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おさとうひとさじ
6.
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いつものあの絶妙な距離感はどこへ行ってしまったのだろうか。
「瞳が、震えてる。佐藤さん、守れなくてごめんね。次があったら、どんなものからも守るから」
動揺して目をそらせば、優しい声が耳に届いてくる。
「俺はどう責任をとったらいいかな。取らせてほしい、何でもするよ」
跪いた人がまっすぐにこちらを見つめていた。
まるで愛の告白のようなシーンに目が眩んで、起こしているからだがふらりと倒れかけた。
このまま気絶したい気分のくせに、橘専務のあたたかい胸に抱き留められたら、ぱちりと瞼が持ち上がってしまった。
「さとうさん。無理しちゃダメだよ」
後ろから見つめている人には、もしかすると、突然抱擁しはじめた男女に見えているかもしれない。
仕事モードが外れてしまっている専務は、こうも甘ったるいのだろうか。おそろしい甘さに指先がしびれる。
そうか、あの女性もこうして誑し込まれてしまったのか。
どこかで危険信号が流れているのに、抜け出すこともできずに抱き寄せられている。
「……きみたち」
後ろから会長の声が聞こえて、さすがに目が覚めた。どう考えても、上司と部下の距離ではない。
嫌な予感がする。
会長は、一度こうだと思い込んでしまうと、まったく意見が聴こえなくなるタイプのすこし困ったお爺さんだ。可愛らしいところだと思っていた。
今の今までは。
「そうか、まったく気が利かない爺で申し訳がない」
「会長?」
「……二人が良い仲だったなら、初めから教えてくれていればよかったじゃないか」
「あの、」
「わしは大歓迎だ。なに、社内では言わなければいい。そうすれば秘書も続けていられるだろう? 橘くんと佐藤さんなら、お似合いじゃないか! 橘くんが懸念するようなことを佐藤さんがするとは思えん」
「会長、佐藤さんと私はそういう仲では……」
「そうと決まったら、さっそく入籍してくれて構わない。いやあ、よかったよかった。これで先方にもしっかり断りを入れられる。なあに、心配ないさ。爺がお節介して、恋人の仲を引き裂いてしまったと言えば、相手も分が悪い分、大ごとにはせんだろう」
「ですから、かいちょ……」
「いやあ~。二人が夫婦になるのなら、万事解決じゃないか。よかったよかった。このままでは、橘くんを婚約者が居ながら佐藤さんを誑かした悪い男として処分することになるところだった。二人が思いあっているのなら、すべてが丸く収まる」
「橘くん、責任を取りたいんだろう。隠していないで、早く結婚しなさい」
にっこりと微笑んだおじいさんは、まるで都合の悪いことのすべてが聴こえなくなってしまったような口ぶりだ。
まるで聞いてくれない。
「そういうことで、よろしく頼むよ」
脅しのように聞こえなくもない善意で扉が閉まる。
静まり返った病室で、今更のように橘専務の腕の中から解放された。
「……ええと、橘、専務?」
「今すぐ掛け合ってくる。本当に申し訳ない……。佐藤さんは心配しないでください」
「あの、」
「変な誤解を招くようなことをしました。ごめんね。……すぐに会長には理解してもらうから」
「でも、違うってわかったら、橘専務は」
「佐藤さんには迷惑をかけないから」
あの口ぶりでは、外部の会社のことも関わっているのだろう。たしかにさっき見た女性はお嬢様のような風貌だった。
最悪、退職に追い込まれる可能性もありそうだ。
専務が悪かったことは一度もない。しいて言うなら、かなり優しすぎて勘違いさせてしまうことくらいだ。
「なにか、方法はあるんですか?」
「……それは」
どんなに愛想がなくても、橘専務は気にすることなく笑いかけてくれていた。いつも仕事に真剣に取り組んでいることも知っている。
この会社の仕事も好きなのだと思う。
専務の瞳が揺れている。動揺しているのだと知った。
いつも、優しく微笑んで私を安心させてくれる橘専務のことは尊敬しているし、人間的にも好感を持っていた。
それにしたって、どうしてそんなことを、言おうと思ったのか。
たぶん、他の女性と同じで私も橘遼雅の引力に引き寄せられていたのかもしれない。
「――本当に、結婚しましょう、か?」
提案したときの私の顔は、いつもと同じくまったくの無表情だったらしい。
「瞳が、震えてる。佐藤さん、守れなくてごめんね。次があったら、どんなものからも守るから」
動揺して目をそらせば、優しい声が耳に届いてくる。
「俺はどう責任をとったらいいかな。取らせてほしい、何でもするよ」
跪いた人がまっすぐにこちらを見つめていた。
まるで愛の告白のようなシーンに目が眩んで、起こしているからだがふらりと倒れかけた。
このまま気絶したい気分のくせに、橘専務のあたたかい胸に抱き留められたら、ぱちりと瞼が持ち上がってしまった。
「さとうさん。無理しちゃダメだよ」
後ろから見つめている人には、もしかすると、突然抱擁しはじめた男女に見えているかもしれない。
仕事モードが外れてしまっている専務は、こうも甘ったるいのだろうか。おそろしい甘さに指先がしびれる。
そうか、あの女性もこうして誑し込まれてしまったのか。
どこかで危険信号が流れているのに、抜け出すこともできずに抱き寄せられている。
「……きみたち」
後ろから会長の声が聞こえて、さすがに目が覚めた。どう考えても、上司と部下の距離ではない。
嫌な予感がする。
会長は、一度こうだと思い込んでしまうと、まったく意見が聴こえなくなるタイプのすこし困ったお爺さんだ。可愛らしいところだと思っていた。
今の今までは。
「そうか、まったく気が利かない爺で申し訳がない」
「会長?」
「……二人が良い仲だったなら、初めから教えてくれていればよかったじゃないか」
「あの、」
「わしは大歓迎だ。なに、社内では言わなければいい。そうすれば秘書も続けていられるだろう? 橘くんと佐藤さんなら、お似合いじゃないか! 橘くんが懸念するようなことを佐藤さんがするとは思えん」
「会長、佐藤さんと私はそういう仲では……」
「そうと決まったら、さっそく入籍してくれて構わない。いやあ、よかったよかった。これで先方にもしっかり断りを入れられる。なあに、心配ないさ。爺がお節介して、恋人の仲を引き裂いてしまったと言えば、相手も分が悪い分、大ごとにはせんだろう」
「ですから、かいちょ……」
「いやあ~。二人が夫婦になるのなら、万事解決じゃないか。よかったよかった。このままでは、橘くんを婚約者が居ながら佐藤さんを誑かした悪い男として処分することになるところだった。二人が思いあっているのなら、すべてが丸く収まる」
「橘くん、責任を取りたいんだろう。隠していないで、早く結婚しなさい」
にっこりと微笑んだおじいさんは、まるで都合の悪いことのすべてが聴こえなくなってしまったような口ぶりだ。
まるで聞いてくれない。
「そういうことで、よろしく頼むよ」
脅しのように聞こえなくもない善意で扉が閉まる。
静まり返った病室で、今更のように橘専務の腕の中から解放された。
「……ええと、橘、専務?」
「今すぐ掛け合ってくる。本当に申し訳ない……。佐藤さんは心配しないでください」
「あの、」
「変な誤解を招くようなことをしました。ごめんね。……すぐに会長には理解してもらうから」
「でも、違うってわかったら、橘専務は」
「佐藤さんには迷惑をかけないから」
あの口ぶりでは、外部の会社のことも関わっているのだろう。たしかにさっき見た女性はお嬢様のような風貌だった。
最悪、退職に追い込まれる可能性もありそうだ。
専務が悪かったことは一度もない。しいて言うなら、かなり優しすぎて勘違いさせてしまうことくらいだ。
「なにか、方法はあるんですか?」
「……それは」
どんなに愛想がなくても、橘専務は気にすることなく笑いかけてくれていた。いつも仕事に真剣に取り組んでいることも知っている。
この会社の仕事も好きなのだと思う。
専務の瞳が揺れている。動揺しているのだと知った。
いつも、優しく微笑んで私を安心させてくれる橘専務のことは尊敬しているし、人間的にも好感を持っていた。
それにしたって、どうしてそんなことを、言おうと思ったのか。
たぶん、他の女性と同じで私も橘遼雅の引力に引き寄せられていたのかもしれない。
「――本当に、結婚しましょう、か?」
提案したときの私の顔は、いつもと同じくまったくの無表情だったらしい。
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