているから。
「安心しろ。お前ら全員連れて行く。ちなみにローヌをまだを引き上げるつもりはないから妙な正義感を出すなよ」
そう言ってチラリとアオチさんを見る。
「わかってるよ――うわああああ」
ブリッジから外へ出るドアの前に、血まみれの刃物女が立っていた。
初めて顔全体を見た。美人だ。大きくて強い目が印象的で、ハーフかな? と思うようなはっきりした顔立ちをしている。
――でも怖い。乾燥した血が柔らかそうなくせ毛に絡まりついていた。刃物が見当たらないけど、海にでも捨てたんだろうか。
回収人はむしろアオチさんの叫び声に驚いたようだ。僕が代わりに謝る。
「すみません。アオチさんは大袈裟なんです。これでみんな揃いましたね」
アオチさんに呼ばれて梯子に乗った。
まずい、死ぬかも。本気でそう思った。登ってみた梯子は思っていたよりうんと長かった。海に落ちたらアオチさんも飛び込んでくれるだろうか。きっと助けてくれる。そう思ってそろり、そろりと進んだ。
「お前、怖いなら早く来いよ。そんなノロノロしているから揺れるんだ」
アオチさんの叫ぶ声が別の世界から響いているみたいに遠く感じる。
そっちを見たいのに足元ばかり見てしまう。下に覗く波が、僕が落ちるのを待っている舌のように動いている。震えが止まらない。
「なあ、俺を助けてくれよ」
今度のアオチさんの声ははっきりと耳に届いた。頑張れなんてくだらない言葉より俄然やる気が出る。
一気に隣の船へ降り立った。最後はアオチさんがよろける身体を支えてくれた。
「アオチさん、無事でしたか」
「こっちの台詞だよ。心臓に悪いぞ、お前の綱渡りみたいなやつ」
アオチさんの直ぐ後ろでは回収人さんがにやにや笑っている。この人も僕が海に落ちても必ず助けてくれそうな安心感がある。
問題はその隣の軽そうな男だ。
「よろしくね、僕は――」
そいつが手を伸ばして来たので思わず後ずさったのと、アオチさんが僕の前に立ったのと、回収人さんがそいつの腕を掴んだのが同時だった。
「俺の客に勝手に触るな。この眼鏡は俺に嫌がらせしかしないけど、一応客には違いない。前は死にかけを見捨てられるし、今度は勝手に梯子をかけるし……ろくな事をしないけどな」
「梯子は偶然です」
回収人さんは水に流すということが出来ないらしい。
でも今気になるのは――
「あなた、何であの人たちを殺したんですか」
「へー凄い勘が良いんだ。僕を助けてくれた彼は正義感が強いし、これは迷うね」
さっき向こうの船から見えたんだ。甲板に転がる三つの死体が起き上がって、頭を下に向けたままこのヘラヘラした男を指さしているのを。久しぶりの異様な光景に血の気が引いた。
僕はこんな経験を、この回収人さんに会ってから何度もしている。死人の彼らが怖いんじゃない。指をさされ、糾弾されているのをチラリと確認したうえで、にやりと笑ったこいつが怖かったんだ。
「質問の答えになってないです」
「あーそうだね。こっちの正義感の強い彼は聞いていたと思うけど、僕は判断が早いんだ。君たちの回収人はどこまで話したの? 僕らは全員を目的地まで連れて行くことが出来ない。だからいずれ人数を減らすなら情が湧かないうちの方が良いんだよ」
「だったら……それなら最初から乗せなきゃいいじゃないですか。目的地まで全員で行けないって、それは殺す理由になるんですか」
明るく話す男の目だけは回収人さんと同じ灰色なのに、排気ガスで汚れた雪のように忌々しいものに思えた。それでも確かめなければ。この船で起こったことは僕らの船でも起こり得る。
「後で俺から説明する。今はひとまず他に乗っているやつがいないか、二人で探して来てくれないか」
回収人さんがそう言うので、仕方なく従うことにした。
「わかりました。戻ってきたら、僕ら全員に本当のことを教えてください」
「ああ、そうするよ。あっちの背の高い兄ちゃんにもちゃんと話す。この船の構造は俺の船とほとんど同じだ。内装はかなり違うがな。誰かいたら、ここに連れて来てくれ」
大きく頷いて、僕はアオチさんとブリッジへ続く扉に向かった。
その時、甲板の上で死体に囲まれ、刃物を握ったまま波を見続けている女の人を見た。肩の辺りで揺れる茶色っぽいくせ毛がきれいだ。
両膝に埋めている顔は良くわからないけれど、物凄く白い。色白なのか、血の気が引いてそう見えるのか微妙なところだ。
そして左手に握りしめている刃物もさっきよりは良く見えた。
どこからでも切れる刃――そう見えた。色はアオチさんと僕が渡ってきた梯子にそっくりな、嘘みたいに艶やかな銀色だ。やっぱり柄の部分が無いような気がする。手に傷が付かないのはどういう訳なんだろう。
「オオミ、早く」
「はい、すみません。あの波を見ている女の人は大丈夫でしょうか」
アオチさんの後ろにぴったり付きながら尋ねた。
「俺たちの回収人がいるから大丈夫だろ。さっさと船内を周って、早く戻って来よう」
「良かった、誰もいなさそうだな」
楽観的なアオチさんを戒めるのが僕の務めだ。
「油断しないでください、ほら、アオチさんの後ろにいます」
顔だけ後ろを向いたアオチさんが驚き過ぎて声を出す隙もなく、僕を押して部屋の外に出ようとした。
僕たちの船とは全然違う、無機質な銀のグラデーションだけで作られているような船内をくまなく見て回り、最後に残った医務室に入った直後のことだ。
途中、二人ともビクついていたせいかほとんど会話もなく、最後の部屋になってやっとアオチさんが表情を緩めて僕に言ったのが、さっきの気も緩んだ言葉だ。
医務室といっても、それらしきものは解剖する死体を置くような、見るからに冷たそうなベッド二つだけだ。ベッドとわかったのも真っ白な枕と掛け布団ぽいものが置いてあったからで、そうでなければ鉄の荷台にしか見えない。
他にあるものは、長居をさせないために作ったのかと思うほど、硬質で座り心地の悪そうな椅子が四個、同じ材質の机が一つだけだ。
全く装飾のないキャビネットもあるにはあるが、中に人を癒すための薬が入っているのは想像できない。毒薬が並んでいる様子しか思い浮かばないのは、さっき話したこっちの船の回収人の顔がちらつくからだろうか。
ふと船は、それを動かす回収人を現しているのかも知れないと思った。僕たちの船の、木をベースにした温かくてクラシカルな内装はきっと回収人さんの個性そのものだ。ここはあの薄ら笑いを浮かべた殺人者の心の中――。
「君、大丈夫?」
そして問題は今、その無機質なキャビネットの裏に隠れている人みたいな何かだ。アオチさんが驚いたのもわかる。僕も実際これが人かどうかも怪しいまま声をかけていた。
赤黒い、大きな動く物体であることは確かだ。正体不明だし、かなり禍々しい見た目だが、不思議と怖くなかった。
「僕たちは味方だよ」
その何かが酷く怯えているような気がして優しく声をかけ、半歩ずつ、ゆっくり近づいた。
「驚かせてごめんな、出て来いよ」
気を取り直したアオチさんも言うが、この赤黒いのは別にびっくりしたりしていない。驚いていたのはアオチさんだけだ。
もぞもぞしていた塊が少しずつその姿をキャビネットの裏から現した。それを確認するなり、アオチさんが駆け寄って膝をついた。
さっき慌てて部屋を出ようとした人とは思えない。
「おい、これ……お前たちの回収人にやられたのか? 死ぬなよ。どうしたら良いかわからないけど、助けてやる」
「うう……」
薄々気がついていたけれど、こいつは喋れない。元々話せないのか、ローヌという男にやられたのかはわからない。
顔も身体も原型を留めていない。
強烈な炎で焼かれたのか、何か劇薬を浴びせられたのか、とにかくアオチさんが助けてやれるような状態ではないのは確かだ。
「おぶってやるからもう少しこっちに来いよ――うわああっ」
しゃがんでいた赤黒いやつが急に立ち上がった。自分で来いと言ったくせにアオチさんが大きな声を上げて、後ずさった。
そいつが思いのほか大きかったからだ。どうやってキャビネットの裏の隙間に隠れていられたのか不思議だ。
「ううん……」
そしてそのままアオチさんに突進した。一瞬襲いかかったのかと思ったが、直ぐに抱きついたのだとわかった。
アオチさんがよろけながらも抱き止め、物凄く微妙な顔をしている。モテるとは思っていたけどここまでとは……
赤黒いのはアオチさんの顔にすりすりを止めない。
「おい、落ち着け。重症なのにずいぶん元気だな」
「うるうぅーうるぅう」
「何だ、それ?」
アオチさんの言葉に反応して、そいつは「うるぅうるぅ」と声を上げ続けている。喜びの表現なのだろうか。
そもそも性別もわからないくらい皮膚がずり落ちてしまっているのに痛くないのか? 抱きつかれているアオチさんは、こんなことは言いたくないが気持ち悪くないのか。
「うる――」
こいつ、僕の考えが読めるんだろか。こっちに顔を向けて非難するような声を出した。
――鼻がない。正面から良く見ると、愛嬌のある目とぽかんと開いた口は目立つが、鼻も耳もない。いや、良く見ると鼻と耳のあるはずの場所に小さな穴ある。
「ごめん、ウルウ。アオチさんが好きなんだね」
うんうんとそいつが頷く。何だか可愛くなってきた。
「オオミ、こいつの名前がわかるのか。ウルウが名前なんだな」
「……たぶん、そうだと思います」
アオチさんはどうしてこう単純なんだろう。続けて疑問を口にしてみる。
「ウルウは皮膚が無いように見えますが、違うんですかね? 痛くはなさそうだし」
「そうだな、ウルウ触っていいか?」
そう言ってアオチさんが、タンポポの綿毛に触れるくらい軽い指の動きでウルウに触れた。さっきは一方的に強く抱きつかれていたので、感触がわからなかったようだ。
「うるうううううううう」
え? ウルウが目を潤ませ喜んでいる。皮膚があったら顔が真っ赤じゃないだろか。
「意外とツルツルしていて気持ちいいぞ。ウルウは最初からこういう皮膚なのかもな」
「う――」
アオチさんに褒められて至福の声だ。
「裸ん坊じゃかわいそうですね。何か着せてあげられる物は……あ、入院着みたいのがあります」
壁に供え付けの小さな棚に真っ白な入院着のような物が数枚、几帳面に畳まれて入っていた。その中の一番サイズが大きそうなやつを広げ、ウルウに見せる。
「ウルウ、これ着てみせてくれるかい? 君にきっと似合うよ」
出来るだけ優しく声をかけた。
「うるるるぅ」
こいつもアオチさん並みに単純な性格で良かった。嬉しそうに寄って来て「着せて、着せて」とせがんでいるみたいだ。
服に慣れていないのか、いたってシンプルなロングTシャツみたいな形状の物を着せるのに物凄い手間取ったが、何とか整った。
「う――」
アオチさんに自慢げに手を広げて見せている。
「おお、良く似合ってるぞ」
満面の笑顔でアオチさんが言うと、ウルウは踵を上下させ飛び上がる動作で嬉しさを表現する。僕たちはこの短時間ですっかり仲良くなった。
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アオチさんの言葉に首をブンっと一回縦にふると、ウルウは僕たち二人に手を伸ばした。手を繋いで、と言いたいのか。
ゆっくり手を取ると、とても温かった。この呆れるほど冷たい船はウルウの温もりを失ったら氷の船に変ってしまうかも知れない、そう思った。
ウルウを真ん中に三人で――さすがにずっと手を繋いではいられなかったけれど、ブリッジに戻った。
ドアを開けて、まず目が合ったのは回収人さんだった。
僕の後ろのウルウを見ても驚く様子もなく、笑った。
「なんだ、こんなやつがいたのか」
「うるう――」
ウルウもちゃんと挨拶をする。良かった、思った通り回収人さんはこいつのことも守ってくれるに違いない。
「船の中にはこいつだけだった。あいつはどうした? ローヌと名乗ってた人殺しは」
「ちょっと言い争いになってな。うるさいから海に捨てた。安心しろ、鎖でつないでるから、後で引き上げてやる」
ローヌさんのことは全然心配ではなかったが社交辞令で聞いた。
「そんなことをして死んじゃったりしないんですか」
本当は良くやってくれた、とすら思っていたけど。
「知らねえよ、大丈夫だろ。お前、優しいな。あんなやつのこと心配してるのか」
「いえ、実はどうでも良いです」
回収人さんが笑う。この人の目尻のシワが好きだと初めて気づいた。
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褒められると素直に嬉しい。子どもの頃、倒れていたこの人に勇気を持って話しかければ良かった。そうしたら何年もこの人と心を通わせて過ごせたかも知れないのに。
アオチさんの声が殺風景を絵に描いたブリッジに響いた。
「それで、どうする? 俺は早くお前の船に戻りたい。オオミと……このウルウも連れて。答えてくれるかわからないけど、甲板にいる女にも声をかけてみよう」
そうだ、こんな冷たい場所、回収人さんには似合わない。もちろん僕たちにも。早くあの温かくて柔らかくて、ちゃんと息をしている船に戻りたい。
「ああ、お前たちが帰って来たら戻ろうと思ってた。でも、この……ウルウとあの女……どっちが今強いのか……」
後半の方は独り言みたいだった。どうしよう、一人しか連れて行けないのかな。だとしたら、僕はウルウを連れて行きたい。あの人形のように生気のない刃物女より愛情が湧いているから。
「安心しろ。お前ら全員連れて行く。ちなみにローヌをまだを引き上げるつもりはないから妙な正義感を出すなよ」
そう言ってチラリとアオチさんを見る。
「わかってるよ――うわああああ」
ブリッジから外へ出るドアの前に、血まみれの刃物女が立っていた。
初めて顔全体を見た。美人だ。大きくて強い目が印象的で、ハーフかな? と思うようなはっきりした顔立ちをしている。
――でも怖い。乾燥した血が柔らかそうなくせ毛に絡まりついていた。刃物が見当たらないけど、海にでも捨てたんだろうか。
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「すみません。アオチさんは大袈裟なんです。これでみんな揃いましたね」
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