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第六章 迷宮の魔女
第30話 彷徨える子羊たち
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苦しく……ない。
息ができる。
そして、ほのかに明るい。
恐る恐る目を開け……息づかいが聞こえそうな距離に、フェリシアの顔がある。
「──大丈夫かい?」
「ひっ!?」
アルヴィンは、かっきり三メートルの距離を飛び退いた。
心拍数が跳ね上がったのは、間近にあった紅唇のせい──では、決してない。見慣れぬ空間にいたからだ。
神に誓って、そうである。
そもそもフェリシアは、外見は見目麗しい銀髪の美女でも……中身は男なのだ。
安全な距離を確保して、アルヴィンは叫ぶ。
「大丈夫だ! 問題ないっ!」
「だったらいいけど」
アルヴィンの慌てぶりに、フェリシアはクスリと笑う。
この状況下にあって、態度は悠々としたものだ。
「ほら、ボクの言ったとおりでしょ? 案ずるよりも産むが易し、ってね。ちゃんと無事に移動できたじゃないか」
言われてアルヴィンは、自分たちが円形の空間にいることに気づく。学校の教室ほどの広さがある。
殺風景ではあるが、少なくとも身の危険は感じない。
目につくのは、東西南北に相当する位置にある、扉だ。
そして、部屋の中央に螺旋階段がある。
アルヴィンは冷静さを取り戻すと、階段へ歩みを進めた。
のぞき込んだ途端、強風が吹き付け黒髪を揺らす。
やはり、というべきか……アルヴィンは心中で暗澹たる気分になる。
眼下に、数え切れないほどの階層が見える。
上方にも、だ。
先ほどの空間は廊下にそって、そしてここは階段にそって、無数の扉が存在するのだろう。
ポニーテールの髪先をはためかせながら、フェリシアが隣に立った。
「ハズレだったみたいだね。そう都合良く、一枚目で出られるとは思わなかったけど」
「それぞれの扉の先に、こんな空間があるのか? ……つくづく、とんでもない魔法だな」
「言ったでしょ? 面白みはないけれど、厄介だって」
フェリシアは、軽く肩をすくめて見せる。
迷宮を彷徨う当事者からすれば、厄介以外の何物でもない。
螺旋階段から離れると、アルヴィンは入ってきた扉へと視線を転じた。
そして、違和感を覚える。
「フェリシア、これを見てくれないか」
変化は些細なものだ。
だが……妙に胸がざわつく。
扉につけられた銀のプレートには、1992番と刻印されていたはずだ。
それが、8622番へと変化していたのだ。
フェリシアも気づいたらしい。
「アルヴィン、戻ってみよう」
扉を開くと、やはり黒い水面が現れる。
今度は躊躇なく、二人は踏み込んだ。
向こう側は──赤絨毯の引かれた廊下ではない。
「外に、出たのか……?」
そうアルヴィンが口にしたのは、無理からぬことだ。
真っ先に目に飛び込んだのは、煌びやかな光である。
花模様があしらわれたクリスタル製のシャンデリアが、黒大理石の床を照らしていた。
壁際の円卓には、料理を盛り付けた皿が並ぶ。
この空間に──見覚えがあった。
「アルビオの……公会堂じゃないか」
アルヴィンは、唖然とするしかない。
かつて仮面舞踏会が催され、不死の魔女と対峙した場所である。
だが──なぜ?
疑念とともに、違和感が湧き上がる。
公会堂にしては……何かが、おかしい。
よく見ればシャンデリアの配置はちぐはぐで、床から生えているものすらある。
料理にしても、一度落としたものを拾い上げて皿に盛ったような酷いものだ。料理長が見れば、卒倒するに違いない。
そしてこの空間は……やはり奥へと、際限なく続く。
アルヴィンは、フェリシアの顔を見た。
「ここはまだ、迷宮なのか?」
「残念だけど、そうみたいだね。ほら」
彼女は壁際を指さした。
本来窓に相当する位置に、扉がずらりと並んでいる。
二人はまだ、迷宮の中にいるということなのだろう。
フェリシアは、でたらめで奇妙な空間を前にして、しばらくの間黙考する。
ややあって、言葉を選ぶようにして続けた。
「これはボクの推測、だけど……扉を移動すると、大陸のどこかにある空間を模した部屋が造られるんじゃないかな……?」
「模倣するにしては、随分雑な仕事だな」
「このスケールの魔法だもの。綻びのひとつや二つはあるよ。──あとね、別行動で扉を探すのは控えるべきだろうね。もし離ればなれになったら、二度と会えなくなるよ」
フェリシアの懸念は、おそらく正しい。
この部屋に入るために使用した8622番の扉は、6354番へと変化している。
部屋を移動すると、扉の配置もリセットされるのだ。
何かの拍子で、もしはぐれれば……再会は困難となるだろう。
アルヴィンは秀眉をよせる。
ひとつひとつ扉を確かめるような正攻法では、とても時間が足りない。
だが、たった一枚を引き当てる強運を持ち合わせているわけでもない。
だとすれば──この迷宮の法則を、解き明かすほかない。
番号が振られているのならば、外へと至る法則があるはずだ。
いや、そう思わせて、存在していない可能性もあり得るが……
と。
アルヴィンは、表情を変えた。
解法が閃いたのではない。
あり得ないものが目に入ったのだ。
円卓の影に──足が、見えた。
それは、小さな子供のものだ。
「……!?」
「どうしたんだい、アルヴィン!」
アルヴィンは円卓へ駆け寄る。
やはり見間違い、ではない。
「この子は……?」
追いついたフェリシアが問う。
アルヴィンは、黙って首を横に振るしかない。
二人しか居ないはずの迷宮に──十二歳ほどの少女が、倒れていたのだ。
息ができる。
そして、ほのかに明るい。
恐る恐る目を開け……息づかいが聞こえそうな距離に、フェリシアの顔がある。
「──大丈夫かい?」
「ひっ!?」
アルヴィンは、かっきり三メートルの距離を飛び退いた。
心拍数が跳ね上がったのは、間近にあった紅唇のせい──では、決してない。見慣れぬ空間にいたからだ。
神に誓って、そうである。
そもそもフェリシアは、外見は見目麗しい銀髪の美女でも……中身は男なのだ。
安全な距離を確保して、アルヴィンは叫ぶ。
「大丈夫だ! 問題ないっ!」
「だったらいいけど」
アルヴィンの慌てぶりに、フェリシアはクスリと笑う。
この状況下にあって、態度は悠々としたものだ。
「ほら、ボクの言ったとおりでしょ? 案ずるよりも産むが易し、ってね。ちゃんと無事に移動できたじゃないか」
言われてアルヴィンは、自分たちが円形の空間にいることに気づく。学校の教室ほどの広さがある。
殺風景ではあるが、少なくとも身の危険は感じない。
目につくのは、東西南北に相当する位置にある、扉だ。
そして、部屋の中央に螺旋階段がある。
アルヴィンは冷静さを取り戻すと、階段へ歩みを進めた。
のぞき込んだ途端、強風が吹き付け黒髪を揺らす。
やはり、というべきか……アルヴィンは心中で暗澹たる気分になる。
眼下に、数え切れないほどの階層が見える。
上方にも、だ。
先ほどの空間は廊下にそって、そしてここは階段にそって、無数の扉が存在するのだろう。
ポニーテールの髪先をはためかせながら、フェリシアが隣に立った。
「ハズレだったみたいだね。そう都合良く、一枚目で出られるとは思わなかったけど」
「それぞれの扉の先に、こんな空間があるのか? ……つくづく、とんでもない魔法だな」
「言ったでしょ? 面白みはないけれど、厄介だって」
フェリシアは、軽く肩をすくめて見せる。
迷宮を彷徨う当事者からすれば、厄介以外の何物でもない。
螺旋階段から離れると、アルヴィンは入ってきた扉へと視線を転じた。
そして、違和感を覚える。
「フェリシア、これを見てくれないか」
変化は些細なものだ。
だが……妙に胸がざわつく。
扉につけられた銀のプレートには、1992番と刻印されていたはずだ。
それが、8622番へと変化していたのだ。
フェリシアも気づいたらしい。
「アルヴィン、戻ってみよう」
扉を開くと、やはり黒い水面が現れる。
今度は躊躇なく、二人は踏み込んだ。
向こう側は──赤絨毯の引かれた廊下ではない。
「外に、出たのか……?」
そうアルヴィンが口にしたのは、無理からぬことだ。
真っ先に目に飛び込んだのは、煌びやかな光である。
花模様があしらわれたクリスタル製のシャンデリアが、黒大理石の床を照らしていた。
壁際の円卓には、料理を盛り付けた皿が並ぶ。
この空間に──見覚えがあった。
「アルビオの……公会堂じゃないか」
アルヴィンは、唖然とするしかない。
かつて仮面舞踏会が催され、不死の魔女と対峙した場所である。
だが──なぜ?
疑念とともに、違和感が湧き上がる。
公会堂にしては……何かが、おかしい。
よく見ればシャンデリアの配置はちぐはぐで、床から生えているものすらある。
料理にしても、一度落としたものを拾い上げて皿に盛ったような酷いものだ。料理長が見れば、卒倒するに違いない。
そしてこの空間は……やはり奥へと、際限なく続く。
アルヴィンは、フェリシアの顔を見た。
「ここはまだ、迷宮なのか?」
「残念だけど、そうみたいだね。ほら」
彼女は壁際を指さした。
本来窓に相当する位置に、扉がずらりと並んでいる。
二人はまだ、迷宮の中にいるということなのだろう。
フェリシアは、でたらめで奇妙な空間を前にして、しばらくの間黙考する。
ややあって、言葉を選ぶようにして続けた。
「これはボクの推測、だけど……扉を移動すると、大陸のどこかにある空間を模した部屋が造られるんじゃないかな……?」
「模倣するにしては、随分雑な仕事だな」
「このスケールの魔法だもの。綻びのひとつや二つはあるよ。──あとね、別行動で扉を探すのは控えるべきだろうね。もし離ればなれになったら、二度と会えなくなるよ」
フェリシアの懸念は、おそらく正しい。
この部屋に入るために使用した8622番の扉は、6354番へと変化している。
部屋を移動すると、扉の配置もリセットされるのだ。
何かの拍子で、もしはぐれれば……再会は困難となるだろう。
アルヴィンは秀眉をよせる。
ひとつひとつ扉を確かめるような正攻法では、とても時間が足りない。
だが、たった一枚を引き当てる強運を持ち合わせているわけでもない。
だとすれば──この迷宮の法則を、解き明かすほかない。
番号が振られているのならば、外へと至る法則があるはずだ。
いや、そう思わせて、存在していない可能性もあり得るが……
と。
アルヴィンは、表情を変えた。
解法が閃いたのではない。
あり得ないものが目に入ったのだ。
円卓の影に──足が、見えた。
それは、小さな子供のものだ。
「……!?」
「どうしたんだい、アルヴィン!」
アルヴィンは円卓へ駆け寄る。
やはり見間違い、ではない。
「この子は……?」
追いついたフェリシアが問う。
アルヴィンは、黙って首を横に振るしかない。
二人しか居ないはずの迷宮に──十二歳ほどの少女が、倒れていたのだ。
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