僕は勇者に救われたくない

御堂あゆこ

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本編

37. 神に試される者

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 石造りの講堂に、隊員たちの足音が次々と集まってくる。
 空気は張り詰め、普段の訓練のざわめきとはまるで違っていた。
 壇上に立ったのは、リュカだった。
 整った横顔にいつもの微笑を浮かべたまま、冷ややかに告げる。
「上層部は、魔王討伐のために勇者を選定することを決定した。加えて――百年前の勇者が用いた“神罰エクス・デウス”を、継承する儀式を行う」

 リュカの声が、石壁に反響する。
 ざわめきが石壁に跳ね返り、講堂は瞬く間に熱を帯びていく。
 誰かの息を呑む音、足音、囁きが幾重にも重なり、反響して止まらない。
神罰エクス・デウスだと……」
「本当に伝承通りのものが……?」
「これで魔王を討てるのか」
 期待とも、疑念ともつかぬ視線が壇上を見つめ、やがてそれが一つの色に染まっていくのが、わかった。
 歴史の授業で幾度となく聞かされた物語が、今この場で現実に呼び戻されたかのようだった。
 熱を帯びていく空間の中で、その光景を硝子越しに眺めているような気分だった。
 ――熱狂の輪の中にいながら、僕だけが取り残されている。

 誰もが熱に浮かされていく中、リュカだけが異質だった。仮面のような微笑を崩さないまま、彼は口を開いた。
「勇者候補として――私は天城レオニスを推薦した」
 一瞬静寂が落ち、すぐに信じられないという顔があちこちに広がった。 
「天城……?」
「まだ若すぎるだろう」
「正気か?」
 囁きが次々に飛び交い、隊員たちの間に波紋を生んでいく。
 隣に立つレオは、瞳を大きく見開いたまま固まっていた。
 僕もまた、同じように息を呑み、名を聞いた衝撃に言葉を失っていた。
 ――まさか、彼の名がここで挙がるなんて。

 やがて、囁きは少しずつ色を変えていく。
「だが……純粋さなら誰よりもある」
「人を惹きつける力がある」
「勇者にふさわしいのは、確かに……」
 否定から肯定へ。疑念から昂揚へ。空気は一方向にまとまり、再び熱を帯びていった。
「魔王を討つ勇者が再び現れるのか」
「俺たちの代で、決着をつけられる!」
 そんな声が次第に講堂を満たしていき、兵士たちの眼差しは昂ぶりに燃えていた。
 誰もが同じ方向を見据え、未来への期待に声を弾ませている。
 僕はただ、黙ってその光景を見つめていた。

 神罰エクス・デウス――。
 かつて勇者が魔王を討つために振るった、伝説の力。
 人間を救った“正義の象徴”として語られるその力が、今ふたたび現実のものとなろうとしている。

 講堂を出ると、冷えた石畳の廊下に音が吸い込まれていった。
 背後では熱に浮かされたようなざわめきがまだ続いていたが、廊下の空気は不思議なほど静まり返っていた。
「……千景さん」
 呼びかけに振り向くと、レオが立っていた。
 驚きの色を隠せない瞳が揺れている。
「俺が、勇者候補に……。どう考えても、おかしいですよね」
 沈黙を破ったその声は、いつもの朗らかさとはあまりにかけ離れていた。
「隊長が俺を推薦するなんて……絶対に、裏があります」
「……私もそう思います。辞退してください、レオ。何かが、おかしい」
 強く言ったつもりだったのに、自分の声は思いのほか弱々しかった。
 レオがリュカに警戒心を抱いているのは、知っていた。
 あの人の前に立つとき、何度も僕をかばうように身を張っていたからだ。
 ――きっと、察しているのだろう。僕がリュカに何をされたのかを。

 レオはしばし黙り込んだ後、何かを飲み込むように、ぽつりと漏らした。
「……裏があってもいい」
「……何を、言って……」
「もし神罰エクス・デウスの力が手に入るなら……俺は、それを使いたい。大切な人を守れるなら、どんなに危険だってかまわない」
 若さゆえの無謀か、あるいは正義感ゆえの決意か――その瞳に迷いはなかった。
 彼を止めたいと願いながらも、僕の言葉は今の彼には届かない気がして、ただ視線を返すことしかできなかった。



 翌日、正式に通達が下された。
 天城レオニス――彼が勇者に選ばれた、と。

 早すぎる。昨日、推薦の言葉が出たばかりだというのに。
 一部隊の隊長の声が、これほどまでに重く扱われるものなのか。
 ……いや、きっと裏で何か動いていたのだろう。そうでなければ、この速さは説明がつかない。

 その日、大神殿の奥で儀式が行われると告げられた。
 神罰エクス・デウスの継承――勇者に選ばれた者だけが受ける、特別な儀式だ。
 立ち会えるのは国王と枢密院の高官のみ。僕ら部隊の者は遠ざけられ、ただ命令に従うしかなかった。

 重い扉の向こうに、レオの背中が消えていくのを見送ったきりだった。
 笑顔も声も、もう、しばらくは届かない。
 それがどれほど長い時間になるのか、誰も教えてはくれなかった。
 神罰エクス・デウスを継ぐには、大きな代償があるらしいと、断片的な噂だけが耳に入る。
 “身を削るような負担だ”とか、”命を縮めるかもしれない”とか。
 けれど、詳しいことは誰も口にしない。

 冬が過ぎ、街路樹に新芽が芽吹いても、彼は戻らなかった。
 夏の陽射しが石畳を白く照らす頃も、まだ扉の奥から音沙汰はなかった。
 そして秋。暦を見たとき、不意に気づいた。今日はレオの誕生日だ。
 焼き栗の甘い香りと、落ち葉を頭に乗せて笑った彼の姿が思い浮かぶ。陽だまりのように、胸の奥がじんわりと温かくなった。
 大切な部下であり、可愛い弟のように思ってきた。
 無鉄砲で、真っ直ぐで、いつも人を笑顔にする。
 戦場では頼もしさを見せながら、ふとしたときには年相応の幼さがのぞく。
 放っておけない存在――そう思ってきた。
 だからこそ、彼が苦しんでいるかもしれないと考えると、自分の胸に穴が空いたように苦しかった。
 季節が巡っても、その痛みは薄れるどころか、ますます深く沁みこんでいった。
 声も、手も、温もりも、今はもう思い出の中にしか存在しない。それが、こんなにも堪えるとは思っていなかった。
 春、夏、そして秋――彼のいない時間が、僕を変えていった。

***
【作者コメント】
 ここまで読んでくださりありがとうございます。
 正しさを信じて声を上げた千景ですが、その想いは届かず、孤独の中に置き去りにされてしまいます。
 それでも歩みを止めずに進もうとする彼の姿を、どうか最後まで見守っていただけたら嬉しいです。
***
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