僕は勇者に救われたくない

御堂あゆこ

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本編

34. 欺きの口づけ

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 リュカの私室は、静寂そのものだった。
 薄く焚かれた香の煙が天井に漂い、銀色の薄布がわずかに揺れる。
 夜風ではない。気配を遮る結界が、僕の訪れを察して緩んだのだ。

「……失礼します」
 低く声を落として扉を閉めると、奥の椅子に座る彼と視線が合った。
 軍服の襟を指で軽く緩め、脚を組んだ姿勢のまま、余裕の笑みを浮かべている。

「千景か。君のほうから会いに来てくれるなんて、珍しいな。もう……機嫌は直ったのか?」
 含みを帯びた視線が、足先から喉元までを舐めるように這い上がってくる。
 応えずに歩み寄ると、彼はゆるやかに立ち上がり、ためらいもなく僕の頬に触れた。
 顎をとられ、唇が重なる。
 拒まなかった。むしろ、従順に応じた。――彼の魔力を確かめるために。

 唇を押し当てられるたびに、皮膚の下がざわりと震える。
 記憶にある、あの冷たく濁った、どこか硝子のように鋭い魔力。
 舌が割って入り、湿った熱が喉の奥に落ちていく。
 濃密な吐息が絡みつき、ぞくりとした感覚に息を呑む。

「……今日の君は、随分素直だ」
 囁きが耳を掠め、背筋に微かな震えが走る。
 ――やはり、この魔力だ。
 命が奪われた数々の現場に残されていた魔力と、彼の中に潜むそれは、完全に一致していた。

 額をすり寄せて、彼は微笑んだ。
「……君が自ら私を受け入れに来るなんて、夢みたいだ」
 耳朶を舐め、吐息を吹きかけながら低く問う。
「……っ!」
 一瞬、背中の奥がぞわりと痺れ、唇の奥に名残の熱が滲む。
 ……これは“恐怖”なのか、それとも。

「ねえ千景、何か言いたいことがあって来たんじゃないのか?」
 僕は息を整え、静かに告げた。
「――あなたが、魔力暴走を引き起こしていたんですね」
 彼は眉ひとつ動かさず、唇の端を持ち上げた。
「……やっぱり、気づいたか。君は本当に鋭い」
「認めるんですね」
「私が認めたとして――それで? 君の言葉と、私の言葉。どちらが信用されると思う?」
 嘲るような声のあと、頬をなぞった掌が氷のように冷たかった。
「どうせ、魔力の残滓を辿っただけだろう? そんなもの、“証拠”にはならない」
「あなたの目的は、何ですか」
「君と同じさ、千景。世界を救いたい――私なりに、ね」
 彼は目を伏せ、まるで懐かしむように語り出す。
「人は、元は“怒り”と“憎しみ”の炎から生まれた。理性だの秩序だのは、薄い膜で覆っただけの幻想だ。笑いながら裏切り、祈りながら殺し合う――それが本来の姿だろう?」
 僕は黙って彼の言葉を聞いていた。抑揚のない声が、逆に底知れない。
「だから、私は戻すんだよ。世界を、本来の姿へ。そのためには、“魔王”が必要だった」
「……魔王?」
「そうだ、千景。君は出会った時から特別だった。君の中には、純粋な“負の感情”が眠っていた。そして、私の直観を肯定するように、君の傍に“魔王になりうる核”があった」
 息を飲む。首筋に触れた指を、僕は払いのけた。

「……もう、騙されません」
 リュカは笑った。
「君が私を告発するなら、それでもいい。どちらが信じてもらえるか、試してみようか?」
「あなたを止めます」
「ふふ。できるものならね」
 背を向け、扉に手をかける。
 香の煙が流れ込み、指先を撫でた。
 その刹那――背中に、氷のような視線が突き刺さった。

***
【作者コメント】
 ここまで読んでくださりありがとうございます。
 次話では、静寂の帳の中で、まだ名を持たぬ“彼”と向き合います
***
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