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第六章 迷宮の魔女
第46話 黒薔薇と災い
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『教皇の薔薇園』
といった看板が、かかっているわけではない。
だがここは、教皇と一部の側近のみが立ち入ることを許された、特別な庭園だ。
アルヴィンの記憶が確かなら、三百種類近い薔薇が植えられているはずである。
ただし、開花はまだ早い。
見頃となるのは、あと二ヶ月ほど先か──
ステファーナに誘《いざな》われて訪れた先は、大図書館のほど近くにある、薔薇園だった。
まるで自分の所有物であるかのように、楚々とした花柄のワンピースを着た少女は歩みを進める。
やがて目当ての物を見つけると、木立へと駆けた。
「残念なことです」
若葉の茂った木立を前にして、少女は可憐な顔を曇らせた。
アルヴィンは不用意に追わず、その場で立ち止まる。
「──何がでしょう?」
庭園には、二人以外の人影はない。
拳銃は、取り上げられていない。
父の仇である少女と二人きり。それは復讐を果たす、またとない好機だといえた。
だが……アルヴィンは油断なく、警戒する。
死角から、複数の殺気が感じられるからではない。元より処刑人の存在は、織り込み済みだ。
アルヴィンを慎重にさせたのは、少女が大図書館で見せた──魔法、である。
ステファーナは鈴の音のような、澄んだ声音を響かせた。
「わたしは黒薔薇の、シャルル・マルランがお気に入りなのですが。まだ蕾をつけるには早いようです。花言葉は、永遠。不死を目指す者に、相応しい花だと思いませんか?」
「──あなたは、魔女ですね?」
アルヴィンは、雑談に応じる気などさらさらない。
教会の影の支配者を前にして、彼の声は冷淡で、一切の遠慮がない。
魔女がなぜ、魔女を駆逐する、教会のトップにいるのか──
それは大いなる矛盾だ。
厳しい視線を寄こす若き審問官に、少女は微笑んで見せた。
「わたしは、魔女ではありません」
「あなたが使ったのは、精神支配の魔法だ」
「たしかに、原初の十三魔女の第六姉──災厲《さいれい》の魔女の系譜に連なる末裔であることは事実。わたしは、彼女らと一緒にしないで欲しいと言っているのですよ」
「……どういう意味でしょう?」
短く呟いて、アルヴィンは眉をしかめる。
「わたしは幼少の頃から、屋敷に遺された膨大な魔道書を読み漁ったのです。そして魔法という邪法を、月の制約を受けない、神聖な力へと昇華させた」
少女が話す代物が何であるにせよ、神聖なものだとは、とても思えない。
そして──どう言葉を飾ったところで、魔女である事実は覆らない。
朗朗と語る少女を前にして、アルヴィンの眼光は鋭さを増す。
「あなたや枢機卿たちの不自然な若さも、フェリシアに使った精神支配も、神聖な魔法のお力というわけですか。ですが、不思議ですね」
「なにがです?」
不快感と疑惑を込めて、アルヴィンは問う。
「ご大層な力をお持ちなのに、どうして迷宮で、声が出ないフリを? まさか迷った恐怖で声が出なくなった、という訳ではないでしょう」
「あなたがた審問官は、噓を見抜く術に長けている。だとすれば、沈黙に勝る擬態はありません」
「擬態? ますます理解に苦しみますね」
「わたしは、あなたを観察していたのですよ」
魔法、擬態、そして観察──
アルヴィンは怪訝な表情を浮かべ……ハッとした。
昨夜、禁書庫に足を踏み入れた時だ。
ほんの僅かだが、二人以外の妙な気配が感じられた。
気のせいだと思ったが……あの時、すでに少女はいたのだ。魔法によって、姿を隠して。
そして途中、迷い子を装って、何食わぬ顔で保護させた。
だが、何の目的で観察など……?
意図が、まるで読めない。
「ベラナは、良き後継者を育てましたね」
アルヴィンの困惑を見透かしたかのように、少女は微笑む。
「──どういう意味でしょう」
「死地にあっても屈しない、意志と行動力。迷宮が作った複製とはいえ、白き魔女と接触まで果たした。あなたは、わたしが求めていた人材に他ならない、ということです」
少女が口にする賛辞は、空虚なものにしか感じられない。
アルヴィンの心に沸き上がったのは、警戒だ。
それを肯定するかのように、少女は凜然とした声で告げた。
「審問官アルヴィン。不死の達成のため、あなたの力を貸して欲しいのです」
「僕の力など……必要だとは思えませんが?」
「残念ながら、わたしの魔法はまだ十全ではない。制約があるのです。そして不死の最後の一ピースである、白き魔女は手ごわい。あなたのような、優秀な審問官が必要なのです」
「残念ですが、ご期待には添えられませんね」
アルヴィンは、ゆっくりと首をふってみせた。
宿敵である枢機卿らのために、白き魔女と戦う──馬鹿げた命令である。腹立たしさすら感じられる。
少女の碧い双眸を睨みつけ、アルヴィンは言い放った。
「約束通り、アズラリエルは持ち帰りました。これ以上、あなたがたに従う義理はありません。教え子を放免していただきましょうか。フェリシアにかけた精神支配も、解いていただけますね」
「白き魔女こそが、不死へ至る最後のピースなのです。使命を果たせば、あなたにも不死と名誉を与えましょう」
冷たくつきはなしたアルヴィンの声を、だが少女は意図的に無視した。
黒髪の審問官は、皮肉めいた光を両眼に宿らせる。
「お言葉ですが、大陸が破滅するというのに、不死を得て何の意味がありますか」
「破滅など訪れません。滅びを回避する方法など、いくらでもあるのです」
ステファーナの声は、揺るぎない自信を帯びている。
そうやって、枢機卿らの耳元に囁いたのか──アルヴィンの視線は、冷ややかさを増した。
「さあ、審問官アルヴィン。力を貸してくれますね?」
「お断りします」
「わたしは礼節を尽くしてお願いしているつもりなのですが。考えるまでもない、という口ぶりですね」
事実、考えるまでもないのだ。
寛容さを装った微笑みを浮かべる少女を前にして、アルヴィンの声は辛辣さを帯びる。
「先ほど、花言葉についてお話されましたね。黒薔薇の花言葉は、恨み、憎しみです。永遠など意味しない。耳障りのいい甘言を弄し、姿を偽ったところで、あなたからにじみ出る死臭は隠しきれませんよ。舌先で欺瞞をさえずるのは、それくらいにしていただきましょうか」
アルヴィンの口調には、一分の容赦もない。
対してステファーナは、憤怒をあらわにするわけでもない。
小さく嘆息したのみだ。
「わたしたちは、わかり合えると思ったのですが」
心底惜しそうに、ステファーナはこぼす。
少女は子供が遊びでするように、指で拳銃の形を作った。それをアルヴィンの胸元へと向ける。
二人の視線が交錯した。
バン! と、響いた音は、少女の口から発せられたものだ。
まるで児戯である。
アルヴィンは失笑しかけ──凍りついた。
胸に激痛が走り、眉目が歪んだ。
胸元にやった手が、どろりとした、生温かい液体に触れた。
掌が……真っ赤に染まっている。
噴き出した液体は止まることなく、祭服を重く濡らしていく。
「──!」
意識が、急速に遠のいた。
朝だというのに、黄昏時のように視野が暗い。闇の奥底へと、瞬く間に引きずり込まれる。
アルヴィンは地面に倒れた。
「片付けておきなさい」
それが、最後に聞こえた言葉だった。
(災厲《さいれい》の魔女編につづく)
といった看板が、かかっているわけではない。
だがここは、教皇と一部の側近のみが立ち入ることを許された、特別な庭園だ。
アルヴィンの記憶が確かなら、三百種類近い薔薇が植えられているはずである。
ただし、開花はまだ早い。
見頃となるのは、あと二ヶ月ほど先か──
ステファーナに誘《いざな》われて訪れた先は、大図書館のほど近くにある、薔薇園だった。
まるで自分の所有物であるかのように、楚々とした花柄のワンピースを着た少女は歩みを進める。
やがて目当ての物を見つけると、木立へと駆けた。
「残念なことです」
若葉の茂った木立を前にして、少女は可憐な顔を曇らせた。
アルヴィンは不用意に追わず、その場で立ち止まる。
「──何がでしょう?」
庭園には、二人以外の人影はない。
拳銃は、取り上げられていない。
父の仇である少女と二人きり。それは復讐を果たす、またとない好機だといえた。
だが……アルヴィンは油断なく、警戒する。
死角から、複数の殺気が感じられるからではない。元より処刑人の存在は、織り込み済みだ。
アルヴィンを慎重にさせたのは、少女が大図書館で見せた──魔法、である。
ステファーナは鈴の音のような、澄んだ声音を響かせた。
「わたしは黒薔薇の、シャルル・マルランがお気に入りなのですが。まだ蕾をつけるには早いようです。花言葉は、永遠。不死を目指す者に、相応しい花だと思いませんか?」
「──あなたは、魔女ですね?」
アルヴィンは、雑談に応じる気などさらさらない。
教会の影の支配者を前にして、彼の声は冷淡で、一切の遠慮がない。
魔女がなぜ、魔女を駆逐する、教会のトップにいるのか──
それは大いなる矛盾だ。
厳しい視線を寄こす若き審問官に、少女は微笑んで見せた。
「わたしは、魔女ではありません」
「あなたが使ったのは、精神支配の魔法だ」
「たしかに、原初の十三魔女の第六姉──災厲《さいれい》の魔女の系譜に連なる末裔であることは事実。わたしは、彼女らと一緒にしないで欲しいと言っているのですよ」
「……どういう意味でしょう?」
短く呟いて、アルヴィンは眉をしかめる。
「わたしは幼少の頃から、屋敷に遺された膨大な魔道書を読み漁ったのです。そして魔法という邪法を、月の制約を受けない、神聖な力へと昇華させた」
少女が話す代物が何であるにせよ、神聖なものだとは、とても思えない。
そして──どう言葉を飾ったところで、魔女である事実は覆らない。
朗朗と語る少女を前にして、アルヴィンの眼光は鋭さを増す。
「あなたや枢機卿たちの不自然な若さも、フェリシアに使った精神支配も、神聖な魔法のお力というわけですか。ですが、不思議ですね」
「なにがです?」
不快感と疑惑を込めて、アルヴィンは問う。
「ご大層な力をお持ちなのに、どうして迷宮で、声が出ないフリを? まさか迷った恐怖で声が出なくなった、という訳ではないでしょう」
「あなたがた審問官は、噓を見抜く術に長けている。だとすれば、沈黙に勝る擬態はありません」
「擬態? ますます理解に苦しみますね」
「わたしは、あなたを観察していたのですよ」
魔法、擬態、そして観察──
アルヴィンは怪訝な表情を浮かべ……ハッとした。
昨夜、禁書庫に足を踏み入れた時だ。
ほんの僅かだが、二人以外の妙な気配が感じられた。
気のせいだと思ったが……あの時、すでに少女はいたのだ。魔法によって、姿を隠して。
そして途中、迷い子を装って、何食わぬ顔で保護させた。
だが、何の目的で観察など……?
意図が、まるで読めない。
「ベラナは、良き後継者を育てましたね」
アルヴィンの困惑を見透かしたかのように、少女は微笑む。
「──どういう意味でしょう」
「死地にあっても屈しない、意志と行動力。迷宮が作った複製とはいえ、白き魔女と接触まで果たした。あなたは、わたしが求めていた人材に他ならない、ということです」
少女が口にする賛辞は、空虚なものにしか感じられない。
アルヴィンの心に沸き上がったのは、警戒だ。
それを肯定するかのように、少女は凜然とした声で告げた。
「審問官アルヴィン。不死の達成のため、あなたの力を貸して欲しいのです」
「僕の力など……必要だとは思えませんが?」
「残念ながら、わたしの魔法はまだ十全ではない。制約があるのです。そして不死の最後の一ピースである、白き魔女は手ごわい。あなたのような、優秀な審問官が必要なのです」
「残念ですが、ご期待には添えられませんね」
アルヴィンは、ゆっくりと首をふってみせた。
宿敵である枢機卿らのために、白き魔女と戦う──馬鹿げた命令である。腹立たしさすら感じられる。
少女の碧い双眸を睨みつけ、アルヴィンは言い放った。
「約束通り、アズラリエルは持ち帰りました。これ以上、あなたがたに従う義理はありません。教え子を放免していただきましょうか。フェリシアにかけた精神支配も、解いていただけますね」
「白き魔女こそが、不死へ至る最後のピースなのです。使命を果たせば、あなたにも不死と名誉を与えましょう」
冷たくつきはなしたアルヴィンの声を、だが少女は意図的に無視した。
黒髪の審問官は、皮肉めいた光を両眼に宿らせる。
「お言葉ですが、大陸が破滅するというのに、不死を得て何の意味がありますか」
「破滅など訪れません。滅びを回避する方法など、いくらでもあるのです」
ステファーナの声は、揺るぎない自信を帯びている。
そうやって、枢機卿らの耳元に囁いたのか──アルヴィンの視線は、冷ややかさを増した。
「さあ、審問官アルヴィン。力を貸してくれますね?」
「お断りします」
「わたしは礼節を尽くしてお願いしているつもりなのですが。考えるまでもない、という口ぶりですね」
事実、考えるまでもないのだ。
寛容さを装った微笑みを浮かべる少女を前にして、アルヴィンの声は辛辣さを帯びる。
「先ほど、花言葉についてお話されましたね。黒薔薇の花言葉は、恨み、憎しみです。永遠など意味しない。耳障りのいい甘言を弄し、姿を偽ったところで、あなたからにじみ出る死臭は隠しきれませんよ。舌先で欺瞞をさえずるのは、それくらいにしていただきましょうか」
アルヴィンの口調には、一分の容赦もない。
対してステファーナは、憤怒をあらわにするわけでもない。
小さく嘆息したのみだ。
「わたしたちは、わかり合えると思ったのですが」
心底惜しそうに、ステファーナはこぼす。
少女は子供が遊びでするように、指で拳銃の形を作った。それをアルヴィンの胸元へと向ける。
二人の視線が交錯した。
バン! と、響いた音は、少女の口から発せられたものだ。
まるで児戯である。
アルヴィンは失笑しかけ──凍りついた。
胸に激痛が走り、眉目が歪んだ。
胸元にやった手が、どろりとした、生温かい液体に触れた。
掌が……真っ赤に染まっている。
噴き出した液体は止まることなく、祭服を重く濡らしていく。
「──!」
意識が、急速に遠のいた。
朝だというのに、黄昏時のように視野が暗い。闇の奥底へと、瞬く間に引きずり込まれる。
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