不埒に溺惑

藤川巴/智江千佳子

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STEP 2 「食える男がうらやましい」

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「小宮あんま虐めないでやってくださいよ」

 明るい声色だ。それが男性の声だと分かっていても、安心してしまう。ほっと肩の力が抜けて振り返れば、片手をあげて挨拶をされた。横に立っている八城の視線があっけなく私からそれる。

「眞緒ちゃんか」

 花岡はなおか 眞緒まおとは、私の同期かつ、営業マンのなかではめきめきと営業成績を上げる期待の若手社員だ。八城にも、可愛らしい愛称で呼ばれるほどには信頼されている人だと思う。

「いやいや。いつも本心で言ってるから」
「八城さんは本心でも、勘弁してやってください。西谷に保護頼まれてるんで」
「保護ってなあ」
「小宮無事かあ?」
「無事? だけど……」
「ぼやっとしてたら八城さんに食われるよ」

 軽い冗談のように言われた言葉に、一瞬息を詰まらせた。

「くわ、れないよ。八城さんは、そんなことしないです」
「そ? ならいいけど」

 実際には、『そんなことしない』というよりも『してくれない』の方が正しいのだけれども。

 花岡は快活に笑いながら私の目の前にきて「お疲れ」と声をかけてくれる。小さくうなずいて二、三言話せば、八城はその場に立ち尽くしたまま、社用携帯を取り出したようだ。

 八城の行動をちらりと盗み見ているうちに、声を潜めた花岡から、仕事とは関係のない話題を振られた。八城に目を奪われていたことに気づいて慌てて視線を戻し、花岡の綺麗な顔を見つめる。

「小宮、そういや可憐と連絡とってる?」
「え?」

 可憐とは、花岡の交際相手だ。半年前に退職した総務部二課所属のうつくしい女性、西谷可憐のハートを射止めたのは、今私の横で、苦い表情を浮かべている彼だ。

「花岡くん、もしかしてまた喧嘩?」
「いや」
「私はすこし前にお電話したけど」
「あ、マジで? なんか言ってた?」
「嫌なことがあったとは、言ってた」

 ミステリアス女子とも呼ばれていた西谷可憐は、中田や木元、私そして花岡の同期で、私にとっては小学生のころからの幼馴染でもある。まさか可憐が、花岡のような男性と付き合うことになるとは思わなかった。親友の彼氏は、ずいぶんと我が親友のことが好きだ。

「あいつ、まだ怒ってる?」

 花岡はいつも自信にあふれた魅力的な男性なのに、可憐の前では形無しだ。

 実のところ、可憐からは昨日連絡が来ていた。内容は、彼氏に嫌われてしまったかもという可愛らしいものだったので、双方、杞憂だと思う。

「それは自分で聞かなきゃ」

 仕事中にこっそりと聞いてくるくらいだから、かなり参っているのだろう。

 花岡とは、それなりに話ができるほうだと思う。可憐の彼氏であることにも起因しているけれど、一番は、その可憐との仲を取り持って、西谷可憐情報を何度も花岡に流していたからだ。思い悩む親友の彼氏の姿に微笑ましい気分になりつつも、隣の背の高い人がすいすいと携帯をいじりながらこの場に立ち尽くしているのを見ると、落ち着かない。

 私は、八城に交渉を持ち掛けるにあたって、大きな嘘を吐いた。

 その嘘が露見してはいけないから、なるべく八城の前で、花岡とは会話をしたくないのが本音だ。私はそんなに嘘がうまいほうではないことを自覚している。それならどうして嘘を吐いてしまったのか。自分でも、勢いとは恐ろしいものだと思うばかりだ。

 ちらりと横を確認すると、八城とばっちり目が合ってしまった。携帯を見ていたのではなかったのか。

「眞緒ちゃんは、総務になんか用事あったの?」

 私の目をじっと見下ろした八城が、ふっと視線を逸らして声をあげた。単純な疑問のように言葉を吐いて、花岡の回答を急かしている。

「ああ、すいません、すっかり雑談してたっす。ごめん小宮。また連絡するわ」

 すこし前までウンウンと考え込んでいた人とは思えぬようなスピードで、花岡の顔つきが変わってしまった。すでに、仕事モードの男性の顔になっている。めくるめくスピードで切り替わる表情に圧倒されて、小さくうなずいた。

「ええ? わかったけど、……はい」

 あっさりと補佐担当である間瀬の元へと、花岡が歩いて行ってしまう。花岡にしてみれば、さっきの八城の言葉は上司に軽い注意を促されたようなものだ。まさかここで、花岡に対して私の都合で、ここから離れていかないでほしいと、言うわけにもいかない。

 呆然と見送っていれば、私のデスクの上にかたん、と何かが置かれた。ふと視線を下ろしているうちに、上から声が降ってくる。

「小宮さん、今日は残業しなくて済みそう?」
「え? あ、はい。頑張って……」

 頑張っています、と続けようとした声が、不自然に止まってしまった。私の机の上に、誰かのスマホが置かれている。何も考えずに視線を向けたから、はっきりと、そのスマホに打ち込まれた文字が見えてしまった。

 “今日も明菜ちゃんの時間、もらえる?”

「うん?」

 一瞬、このフロアに大勢の社員がいることを忘れかけていた。耳に響く低い声に、はっとして顔をあげると、いつも通りの八城の顔が見える。

 まるで、今私に、ごくプライベートな誘いを仕掛けてきたなんて思えないほど自然な笑みを浮かべている。

「小宮さん、今日はノー残業デーだよ」
「はい、……はい。それは、もう、頑張ります」
「あはは。良かった。金曜だし、ゆっくりできるんじゃない?」

 私たちは、毎週金曜日に時間を共有している。それは、会社のノー残業デーが、毎週金曜日に設定されているからだ。

 もちろんノー残業デーと言いつつ、やむを得ない事情で残業する社員も一定数いるけれど、私も八城も時間を捻出できるとなると、この日が一番都合がよかった。

「晩飯とか、何食うんですか」
「夜、ごはんですか」

 同僚として、不自然にならない会話を心掛けている。必死になっている私とは違って、デスクの上に置いたスマホを長い指でするすると触る八城が、次の言葉を打ち込んでくる。

 “あきなのめし、きぼうです”

 変換することなく打ち込んで、静かに顔を覗き込んでくる。

「コロッケ、とかにしようかなと、思って、ます」
「それはいいな。食える男がうらやましい」

 “かぎ、ぽすとにいれてる”

 簡潔な文字が打ち込まれて、とうとう頷いてしまった。こんなふうに誘われたのは初めてだ。いつも、メッセージが飛んできて、指定されるままに八城の部屋に向かっていた。

 “へやで、いいこで、まってて”

 どういう心境の変化なのか、まったくよく分からない。これも誘惑なのだとしたら、私はとうとう仕事が手につかなくなる。

 私が頷くのを見た八城が、満足そうに笑ってスマホをポケットに押し込んだ。

「じゃあ、その件はまた連絡します」

 まるで、営業の仕事のようなことを言う。実際の私たちがやり取りしていたのは、今日の恋愛ごっこのアポイントだ。不埒なことをしている自分に気恥ずかしくなって俯けば、横から名前を呼ばれた。

「小宮さん、」
「はい?」
「中田の件もそうだけど、仕事きついときはSOS、送ってね」

 誰よりも、ハードスケジュールな男性が笑ってつぶやいた。労いの言葉に吃驚して見つめあっていれば、すこし離れたところから、木元の声がかかった。

「八城さん、なんかありました? すいません。電話長引いちゃって」
「ああ、ううん。小宮さんに解決してもらったから、大丈夫」

 補佐担当でもない私に解決できることなどあるはずもないのに、あっけらかんと言い放ってくる。木元も首を傾げつつ、「それならいいですけど」と引き下がった。

「じゃあ、小宮さん、引き続きよろしくね」
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