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本編
08. 名を呼ぶ距離
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宿舎に着くころには、夕暮れが雪雲の端を朱に染めていた。冷えた指で記録具と報告書の下書きを机に広げると、背後に気配が立つ。
「今日はよく動いたな」
影の主が肩に触れ、冷えを溶かすように魔力を流し込む。その温もりは、骨まで染みる。
「最近入った天城という男……あれに、かまいすぎではないか?」
「新人のフォローは副隊長の務めです」
「かまいすぎといえば、リュカ=ヴァレリウス。あれには近づくな」
「何のことです?」
軽く返すと、彼はただ静かに、しかし真剣な目で僕を見つめていた。その瞳の奥に、懐かしさにも似た痛みと、深く澱む警戒――そんな気配が一瞬、揺らいだ気がした。
けれど、次の瞬間にはそれも消え、いつもの穏やかな微笑みに戻っていた。
そこに、扉を叩く音がした。影がそっと気配を消す。
「東雲副隊長、天城レオニスです。お疲れのところすみません、今少しお時間よろしいですか」
こんな時間に何の用だろう――そう思いながら扉を開けた。
「……天城君。何か御用でしょうか」
訪ねながら彼の顔を見ると、頬がわずかに赤い。
「いえ、その……」
言葉を探しているのがわかる。扉の隙間から、冷気がふわりと流れ込んだ。
「立ち話では冷えます。中に入ってください」
そう告げると、天城の肩がわずかに揺れた。驚いたように瞬きをし、視線を落とす。
「……へ、部屋に……入ってもよろしいんですか」
その一言が少し掠れていたのを、聞き逃さなかった。
「問題ありません。このままでは二人とも風邪をひきます」
「あっ……」
らしくなくまごつく様子を意外に思いながらも、彼の手首を軽く引き部屋へ招き入れる。
「そちらの椅子をお使いください」
着席を促し、薬草茶を用意する。苦味のある香りがゆっくりと部屋に広がっていった。
「これは……?」
「薬草茶です。体調がよくないように見えたので、どうぞ」
「ありがとうございます。……いただきます」
木椅子に腰を下ろした天城は、湯気の向こうでほっと息をつく。両手で茶器を包み、恐る恐る口をつけ――
「……げほっ。に、苦い……!」
「薬草茶ですから、苦いのは当然です」
むせる背に軽く手を添えると、彼の身体がわずかに跳ねた。
「天城君?」
「す、すみません……少し驚いてしまって」
「疲れているのでしょう。あまり無理はしないように」
「……はい。あの……ありがとうございます。今日はたくさん助けていただいて」
視線はカップに落としたまま。指先が、わずかに震えていた。その言葉で、やっと礼を言いに来たのだと気づく。
「気にする必要はありません。副隊長として当然のことをしたまでです」
口ではそう答えながらも、真正面から感謝を伝えられる彼の素直さを好ましく思った。
「それでも……戦闘中に助けていただいたのも、帰路で体調不良に気づいてくださったのも、東雲副隊長でした。だから……本当にありがとうございました。次はもっと訓練して、隊の足を引っ張らないよう努力します」
静かな声に滲む熱は、茶の湯気よりもはっきりと伝わってきた。
茶の湯気が、ふわりと二人のあいだを流れていく。天城は湯気の向こうから、ためらいがちに口を開いた。
「失礼ですが、副隊長はおいくつなんですか」
「二十五歳です」
「えっ……二十五、ですか?」
思いがけない反応に、僕は首を傾げる。
「はい、そうですが……何か問題でも?」
「いえ、その……あまりにも落ち着いているので。もっと上かと」
「老けていると思いましたか?」
「い、いえ! 決して悪い意味ではなくて……!」
慌てて両手を振る様子が、年相応で少しおかしい。思わず口元が緩む。
「口調もすごく落ち着いていて……あ、そういえば副隊長は任務の最中と普段とで、話し方が違いますね」
「確かにそうですね。任務中はどうしても指示をはっきり出す必要がありますから。おかしいでしょうか」
「いえ、すごく……かっこいいです」
不意に向けられた言葉に、返す声がわずかに掠れた。湯気の熱のせいか、頬が少し火照る。
「そ、そうでしょうか……」
天城は視線を伏せたまま、茶器を指先でなぞる。沈黙が落ち、部屋の外で風が鳴った。
やがて、彼が息を整えるように小さく囁いた。
「……あの、副隊長は、年下の男って……どう思いますか」
「年下の……? 特に何も。仲間の年齢は気にしていません」
「そ、そういう意味じゃなくて……年下の男に、魅力を感じますか」
問いの響きが、やけに真っ直ぐだった。意味を測りかねて、僕は言葉を失う。
天城は顔を上げないまま、茶の湯気に隠れるように小さく笑った。その笑みは照れとも焦りともつかず、けれど確かに熱を帯びていた。
返す言葉を探していると、扉を叩く音がした。
「千景、私だ」
低く穏やかな声。ヴァレリウス隊長だ。
扉を開けると、いつものようにためらいもなく距離を詰めてきて、肩や髪に指先が触れる。
「今回もご苦労だったな。長時間の馬移動は久しぶりだろう、身体は疲れていないか」
「……お気遣いなく」
視界の端に、椅子に座る天城の姿が映る。その存在を意識し、腰に伸びてきた隊長の手をそっと避けた。
「今回の報告書だが、途中までで構わない。私が提出しよう」
「ですが――」
言いかけた言葉を、やわらかな笑みが遮る。
「今回の報告書は新人に任せてみようと思う。君もその分少し休め――千景、隈が酷いな」
頬をなぞる指先に、一瞬、熱が集まる。
「……ヴァレリウス隊長、それなら俺が」
背後から声がして、天城が立ち上がる。
その瞬間、隊長の視線が初めて彼をとらえ、わずかに細められた。僕と天城を一度見比べ、それから探るように口を開く。
「……天城か。なぜ副隊長の部屋に?」
「それは……」
「任務についての指導をしていました。こちらは報告書の下書きです」
なぜか隊長には知られたくなくて、とっさに嘘をついた。
「指導、か……今日はもう遅いので二人とも早く休むように。天城、今回は別の新人に任せるが、次は頼む」
報告書を受け取り、視線を一度だけ僕に戻し、隊長は去っていった。
静けさが戻ると、天城は小さく息をつき、茶を飲み干した。
「……すみません、さきほどは出しゃばってしまって」
「気にすることはないです」
首を振ると、彼は少し間を置き、探るように視線を向けてきた。
「東雲副隊長は……ヴァレリウス隊長と仲がいいんですか?」
思わぬ問いに、言葉が止まる。
「……仲が悪いということはないと思います。一緒に任務をするようになって、もう五年になるので」
「隊長は、副隊長のことを“千景”って呼び捨てにしてましたし、副隊長もこの前“リュカ隊長”と呼んでいました」
「長い付き合いなので。特に呼び方に深い意味はないです。それに、任務中はちゃんと“ヴァレリウス隊長”と呼んでいます」
「でも、隊長は任務中でも"千景"と呼んでいましたよ」
否定しかけて、口をつぐむ。確かに、そういうこともあった。
天城はさらに一歩、間合いを詰める。
「……特に深い意味はないのなら、俺も呼んでいいですか。“千景さん”って」
心臓がひとつ、大きく跳ねる。
「……任務中以外なら、好きに呼んでもらって構いません」
許可を出すと、彼は間髪入れずに重ねてきた。
「じゃあ、俺のこともファーストネームで呼んでください」
「……わかりました。任務以外では“レオニス君”と呼びましょう」
彼の表情がわずかに不満を帯びる。
「レオニス君……じゃ、まだちょっと距離があります。“レオ”って呼んでください」
その声は、頼みというより要求に近かった。
「……こだわるんですね」
「はい。大事なんです」
真っ直ぐな視線が、目を逸らす隙を与えてくれない。
「……わかりました。任務以外では“レオ”と呼びます」
返した途端、彼の口元が緩み、光が差したように明るくなる。
「ありがとうございます! 約束ですからね! それでは、俺もそろそろ失礼します。今日は、本当にお世話になりました。お茶もご馳走様でした」
深く会釈し、レオが背を向ける。
扉が閉まると、部屋の隅で影が揺れ、赤紫の瞳を持つ彼が姿を現す。
「……”レオ”か、やはりずいぶんとお前に懐いているな」
「新人が上官と早く馴染もうとするのは、珍しいことではありません」
彼はそれ以上何も言わず、ただこちらをじっと見ていた。
***
【作者コメント】
次話では、屈託のない笑顔に凍てついた心が少しずつ解けていき、
それが何かは知らぬまま、千景は静かに決意を固めます。
***
「今日はよく動いたな」
影の主が肩に触れ、冷えを溶かすように魔力を流し込む。その温もりは、骨まで染みる。
「最近入った天城という男……あれに、かまいすぎではないか?」
「新人のフォローは副隊長の務めです」
「かまいすぎといえば、リュカ=ヴァレリウス。あれには近づくな」
「何のことです?」
軽く返すと、彼はただ静かに、しかし真剣な目で僕を見つめていた。その瞳の奥に、懐かしさにも似た痛みと、深く澱む警戒――そんな気配が一瞬、揺らいだ気がした。
けれど、次の瞬間にはそれも消え、いつもの穏やかな微笑みに戻っていた。
そこに、扉を叩く音がした。影がそっと気配を消す。
「東雲副隊長、天城レオニスです。お疲れのところすみません、今少しお時間よろしいですか」
こんな時間に何の用だろう――そう思いながら扉を開けた。
「……天城君。何か御用でしょうか」
訪ねながら彼の顔を見ると、頬がわずかに赤い。
「いえ、その……」
言葉を探しているのがわかる。扉の隙間から、冷気がふわりと流れ込んだ。
「立ち話では冷えます。中に入ってください」
そう告げると、天城の肩がわずかに揺れた。驚いたように瞬きをし、視線を落とす。
「……へ、部屋に……入ってもよろしいんですか」
その一言が少し掠れていたのを、聞き逃さなかった。
「問題ありません。このままでは二人とも風邪をひきます」
「あっ……」
らしくなくまごつく様子を意外に思いながらも、彼の手首を軽く引き部屋へ招き入れる。
「そちらの椅子をお使いください」
着席を促し、薬草茶を用意する。苦味のある香りがゆっくりと部屋に広がっていった。
「これは……?」
「薬草茶です。体調がよくないように見えたので、どうぞ」
「ありがとうございます。……いただきます」
木椅子に腰を下ろした天城は、湯気の向こうでほっと息をつく。両手で茶器を包み、恐る恐る口をつけ――
「……げほっ。に、苦い……!」
「薬草茶ですから、苦いのは当然です」
むせる背に軽く手を添えると、彼の身体がわずかに跳ねた。
「天城君?」
「す、すみません……少し驚いてしまって」
「疲れているのでしょう。あまり無理はしないように」
「……はい。あの……ありがとうございます。今日はたくさん助けていただいて」
視線はカップに落としたまま。指先が、わずかに震えていた。その言葉で、やっと礼を言いに来たのだと気づく。
「気にする必要はありません。副隊長として当然のことをしたまでです」
口ではそう答えながらも、真正面から感謝を伝えられる彼の素直さを好ましく思った。
「それでも……戦闘中に助けていただいたのも、帰路で体調不良に気づいてくださったのも、東雲副隊長でした。だから……本当にありがとうございました。次はもっと訓練して、隊の足を引っ張らないよう努力します」
静かな声に滲む熱は、茶の湯気よりもはっきりと伝わってきた。
茶の湯気が、ふわりと二人のあいだを流れていく。天城は湯気の向こうから、ためらいがちに口を開いた。
「失礼ですが、副隊長はおいくつなんですか」
「二十五歳です」
「えっ……二十五、ですか?」
思いがけない反応に、僕は首を傾げる。
「はい、そうですが……何か問題でも?」
「いえ、その……あまりにも落ち着いているので。もっと上かと」
「老けていると思いましたか?」
「い、いえ! 決して悪い意味ではなくて……!」
慌てて両手を振る様子が、年相応で少しおかしい。思わず口元が緩む。
「口調もすごく落ち着いていて……あ、そういえば副隊長は任務の最中と普段とで、話し方が違いますね」
「確かにそうですね。任務中はどうしても指示をはっきり出す必要がありますから。おかしいでしょうか」
「いえ、すごく……かっこいいです」
不意に向けられた言葉に、返す声がわずかに掠れた。湯気の熱のせいか、頬が少し火照る。
「そ、そうでしょうか……」
天城は視線を伏せたまま、茶器を指先でなぞる。沈黙が落ち、部屋の外で風が鳴った。
やがて、彼が息を整えるように小さく囁いた。
「……あの、副隊長は、年下の男って……どう思いますか」
「年下の……? 特に何も。仲間の年齢は気にしていません」
「そ、そういう意味じゃなくて……年下の男に、魅力を感じますか」
問いの響きが、やけに真っ直ぐだった。意味を測りかねて、僕は言葉を失う。
天城は顔を上げないまま、茶の湯気に隠れるように小さく笑った。その笑みは照れとも焦りともつかず、けれど確かに熱を帯びていた。
返す言葉を探していると、扉を叩く音がした。
「千景、私だ」
低く穏やかな声。ヴァレリウス隊長だ。
扉を開けると、いつものようにためらいもなく距離を詰めてきて、肩や髪に指先が触れる。
「今回もご苦労だったな。長時間の馬移動は久しぶりだろう、身体は疲れていないか」
「……お気遣いなく」
視界の端に、椅子に座る天城の姿が映る。その存在を意識し、腰に伸びてきた隊長の手をそっと避けた。
「今回の報告書だが、途中までで構わない。私が提出しよう」
「ですが――」
言いかけた言葉を、やわらかな笑みが遮る。
「今回の報告書は新人に任せてみようと思う。君もその分少し休め――千景、隈が酷いな」
頬をなぞる指先に、一瞬、熱が集まる。
「……ヴァレリウス隊長、それなら俺が」
背後から声がして、天城が立ち上がる。
その瞬間、隊長の視線が初めて彼をとらえ、わずかに細められた。僕と天城を一度見比べ、それから探るように口を開く。
「……天城か。なぜ副隊長の部屋に?」
「それは……」
「任務についての指導をしていました。こちらは報告書の下書きです」
なぜか隊長には知られたくなくて、とっさに嘘をついた。
「指導、か……今日はもう遅いので二人とも早く休むように。天城、今回は別の新人に任せるが、次は頼む」
報告書を受け取り、視線を一度だけ僕に戻し、隊長は去っていった。
静けさが戻ると、天城は小さく息をつき、茶を飲み干した。
「……すみません、さきほどは出しゃばってしまって」
「気にすることはないです」
首を振ると、彼は少し間を置き、探るように視線を向けてきた。
「東雲副隊長は……ヴァレリウス隊長と仲がいいんですか?」
思わぬ問いに、言葉が止まる。
「……仲が悪いということはないと思います。一緒に任務をするようになって、もう五年になるので」
「隊長は、副隊長のことを“千景”って呼び捨てにしてましたし、副隊長もこの前“リュカ隊長”と呼んでいました」
「長い付き合いなので。特に呼び方に深い意味はないです。それに、任務中はちゃんと“ヴァレリウス隊長”と呼んでいます」
「でも、隊長は任務中でも"千景"と呼んでいましたよ」
否定しかけて、口をつぐむ。確かに、そういうこともあった。
天城はさらに一歩、間合いを詰める。
「……特に深い意味はないのなら、俺も呼んでいいですか。“千景さん”って」
心臓がひとつ、大きく跳ねる。
「……任務中以外なら、好きに呼んでもらって構いません」
許可を出すと、彼は間髪入れずに重ねてきた。
「じゃあ、俺のこともファーストネームで呼んでください」
「……わかりました。任務以外では“レオニス君”と呼びましょう」
彼の表情がわずかに不満を帯びる。
「レオニス君……じゃ、まだちょっと距離があります。“レオ”って呼んでください」
その声は、頼みというより要求に近かった。
「……こだわるんですね」
「はい。大事なんです」
真っ直ぐな視線が、目を逸らす隙を与えてくれない。
「……わかりました。任務以外では“レオ”と呼びます」
返した途端、彼の口元が緩み、光が差したように明るくなる。
「ありがとうございます! 約束ですからね! それでは、俺もそろそろ失礼します。今日は、本当にお世話になりました。お茶もご馳走様でした」
深く会釈し、レオが背を向ける。
扉が閉まると、部屋の隅で影が揺れ、赤紫の瞳を持つ彼が姿を現す。
「……”レオ”か、やはりずいぶんとお前に懐いているな」
「新人が上官と早く馴染もうとするのは、珍しいことではありません」
彼はそれ以上何も言わず、ただこちらをじっと見ていた。
***
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次話では、屈託のない笑顔に凍てついた心が少しずつ解けていき、
それが何かは知らぬまま、千景は静かに決意を固めます。
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