僕は勇者に救われたくない

御堂あゆこ

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本編

39. 毒蜘蛛の戯れ

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 食堂の大広間は、朝のざわめきに包まれていた。
 椅子の軋む音、陶器がぶつかる乾いた音、遠くから笑い声が混じる。
 隊員たちの間には、昨日の軍議の噂が細い水脈のように流れていた。

 そのざわめきの中、僕は一人、冷めたスープに匙を落とした。表面に波紋が広がるのを、ただ見つめる。
 口をつける気にもなれず、背中を丸めた。
 眠っていない頭が重く、騒がしさが遠く霞んで聞こえた。

「おはよう、千景。隣、いいかな?」
 聞き慣れた声がすぐそばで響いた。振り向く間もなく、リュカが僕の隣に腰を下ろす。
 肩が触れるほど近い距離で、彼の香りが鼻腔をくすぐる。指先が、卓上に置いた僕の手元に触れた。

「……やっぱり副隊長、軍務局に呼ばれたらしいな」
「告発……って話もあるけど、本当かな」
「でも相手、ヴァレリウス隊長だろ? まさか、な」
 遠巻きの声が背中を撫でていく。嫌でも注目されていることがわかる。

「この前の夜、君が私の部屋に来たとき……銀のカフス、持ち出した?」
「なっ……! 私はそんなこと――」
 咄嗟に否定しかけた声を、リュカの囁きが塞いだ。
 息を吹きかけるように耳朶をかすめる気配に、思わず身体がこわばる。
「……いいのかい? “あの存在”が、公になっても」
 空気が凍る。
 瞼の裏に、夜の気配と共に揺らぐ赤紫の瞳が滲んだ。
 蘇芳――魔王の器として選ばれた存在。守るべきものがある限り、僕は沈黙を選ぶしかなかった。

 数人がこちらを振り返り、会話がひそめられていく。
 驚いたような目が、僕とリュカの間を交互に見ていた。
「え、今なんて? 隊長の部屋……夜に?」
「副隊長が? 隊長の私室に?」
「なにそれ、どういう関係なんだ」

「君と僕、どちらが信じてもらえるかという話、前にしただろう?」
 柔らかく、憐れむような声音だった。
「可哀そうに。やはり君の言葉は、誰にも信じてもらえなかったようだ」
 手が震え、握った匙がかすかに鳴った。
 周囲の視線が肌をなぞるように、じわじわと絡みついていく。
 逃げるように席を立とうとしたとき、リュカがそっと椅子を引いた。
 自然な仕草で腰に手が添えられる。
「千景、ふらついている。部屋まで送ろうか?」
 また一つ、誤解の火種が落ちた音がした。
 それでも僕は何も言わず、視線を落としたまま、食堂をあとにした。

 ◇

 それから数日が過ぎた。
 表立って何かを言われたわけではない。それでも、目が合った瞬間に逸らされる視線や、話しかけても反応が返されないことが増えた。
 まるで僕だけが、誰にも見えない存在になったかのようだった。

 廊下を歩いていたとき、談話室の扉の隙間から笑い声が漏れてきた。
 聞き慣れた声――クロウリーの声だった。

「……まあ、副隊長って、ちょっと変わってるところがあるからさ。昔から、誰にでも壁を作るくせに、特別に懐く相手もいるっていうか」
 その言い回しには、ひときわ湿った含みがある。
 ”副隊長”と呼ばれれば、それが自分を指しているのはすぐにわかった。

「え、誰かに懐いてるってこと?」
「ああ、天城とは仲良さそうだったよな」
「いや、それよりも隊長だろう! いつも一緒にいるなって思ってたんだよな」
「ですよね。しかも任務だけじゃないんですよ。私室でも……あっ、これは、ちょっと内緒の話かも」
 声色が芝居じみた調子を帯びると、談話室の空気が一瞬で沸き立った。
「この前の夜、偶然見たんですよ。隊長の部屋の前に立ってる副隊長を。手には、銀のカフスを持っていて。あれ、確か隊長の私物だったはずですけど」
「それって落とし物を拾ったってこと?」
「落ちていたのを拾ったのか、それとも隊長の私室から持ち出したのか。そのまま懐にしまっていました。きっとあとで届けるつもりなんだろうって、そのときはそう思ったんですけど……それっきり返された様子はなくて」
「それで、あの噂の告発に使われたってこと? なにそれ、こわ」

 こめかみに痛みが走った。肌がじっとりと汗ばんでいく。
 扉を押し開けて今すぐ否定したい衝動が喉までせり上がる。
 だがそのとき、視線がぶつかった。
 クロウリーは、こちらの存在にはっきりと気づいている。
 その証拠に、彼の瞳は僕を射抜いたまま、唇の端にゆっくりと笑みを浮かべた。

「ほんと、副隊長って魅力的です。繊細で、優秀で。それでいて、ああ見えて意外と執着が強い」
「執着って?」
「隊長への執着ですよ。まあ、隊長の方も、それが可愛くて仕方ないんでしょう。じゃなきゃ、あそこまで特別扱いはされませんよ。……俺も、副隊長みたいに想われてみたいものです」
 その言葉は、まるで観客に語りかける役者のように、滑らかで、冷ややかで、巧妙だった。明らかに、僕に聞かせるために語っている。

「副隊長に昇進したとき、驚いた人は多かったですよね。なんせ二十三歳の時でしたから。そんな若さで副隊長に昇進するなんて、異例中の異例ですよ」
「隊長って、ああ見えて甘いところあるからな。お気に入りにはとことん甘やかすって噂、前からあるし」

 掌が汗ばみ、爪が掌に食い込む。
 反論の言葉は、喉の奥で針のように引っかかったまま動かなかった。
 目の前にあるのは扉一枚。だがその向こうに広がるのは、僕を包囲する密やかで確信的な悪意の舞台だった。

 何も言えないまま、背を向けた。足音が響くのが怖くて、できるだけ音を立てずに歩く。
 ふと脳裏をかすめた無邪気に笑う横顔が、痛みにそっと触れた。
 ――レオに、会いたい。

***
【作者コメント】
 ここまで読んでくださりありがとうございます。
 次話では、噂と誤解に蝕まれ、千景が徐々に闇へと沈んでいく姿を描きます。
 助けを求めれば壊れてしまう。
 そう信じてしまった彼の選択は、どんな結末をもたらすのでしょうか。
***
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