僕は勇者に救われたくない

御堂あゆこ

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本編

46. 魔王

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 肌を撫でる冷気が、壁に跳ねた赤を静かに乾かしていく。
 その静寂の中に、ふと、懐かしい気配が滲んだ。
 振り返ると、闇の奥に赤紫の光が滲んだ。
 それは、まるで忘れかけた夢の残像のように輪郭を結びはじめた。

「……蘇芳」
 名を呼んだ声が、石壁に吸い込まれて消える。
 彼は黙って立っていた。
 闇よりも深い黒髪が揺れ、赤紫の瞳が静かに見つめていた。
 その眼差しはいつも通り穏やかだった。けれど、どこか怒っているようにも見えた。

「お前は……変わったな」
「そう、見えますか」
 僕は笑って返した。
「貴方はどうしてここに」
「お前が呼んだ」
「呼んでなんかいません」
「呼んでいる。救いを求める声は、まだ消えていない」

 穏やかな声が、たまらなく癇に障った。
 静かに立っているだけのその姿が、無性に腹立たしかった。
 なぜそんなふうに、まだ僕を見つめるのか。

「……なら、触れてみてください。助けに来てくれたんでしょう?」
 蘇芳は動かなかった。その沈黙に耐えられず、僕の方から手を伸ばす。
 だが指先が触れた瞬間、鋭い痛みが掌を貫いた。
 かつては心地よく響きあった魔力が、今は互いを拒んでいた。

「……どうして」
「今のままでは、交わるほどにお前が傷つく」
 あまりに優しい声音に、思わず笑いが漏れた。
「傷つく? この期に及んで、そんなことを気にするとでも? 僕はもう、傷つくことなど恐れていない」
「私の前では、演じなくていい。どんなお前であろうと、私は受け入れる」
「……しばらく、消えていたじゃないですか」
「お前が私を拒絶していたから、感じ取れなかっただけだ」
 どこからともなく風が吹き、血の匂いの中に、蘇芳の香りが混じる。
 香煙のような、どこか温かく懐かしい匂いだ。

 そのとき、階上から足音が響いた。複数の気配が、殺気を帯びて降りてくる。
「行ってください」
「お前はどうするつもりだ」
「貴方にはもう関係のないことです。早く行って」
 次の瞬間、赤紫の残滓がゆらぎ、蘇芳は闇へ消えた。

 直後、靴音の群れが湿った空気を震わせた。
 その中に、ひとつだけ輪郭の違う気配が混じっている。
 僕はその場に留まり、彼らを出迎えることにした。
 扉が軋み、灯が差し込む。
 到着したのは十数人の兵士と――レオだった。
 血と灰の匂いが混ざる空間で、彼らは足を止めた。

 床に散らばる死体を見た兵士の一人が、喉を鳴らし、僕を指差す。
「お……お前が、やったのか……?」
 僕はゆっくりと首を傾けた。
 光の角度が変わり、赤黒い床がさざ波のように揺れた。
「それが、何か?」
 兵士たちがざわめいた。罵声が混じり、剣を構える者もいる。
 その中で、レオの声だけが低く響いた。
「やめろ」
 その一言に、場の空気が止まる。
 レオが前に出て、あの真っ直ぐな眼差しで僕を見据えた。

「……なぜ、殺したんですか」
 ――理由。そんなものを聞かれるとは思ってもみなかった。
 僕は、思わず口の端を上げた。滑稽で、愛おしいほどに人間らしい問いだった。
「なぜ? おかしなことを聞くんですね」
 ゆっくりと指先を持ち上げる。黒い霧が立ち上り、空気が震えた。
「私は“魔王”です。人の痛みは蜜のように甘い。それだけのことです」

 一瞬の静寂を裂くように怒声が上がり、兵士たちは剣を構えて一斉に躍り出た。
「魔王だ! 殺せ!」
 その中には、かつての仲間たちの顔もあった。
 なのに、誰一人として、僕の名を呼ぶ者はいなかった。
魂噬ソウル・デヴァウアー
 悲鳴が響いたときには、僕はもう宙にいた。
 僕の身体中が歓喜していた。
 痛みと絶望の声が、肌の内側を静かに撫でてゆく。
 こんなにも甘い音が、この世にあっただろうか。

 心地好い旋律の中に、雑音が鳴った。
 血に染まった石畳を踏みしめ、剣を構えたまま、僕をじっと見上げている。
 だが、彼の刃には殺気がない。
「……どうして、力を出さないんです?」
「貴方には使いたくない」
「なぜ? 君は勇者でしょう。神罰エクス・デウスを扱えるたった一人の人間です。かつて言っていたじゃないですか。“もし神罰エクス・デウスの力を手に入れられるなら、大切な人を守りたい”と」
 返事はなかった。
 代わりに、一歩、また一歩と、こちらへ近づいてくる。
「……このままだと大切な人を守れませんよ?」
 地を裂くほどの魔力が膨らみ、月の光までも呑み込んでいく。
 それでも、レオは退かない。至近まで近づき、僕の名を呼んだ。
「――千景さん」
 君は、どうして、まだその名を呼ぶ。
 僕はもうかつての東雲千景ではないのに。

 ほんの一瞬の躊躇が、魔力の流れを乱した。
 地を包んでいた闇がほどけ、月明かりが差す。
「……覚悟ができたら、来てください。僕を殺せるのは、君しかいない」
 琥珀の瞳が、月光を反射して揺らめいた。
 やがて雲が流れ、月を静かに覆い隠していく。
 瞳に影が落ちるより先に、僕は闇に溶けた。

***
【作者コメント】
 ここまで読んでくださりありがとうございます。
 千景、レオ、蘇芳──三人の想いが、ついに交差します。
***
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