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しおりを挟む悪女の心を慰める場は、たった一つだ。
ソフィアは今日もただ一人の友人を秘密の花園へと招き入れて、利発な瞳をじっと見つめる。
よく見ると、ライの瞳は主人のものとよく似た美しい輝きをしている。ソフィアは長らくその男の瞳を見ないようにしていたことを思い出しながら、ミルクを飲み終わった狼の頭に触れた。
「いい子ね。でもよくよく考えたら、貴方ってミルクなんかお気に召さないんじゃないかしら」
まったくもって今更な問いかけたが、ソフィアはライが逞しい狼であることを思い出して、ミルクなどという可愛らしいものでは満足できないのではないかと思い至っていた。
ライはソフィアの言葉など気にすることもなく、そろりとソフィアの前に置かれた椅子から降りて、ゆったりとソフィアの横に座り込んだ。
もっと撫でろと言っているようだ。
正しく理解したソフィアは、静かに微笑みながら、その喉を柔らかく撫でる。
ライがこの場に居るということは、ルイスが、それを許しているということだ。
少し前から再び会うことが許されたわけを、ソフィアが知るはずもない。しかし、心のどこかでは、ルイスが気を使って二人を引き合わせてくれているのだろうと理解していた。
「貴方の主人は、魅了にかかるほど簡単な人じゃないのにね」
ぽつり、と言葉を漏らしたソフィアは、はっと正気を取り戻して、ライを抱きしめながらもう一度口を開き直した。
「今のは無しよ。……聞かなかったことにして」
錯乱や嫌悪、そして記憶を奪う精神魔法に比べて、魅了魔法はかなり高度な術になる。
術師と相手の間に明確な魔力量の違いがあり、なおかつ、術師に対して、術を施される立場の者がそれなりの畏怖や好意など、いくつかの感情を持っている必要がある。そのうえで、術に掛けられる人間の精神の成熟度によっても術のかかり方が変わってくる繊細な魔法だ。
よほど高位の魔術師でなければ、容易に使える魔法ではない。
ソフィア自身は一度も魅了を使ったことはないが、使うときにはかなり神経をすり減らすだろうことを理解していた。
二人の兄を見ていればわかることだ。
あの二人は、精神魔法をかけて獣人を壊すことばかりを繰り返している。表向きは精神魔法の術を練習しているのだと豪語しているが、あれはでたらめだ。
魅了魔法は、おかしなかかり方をすればするほどに人の心を歪める。あの二人は、その歪をこよなく愛しているのだ。何も魅了魔法が適切に働く必要はない。
ソフィアも、己の失言を隠すためにライを術に掛けることもできるだろうが——。
「秘密ね。いい?」
ソフィアのたっぷりと甘い声に囁かれたライは、肯定するようにすりすりとその頬をソフィアの脚に押し付けた。
「本当に、ライは賢くって、素敵な狼さんね」
世に生きる紳士がすべてライのような素敵な男性であれば良いのだが、現実はそうはいかない。
今日もソフィアはべたべたと張り付いてくるオリバーをどうにか撒いてこの温室に足を踏み入れた。オリバーは不埒な男ではあるが、ルイスとソフィアについて、でたらめな噂を吹聴する使い勝手のいい男だ。
ルイスからすれば、魅了の魔法にかけられているという噂など、面倒なものでしかないだろうが、ソフィアはわざとその噂が消えぬようにと意味深に振る舞っている。
因縁の相手に魅了を掛けるとは、いかにも悪女がやりそうな遊びだ。
最近はそのせいか、オリバーに苦戦する私に、ルイスが声をかけてくる機会はめっきり減ってしまった。
ルイスもシェリーにたびたび足止めをされている。それでも深夜に部屋に忍び込んでくるところは変わりないから、ルイスはやはり、生真面目な騎士だ。
妙な噂が出回っていることに関して、初めのうちはソフィアを詰問しようとしていたルイスも、ソフィアがまったく取り合わず、ただじっと目を瞑ってされるがままになっている姿を見て、問い詰めることをやめてしまった。
「このまま、離れて行ってほしいの」
ひっそりと囁いたソフィアは、その声をライの毛並みに隠して、ぎゅっとその身体を抱きしめた。
ルイスが悪女の魅了魔法を自力で解いたとなれば、彼の英雄伝説にも箔がつく。しかし、このまま彼がソフィアに構い続けるのならば、彼女はユリウスの計画の通り、ルイスを大いに巻き込まざるを得なくなる。
「ねえ、ライ。本当に身体の調子は大丈夫?」
悪女の不安げな囁きに、ライは尻尾を振って答えてくる。力を失ったバングルを嵌めるライは、とくに状態異常を訴えてこない。
そのことに密かな安堵を浮かべていたソフィアは、改めて友人の健やかな姿に安堵のため息を吐いた。
「ソフィア嬢」
ソフィアが少女のように微笑みながらライの毛を撫でまわしていたその時、無遠慮なノック音と共に、粘着質な声が響いた。
まさか、ソフィアが術をかけた温室の場まで把握しているとは思いもしない。
「いらっしゃるんですよね」
近頃、特に執拗に身体の関係を迫ってくる男に、ソフィアは辟易としていた。
不要な男に構っている暇はない。ソフィアはなぜこうもオリバー・マクレーンに執着されるようになってしまったのか、理解できずにいた。
「まずいわね」
目の前には、下級魔獣がいる。ライを隠しきるのは難しい。しかし、まさか稀代の悪女がライと仲良く語らいあっていたなどと知られるわけにはいかない。
もっとしっかりと行く先を隠していればよかったのだ。
それとも、もはや純潔でもない身体なら、悪女らしく不埒な男に曝け出すべきなのだろうか。呆れつつ立ち上がったソフィアは、曇ったガラスの向こう側に立つ男に、誰かが近寄ってくるのを見た。
「マクレーン」
ソフィアが危機に瀕するとき、なぜその男は颯爽とその場に現れるのだろうか。
見通しの悪いガラスの先で、大男が線の細い男に声をかけている。
ルイスは爵位を持たない平民の軍人だ。
軍部の規律がなければ容易く失脚させられる立場にある。彼は聡い騎士だ。それを知らぬはずもない。
そのはずが、ルイスは、何度ソフィアが危機に瀕しても、臆することなく男の前に立ちはだかる。
「このような辺鄙な場に何か用か? ここは獣軍が保有する薬草園だ。貴殿らのような魔術師に縁のある場ではあるまい」
「すっかり悪女様の番犬だな」
吐き捨てるようなオリバーの声に、ライが牙を見せる。
主人を馬鹿にされたのだということがはっきり理解できているらしい。
友人の機嫌を損ねるような男を呼び寄せてしまったソフィアは、同じように眉を顰めて静かに魔法を詠唱する。
たっぷり12時間、何があっても目を覚ますことのない眠りの魔法だ。しかも、なぜ眠ってしまったのかが思い出せなくなるという高度な魔法になる。
兄二人の猛攻から逃げるために身に着けた魔法だが、まさかこのような場で役立つとは思いもしない。
突如倒れるように眠り込んでしまったオリバーに、背の高い男が狼狽えているらしい様子が見て取れる。
「おい、マクレーン」
「眠っているだけよ」
躊躇いなく温室の扉を開いたソフィアは、目の前に立つ美丈夫の顔を久しぶりに覗き込んだ。
相変わらず考えの分からない無表情な男だ。しかし、ソフィアと目が合った瞬間、ルイスは僅かに目を見張って、すぐに視線をそらした。
「ルイス?」
「たまたま、あれがここに来るのを見かけただけだ」
ルイスにしては珍しい、捲し立てるような声だ。
ソフィアはその言動に吃驚しつつ、彼の手に握られた白い花を見やって、少し前の彼と同じように目を見張った。
まさか、と自惚れかけたソフィアは、ルイスと同じように、瞬時に彼から目をそらし、横についてきてくれていたらしいライと視線を合わせた。
ライは首を傾げつつ、ゆったりと歩いて主人の隣にたどり着く。
「ライ、」
ライの行動を見やった男は、使い魔が不意打ちで指先に噛みついてきたことに吃驚し、思わず握りしめていた手から力を抜いてしまった。
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