145 / 197
第七章 災厲の魔女
第60話 甘いささやき
しおりを挟む
「──紅茶はいかがかしら、エウラリオ?」
朗らかな声が、小さな枢機卿を迎え入れた。
そこはステファーナ──つまり、教会の実質的な支配者の執務室だ。
だが教会特有の、慎ましさと厳粛さは、この部屋から微塵も感じとれない。
内装は、フェスティビティピンクと白を主体としたものだ。調度品は趣味の良い、アンティークで揃えられている。
頭上のクリスタルガラスのシャンデリアには、愛らしい天使のモチーフが凝らされていた。
まるで少女の部屋に迷い込んだかのような、錯覚に陥りそうになる。
部屋の主は楚々とした花柄のワンピース姿で、ソファーに腰掛けている。
その向かいには、先客がいた。銀髪の女が、革表紙の書に目を落としていた。
白く細い指が、紙面をなぞる。
古言語、だろう。燐光を放つ文字が浮かびあがった。
文字は形を変えながら、次第に青から緑へと色を変化させていく。
息を呑むような、幻想的な光景である。
その書こそが──禁書アズラリエルだ。
永らく禁書庫に封印され続けてきた、幻の書。
世界の記憶がおさめられたという、途方もない書である。
少女はスミレ柄の青紫と金色のティーカップを、ソーサーに置いた。
「いい茶葉が入ったのです。エウラリオ、あなたも飲むでしょう?」
改めて問われて、少年は首を横に振る。
悠長に、紅茶を楽しんでいる場合ではない。
「会主ステファーナ。急ぎお耳に入れたい件が──」
「グングニルなら、心配はいりません」
回答は、先回りして示された。
思いがけない反応に、エウラリオは愕然とする。
「ご、ご存知で……?」
「聖都は、我らが完全に掌握しています。グングニルは、しかるべき時期に、わたしの手に戻るでしょう」
少女の碧い瞳には、全てを見通すかのような色がたたえられている。
それは決して、根拠のない妄言ではない。少女が戻ると言えば、戻るのだ。
底知れない力に、畏怖の念が沸き上がる。
と。
──フシ ヲ エテ ナニニナル?
また、だ。
「誰です……!?」
不意に頭の中に響いた声に、エウラリオは掌で顔を覆った。それは先刻よりも鮮明で、強い。
「エウラリオ」
スッ、とステファーナが立ち上がった。
少女の声音と眼差しは、春の木漏れ日のように穏やかだ。
だが……かつて、大陸一の剣の使い手と称された男を圧倒する、何かがあった。
「──揺らぎましたね?」
「ち……違うのですっ……!」
気圧され、エウラリオは後ずさる。
背中が壁に当たり、数冊の書が足元に落ちた。
背後は、壁面全体が書架となっていた。
収められているのは、不死の達成のため大陸中から蒐集された、魔道書だ。手段は選ばれなかった。
足元に散らばった書から、血の臭いがした。
「ス、ステファーナ、お許しを……!」
エウラリオは狼狽え、声を震わせる。
「何を怯えているのです?」
少女が迫り、ひんやりとした手が、少年の青ざめた頬に触れた。
目鼻立ちの整った、端整な顔が近づく。
互いの息づかいが聞こえそうな……いや、唇が触れあいそうな距離である。
「か、会主……!」
「わたしを見なさい」
少女の声に、抗うことなどできない。
視線が交錯する。
恐怖を宿した目は──とろりと、恍惚としたものに変わった。
薄紅色の唇が、耳元で甘く囁く。
「可愛いエウラリオ。不死まで、あと一歩なのですよ? 死の影に怯える日々から、解放されるのです」
「……はい」
「これまで、どれだけ手を尽くしても、聖櫃に辿り着くことは叶わなかった。いかなる魔法の干渉も受けつけない、特殊な空間だからです。ですが──アズラリエルが、しるべとなる」
そう言って、機械人形のように書をめくる、フェリシアを一瞥する。
「あと、数日です。あなたの忠誠に期待していますよ?」
「──勿論です、会主ステファーナ」
エウラリオは頷いた。
その顔から、恐れは消えていた。全てを忘却したかのように、曇りのない笑みを浮かべている。
少年は、小首をかしげた。
「背教者アルヴィンは、いかがいたしましょう?」
「あの傷では、どのみち長くはありません。放っておけば良いのです」
ステファーナは、余裕に満ちた口調で断言する。
いや──僅かばかりの間が生じた。
上級審問官ベラナの最後の弟子、そして禁書庫からアズラリエルを持ち帰った男である。
保険は、かけておいたほうがいい。
ややあって、少女は忠実なしもべに下命した。
「念のため、処刑人を先回りさせなさい。行き先は知れています」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
どこをどう歩いたのか、さっぱり思い出せない。
市場で見かけた、仔猫を追いかけていた。
それが……気がつけば、こんな陰気くさい空間を彷徨っている。薄暗い、地下通路のような場所だ。
迷路、と呼んだほうがいいかもしれない。
途中に部屋があったり、水路があったり、妙に入り組んでいる。
じめじめしていて臭いもヒドいし……とにかく気味が悪い。
「ここ……お化けとか、出てきたりしないわよね?」
黒猫を胸に抱き、メアリーは不安げに辺りを見回した。
お化けの類いだけは、本当に勘弁してもらいたい。
視線の先に、二メートル程の幅の水路があった。
黒く濁った水面が泡だったのは、その時だ。
しぶきが上がり、異変に気づいた赤毛の少女は悲鳴をあげる。黒い人影が突如として出現した。
「ひっ、カッパ!?」
「誰がカッパだ!!」
ずんぐりとした体型の、カッパが怒鳴り返してくる。人の言葉を喋れるとは、驚きである。
カッパは通路にあがると、背負っていた黒い甲羅を下ろす。
それはよく見ると──甲羅ではない。人間だ。
しかも、見覚えがある。
その顔を忘れようはずがない。三年を経て、少し大人びたように見えるが──
「──アルヴィンじゃないっ! どうしたのっ!?」
呼びかけに、黒髪の青年はピクリとも反応しない。
まるで死者のように、顔は青白い。
地下通路に現れたのは瀕死のアルヴィンとカッパ──いや、枢機卿ウルベルトだった。
朗らかな声が、小さな枢機卿を迎え入れた。
そこはステファーナ──つまり、教会の実質的な支配者の執務室だ。
だが教会特有の、慎ましさと厳粛さは、この部屋から微塵も感じとれない。
内装は、フェスティビティピンクと白を主体としたものだ。調度品は趣味の良い、アンティークで揃えられている。
頭上のクリスタルガラスのシャンデリアには、愛らしい天使のモチーフが凝らされていた。
まるで少女の部屋に迷い込んだかのような、錯覚に陥りそうになる。
部屋の主は楚々とした花柄のワンピース姿で、ソファーに腰掛けている。
その向かいには、先客がいた。銀髪の女が、革表紙の書に目を落としていた。
白く細い指が、紙面をなぞる。
古言語、だろう。燐光を放つ文字が浮かびあがった。
文字は形を変えながら、次第に青から緑へと色を変化させていく。
息を呑むような、幻想的な光景である。
その書こそが──禁書アズラリエルだ。
永らく禁書庫に封印され続けてきた、幻の書。
世界の記憶がおさめられたという、途方もない書である。
少女はスミレ柄の青紫と金色のティーカップを、ソーサーに置いた。
「いい茶葉が入ったのです。エウラリオ、あなたも飲むでしょう?」
改めて問われて、少年は首を横に振る。
悠長に、紅茶を楽しんでいる場合ではない。
「会主ステファーナ。急ぎお耳に入れたい件が──」
「グングニルなら、心配はいりません」
回答は、先回りして示された。
思いがけない反応に、エウラリオは愕然とする。
「ご、ご存知で……?」
「聖都は、我らが完全に掌握しています。グングニルは、しかるべき時期に、わたしの手に戻るでしょう」
少女の碧い瞳には、全てを見通すかのような色がたたえられている。
それは決して、根拠のない妄言ではない。少女が戻ると言えば、戻るのだ。
底知れない力に、畏怖の念が沸き上がる。
と。
──フシ ヲ エテ ナニニナル?
また、だ。
「誰です……!?」
不意に頭の中に響いた声に、エウラリオは掌で顔を覆った。それは先刻よりも鮮明で、強い。
「エウラリオ」
スッ、とステファーナが立ち上がった。
少女の声音と眼差しは、春の木漏れ日のように穏やかだ。
だが……かつて、大陸一の剣の使い手と称された男を圧倒する、何かがあった。
「──揺らぎましたね?」
「ち……違うのですっ……!」
気圧され、エウラリオは後ずさる。
背中が壁に当たり、数冊の書が足元に落ちた。
背後は、壁面全体が書架となっていた。
収められているのは、不死の達成のため大陸中から蒐集された、魔道書だ。手段は選ばれなかった。
足元に散らばった書から、血の臭いがした。
「ス、ステファーナ、お許しを……!」
エウラリオは狼狽え、声を震わせる。
「何を怯えているのです?」
少女が迫り、ひんやりとした手が、少年の青ざめた頬に触れた。
目鼻立ちの整った、端整な顔が近づく。
互いの息づかいが聞こえそうな……いや、唇が触れあいそうな距離である。
「か、会主……!」
「わたしを見なさい」
少女の声に、抗うことなどできない。
視線が交錯する。
恐怖を宿した目は──とろりと、恍惚としたものに変わった。
薄紅色の唇が、耳元で甘く囁く。
「可愛いエウラリオ。不死まで、あと一歩なのですよ? 死の影に怯える日々から、解放されるのです」
「……はい」
「これまで、どれだけ手を尽くしても、聖櫃に辿り着くことは叶わなかった。いかなる魔法の干渉も受けつけない、特殊な空間だからです。ですが──アズラリエルが、しるべとなる」
そう言って、機械人形のように書をめくる、フェリシアを一瞥する。
「あと、数日です。あなたの忠誠に期待していますよ?」
「──勿論です、会主ステファーナ」
エウラリオは頷いた。
その顔から、恐れは消えていた。全てを忘却したかのように、曇りのない笑みを浮かべている。
少年は、小首をかしげた。
「背教者アルヴィンは、いかがいたしましょう?」
「あの傷では、どのみち長くはありません。放っておけば良いのです」
ステファーナは、余裕に満ちた口調で断言する。
いや──僅かばかりの間が生じた。
上級審問官ベラナの最後の弟子、そして禁書庫からアズラリエルを持ち帰った男である。
保険は、かけておいたほうがいい。
ややあって、少女は忠実なしもべに下命した。
「念のため、処刑人を先回りさせなさい。行き先は知れています」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
どこをどう歩いたのか、さっぱり思い出せない。
市場で見かけた、仔猫を追いかけていた。
それが……気がつけば、こんな陰気くさい空間を彷徨っている。薄暗い、地下通路のような場所だ。
迷路、と呼んだほうがいいかもしれない。
途中に部屋があったり、水路があったり、妙に入り組んでいる。
じめじめしていて臭いもヒドいし……とにかく気味が悪い。
「ここ……お化けとか、出てきたりしないわよね?」
黒猫を胸に抱き、メアリーは不安げに辺りを見回した。
お化けの類いだけは、本当に勘弁してもらいたい。
視線の先に、二メートル程の幅の水路があった。
黒く濁った水面が泡だったのは、その時だ。
しぶきが上がり、異変に気づいた赤毛の少女は悲鳴をあげる。黒い人影が突如として出現した。
「ひっ、カッパ!?」
「誰がカッパだ!!」
ずんぐりとした体型の、カッパが怒鳴り返してくる。人の言葉を喋れるとは、驚きである。
カッパは通路にあがると、背負っていた黒い甲羅を下ろす。
それはよく見ると──甲羅ではない。人間だ。
しかも、見覚えがある。
その顔を忘れようはずがない。三年を経て、少し大人びたように見えるが──
「──アルヴィンじゃないっ! どうしたのっ!?」
呼びかけに、黒髪の青年はピクリとも反応しない。
まるで死者のように、顔は青白い。
地下通路に現れたのは瀕死のアルヴィンとカッパ──いや、枢機卿ウルベルトだった。
10
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
おっさん武闘家、幼女の教え子達と十年後に再会、実はそれぞれ炎・氷・雷の精霊の王女だった彼女達に言い寄られつつ世界を救い英雄になってしまう
お餅ミトコンドリア
ファンタジー
パーチ、三十五歳。五歳の時から三十年間修行してきた武闘家。
だが、全くの無名。
彼は、とある村で武闘家の道場を経営しており、〝拳を使った戦い方〟を弟子たちに教えている。
若い時には「冒険者になって、有名になるんだ!」などと大きな夢を持っていたものだが、自分の道場に来る若者たちが全員〝天才〟で、自分との才能の差を感じて、もう諦めてしまった。
弟子たちとの、のんびりとした穏やかな日々。
独身の彼は、そんな彼ら彼女らのことを〝家族〟のように感じており、「こんな毎日も悪くない」と思っていた。
が、ある日。
「お久しぶりです、師匠!」
絶世の美少女が家を訪れた。
彼女は、十年前に、他の二人の幼い少女と一緒に山の中で獣(とパーチは思い込んでいるが、実はモンスター)に襲われていたところをパーチが助けて、その場で数時間ほど稽古をつけて、自分たちだけで戦える力をつけさせた、という女の子だった。
「私は今、アイスブラット王国の〝守護精霊〟をやっていまして」
精霊を自称する彼女は、「ちょ、ちょっと待ってくれ」と混乱するパーチに構わず、ニッコリ笑いながら畳み掛ける。
「そこで師匠には、私たちと一緒に〝魔王〟を倒して欲しいんです!」
これは、〝弟子たちがあっと言う間に強くなるのは、師匠である自分の特殊な力ゆえ〟であることに気付かず、〝実は最強の実力を持っている〟ことにも全く気付いていない男が、〝実は精霊だった美少女たち〟と再会し、言い寄られ、弟子たちに愛され、弟子以外の者たちからも尊敬され、世界を救って英雄になってしまう物語。
(※第18回ファンタジー小説大賞に参加しています。
もし宜しければ【お気に入り登録】で応援して頂けましたら嬉しいです!
何卒宜しくお願いいたします!)
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎
長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
むっつり金持ち高校生、巨乳美少女たちに囲まれて学園ハーレム
ピコサイクス
青春
顔は普通、性格も地味。
けれど実は金持ちな高校一年生――俺、朝倉健斗。
学校では埋もれキャラのはずなのに、なぜか周りは巨乳美女ばかり!?
大学生の家庭教師、年上メイド、同級生ギャルに清楚系美少女……。
真面目な御曹司を演じつつ、内心はむっつりスケベ。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる