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本編
36. すれ違う正義
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翌朝、軍本部の回廊には、ざわめきが渦巻いていた。
朝礼の鐘より早く、機密区画の扉が開閉を繰り返し、高官たちが慌ただしく出入りする。人払いされた廊下を、書類を抱えた補佐官が幾人も駆けていった。
――何かが、動き始めている。
僕は足を止め、壁の陰へと身を寄せる。
遠目に見えたのは、リュカ=ヴァレリウスの姿だった。
濃紺の制服を纏い、微笑みすら浮かべながら、整然と指示を飛ばしている。
ほどなく機密通達が張り出された。
『北方山脈周辺にて魔王反応を観測。強度は微弱だが従来の魔力波とは異質の構造を有す。上層部は重要事象と判断、追加調査を決定』
――リュカが、先手を打った。
“魔王の気配”。それが何を意味するのか、痛いほどわかっていた。
路を行き交う兵士たちの断片的な会話が耳に入る。
「……見たか、あの通達。魔王反応だってさ」
「しかも、隠されてた痕跡があるらしい。誰かがわざと消したって話だ」
「内部に“内通者”がいるとか……」
「いやいや、それってつまり――誰かが魔王側に味方してるってことか?」
「さあな……でも、幹部の一人がそう言ってたって噂だぜ」
ざらついた噂が、空気を煙らせる。リュカは巧妙に“噂”という煙を放ち、こちらを燻している。
自分の罪を覆い隠しながら、僕の逃げ場をじわじわと奪うために。
――あの人は、僕を試している。
証拠がない今、下手に動けば自ら疑念の渦に飛び込むことになる。
上官である彼の言葉は、僕の訴えよりも重く扱われるだろう。
あの人が一言、”東雲が怪しい”と言えば、今の僕は一瞬で崩れる。守るべき存在ごと、呑まれてしまう。
それでも、世界が彼を“魔王”と断じ、存在ごと否定しようとするのなら――せめて僕だけは、違う名で呼びたい。
かつて、僕が蘇芳に救われたように、今度は僕が、彼のありのままを肯定したい。
回廊を歩いていると、背後から聞き慣れた足音が近づき、名前が呼ばれた。
「千景さん!」
「……レオ」
いつもと変わらぬ真っ直ぐさで、風を切るように駆けてくる。
少し息を弾ませながら眉を寄せると、確かめるように僕の顔色を覗き込んだ。
「顔色……あまり良くないですね。ちゃんと食べてます?」
言葉を待たず、するりと伸びた指が僕の左目の下に触れる。
「……隈、できてますよ」
あまりに自然な仕草に、僕は虚を突かれた。
「……っ」
わずかに身体が強ばる。けれど、拒むこともできず、されるがままになってしまう。
彼の指先は思いのほか温かく、触れたところがじんわりと熱を帯びた。
頬にかかる視線はどこまでも真剣で、悪気のかけらもない。
「やっぱり疲れてますよね。あんまり無理しすぎないでください。千景さんは、つい頑張りすぎるから」
こちらの動揺に気付かないまま、彼はやわらかく笑った。
そのやさしさが胸に染みると同時に、苦しかった。
「……ありがとう。でも、本当に平気です。少し、寝不足なだけで」
つい作り笑いで返すと、レオは眉を曇らせつつも話題を変えた。
「王都の北で魔王反応が観測されたって聞きましたか?」
内心の動揺を悟られないよう、無理に歩を進める。
「……ええ。通達は見ました」
レオは歩調を合わせながら、少しだけ眉を寄せる。
「これから先、何が起きるか分かりません。でも、魔王の出現が本当なら、俺は……戦います」
その声には、迷いのひとかけらもなかった。
「……魔王は、人の心を蝕んで、壊すんですよね。だったら、あってはならない存在です。だから俺は……絶対に倒さなきゃいけないと思うんです。誰かがやらなきゃいけないなら、俺が……!」
拳を握りしめるレオの横顔が眩しかった。純粋で、正義感に満ちていて――残酷なほど無垢だった。
君が守りたいのは、“魔王”を倒す未来だ。
でも僕は、君が倒そうとしているその存在を守りたいと思っている。
言葉を飲み込んだ僕に、レオがふと微笑んだ。
「……千景さんが傍にいてくれるなら、俺は絶対負けない。そう思えるんです」
レオのくれる言葉が嬉しい。
でも、応えれば嘘になる。沈黙すれば裏切るようで、どうしても返す言葉が見つからなかった。
レオが少し照れたように笑い、目をそらす。
「……あれ、俺なんか変なこと言いました?」
「……いえ。……ありがとう。君の信頼は、いつも心強いです」
それだけで精一杯だった。微笑みすら、どこかぎこちなくなってしまう。
「……そ、それじゃあ、俺、訓練場に行ってきますね。また後で」
レオは軽く手を振って走り出す。彼がくれた温もりが、棘となって残っていた。
彼は信じている。この世界の正義――魔王を倒すことが“正しい未来”だと。
彼はまだ知らない。その信じた“正義”が、別の誰かを壊してしまうこともあるのだということを。
***
【作者コメント】
ここまで読んでくださりありがとうございます。
次話では、“神罰”という名の力と向き合うレオと、不安に揺れる千景を描きます。
***
朝礼の鐘より早く、機密区画の扉が開閉を繰り返し、高官たちが慌ただしく出入りする。人払いされた廊下を、書類を抱えた補佐官が幾人も駆けていった。
――何かが、動き始めている。
僕は足を止め、壁の陰へと身を寄せる。
遠目に見えたのは、リュカ=ヴァレリウスの姿だった。
濃紺の制服を纏い、微笑みすら浮かべながら、整然と指示を飛ばしている。
ほどなく機密通達が張り出された。
『北方山脈周辺にて魔王反応を観測。強度は微弱だが従来の魔力波とは異質の構造を有す。上層部は重要事象と判断、追加調査を決定』
――リュカが、先手を打った。
“魔王の気配”。それが何を意味するのか、痛いほどわかっていた。
路を行き交う兵士たちの断片的な会話が耳に入る。
「……見たか、あの通達。魔王反応だってさ」
「しかも、隠されてた痕跡があるらしい。誰かがわざと消したって話だ」
「内部に“内通者”がいるとか……」
「いやいや、それってつまり――誰かが魔王側に味方してるってことか?」
「さあな……でも、幹部の一人がそう言ってたって噂だぜ」
ざらついた噂が、空気を煙らせる。リュカは巧妙に“噂”という煙を放ち、こちらを燻している。
自分の罪を覆い隠しながら、僕の逃げ場をじわじわと奪うために。
――あの人は、僕を試している。
証拠がない今、下手に動けば自ら疑念の渦に飛び込むことになる。
上官である彼の言葉は、僕の訴えよりも重く扱われるだろう。
あの人が一言、”東雲が怪しい”と言えば、今の僕は一瞬で崩れる。守るべき存在ごと、呑まれてしまう。
それでも、世界が彼を“魔王”と断じ、存在ごと否定しようとするのなら――せめて僕だけは、違う名で呼びたい。
かつて、僕が蘇芳に救われたように、今度は僕が、彼のありのままを肯定したい。
回廊を歩いていると、背後から聞き慣れた足音が近づき、名前が呼ばれた。
「千景さん!」
「……レオ」
いつもと変わらぬ真っ直ぐさで、風を切るように駆けてくる。
少し息を弾ませながら眉を寄せると、確かめるように僕の顔色を覗き込んだ。
「顔色……あまり良くないですね。ちゃんと食べてます?」
言葉を待たず、するりと伸びた指が僕の左目の下に触れる。
「……隈、できてますよ」
あまりに自然な仕草に、僕は虚を突かれた。
「……っ」
わずかに身体が強ばる。けれど、拒むこともできず、されるがままになってしまう。
彼の指先は思いのほか温かく、触れたところがじんわりと熱を帯びた。
頬にかかる視線はどこまでも真剣で、悪気のかけらもない。
「やっぱり疲れてますよね。あんまり無理しすぎないでください。千景さんは、つい頑張りすぎるから」
こちらの動揺に気付かないまま、彼はやわらかく笑った。
そのやさしさが胸に染みると同時に、苦しかった。
「……ありがとう。でも、本当に平気です。少し、寝不足なだけで」
つい作り笑いで返すと、レオは眉を曇らせつつも話題を変えた。
「王都の北で魔王反応が観測されたって聞きましたか?」
内心の動揺を悟られないよう、無理に歩を進める。
「……ええ。通達は見ました」
レオは歩調を合わせながら、少しだけ眉を寄せる。
「これから先、何が起きるか分かりません。でも、魔王の出現が本当なら、俺は……戦います」
その声には、迷いのひとかけらもなかった。
「……魔王は、人の心を蝕んで、壊すんですよね。だったら、あってはならない存在です。だから俺は……絶対に倒さなきゃいけないと思うんです。誰かがやらなきゃいけないなら、俺が……!」
拳を握りしめるレオの横顔が眩しかった。純粋で、正義感に満ちていて――残酷なほど無垢だった。
君が守りたいのは、“魔王”を倒す未来だ。
でも僕は、君が倒そうとしているその存在を守りたいと思っている。
言葉を飲み込んだ僕に、レオがふと微笑んだ。
「……千景さんが傍にいてくれるなら、俺は絶対負けない。そう思えるんです」
レオのくれる言葉が嬉しい。
でも、応えれば嘘になる。沈黙すれば裏切るようで、どうしても返す言葉が見つからなかった。
レオが少し照れたように笑い、目をそらす。
「……あれ、俺なんか変なこと言いました?」
「……いえ。……ありがとう。君の信頼は、いつも心強いです」
それだけで精一杯だった。微笑みすら、どこかぎこちなくなってしまう。
「……そ、それじゃあ、俺、訓練場に行ってきますね。また後で」
レオは軽く手を振って走り出す。彼がくれた温もりが、棘となって残っていた。
彼は信じている。この世界の正義――魔王を倒すことが“正しい未来”だと。
彼はまだ知らない。その信じた“正義”が、別の誰かを壊してしまうこともあるのだということを。
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【作者コメント】
ここまで読んでくださりありがとうございます。
次話では、“神罰”という名の力と向き合うレオと、不安に揺れる千景を描きます。
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