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第六章 迷宮の魔女
第31話 三人目の迷い子
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少女に駆け寄ると、アルヴィンは上体を抱き起こした。
首筋に指を当てる。
脈は、ある。
「君! 大丈夫か!?」
強く身体を揺する。
ややあって、薄く目が開いたのを見て、アルヴィンは安堵した。
少女は女の子らしい、ふんわりとした印象のワンピースを着ていた。
髪は肩口ほどの金髪で、三つ編みを二つ結びにしている。
肌は陶器のように白い。まるで深窓の令嬢といった雰囲気である。
意識は戻ったものの……呼吸は、まだ弱々しい。
アルヴィンは、辛抱強く回復を待った。
正直に言えば──時間が惜しい。
日の出までどれほどの猶予があるのかは分からないが、時間がダイヤモンドよりも貴重であるのは間違いない。
だが今は……待つべきだ。
半刻ほどの時が経つ。
少女の顔に血色が戻ったのを見計らって、アルヴィンは尋ねた。
「僕はアルヴィン。彼女はフェリシアだ。君は?」
少女は無言だ。
なるべく優しく訊いたつもりなのだが……警戒されているのだろうか。
目覚めたら見知らぬ大人がいたのだ。当然の反応かもしれない。
だが表情をうかがって、それが杞憂であることに気づかされる。
何かの病気、なのだろうか。
伝えたい意志はあるのに、声が出せない、そんな様子が感じ取れる。
少女はアルヴィンの手を取った。
そして、掌を開かせると──Emmaと、指でなぞる。
「エマ……君は、エマ、かい?」
アルヴィンの問いかけに、少女はニコリと頷いた。
「どうして君はここに?」
少女は困ったように、小首をかしげる。
なぜここにいるのか、当人も分からない様子だ。
迷宮に囚われているのは、自分たちだけではなかった。アルヴィンの驚きは大きい。
現実世界を模倣した出来の悪い部屋、変わる扉の番号、そして声を失った少女……
この迷宮は、不可解な出来事が多すぎる。
アルヴィンは少女を見やる。
「僕たちは、外に繋がる扉を探しているんだ。エマも一緒に来てくれないか?」
ここに置いていくわけには行かない。
素直に頷いてくれたのは幸いだった。
アルヴィンは窓際にある、8690番の扉を選んだ。
新たな同行者を加えた三人は、扉をくぐる。
次は、何が待ち受けているのか──
最初に一行を出迎えたのは、生ぬるい風だ。
鼻腔に、潮の匂いが香る。
「今度こそ……外に出たのか?」
アルヴィンの呟きを、潮騒がかき消した。
そこは、部屋ですらない。
眼前に海岸線が伸び、夜空には星が明滅している。
暗い海の向こう──空の中程に、青白い月が見えた。
二人を残して、アルヴィンは足早に波打ち際へと駆けた。
打ち寄せる波が靴を濡らす。手で掬った海水は塩辛い。
──海、である。
放心気味に周囲を見回し……アルヴィンはすぐさま表情を固くした。
海岸線から少し離れた木々の向こう側に、無数の扉が見える。
淡い期待は、やはり期待でしかなかったらしい。
もはや悪魔めいた力としか思えないが……ここはまだ、迷宮の内部なのだ。
そこに、二人が追いつく。
「アルヴィン」
フェリシアは、アズラリエルを手にしていた。
そして告げたのは、思いもよらない言葉である。
「もしかしたら、だけど、外に出る方法が分かったかもしれないよ」
「なんだって……?」
驚きにサンドイッチされる形となって、アルヴィンは食傷気味である。
フェリシアの、翡翠を思わせる、深い緑色の瞳をまじまじと見つめる。
冗談──では、ないようだ。
「本当なのか、フェリシア?」
「方法が分かるのと、出られるのはイコールではないんだけどね」
フェリシアの物言いには、どこか含みがある。
彼女はアズラリエルを開いた。
エマが落ち着くまでの間、熱心に目を通していたようだが……何かを見つけたのだろうか。
細く長い指が紙面をなぞり、燐光を放つ文字が浮かび上がる。
フェリシアは、やっぱり、と声を漏らした。
「おぼろげながら──だけど、この書に何が書いてあるのか、見えてきたよ。この書が迷宮から出る、鍵になるかもしれない」
「アズラリエルに、何が書かれてあるんだ?」
「一言で言うとね、世界の記録」
「記録……? 歴史書、なのか?」
アルヴィンは思わず聞き返す。
アズラリエルは、ベラナが最期に遺した言葉だ。
そしてこの書を巡って、三人の枢機卿が命を落とした。
二人は幻惑の魔女エブリアの手によって、一人はあの男の手によってだが……血なまぐさい争いの末、ようやく得られたものが歴史書とは……拍子抜けした感は否めない。
クリスティーは、アズラリエルが白き魔女へと導くと言い残した。
てっきり、強力な力を秘めた魔道書を想像していたのだが──
フェリシアは神妙な顔で、首を横に振った。
「歴史書とは、少し違うかな。正確には、記録ではなくて、世界ができてからの記憶……が近いかもしれないね」
「どちらにしても、とんでもない書だな……」
「そうだね。でもね、こうも考えられるでしょ? 二百年前、禁書庫を造った当時のオルガナの記憶を見つけ出して、辿れば──」
「……! 迷宮の……法則も!?」
「そういうこと」
満足げにフェリシアは笑う。
「ただし、気の遠くなるような情報量なんだ。目当ての記憶を探し出すのに、時間がかかると思う。ギリギリになるかもしれない」
「見つけるのが早いか、閉じ込められるのが早いか、か……」
危うい賭け、である。
だが他に有効な手がない以上、アズラリエルに賭けるしかない──
と。アルヴィンは視線を落とした。
エマが、祭服の袖を強く引っ張ったのだ。
必死な顔で、何かを訴えかけている。
「エマ、どうしたんだ?」
小さな手が、海を指さした。
何気に見やり……アルヴィンは愕然とした。
沖合に黒い壁がそそり立っていた。こちらへと、急接近してくる。
アルヴィンは、顔を青ざめさせる。
──津波だった。
首筋に指を当てる。
脈は、ある。
「君! 大丈夫か!?」
強く身体を揺する。
ややあって、薄く目が開いたのを見て、アルヴィンは安堵した。
少女は女の子らしい、ふんわりとした印象のワンピースを着ていた。
髪は肩口ほどの金髪で、三つ編みを二つ結びにしている。
肌は陶器のように白い。まるで深窓の令嬢といった雰囲気である。
意識は戻ったものの……呼吸は、まだ弱々しい。
アルヴィンは、辛抱強く回復を待った。
正直に言えば──時間が惜しい。
日の出までどれほどの猶予があるのかは分からないが、時間がダイヤモンドよりも貴重であるのは間違いない。
だが今は……待つべきだ。
半刻ほどの時が経つ。
少女の顔に血色が戻ったのを見計らって、アルヴィンは尋ねた。
「僕はアルヴィン。彼女はフェリシアだ。君は?」
少女は無言だ。
なるべく優しく訊いたつもりなのだが……警戒されているのだろうか。
目覚めたら見知らぬ大人がいたのだ。当然の反応かもしれない。
だが表情をうかがって、それが杞憂であることに気づかされる。
何かの病気、なのだろうか。
伝えたい意志はあるのに、声が出せない、そんな様子が感じ取れる。
少女はアルヴィンの手を取った。
そして、掌を開かせると──Emmaと、指でなぞる。
「エマ……君は、エマ、かい?」
アルヴィンの問いかけに、少女はニコリと頷いた。
「どうして君はここに?」
少女は困ったように、小首をかしげる。
なぜここにいるのか、当人も分からない様子だ。
迷宮に囚われているのは、自分たちだけではなかった。アルヴィンの驚きは大きい。
現実世界を模倣した出来の悪い部屋、変わる扉の番号、そして声を失った少女……
この迷宮は、不可解な出来事が多すぎる。
アルヴィンは少女を見やる。
「僕たちは、外に繋がる扉を探しているんだ。エマも一緒に来てくれないか?」
ここに置いていくわけには行かない。
素直に頷いてくれたのは幸いだった。
アルヴィンは窓際にある、8690番の扉を選んだ。
新たな同行者を加えた三人は、扉をくぐる。
次は、何が待ち受けているのか──
最初に一行を出迎えたのは、生ぬるい風だ。
鼻腔に、潮の匂いが香る。
「今度こそ……外に出たのか?」
アルヴィンの呟きを、潮騒がかき消した。
そこは、部屋ですらない。
眼前に海岸線が伸び、夜空には星が明滅している。
暗い海の向こう──空の中程に、青白い月が見えた。
二人を残して、アルヴィンは足早に波打ち際へと駆けた。
打ち寄せる波が靴を濡らす。手で掬った海水は塩辛い。
──海、である。
放心気味に周囲を見回し……アルヴィンはすぐさま表情を固くした。
海岸線から少し離れた木々の向こう側に、無数の扉が見える。
淡い期待は、やはり期待でしかなかったらしい。
もはや悪魔めいた力としか思えないが……ここはまだ、迷宮の内部なのだ。
そこに、二人が追いつく。
「アルヴィン」
フェリシアは、アズラリエルを手にしていた。
そして告げたのは、思いもよらない言葉である。
「もしかしたら、だけど、外に出る方法が分かったかもしれないよ」
「なんだって……?」
驚きにサンドイッチされる形となって、アルヴィンは食傷気味である。
フェリシアの、翡翠を思わせる、深い緑色の瞳をまじまじと見つめる。
冗談──では、ないようだ。
「本当なのか、フェリシア?」
「方法が分かるのと、出られるのはイコールではないんだけどね」
フェリシアの物言いには、どこか含みがある。
彼女はアズラリエルを開いた。
エマが落ち着くまでの間、熱心に目を通していたようだが……何かを見つけたのだろうか。
細く長い指が紙面をなぞり、燐光を放つ文字が浮かび上がる。
フェリシアは、やっぱり、と声を漏らした。
「おぼろげながら──だけど、この書に何が書いてあるのか、見えてきたよ。この書が迷宮から出る、鍵になるかもしれない」
「アズラリエルに、何が書かれてあるんだ?」
「一言で言うとね、世界の記録」
「記録……? 歴史書、なのか?」
アルヴィンは思わず聞き返す。
アズラリエルは、ベラナが最期に遺した言葉だ。
そしてこの書を巡って、三人の枢機卿が命を落とした。
二人は幻惑の魔女エブリアの手によって、一人はあの男の手によってだが……血なまぐさい争いの末、ようやく得られたものが歴史書とは……拍子抜けした感は否めない。
クリスティーは、アズラリエルが白き魔女へと導くと言い残した。
てっきり、強力な力を秘めた魔道書を想像していたのだが──
フェリシアは神妙な顔で、首を横に振った。
「歴史書とは、少し違うかな。正確には、記録ではなくて、世界ができてからの記憶……が近いかもしれないね」
「どちらにしても、とんでもない書だな……」
「そうだね。でもね、こうも考えられるでしょ? 二百年前、禁書庫を造った当時のオルガナの記憶を見つけ出して、辿れば──」
「……! 迷宮の……法則も!?」
「そういうこと」
満足げにフェリシアは笑う。
「ただし、気の遠くなるような情報量なんだ。目当ての記憶を探し出すのに、時間がかかると思う。ギリギリになるかもしれない」
「見つけるのが早いか、閉じ込められるのが早いか、か……」
危うい賭け、である。
だが他に有効な手がない以上、アズラリエルに賭けるしかない──
と。アルヴィンは視線を落とした。
エマが、祭服の袖を強く引っ張ったのだ。
必死な顔で、何かを訴えかけている。
「エマ、どうしたんだ?」
小さな手が、海を指さした。
何気に見やり……アルヴィンは愕然とした。
沖合に黒い壁がそそり立っていた。こちらへと、急接近してくる。
アルヴィンは、顔を青ざめさせる。
──津波だった。
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