僕は勇者に救われたくない

御堂あゆこ

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本編

45. 魂を喰う者

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 繋がれていた地下を出て最初に訪れたのは、レオが勇者となるために修行を行った大神殿だった。
 なぜここに足が向いたのかは自分でもよくわからなかった。ただ、足が自然とその道を選んでいた。
 夜の神殿に漂う空気は、昼の静謐さとはまるで異なるものだった。香の煙は冷え、祈りの声もない。

 ふと裏手から、血と香が混じり合う気配が、風に乗って流れてきた。
 その気配を追い、石壁の影へと身を滑らせると、古びた遺体安置所の扉が目に入った。
 ――中から、くぐもった笑い声が聞こえた。
 確かに人の声なのに、どこか獣の鳴き声に似ていた。

 鍵がかかっていたが、構わず破って入る。ひやりとした空気が肌に触れた。
 白い布に包まれた遺体がいくつも並んでいる。
 その中央で、黒衣を羽織った神官たちが一つの安置台を囲んで立っていた。
 そこには、生きた女がいた。
 縄で手足を縛られ、布を噛まされたまま、怯えた目で神官たちを見上げていた。
 彼女の髪を持ち上げたのは、金のロザリオを首に下げた高位の神官だった。
 指先で女の頬を撫で、唇を歪めた。
「神への供物は、若いほど良い」
「この娘は、どんな味がするか……楽しみですなあ」
 その言葉で、すべてを察した。これが、神に仕える者の本性か。
「……吐き気がする」
 低く呟いた声に、神官たちが一斉にこちらを振り向いた。
 目が合った瞬間、彼らの笑みが引き攣る。
「お前は……!? なぜ生きている!」
 動揺した神官が、唾を飛ばしながらまくし立てた。
 腐臭を帯びた息とともに浮かび上がったその顔は、神を語るにはあまりに下劣な本性をさらしていた。

 僕は答えず、一歩、闇の奥へ踏み出した。
「……神を騙る愚か者たちに、相応しい最期を」
 指先をかざし、力を解き放つ。
魂噬ソウル・デヴァウアー
 刹那、空気が歪み、蝋燭の炎が掻き消えた。
 飛沫が壁を叩く音が響き、彼らの身体は声もなく崩れた。

 女の傍に近づき、縄を解いていく。
 彼女は声も上げず、震える手で白い布を掴んだ。
 その涙が指先に落ちても、温度は感じなかった。

 ◇

 夜の気配が、皮膚の下まで染み込んでくるようだった。
 湿った風が頬を撫で、石畳にこぼれた血の残り香が、かすかに漂っている。

 どれほど夜が過ぎたのかはもう数えていない。
 リュカを殺したあの夜から、月は満ち、また欠けた。
 徐々に夜の匂いが濃くなり、身体の奥で、別の何かが目を覚ましていくのを感じた。

 一人、また一人――命を刈り取り、その血で空腹を満たしてきた。
 人の苦しみが、ただ静かに、僕の中の空洞を満たしていく。
 恐怖や憎悪、嫉妬や怒り。
 かつては不快でしかなかった罵声や怒号の余韻さえ、今では子守歌のように心地好い。
 反対に、喜びや慈しみの感情は、どうしようもなく耳障りだった。
 笑い声が通り過ぎるだけで、頭の奥に鋭い痛みが走る。

 理性は――まだ、あると思いたい。
 けれど、価値の軸が反転した今となっては、何を正気と呼ぶのかさえ曖昧だ。
 不思議と恐ろしくはなかった。ただ、ようやく“本来あるべき場所”に戻ったような、そんな静かな安らぎがあった。

 血の匂いに誘われるように、地下牢へと続く階段を降りる。
 通路の奥から金属の擦れる音と、何かを叩くような鈍い音が聞こえてきた。
 灯火の届かない闇の中で、腐敗した血と鉄の匂いが絡み合っている。
 鉄格子の向こうに影――看守の背と、その足元にうずくまる囚人がいた。
 看守が振る鞭の音に合わせて、押し殺された呻きが、まるで音楽のように空気を震わせていた。

 僕が立ち止まると、看守がこちらに気づいて声を上げた。
「な……誰だ……!」
 その声はすぐに裏返った。
「貴様は……おい、嘘だろ……死んだはずじゃ……」
 彼の問いには答えず、ゆっくりと近づいた。
 鉄格子越しに見下ろすと、囚人の肌は血で覆われ、生きているのかどうかも分からない。

「……何をしているんですか」
「ち、違う! これは任務だ、命令で……!」
「命令? 誰の命令ですか?」
「黙れ……近寄るな!」
 剣を抜こうとする手が震えている。灯火が揺れ、彼の額を濡らす汗が光った。
 鉄格子を押し開けると、錆びた蝶番が軋む音と同時に、看守が悲鳴を上げた。
「やめろ……来るなーー!」
「では命令です、死んでください」
 その声がまだ空気に残るうちに、指先から力を解き放った。
魂喰ソウル・グラスプ
 空気が一瞬だけ歪み、看守の身体が崩れ落ちた。
 溢れた血が石床を染め、ゆっくりと広がっていく。

 囚人の傍らに膝をつき、その命の名残に触れた。
「……こ……ろして……くれ……」
 少し考えてから、僕は彼の最期の願いに応えることにした。
「……今、楽にしてあげます。魂葬レクイエム
 掌をかざすと、二人分の血が粒となって宙に舞い、やがて僕の中へ還っていった。

***
【作者コメント】
 ここまで読んでくださりありがとうございます。
 次話では、かつての名を捨てた“彼”の前に、忘れられない気配が現れます。
***
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