僕は勇者に救われたくない

御堂あゆこ

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本編

26. 揺らぐ剣

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 あの夜のことには、リュカ隊長とは互いに触れないまま、数日が過ぎていた。
 任務の合間に交わす会話も淡々としたものばかりで、余白に残ったざわめきは置き去りにされたままだった。

 作戦室の机上の地図には、魔力濃度の揺らぎを示す符号が散らされている。
「氷痕が残った北部斜面には、火属性と格闘に長けた先頭班を。回復系の多い班は、暴走時に集落へ退避した住民の護衛につけるべきです」
 僕がそう告げると、リュカ隊長はしばらく黙し、やがてゆるやかに頷いた。
「……やはり君は鋭いな。細部まで目が届く。私には到底できない観察だ」
 その声色は穏やかで、口元には柔らかな笑みがあった。だが、そのやさしい響きの裏に、どうしても拭えない影が差している気がした。
 あの夜に見た情景を思い出せば、どんな彼の言葉も虚ろに響く。
「……恐縮です」
 形だけ頭を下げ、視線を伏せた。

 ◇

 会議が終了し、廊下に出たとたん、空気が冷たく感じられた。
 いつの間にか季節は秋へと移り、窓の外では枯葉が風に舞っている。
 冷えた石の壁がひやりと頬を撫でた。
 ふと、灯火に揺れる影のひとつが動いた。クロウリーが壁に凭れ、灯火の下で口元を歪めている。

「隊長のそばにいられて、幸せでしょう」
 湿った風のような声。僕にだけ聞こえる低さで囁かれた。
「でも、愛されているのは俺ですよ。あの人は俺にだけ本音を言う。……あなたのことは“ただの道具”だと言ってました」

 視界が揺れた。
 ――衣擦れの音、押し殺した声。あのときの情事の光景が閃き、息が乱れる。
「必死に抑える顔が滑稽だって。……笑っていましたよ」
 呼吸が浅くなり、足がすくんだ。石壁の冷たさが背中を縫いつける。
 そのとき、赤紫の気配が滲んだ。
 香煙のような温もりが背中を撫で、声なき囁きが“大丈夫だ”と伝えてくる。
 乱れていた呼吸が、少しずつ静まっていく。

 僕は顔を上げ、静かに告げた。
「……用件は、それだけですか」
 クロウリーの目がわずかに見開かれるのを横目に、背を向けた。

 ◇

 夜の訓練場は、すっかり冷えきっていた。
 ――ただの道具。
 クロウリーの吐いた言葉がまだ耳にこびりついていた。
 何も感じていないふりをしても、静まらない。

 額から伝う汗が塩辛く唇に触れるたび、苛立ちを切り捨てるように訓練用の剣を握る手に力を込めた。
 剣を振り下ろす音のあとに、別の衣擦れが重なった。
 目だけ向けると、月を背にしたリュカ隊長が立っていた。
 今最も会いたくない人物。その輪郭を感じ、無意識に歯を食いしばる。

 気づかぬふりで素振りを続ける。
「こんな時間に一人で鍛錬か……精が出るな」
「……お気遣いなく」
 話しかけられる隙を与えたくない。
 返事を終えると、再び剣に集中した。切っ先が空気を裂き、夜の静寂にひゅうと音が残る。

 月明かりに映る影が、じりじりと近づいてくる。
 それでも剣筋にだけ意識を注ぎ続けた。
 額から滴る汗が頬を伝い、顎の先から土に落ちる。

「君は真面目だな」
 声が、思った以上に近い。
 息が触れるほどの距離に気づいた瞬間、反射的に剣先を彼に向けていた。
 リュカ隊長は立ち止まり、目を細めて苦笑した。
「……そう身構えることはない。私は君に怪我をさせるつもりはないよ」
 その声音は穏やかで、むしろ宥めるようだった。それでも僕は何も答えなかった。

***
【作者コメント】
ここまで読んでくださりありがとうございます。
次話では、月光の下で交わされた剣が、千景の心だけでなく、その身体までも追い詰めていきます。
***
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