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STEP 7 「俺は超真面目に生きてますって」
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試合は子どもと大人が混合でチームを組んで開催しているらしい。私が思っていたような激しいスポーツではなく、どことなく優しい雰囲気が漂っている。八城は、単純に身体を動かすことだけを目的として、毎週この場に参加しているわけではないのだろう。
グラウンドで先輩方の子どもに囲まれて、つねに笑い続けている。
私はやはりまったくルールが分からないため、遊びについてきているだけらしい女の子たちと観戦をしていた。
新崎の家庭は兄妹でこの場に参加しているらしく、妹の真子はぴったりと私の隣にひっついている。
試合に行く前に八城が私の肩にかけてくれたマウンテンパーカーを一緒に羽織って、手を繋いでいた。
「あきなちゃんは、ハルくんのお嫁さん?」
「ええ?」
「ハルくんに、仲良くしてあげてって言われた~」
「あ、そうなんだ。ありがとう。うれしい」
「ふふ、あきなちゃん、かわいい」
「あはは。まこちゃんのほうがもーっとかわいいよ」
「へへへ」
私が通っていた女子校は、初等部との交流会を月一回、必ず開催していた。いまだにそのころの子たちとは交流が続いている。
卒業後は一度も触れ合う機会がなかったけれど、こうして見るとやはりどの子も、目に入れても痛くないと思えるほどにかわいいと思う。
思わず頬が緩んでしまっている。私の頬をつんつんと突いた真子が、私と同じく満面の笑みを浮かべていた。
「ハルくんのどこが好き?」
小学校低学年くらいから、女の子はすでにこの手の話題で盛り上がっているように思う。
真子も好きな男の子がいるのだろうか。きらきらと輝く目に見つめられて、答えに窮してしまった。
「ふふ、まこちゃんは、や……、ハルくんのどういうところが好き?」
「え~、まこ? うーん。足がすっごくはやい」
「ふふ、かっこいいね」
「うん、あとおっきい!」
「本当だ。すっごく大きいね」
「優しい」
「うんうん。そうだね。私も、すごく優しいなあって思う」
「あ! 見て! ハルくん走ってる!」
真子の言葉の通り、男の子を抱えて走る八城が、どっと場を沸かせていた。
「とうるいだ! すごい!」
真子と一緒になって「すごいね」と言えば、まんまるい笑みを浮かべた真子が「あ!」とグラウンドを指さした。
「うん? あ……」
子どもを塁に下ろした八城が、こちらを見つめている。微かに目が合ったような気がした瞬間に親指を立てて、グッドサインを送ってくれる。
「あきなちゃんにしてくれてる!」
「そう、かな?」
「うん!」
真子にしたのではないかと一瞬思い込みつつ両手で同じポーズをとって見せたら、ここからでもわかるくらいに嬉しそうな顔で笑われてしまった。
「ラブラブ?」
「ら、」
「ラブラブだな~?」
吃驚して言葉に詰まっているうちに後ろから男性の声がかけられた。振り返って、その場にいる人が、真子の父——新崎壮馬であることに気づく。
「あ、お父さん!」
「真子、里奈ちゃんに遊ぼって呼ばれてたぞ~」
「あ、行かなきゃ」
「はいはい、いってらっしゃい」
真子を呼びに来たらしい新崎が、慌てて走り去っていく娘の姿を見送って、とくにためらうことなく私の横に座り込んだ。
「あ、お疲れ様です」
「ん、うちの子の面倒見てくれてありがとう」
「いえいえ、私こそ、遊んでもらっていました」
「小宮さんにすっかり懐いちゃって。また遊びに来てね」
「……わたしで、よろしければ、ぜひ」
「あはは。ハルには毎週来させちゃってるから、小宮さんには申し訳ないな」
八城がさっき、私との関係性を否定しなかったからか、新崎は当然のごとく私を八城の交際相手として扱っている。気まずい気分になりつつ、グラウンドを眺めて、新崎に視線を戻した。
「いえ、すごく楽しそうで……。毎週来たくなる気持ちがわかります」
「小宮さんは本当に優しいからなあ~」
「いえいえ! そんな」
「ハルのこと、頼んます。意外とあれで、闘ってる男だから」
「闘っている?」
「うん。そう。実はあいつ、結構前から昇進を打診されてんだけど、受けてないんだわ」
「え……? そうなんですか」
八城は社内でも類を見ないほどに営業成績のいい社員だ。会社としても重役に起用するのは当然だと思う。
何度か、周りでも八城がリーダーから上の役職につかないことに疑問の声が上がっているのを耳にしたことがある。
「ハルは営業畑でずっとトップだろ。ほんと、入社して一年であそこまで、何のレクチャーもされずに這いあがった男だから、成績の芳しくない役職者から煙たがられてんだわ」
「そんなことが」
「そう。困ったよね。で、汚いやつはハルが目ぇかけてる後輩を攻撃して、無理なノルマ背負わせたりしてくるから、あいつも自分の分ならまだしも、部下の分はカバーしきれないし、結局出世欲もないから、受けないって周りに公言してんだ」
「そんな……、それは、だめです」
「はは。そうだよね。まあ、現場が好きってのと、単純に、そういう権力の匂いがするもんを嫌がってるのもあるだろうけど。……能天気な顔して、意外に胃ぃ痛くなるような立場で頑張ってんだわ。小宮さんも忙しそうだけど、お互い無理せず、こうやってガス抜きでもしに来てよ」
「権力の匂い……」
「ああ、まあそれは……」
「——明菜!」
真剣に聞き入っているうちに、遠くから声がかけられた。慌てて顔をあげると、呼びかけてきた八城と目があった。
「あ……」
「噂をすればなんとやら」
「壮馬さん、変なこと吹き込んでません?」
颯爽と走ってくる人を見上げているうちに、あっという間に目の前に立たれてしまった。
八城が茶化した声で言うと、新崎も、わざと悪い笑みを作って立ち上がる。
「それはお前の今までの生活態度次第だよな?」
「俺は超真面目に生きてますって」
「どうだか?」
「明菜ちゃんの前ではそういうことにしてください」
「はいはい。小宮さん、こいつに怖いことされたら、いつでも相談してね」
「え、あ、りがとう、ございます?」
「ん、じゃあ、ハルの邪魔すんなオーラがすっげえから、退散します」
けらけらと笑いながら新崎が歩き去ってしまう。その先に彼の子どもがいるのを見て、視線を八城に戻した。
「新崎課長が居てビビらせたよね」
「……びっくり、しました。交際相手だと思わせてしまって」
「あはは。それは別にいいよ」
「ええ? いいんですか」
「不都合ないし」
ないのだろうか。
八城は、絢瀬が好きだったはずだ。けれど、絢瀬には振られてしまっていることを新崎も知っているだろうから、もしかすると心配させないために、交際相手がいるように見せたのかもしれない。
「明菜ちゃん?」
考えれば簡単にわかることだった。すとんと理解できて、小さく息を吐いた。
勘違いしてしまいそうなくらい優しい人だから、誘惑だと分かっていてもたまに、本当に私のことを好きになってくれる気がしてしまう。とんでもなくおこがましい勘違いだ。
「八城さん、さっき、かっこよかったです」
「ん?」
「盗塁? ですよね。生で初めて見ました。すごかったです」
「お、その辺のルールは分かる?」
「いえ……、さっきまこちゃんに教わりました」
「はは、そっか。楽しんでるなら良かった。ぜんっぜんこっち来れなくてごめん。身体冷やしてない?」
「はい。八城さんにお借りした上着で、ぽかぽかです。……あ、お返ししますね」
「いや、そのまんま着てていいよ。ちょっとボール触る?」
「あ、……一緒に遊んでくださるんですか」
昨日宣言した通り、八城は私と遊んでくれるつもりらしい。うれしくなって笑ったら、八城が手を差し伸べてくれた。
「ん、もちろん。明菜ちゃんが嫌でなければ」
優しい手を取りながら、言い忘れていたことを思い出した。今日お弁当を作りながら思っていたことだ。
「野球のボールは、実はその」
「うん?」
「投げたこと、ないです」
ボールを投げたことはあっても、野球のボールは触ったこともない。真面目に伝えれば、ぱちぱちと瞼を瞬かせた八城が、吹き出すように笑って私の頭を撫でた。
「あはは、マジで球は触ったことなかったんだ」
「いえ! バスケットボールは、投げたことがあります」
「ふは、バスケね。じゃあ、初体験だ」
「……ご指導、よろしくお願いします」
「ん、手取り足取り丁寧に指導しますよ」
丁寧にと言った通り、八城の教え方は的確で、優しいものだった。まったく飛ばないへろへろの私の球を丁寧に拾って差し出してくれる。
私が投げるたびに毎回拾い上げて、戻ってきた八城が1つずつフォームを確認してくれる。
「明菜ちゃんは、もっと肩の力抜いて」
「は、い」
私の肩に手を置いた八城が、小さく笑って指摘してくれる。肩を上下に動かしてぐるぐると回したら、「もう一回投げてみて」と言われた。
「お、上手」
「すごい、まっすぐです」
「すげえな。明菜、飲みこみ早い」
「ぜんぜんそんなことないです。八城さんの教え方が上手なので……」
「いや、明菜が真面目にやるから」
「いえ、八城さんこそ真面目に教えてくださるから」
両者譲らない言い合いに気づいて、お互いに言葉が止まってしまった。同じタイミングで小さく噴き出し笑ったら、止まらなくなる。
「あー笑った。キャッチボールでもして、そろそろ飯食うか」
「あ、そうですね。よろしくお願いします」
八城と向き合って、緩いキャッチボールを続ける。
明日は間違いなく筋肉痛になってしまうだろうけれど、八城はそんな痛い目に遭うこともないだろう。
八城の身体から弾き出される綺麗なフォームに、目が釘付けになる。スポーツをする人の身体の動きが、こんなにもうつくしいとは知らなかった。しばらく2人でキャッチボールをしているあいだに、ぽつり、と頬に何かが当たった。
「あ……」
「うお、雨か」
「予報はなかったですけど……」
徐々に隙間なく振り落ち始める雨を見上げてから、八城の顔を見つめた。
「ハル! 土砂降りになるらしい! 今日は解散だわ!」
「壮馬さん、了解っす!」
新崎はすでに子ども二人を抱えて、帰り支度を始めているようだった。土砂降りになってしまう雰囲気はすこしもなかったけれど、本当に雨足がつよくなってきている。
「明菜、車戻ろう」
「はい」
迷わずに手を差し出されて、おずおずと自分のものを伸ばした。すこし前にベンチにかけたマウンテンパーカーを拾い上げた八城が、振り返って私の頭にかけてくれる。
「八城さんが濡れちゃう」
「俺は良いよ。着替えあるし」
「でも、」
「急ごう」
ほんのすこしの間に、宝石箱をひっくり返したかのような大粒の雨が降り注いでくる。
急いで車に戻って、ドアを開かれるまま、助手席に乗り込んだ。シートが汚れないように細心の注意を払って、座席に座り込む。
こんなときにもわざわざ助手席に私を乗せてから運転席についた八城は、すでに身体中がしとどに濡れてしまっている。
「八城さん、タオル、使ってください」
「あー、さんきゅ」
声をかければ、八城は躊躇いなく私が差し出したタオルで乱暴に髪の水気を拭って、豪快にシャツを脱いだ。
「きゃ、」
吃驚して、思わず悲鳴のような音が出てしまった。慌てて顔を逸らせば、後ろから小さく笑い声が聞こえる。
グラウンドで先輩方の子どもに囲まれて、つねに笑い続けている。
私はやはりまったくルールが分からないため、遊びについてきているだけらしい女の子たちと観戦をしていた。
新崎の家庭は兄妹でこの場に参加しているらしく、妹の真子はぴったりと私の隣にひっついている。
試合に行く前に八城が私の肩にかけてくれたマウンテンパーカーを一緒に羽織って、手を繋いでいた。
「あきなちゃんは、ハルくんのお嫁さん?」
「ええ?」
「ハルくんに、仲良くしてあげてって言われた~」
「あ、そうなんだ。ありがとう。うれしい」
「ふふ、あきなちゃん、かわいい」
「あはは。まこちゃんのほうがもーっとかわいいよ」
「へへへ」
私が通っていた女子校は、初等部との交流会を月一回、必ず開催していた。いまだにそのころの子たちとは交流が続いている。
卒業後は一度も触れ合う機会がなかったけれど、こうして見るとやはりどの子も、目に入れても痛くないと思えるほどにかわいいと思う。
思わず頬が緩んでしまっている。私の頬をつんつんと突いた真子が、私と同じく満面の笑みを浮かべていた。
「ハルくんのどこが好き?」
小学校低学年くらいから、女の子はすでにこの手の話題で盛り上がっているように思う。
真子も好きな男の子がいるのだろうか。きらきらと輝く目に見つめられて、答えに窮してしまった。
「ふふ、まこちゃんは、や……、ハルくんのどういうところが好き?」
「え~、まこ? うーん。足がすっごくはやい」
「ふふ、かっこいいね」
「うん、あとおっきい!」
「本当だ。すっごく大きいね」
「優しい」
「うんうん。そうだね。私も、すごく優しいなあって思う」
「あ! 見て! ハルくん走ってる!」
真子の言葉の通り、男の子を抱えて走る八城が、どっと場を沸かせていた。
「とうるいだ! すごい!」
真子と一緒になって「すごいね」と言えば、まんまるい笑みを浮かべた真子が「あ!」とグラウンドを指さした。
「うん? あ……」
子どもを塁に下ろした八城が、こちらを見つめている。微かに目が合ったような気がした瞬間に親指を立てて、グッドサインを送ってくれる。
「あきなちゃんにしてくれてる!」
「そう、かな?」
「うん!」
真子にしたのではないかと一瞬思い込みつつ両手で同じポーズをとって見せたら、ここからでもわかるくらいに嬉しそうな顔で笑われてしまった。
「ラブラブ?」
「ら、」
「ラブラブだな~?」
吃驚して言葉に詰まっているうちに後ろから男性の声がかけられた。振り返って、その場にいる人が、真子の父——新崎壮馬であることに気づく。
「あ、お父さん!」
「真子、里奈ちゃんに遊ぼって呼ばれてたぞ~」
「あ、行かなきゃ」
「はいはい、いってらっしゃい」
真子を呼びに来たらしい新崎が、慌てて走り去っていく娘の姿を見送って、とくにためらうことなく私の横に座り込んだ。
「あ、お疲れ様です」
「ん、うちの子の面倒見てくれてありがとう」
「いえいえ、私こそ、遊んでもらっていました」
「小宮さんにすっかり懐いちゃって。また遊びに来てね」
「……わたしで、よろしければ、ぜひ」
「あはは。ハルには毎週来させちゃってるから、小宮さんには申し訳ないな」
八城がさっき、私との関係性を否定しなかったからか、新崎は当然のごとく私を八城の交際相手として扱っている。気まずい気分になりつつ、グラウンドを眺めて、新崎に視線を戻した。
「いえ、すごく楽しそうで……。毎週来たくなる気持ちがわかります」
「小宮さんは本当に優しいからなあ~」
「いえいえ! そんな」
「ハルのこと、頼んます。意外とあれで、闘ってる男だから」
「闘っている?」
「うん。そう。実はあいつ、結構前から昇進を打診されてんだけど、受けてないんだわ」
「え……? そうなんですか」
八城は社内でも類を見ないほどに営業成績のいい社員だ。会社としても重役に起用するのは当然だと思う。
何度か、周りでも八城がリーダーから上の役職につかないことに疑問の声が上がっているのを耳にしたことがある。
「ハルは営業畑でずっとトップだろ。ほんと、入社して一年であそこまで、何のレクチャーもされずに這いあがった男だから、成績の芳しくない役職者から煙たがられてんだわ」
「そんなことが」
「そう。困ったよね。で、汚いやつはハルが目ぇかけてる後輩を攻撃して、無理なノルマ背負わせたりしてくるから、あいつも自分の分ならまだしも、部下の分はカバーしきれないし、結局出世欲もないから、受けないって周りに公言してんだ」
「そんな……、それは、だめです」
「はは。そうだよね。まあ、現場が好きってのと、単純に、そういう権力の匂いがするもんを嫌がってるのもあるだろうけど。……能天気な顔して、意外に胃ぃ痛くなるような立場で頑張ってんだわ。小宮さんも忙しそうだけど、お互い無理せず、こうやってガス抜きでもしに来てよ」
「権力の匂い……」
「ああ、まあそれは……」
「——明菜!」
真剣に聞き入っているうちに、遠くから声がかけられた。慌てて顔をあげると、呼びかけてきた八城と目があった。
「あ……」
「噂をすればなんとやら」
「壮馬さん、変なこと吹き込んでません?」
颯爽と走ってくる人を見上げているうちに、あっという間に目の前に立たれてしまった。
八城が茶化した声で言うと、新崎も、わざと悪い笑みを作って立ち上がる。
「それはお前の今までの生活態度次第だよな?」
「俺は超真面目に生きてますって」
「どうだか?」
「明菜ちゃんの前ではそういうことにしてください」
「はいはい。小宮さん、こいつに怖いことされたら、いつでも相談してね」
「え、あ、りがとう、ございます?」
「ん、じゃあ、ハルの邪魔すんなオーラがすっげえから、退散します」
けらけらと笑いながら新崎が歩き去ってしまう。その先に彼の子どもがいるのを見て、視線を八城に戻した。
「新崎課長が居てビビらせたよね」
「……びっくり、しました。交際相手だと思わせてしまって」
「あはは。それは別にいいよ」
「ええ? いいんですか」
「不都合ないし」
ないのだろうか。
八城は、絢瀬が好きだったはずだ。けれど、絢瀬には振られてしまっていることを新崎も知っているだろうから、もしかすると心配させないために、交際相手がいるように見せたのかもしれない。
「明菜ちゃん?」
考えれば簡単にわかることだった。すとんと理解できて、小さく息を吐いた。
勘違いしてしまいそうなくらい優しい人だから、誘惑だと分かっていてもたまに、本当に私のことを好きになってくれる気がしてしまう。とんでもなくおこがましい勘違いだ。
「八城さん、さっき、かっこよかったです」
「ん?」
「盗塁? ですよね。生で初めて見ました。すごかったです」
「お、その辺のルールは分かる?」
「いえ……、さっきまこちゃんに教わりました」
「はは、そっか。楽しんでるなら良かった。ぜんっぜんこっち来れなくてごめん。身体冷やしてない?」
「はい。八城さんにお借りした上着で、ぽかぽかです。……あ、お返ししますね」
「いや、そのまんま着てていいよ。ちょっとボール触る?」
「あ、……一緒に遊んでくださるんですか」
昨日宣言した通り、八城は私と遊んでくれるつもりらしい。うれしくなって笑ったら、八城が手を差し伸べてくれた。
「ん、もちろん。明菜ちゃんが嫌でなければ」
優しい手を取りながら、言い忘れていたことを思い出した。今日お弁当を作りながら思っていたことだ。
「野球のボールは、実はその」
「うん?」
「投げたこと、ないです」
ボールを投げたことはあっても、野球のボールは触ったこともない。真面目に伝えれば、ぱちぱちと瞼を瞬かせた八城が、吹き出すように笑って私の頭を撫でた。
「あはは、マジで球は触ったことなかったんだ」
「いえ! バスケットボールは、投げたことがあります」
「ふは、バスケね。じゃあ、初体験だ」
「……ご指導、よろしくお願いします」
「ん、手取り足取り丁寧に指導しますよ」
丁寧にと言った通り、八城の教え方は的確で、優しいものだった。まったく飛ばないへろへろの私の球を丁寧に拾って差し出してくれる。
私が投げるたびに毎回拾い上げて、戻ってきた八城が1つずつフォームを確認してくれる。
「明菜ちゃんは、もっと肩の力抜いて」
「は、い」
私の肩に手を置いた八城が、小さく笑って指摘してくれる。肩を上下に動かしてぐるぐると回したら、「もう一回投げてみて」と言われた。
「お、上手」
「すごい、まっすぐです」
「すげえな。明菜、飲みこみ早い」
「ぜんぜんそんなことないです。八城さんの教え方が上手なので……」
「いや、明菜が真面目にやるから」
「いえ、八城さんこそ真面目に教えてくださるから」
両者譲らない言い合いに気づいて、お互いに言葉が止まってしまった。同じタイミングで小さく噴き出し笑ったら、止まらなくなる。
「あー笑った。キャッチボールでもして、そろそろ飯食うか」
「あ、そうですね。よろしくお願いします」
八城と向き合って、緩いキャッチボールを続ける。
明日は間違いなく筋肉痛になってしまうだろうけれど、八城はそんな痛い目に遭うこともないだろう。
八城の身体から弾き出される綺麗なフォームに、目が釘付けになる。スポーツをする人の身体の動きが、こんなにもうつくしいとは知らなかった。しばらく2人でキャッチボールをしているあいだに、ぽつり、と頬に何かが当たった。
「あ……」
「うお、雨か」
「予報はなかったですけど……」
徐々に隙間なく振り落ち始める雨を見上げてから、八城の顔を見つめた。
「ハル! 土砂降りになるらしい! 今日は解散だわ!」
「壮馬さん、了解っす!」
新崎はすでに子ども二人を抱えて、帰り支度を始めているようだった。土砂降りになってしまう雰囲気はすこしもなかったけれど、本当に雨足がつよくなってきている。
「明菜、車戻ろう」
「はい」
迷わずに手を差し出されて、おずおずと自分のものを伸ばした。すこし前にベンチにかけたマウンテンパーカーを拾い上げた八城が、振り返って私の頭にかけてくれる。
「八城さんが濡れちゃう」
「俺は良いよ。着替えあるし」
「でも、」
「急ごう」
ほんのすこしの間に、宝石箱をひっくり返したかのような大粒の雨が降り注いでくる。
急いで車に戻って、ドアを開かれるまま、助手席に乗り込んだ。シートが汚れないように細心の注意を払って、座席に座り込む。
こんなときにもわざわざ助手席に私を乗せてから運転席についた八城は、すでに身体中がしとどに濡れてしまっている。
「八城さん、タオル、使ってください」
「あー、さんきゅ」
声をかければ、八城は躊躇いなく私が差し出したタオルで乱暴に髪の水気を拭って、豪快にシャツを脱いだ。
「きゃ、」
吃驚して、思わず悲鳴のような音が出てしまった。慌てて顔を逸らせば、後ろから小さく笑い声が聞こえる。
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