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第五章 幻惑の魔女
第17話 顔のない訪問者
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少年は腹部を押さえ、うずくまる。
硬い音を立てて花瓶が床を転がった。
「アルヴィン! 何てことをっ!!」
口許を押さえたフェリシアの顔は蒼白だ。
あどけない少年に花瓶を投げつけた挙げ句、発砲する。何も知らぬ者が見れば、正気を失ったようにしか見えない。
だが──それは違う。
「近づくな!」
少年に駆け寄ろうとしたフェリシアを、アルヴィンは一喝した。
額に脂汗をにじませながら、エウラリオは顔を上げる。
「……なぜです……アルヴィン……?」
「猿芝居は、それくらいにしていただきましょうか」
アルヴィンは白い眼光を放った。
声に、辛辣な響きが伴った。
「勉強不足ですね。本物の枢機卿エウラリオは、左利きですよ」
「……たったそれだけで……躊躇なく引き金を……? 悪い……男だ──なっ!!」
銀色の輝きが、一閃した。
弱々しかった声音が、怒気と殺気を孕んだものに一変した。
瞬きする間よりも早く、少年はバネのように跳ね起きていた。
手に握られているのは、短剣だ。
とても手負いとは思えない、鋭利な斬撃がアルヴィンに襲いかかる。凶刃が鼻先に迫った。
だが、その一撃を──アルヴィンは完全に予期していた。
屋敷の前で会った時から、強い違和感を抱いていたのだ。
エウラリオは襲撃を警戒し、隠し部屋に篭もるような用心深い男だ。
いくら急ぎの用件とはいえ、護衛も連れずひとり出向くだろうか。
そして……教皇庁で初めて会った時、左手で扉を開けた。処刑人の仮面を渡したのも、左手だった。
投じられた花瓶を右手で掴んだ時、疑惑は確信へ変わった。
アルヴィンは、少年の手首を痛烈に蹴り上げる。
短剣が宙を飛んだ。
僅かに生じた隙を、アルヴィンは見逃さない。頭部を狙い、容赦なく銃弾を撃ち込む。
短剣が閃いてから発砲まで、二秒も経過していない。
息を呑むような手際の良さだ。
だが……アルヴィンは顔をしかめた。
手応えが、ない。
弾痕はエウラリオではなく、大理石の床に穿たれた。
少年の小さな身体は、文字通り霧散した。
黒い煙に変化し、周囲に広がったのだ。
それは数メートル先の廊下に集まり……人の形をとる。
ダークブロンドの髪が揺れ、ボーイソプラノを思わせる声は、艶やかな女のものに変わった。
「私の変異を見破るなんて、存外優秀じゃない」
「魔女っ!?」
背後で、フェリシアが驚きの声を上げる。
そこには、凛とした気品をまとった女が立っていた。
外見はクリスティーそのものだが……彼女では、決してない。
アルヴィンは表情を厳しくした。
「──幻惑の魔女、エブリアですね?」
拳銃は構えたままだ。
最大級の警戒を払い、女を睨みつける。
「姿を自在に変え、短剣を使い凶行に及ぶ魔女。教会のアーカイブに、特徴の一致する事件記録が残されていましたよ。君には、二十年前に手配が出されている」
返されたのは言葉ではなく、微笑みだ。
つまり肯定……なのだろう。
アルヴィンの胸中を、安堵と落胆が複雑に交錯した。
クリスティーは、枢機卿の暗殺に関与していなかった。
犯人は──彼女の凶行を装った、幻惑の魔女だった。
最初から、幻を追わされていたのだ。
「不思議ね。どうして私の存在に気づいたのかしら?」
エブリアは小首をかしげると、優美で張りのある声を奏でる。
偽者だと分かっていても……姿と声音は、憎らしいほど彼女そのものだ。
だが容姿は瓜二つでも、瞳の奥には毒々しい悪意のちらつきが見えた。
不快げにアルヴィンは秀眉をよせる。
「……この事件には、最初から違和感があった。上級審問官まで経験した枢機卿が、なぜ無抵抗で殺害されたのか。例え練達の審問官でも、近親者や同僚に化けられれば隙が生まれる。それに……」
アルヴィンは、声に力をこめた。
「彼女は、目的のために人を殺めたりはしない。僕は、そう信じている」
「あらあら。審問官のクセに、ずいぶん魔女を信用しているのね。だったら私と手を組んでみない?」
「断る」
返答は短く、素気ない。
「枢機卿を憎んでいるのでしょう? あなたは復讐を達成し、私は禁書庫の鍵を手に入れる。お互いに利益のある、いい取引じゃないかしら?」
「生憎だが、一切思わないね。魔女の凶行に手を貸すつもりはない。不死を得て、何になる」
「我々は、不死など求めていないわ」
「なに……?」
「全ては、大陸の滅亡を回避するためよ」
大陸の、滅亡。
昨夜マリノが、全く同じ言葉を口走っていたことにアルヴィンは気づく。
「不死と滅亡……何の関係がある」
「さあ? 魔女が素直に教えると思う?」
エブリアは意味ありげな笑みを浮かべ、花唇をほころばせた。
アルヴィンがさらに質そうとした刹那──声は、羽音によって遮られた。
割れたガラス窓から、黒い影が飛び込んできたのだ。
それは一直線に飛翔し、魔女の肩にとまる。
紅玉を目にはめ込んだような、不気味なカラスである。
耳元にクチバシを寄せ、何かを耳打ちした……そう見えた。
エブリアは大げさに肩をすくめた。
「残念ね。あなたと決着をつけたかったけれど、お暇するようにとの命令だわ」
「暇……? 待てっ!」
叫んだ時、魔女の身体は既に黒煙へと変化していた。
昨夜と同じだ。濃密な煙が廊下に満ち、たちまち視界が奪われる。
「──なぜクリスティーを装ってマリノを襲った!?」
返答はなかった。
煙が晴れた後、残されたのは、少年の亡骸と二人の生者だけだ。
「くそっ……!」
アルヴィンは壁に拳を打った。
むざむざと魔女を取り逃がし……しかも、二度だ。自分への苛立ちが抑えられない。
「どうやら今回も、事情は複雑なようだね」
胸元で腕を組んだフェリシアが、小さく嘆息する。
魔女を目の当たりにすれば、一般人なら声も出せなくなるほど震え上がっても不思議はない。
だが彼女の眼差しは、冷静さを取り戻していた。
並みの審問官よりも、よほど順応性があるかもしれない。
フェリシアは窓の外を一瞥した。
「追うんだろ、アルヴィン?」
「──もちろんだ」
今度は逃がしはしない。
アルヴィンは夜空を鋭くにらんだ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
夢遊病者のように、ベネットは街を彷徨った。
正義感と裏切りへの怒りが、少年を突き動かしていた。
だが……広い聖都で、そう容易く師を見つけ出せるはずがない。
濃くなった疲労に喘ぐようにして空を仰ぎ……硬直する。
星空が一瞬、黒煙によって遮られた。
既視感があった。
それは昨夜マリノの邸宅で見た……魔法だ。
黒煙は、西の空へと移動していく。
ベネットは走り出した。
硬い音を立てて花瓶が床を転がった。
「アルヴィン! 何てことをっ!!」
口許を押さえたフェリシアの顔は蒼白だ。
あどけない少年に花瓶を投げつけた挙げ句、発砲する。何も知らぬ者が見れば、正気を失ったようにしか見えない。
だが──それは違う。
「近づくな!」
少年に駆け寄ろうとしたフェリシアを、アルヴィンは一喝した。
額に脂汗をにじませながら、エウラリオは顔を上げる。
「……なぜです……アルヴィン……?」
「猿芝居は、それくらいにしていただきましょうか」
アルヴィンは白い眼光を放った。
声に、辛辣な響きが伴った。
「勉強不足ですね。本物の枢機卿エウラリオは、左利きですよ」
「……たったそれだけで……躊躇なく引き金を……? 悪い……男だ──なっ!!」
銀色の輝きが、一閃した。
弱々しかった声音が、怒気と殺気を孕んだものに一変した。
瞬きする間よりも早く、少年はバネのように跳ね起きていた。
手に握られているのは、短剣だ。
とても手負いとは思えない、鋭利な斬撃がアルヴィンに襲いかかる。凶刃が鼻先に迫った。
だが、その一撃を──アルヴィンは完全に予期していた。
屋敷の前で会った時から、強い違和感を抱いていたのだ。
エウラリオは襲撃を警戒し、隠し部屋に篭もるような用心深い男だ。
いくら急ぎの用件とはいえ、護衛も連れずひとり出向くだろうか。
そして……教皇庁で初めて会った時、左手で扉を開けた。処刑人の仮面を渡したのも、左手だった。
投じられた花瓶を右手で掴んだ時、疑惑は確信へ変わった。
アルヴィンは、少年の手首を痛烈に蹴り上げる。
短剣が宙を飛んだ。
僅かに生じた隙を、アルヴィンは見逃さない。頭部を狙い、容赦なく銃弾を撃ち込む。
短剣が閃いてから発砲まで、二秒も経過していない。
息を呑むような手際の良さだ。
だが……アルヴィンは顔をしかめた。
手応えが、ない。
弾痕はエウラリオではなく、大理石の床に穿たれた。
少年の小さな身体は、文字通り霧散した。
黒い煙に変化し、周囲に広がったのだ。
それは数メートル先の廊下に集まり……人の形をとる。
ダークブロンドの髪が揺れ、ボーイソプラノを思わせる声は、艶やかな女のものに変わった。
「私の変異を見破るなんて、存外優秀じゃない」
「魔女っ!?」
背後で、フェリシアが驚きの声を上げる。
そこには、凛とした気品をまとった女が立っていた。
外見はクリスティーそのものだが……彼女では、決してない。
アルヴィンは表情を厳しくした。
「──幻惑の魔女、エブリアですね?」
拳銃は構えたままだ。
最大級の警戒を払い、女を睨みつける。
「姿を自在に変え、短剣を使い凶行に及ぶ魔女。教会のアーカイブに、特徴の一致する事件記録が残されていましたよ。君には、二十年前に手配が出されている」
返されたのは言葉ではなく、微笑みだ。
つまり肯定……なのだろう。
アルヴィンの胸中を、安堵と落胆が複雑に交錯した。
クリスティーは、枢機卿の暗殺に関与していなかった。
犯人は──彼女の凶行を装った、幻惑の魔女だった。
最初から、幻を追わされていたのだ。
「不思議ね。どうして私の存在に気づいたのかしら?」
エブリアは小首をかしげると、優美で張りのある声を奏でる。
偽者だと分かっていても……姿と声音は、憎らしいほど彼女そのものだ。
だが容姿は瓜二つでも、瞳の奥には毒々しい悪意のちらつきが見えた。
不快げにアルヴィンは秀眉をよせる。
「……この事件には、最初から違和感があった。上級審問官まで経験した枢機卿が、なぜ無抵抗で殺害されたのか。例え練達の審問官でも、近親者や同僚に化けられれば隙が生まれる。それに……」
アルヴィンは、声に力をこめた。
「彼女は、目的のために人を殺めたりはしない。僕は、そう信じている」
「あらあら。審問官のクセに、ずいぶん魔女を信用しているのね。だったら私と手を組んでみない?」
「断る」
返答は短く、素気ない。
「枢機卿を憎んでいるのでしょう? あなたは復讐を達成し、私は禁書庫の鍵を手に入れる。お互いに利益のある、いい取引じゃないかしら?」
「生憎だが、一切思わないね。魔女の凶行に手を貸すつもりはない。不死を得て、何になる」
「我々は、不死など求めていないわ」
「なに……?」
「全ては、大陸の滅亡を回避するためよ」
大陸の、滅亡。
昨夜マリノが、全く同じ言葉を口走っていたことにアルヴィンは気づく。
「不死と滅亡……何の関係がある」
「さあ? 魔女が素直に教えると思う?」
エブリアは意味ありげな笑みを浮かべ、花唇をほころばせた。
アルヴィンがさらに質そうとした刹那──声は、羽音によって遮られた。
割れたガラス窓から、黒い影が飛び込んできたのだ。
それは一直線に飛翔し、魔女の肩にとまる。
紅玉を目にはめ込んだような、不気味なカラスである。
耳元にクチバシを寄せ、何かを耳打ちした……そう見えた。
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「残念ね。あなたと決着をつけたかったけれど、お暇するようにとの命令だわ」
「暇……? 待てっ!」
叫んだ時、魔女の身体は既に黒煙へと変化していた。
昨夜と同じだ。濃密な煙が廊下に満ち、たちまち視界が奪われる。
「──なぜクリスティーを装ってマリノを襲った!?」
返答はなかった。
煙が晴れた後、残されたのは、少年の亡骸と二人の生者だけだ。
「くそっ……!」
アルヴィンは壁に拳を打った。
むざむざと魔女を取り逃がし……しかも、二度だ。自分への苛立ちが抑えられない。
「どうやら今回も、事情は複雑なようだね」
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だが彼女の眼差しは、冷静さを取り戻していた。
並みの審問官よりも、よほど順応性があるかもしれない。
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「追うんだろ、アルヴィン?」
「──もちろんだ」
今度は逃がしはしない。
アルヴィンは夜空を鋭くにらんだ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
夢遊病者のように、ベネットは街を彷徨った。
正義感と裏切りへの怒りが、少年を突き動かしていた。
だが……広い聖都で、そう容易く師を見つけ出せるはずがない。
濃くなった疲労に喘ぐようにして空を仰ぎ……硬直する。
星空が一瞬、黒煙によって遮られた。
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