異母妹に全て奪われたけれど、最後に笑うのはこの私です

重田いの

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 森と湖に囲まれたローデン領。アーデルハイト伯爵家は古くから続く名家である。
 広大な領地に季節の花々が咲き誇り、湖面にはいつも穏やかな風が渡る。主産業は牧畜で、羊毛と毛織物が有名だ。
 レティシア・ユリア・デ・アーデルハイトが私の名前。母に叩き込まれた貴族式礼儀作法と、父に教わった乗馬技術。得意技は刺繍と裁縫。優しい母と強い父、おちゃらけるけど頼りになる兄。幼い頃から何ひとつ不自由なく、未来を約束された人生を歩んでいる……はずだった。
 ところがどっこい。私が六歳になった、ある日のこと。数日前から続いていた大雨が止み、農夫たちは羊の囲い柵の修繕に忙しく、農婦たちは彼らに食べさせるものをこしらえるのに忙しい、そんな日だった。
 空気は湿り、遠くの空にはまだ暗雲が渦巻いていた。夕暮れどき、父が帰ってきた。
 見知らぬ女の子を連れて。
「今日からこの子も、我が家の娘にする」
 と、玄関ホールでいけしゃあしゃあと。まるで夜会で貴婦人を紹介するように、はい、と手を広げて指し示す。
 開かれた扉の向こうには、ずぶ濡れになった小さな少女が立っていた。波打つ金髪を頭の上で二つに結い、大きな青い目は零れ落ちるよう。肩を震わせ、両手でスカートを握りしめている。泥に汚れた靴。上等だが年齢にしてはいささか華美なドレス。
「ラヴィニアだ。……私の、娘だ」
「は?」
 と、勝手に自分の口から声が出たこと、それが予想外にホールに響いたことを覚えている。
 出迎えに出てきた私たちは軒並み硬直した。壁際に並んだ使用人たちも、どうしていいかわからない様子で身体を縮める。特に母の顔は青ざめ、口を引き結んできっと父を見つめるばかり。兄カイルは気まずそうに頬をかき、唇を噛んだ。私はといえば、息を呑んだまま人形を抱きしめた。
 父は長い間、領外へ赴くことが多く、帰宅が不自然なほど遅かった。その日の理由が――これだったのか。
「外で、女を囲っていたというの……?」
 母の声は震え、かすれ、今にも途切れそうだった。
 父は視線を逸らし、開き直った様子で頷く。
「何が悪い? 貴族なら当然のことだろう」
「いきなりこんなことをされては、困ります。子供たちも困惑しています。皆であなたのお帰りを待っていたんですのに……」
「彼女がいないのだ! 仕方ないだろう、こんな小さな娘を一人で放っておけというのうか!?」
 父の怒鳴り声に私は飛び上がった。兄が両手を広げ、両親の間に入ろうとする。と、ラヴィニアがたっと走って父に抱き着いた。彼女は怒りの形相で母を見上げ、私を睨みつける。それから父と兄にとろけるような視線を送った。幼いながら、ませているを通り越した媚態であった。小さな細い肩をくねらせ、彼女は泣き声を出す。
「あはぁん、パパぁ……パパぁん……っ」
「おお、よしよし。怖いおばさんだねえ、ラヴィニア」
 父は相好を崩して異母妹を抱き上げた。その夜の食事の席は葬式みたいだった。
 ラヴィニアは与えられたスープ皿を両手で抱えるようにしてがっついた。まともに食べさせてもらえなかったのだろうか、と私でさえ思った。
「それで、」
 めったにないことだが、銀のスプーンで皿の底をひっかくようにして音を立てながら、母が言う。
「『彼女』がもういないとは? この子の母親のことですの?」
「昨夜の大雨の中、屋敷を飛び出した。行方が知れない。ラヴィニアは、ひとり残されたのだ」
「雨が降ったとたん、あなたが飛び出していったのはそのためでしたの。妾宅が心配でしたのね」
 母は静かなため息をつく。口の周りをスープでいっぱいにしながらラヴィニアが顔をあげ、得意げな表情をした。見かねた兄がナプキンで顔を拭ってやると、んきゅんっ、と喉を鳴らす。
「お兄様ぁ、ありがとお」
 誰もが沈黙していた。
 家長が白といえば黒も白になるのがこの国の法律である。戸籍制度こそが人間の立場を現わすものであり、誰がどこの家の誰と誰から生まれたかこそが価値を決める。
 少なくとも、母は自分を騙した夫に対してひとつの譲歩と一つの勝利を収めた。ラヴィニアを決して我が伯爵家の籍に入れないこと。それが、彼女を私たち家族に迎え入れる条件となった。

 そうして最初の数日はなにごともなく過ぎた。母はラヴィニアに侍女をつけ、家庭教師をつけ、彼女を貴族の家で過ごせるような女の子に躾治すことにした。父はやはり居づらいのか、気がとがめたのか、外泊が増えた。
 庭に初夏の風が吹き抜け、薄桃色の薔薇がそよいでいた。私は庭園のブランコに腰かけて、重苦しいため息を推し堪える。六つである。小さな人形を私は抱きしめる。母に縫ってもらった大切な宝物である。昨年の誕生日プレゼントだった。布製で、洗いざらいした馬の毛で金色の髪を生やしている。手慰みに人形の髪を三つ編みにしていた、そのときだった。
「それ、ちょうだい」
 唐突な声に顔を上げると、ラヴィニアがじぃっと私の腕元を見つめていた。青い目にきらきら光りが当たり、吸い込まれるような澄んだ翡翠色に輝く。その目には根強い強欲と憎悪が光っているように見えた。私の考え過ぎだろうか? いいや、決してそうではない。
 私は人形を抱きしめる。
「いやよ。これは、お母さまが私の誕生日に作ってくれたものなの」
「いいから。貸してよ」
 ラヴィニアは私の返事を待たず、ぱっと手を伸ばしてきた。細い指が、人形の腕を掴む。縫い目が軋む音に、私は慌てて引き寄せた。
「だめ! ミリアは渡さない!」
 いいでしょ、少しくらい! あたしには、こんなのなかったのに!」
 彼女は泣きそうな声で叫び、そのまま力任せに引っ張った。人形の縫い目が、皮膚のようにぎしりと悲鳴をあげる。
「やめて! 離してよ! 壊れちゃう!」
「ダメーッ、ダメダメダメ! お姉ちゃんなんでしょ! あたしのお姉ちゃんでしょおおおっ? ちょっとくらいくれたっていいでしょ!」
「嫌よ!」
 私は気づかぬまま哀願していた。
「ねえ、他のをあげるわ。他のお人形ならもってっていいから――」
 癇癪を起したラヴィニアの悲鳴が庭園に響き渡った。
「やめなさい!」
 鋭い声が飛び、私とラヴィニアの手から同時に力が抜けた。ぐらぐら揺れるブランコだけが騒動を物語っている。
 振り返ると、兄カイルが険しい表情で立っていた。
「レティシア、妹に乱暴しちゃだめだろう!」
「ら、ラヴィニアが先に無理に引っ張ったのよ……!」
「妹が欲しがっているなら、譲るのが姉の務めだろう」
 私は唖然とする。兄カイルの叱責よりも、ラヴィニアの勝ち誇った微笑の方が容赦なく胸に突き刺さった。喉の奥が熱くなり、言葉が詰まる。
「お、お兄様はこの子のことをお認めになるの?」
「父上が決めたことだ。それに、この目の色はアーデルハイト家の色じゃないか。疑えないよ」
 がーん。と頭の奥で音がした、と思った。
 私は黒髪に灰色の目だ。お母様の色だから、誇りに思っていた。だが確かにアーデルハイト伯爵家の人間の色ではなかった。我が家の色は、金髪に青と緑のあわいの目である。兄と異母妹の持つ色。
 更に間の悪いことに、のそのそとカイルの後ろからアランが進み出てきた。私は顔から火を吹きそうなほど恥ずかしくなった。アランは七歳。隣の領地の伯爵の息子で、私の、婚約者だった。
 彼はちらちらラヴィニアを見ながら、気弱な笑みを浮かべて言った。
「レティシア、泣かなくていいよ。でもさ……ホラ、ほんの少しだけ貸してあげたらどうだい? この子だって泣いているよ。かわいそうだ」
 そう言って、アランはラヴィニアの頭をそっと撫でた。
 ラヴィニアは突如として表情を変えると、悲しくて悲しくて仕方ないと言いたげにしゃくりあげる。アランの手にしがみつき、兄の背中を引っ張る。
「うぎゅぅ、……ひっく……っ、ありがとおお、おにいたま、アランさまぁっ」
 ひどく弱々しく、誰もが守ってあげたくなる姿。守ってほしいと言わんばかりの仕草。
 けれど私は知っていた。たった今、彼女がどれほど強く人形を引っ張ったのか。自分の欲を押し通そうとした? 違う。異母妹ラヴィニアは、私を傷つけたかっただけだ。人形なんてどうでもよかったのだ。
 胸の奥がきりきりと痛み、同時にぞおっとする恐怖が背筋を撫でる。
「ひどい……」
 呟いた言葉が誰の耳にも届かなかったらしいのは、幸か不幸か。
 アランは私の手から人形を取り上げる。もはや抵抗する余地はなかった。ミリアはラヴィニアの手に渡され、兄は優しく彼女の肩を抱いた。
 使用人たちがやってきて、ラヴィニアの様子を伺った。あとで知ったことだが、父は愛人の娘に何かあったら使用人を鞭打つと言い残して去っていったらしい。だから皆、ラヴィニアを気にかけていたのだった。
 涙はこぼれない。ただ、胸の中が冷たくしびれたように痛かった。
 ああ。私は直感する。泣く者は守られ、譲る者が傷つくのだ。これから私は、何度も何度も傷つけられ、奪われることになるだろう。


 直感は当たっていた。
 あの日、人形を引き裂かれそうになった瞬間に胸をかすめた、ひやりとした疑念――
 その後、ラヴィニアはことあるごとに自分を被害者の立場に置き、私から多くのものを奪っていった。彼女はきらびやかな美少女であり、母親に捨てられた哀れな存在である。いつの間にか彼女の一泣きがあっという間に周囲の同情を味方につけた。
「レティシアお姉さまが、私のノートを取ったの……」
「鉛筆を返してくれないの……」
「返すって言ったのに、怒ったのぉお……ッ」
 ノートも鉛筆も、最初に手を伸ばしたのはラヴィニアだった。勝手に私の部屋に侵入して盗んでいくことさえあった。
 だが泣きはらした目のラヴィニアの訴えの方が尊重された。何故だろう? 私だって小さな子供であることに代わりはなかったというのに。父、使用人、兄、家庭教師も、そしてたまに遊びに来るだけのアランでさえ私を叱った。あるいは、苦笑して諫めた。ラヴィニアが煽ったのは自分の被害者性だけでなく、彼らの優越感を巧みに高めたのだった。
 すごいやりようだ。母親もそうだったのだろうか? はてさて。
 子供にとっては、ノートも、鉛筆も、人形も――それはただの物などではない。宝物であり、未来を描く道具であり、自分を守り心を形作る壁である。その壁がひとつずつ剥がされていくたび、私の胸はしくしく痛み、内側から何かが削れていった。抵抗すれば「姉なら我慢しろ」と責められ、黙っていれば「恨みがましい目付きだ」と言われた。
 だが私のことはもういい。ラヴィニアにもっとも大切なものを奪われたのは私ではない。母だ。
 異母妹が家に来て数日も経たぬうち、母は夜ごと部屋に閉じこもるようになった。私たちと一緒に食卓を囲むこともなくなり、口数も減った。
 当たり前だろう、他ならぬ夫と自分で産んだ息子が、今ではラヴィニアの取り巻きのようなものになり果てたのだから。母の顔は日に日にやつれ、笑顔はいびつになった。
「大丈夫よ、レティシア。お母様は平気」
 震えた声。白く細い指先は、いつも微かに冷たい。夜遅く、廊下に響く嗚咽を、私は何度も聞いた。暗い廊下に出て両親の部屋の扉に耳を当てると、かすれた声がこぼれていた。
「どうして……どうしてあの人は……」
 父の裏切りが、母の誇りを砕いたのだ。母はだ誇り高い貴婦人だった。品位は彼女の鎧であり、名誉は心臓の鼓動そのものだった。その全てを、父の行いが容赦なく踏みにじった。
 百歩譲って、愛人を囲うだけならいい。だが子を産ませ、しかもその子を正当な子供たちと同じ家で育てる? あまりにも、むごいやり方だ。
 母は次第に寝付くようになり、うたた寝のうちに日々が過ぎていった。
 その頃には私もラヴィニアのやり方に慣れて、好きなだけ取っていくがいいという心境に至っていた。よく考えてみれば、文房具は欲しがれば次がすぐもらえるし、人形は頭の中で愛でればいい。日がな一日、ベッドに横たわる母のかたわらで勉強するのも悪くない。唯一、ここばっかりはあのラヴィニアでさえ入り込めない場所だから。

 ある日の食卓、ラヴィニアが無邪気さを装った声で言った。
「ねーえ? パパぁ。おくさまがいなくなったらさあ、ママも出てきてくれて、そしたら家族だけで一緒に暮らせるよねえ? あっ、もっちろーんお兄様も一緒よお!」
 私は食べかけの鋳物のスープ皿をラヴィニアに投げつけ、父に白樺の枝で尻をぶたれたが後悔していない。
 兄カイルは女の諍いに畏れを為して、私にあまり関わらないようになった。私と、母に。
 彼は血の繋がった女たちではなく、異母妹を選んだのだ。父と同じに、可愛がっていれば媚びてくる方を選んだのだ。


 母は田舎に療養へ。私は少女へ。
 月日は流れた。
 私は数人の使用人たちの協力の元、ラヴィニアとはなるべく関わらないようにする方向で妥協していた。屈辱であることに変わりはない。だが私と婚約者のアランが結婚して、隣の領地の領主夫人になることは母の願いでもあった。彼ととともに白い礼拝堂で並んで立つ姿を想像するたびに、私はその未来を守ることを心に誓う。
 幸福な幻想が砕かれることは、なんとなく、どこかで理解していたのだと思う。
 ラヴィニアは私の持っているものならなんでもかんでも欲しがったから。そして私が持っている中でもっとも貴重で、代替不可能なものといえばただ一つだった。
 暑くて暗い夏の午後のことだった。訪ねてきたアランがきっちりと盛装していたので、なんとなく察した。
 彼は言った。
「私は……レティシア嬢ではなく、ラヴィニア嬢を愛してしまいました。私が花嫁に迎えたいのはラヴィニアなのです」
 エントランスホールに響く声。まるでいつかの再現。
 出迎える私と父と兄、それから壁際のラヴィニアの喜色満面の顔。
 父は驚くほどあっさりとうなずいた。とろんとした目だった。
「ならば婚約者を取り替えればよい。より美しい方を娶るのは貴族として当然だ」
「父上……」
 私は虚しく空を仰ぐ。天井の壁紙は剥がれかけている。
 アランはラヴィニアの手を取った。
 ラヴィニアの目からは静かに涙がこぼれ落ちていた。
「あたしっ、あたしいぃ……ずうっとアラン様が好きで。お姉様にいじめられてても、彼だけがあたしの救いだったの」
「ラヴィニア……!」
 カイルが俺は? みたいな顔して首を傾げる。私は隣の兄を見ることもせず、片手を上げた。しょうもない。何もかもが。勝ち誇ったラヴィニアの顔にムカつくことさえもうない。
「父上、では仕方ないですから私は修道院へ参ります」
 そこなら母の療養先にも近い。
「いいや、ダメだ」
「何故ですか」
「今まで育ててやった恩を忘れたか。他の貴族と縁を繋ぐのに役立ってもらうぞ」
「はあ……」
 ラヴィニアの口元がひくついているのに、一番近くにいるアランは気づかないのだろうか?
 その後、私に新しい婚約者ができた。クロヴィス=レンベルク。侯爵家の三男坊で、小さな領地を持っているだけの男だった。彼が年老いても病気持ちでも平民でもないことに、ラヴィニアは最後まで不服そうな顔をしていた。


 それからの生活は、それなりに楽しいものだった。
 夫クロヴィスは小さな領地に母を呼んでくれたのだ。丘の上のこぢんまりとした石造りの家で、ささやかだが幸せな日々が始まった。母と私たち夫婦と数人のメイド、庭先に門番の老夫婦がいる生活が始まった。庭の小さな畑を耕し、実りを収穫して、感謝していただく。
 あの大きな城の高い天井も、シャンデリアも、銀食器もハイヒールの靴音も、きらめく宝石もない。けれど、かえってそれが心地よかった。
 私は案外、多くを持つことにそぐわない人間だったのだろう。あるいは異母妹がそうした性質を鍛えてくれたというのなら、感謝すべきかもしれなかった。
 朝には村から響く鶏の声で目覚め、小さな畑の土の匂いを嗅ぎ、陽のぬくもりを全身で浴びる。雑草を摘み、芋や麦を収穫し、風に揺れる洗濯物を眺めながら母とお茶を啜る。私は驚くほど静かな幸福を噛みしめていた。
 領地の見回りから帰ってきたクロヴィスを、木製の門の前で迎えるのが喜びだった。彼の休暇の日には揃って土いじりをする。
「伯爵家の姫君にこんなことさせて、ばちが当たるなあ」
 泥に汚れた手で頭を掻きながら、クロヴィスは照れくさそうに笑う。
「そんなこと。ここにいるだけで幸せよ」
 私は心からそう言えた。
 クロヴィスは照れ臭そうに私の手を握り、小さな家に戻る。母が老いたメイドと一緒に待っていて、焼き立てのお菓子をくれるのだった。
 かつて華やかだったアーデルハイト伯爵家を思い出して、思い出に浸る余裕さえ生まれた。もう二度と戻れないだろう、あの頃。静寂と埃が満ち、いつも曇りがちで、羊の鳴く声がこだまする谷間の土地。
「レティシア、あなたは強くなったわね……」
 夕暮れの台所で、母がぽつりと呟いた。やわらかな橙の光が、母の横顔を照らす。かつての研ぎ澄まされた気高さとは違う、弱々しくも深い光だった。
 ――どうやら母に恋人らしき人ができたらしい、と気づいたのは、そんな生活が続いて数か月が過ぎた頃だった。何やら頻繁に手紙のやりとりをしている先があるなと気づいて、探ってみたらすぐに白状してくれた。
「お母様、普通そういうのって私の赤ちゃんが先じゃないの?」
「うう。ごめんてば」
 などといじわる言ってみたりして。
 とはいえ、嬉しいものである。この国ではよほどの理由がない限り原則離婚が認められない。母は父とアーデルハイト伯爵家の家名に縛られている。だが恋愛は、そのことをしばし忘れさせてくれるだろう。
 母の恋人が遊びにくるときは、私と夫は村まで行ったり遠駆けをしてたっぷり時間を潰す。いくら母子といえど、いや、だからこそ、相手の顔や素性なんぞ知りたくないことだから。
「どういう挨拶すればいいのやらもわからないわ」
「僕も同感。困っちゃうよねえ」
 アハハ、と笑い合って花など摘んでお土産にして。家に帰ると、知らない人の残り香というか、雰囲気が残っているのがなかなか不思議だった。


 一年が過ぎた頃。
 夫クロヴィスは友人に裏切られ、巨額の借金を背負った。騙し取られた金。名誉。爵位と領地だけは残ったが、もうメイドを雇用できなかった。この領地はローデン領よりさらに貧しい。私たちと母の暮らしくらいはかつかつでやっていけるが、それでは利息の支払いができない。領民たちの視線がわびしい。だがそれでも、肩身の狭い思いなどしたくない。
「大丈夫、なんとかなるわよ。私も針仕事をするわ」
 仕立て屋のところに出かけて行って、頭を下げて繕い物を任せてもらった。
「……すまない、レティシア。すまない。君に、何も残してやれない」
 肩を落とすクロヴィスの背は、以前よりひどく小さく見えた。ラヴィニアにアランをとられたときよりも、胸が痛かった。私は夫の背中に覆いかぶさって、ふざけてぴょんぴょん跳ねる。
「大丈夫よ。私が大丈夫って言ってるんだから、大丈夫に決まっているの」
 自力で生計を立てる、という大変な日々が始まった。繕い物だけでは当然やっていけないので、刺繍を請け負ったりした。生家にだけは死んでも頼りたくなかった。伯爵位を継いだらしい兄にも、祝宴には顔を出さず手紙ですませたくらいだったから。
 母が台所のことをやってくれ、夫は大貴族の秘書の仕事を得ようと挨拶回り。私は針仕事のしすぎで手も目も痛くなるくらい。それでも暮らしていけるのは幸福だった。ここにいるのは家族だけだった。


 大雨の日だった。夜、乏しい灯りの下で母と私は縫い物を、クロヴィスは難しい顔をして手紙を書いていた。
 そして、扉が叩かれた。
 乾いた激しい音。静かな空気を鋭く切り裂くような。
 私たちが見守る中、クロヴィスがゆっくりと扉の前へ歩み寄った。冷たい雨風が吹き込み、節約のための灯りを消してしまう。残るのは暖炉の火だけ。
「お久しぶりです……」
 濡れた外套を脱ぎながら、男が俯いたまま立っていた。
「ルーク」
 と夫が呟く。呆然と。何の感情も載せられなかった声音で。
 かつてクロヴィスの友だった男がそこにいた。彼を裏切り借金を押し付け、忽然と姿を消した男。ルーク・ベルハルト。
 頬は痩せこけ、目の下には深い影が落ちていた。雨に濡れた髪は乱れ、凍えた様子で身を縮めている。
「金を返しに来た。すべて……利子も、合わせて」
 こすれて軋んで消え入りそうな声で、彼は袋を差し出す。革袋のずっしりと重たいことは、室内から見守る私にもわかった。ルークは深々と頭を下げた。
「……私は加担していたわけじゃない。本当に……仲間に裏切られたんだ。全部取り返すのに、何年もかかった。借りは、返さないといけないから。きみに借金を押し付けた。許してくれ――許してくれ!」
 クロヴィスは震える手でルークの肩に触れた。
「生きて戻ってきてくれて、ありがとう。嬉しいよ」
 本心からの言葉だと、私にはわかった。胸が暖かくなり涙が頬を伝ったのは、ああこれでもう夜中まで刺繍をしなくてすむのだと思ったからなのか、あるいは。
 私が得ることのなかった他人との本物の思い合いというものを、目の当たりにしたからなのか。母ももらい泣きをしていたから、少なくとも感極まっていたのは確かだった。
 ルークがもたらした金によって、私たちの生活はようやく息を吹き返した。
 針仕事は半分ほどに減った。新しいメイドを雇い入れた。小さな家の古びた石造りの壁を丁寧に磨き、床を掃き、見苦しくない状態にした。料理人が来て、台所には温かなスープの香りが満ち、夜には暖炉の火が柔らかく弾けた。


 母の恋人である人が息を切らしてやってきたのは、そんなことが終わってからだった。てっきり、金の切れ目が縁の切れ目で貧乏になった母は見捨てられたのだと思い込んでいたものだから、私も夫も大いに驚いたものだ。正直言って私は何も言わない母ごとその恋愛に怒っていたかもしれない。
「すまなかった。一番大変なときに、私はいつだって君の傍にいない――」
 と、泣き崩れるむくつけき大男。
 私はクロヴィスの背中に隠れた。夫は私を振り返り、母を見、困り果てている。おいおい泣く男の背中に、意を決して声をかけた。
「あー、その。玄関先ではなんですし。客間へどうぞ。ローエングリン伯」
 エムナス・ローエングリン伯爵。国を守る聖騎士団の団長にして、王の右腕。ここ数か月は国境で起こった小さな紛争の解決のため、聖騎士団が向かっていたのは知っていたが……。
「なるほど、聖騎士様がお母様のお相手だったのね」
 客間でお茶を出しつつ私が言うと、母は困った顔をする。
「聖騎士は妻帯できないのは周知の事実だけれど、実はこっそり恋人を囲っている人もいるのよ……」
「それは知ってるわよ。別に怒ってるわけじゃないのよ。うちが大変になった途端、来なくなったときはとんでもない男だと思ったけれど」
「レティシア」
 クロヴィスが叱りつける口調で言った。私は舌を出した。ローエングリン伯爵は小さくなった。
「その。申し訳ない。ご息女を困らせるつもりはなかったのだ。ご母堂のご意向もあり、なるべくならば私のことは、そのう、いわゆる影の間男というやつですませる方向だったのだが……」
「借金で没落したなんて聞いたら、ついつい飛んできちゃいますよねえ。むしろありがたいことですよ」
 私はうんうん頷いた。夫は苦笑いした。
 思えば、借金を押し付けられてから復活するまで半年も経っていない。なんというか、人生って忙しいときはとても忙しいのね、という感想である。
「ご夫君が援助されるかと思ったのだが」
「言われてみれば、連絡もなかったわねえ」
「そうねえ」
 と私と母で目を合わせるなか、男たちは男同士で目を見合わせていた。何やら通じるものがあったらしい。
 ローエングリン伯爵は一晩泊まって帰っていった。その夜に教えてもらったことには、彼と母はごく普通の夜会で出会い、彼は聖騎士、母は人妻であるのでそのときは何事もなかったのだそうだ。
「そのままなんにもないで終わるはずだったのにねえ」
 と母は笑った。からりとした、もう過去なんてへっちゃらになった人の笑い方だった。
「親のそういうの聞きたくないなあー」
「ええー? いいじゃん聞いてよ。他に言える人いないのよ」
「んにににに」


 そして、何年かに一度の大雨の日がやってきた。豪雨に供えて雨戸の上に板を張り、屋根裏を補強し、夜が来た。メイドたちは全員親元に返して、家族だけで雷雨に供える。
 翌朝は憎たらしいほどからっとした快晴で、窓ガラスが割れなかったことを喜んだ。
 ローエングリン伯爵が遊びに来た。飛んできた木の枝やら、逆に飛んでいった柵の留め具の捜索やらを手伝ってくれ、夕飯を食べてダラダラしていた。皆、気が緩んでいたのかもしれなかった。
 この小さな土地にぶわりと手紙が入ってきた。私宛のも一通、あった。ラヴィニアからだった。
 父が死んだのかな? と期待しながら開けると、中身は取って付けたような嘆きである。要約すると、こう。
『お願い助けて。アランが女を作って出て行っちゃったの。あんたどうせ子供いないんだしヒマでしょ? 昔、あたしたち仲が良かったわよね? 道が復旧次第すぐ旅に出てそっちに行くから』
 手紙を暖炉にくべようとしたところをクロヴィスに捕まった。
「離しなさいよ。来たら綿棒で顔面ぶん殴ってやるわ、あの女」
「わかった、わかったから。僕に任せて。ね?」
 すでに私は過去のことを過去のこととしてクロヴィスに話せるくらいになっていた。夫はそのままローエングリン伯爵と書斎にこもり、何やらあれこれ言い合っていた。
 ローエングリン伯爵が聖騎士団の宿舎(丘をひとつ越えた先の街のはずれにある)へ戻っていくと、クロヴィスは誰それに手紙を書いた。秘書の口を探し回っていた頃にできた、友達というか伝手に連絡しているらしかった。
 三日後にラヴィニアがやってきた。これがあの華やかに着飾っていたあの美少女だろうか? アランとの結婚式を私は見ることはなかったが、ウェディングドレスのレースに使用したぶんだけでローデン領のレースが消えたとも言われたあのラヴィニア?
 彼女はやつれ果てていた。泥まみれのぼろ布同然の服に身を包み、血の気のない顔で。抱えているのが赤ん坊に見えてギョッとしたが、ただの荷物だった。かつて可憐な淑女だった面影はほとんど消えていた。アーデルハイト伯爵家の証である金髪は泥と雨で重く垂れ下がり、頬は涙と雨でぐしゃぐしゃ、碧にも青にも見える目は見開かれて、さえざえとどこも見ていない。初めて父に連れられて来たあの日の少女、どこにもいく宛がないのと目で言う少女と重なった。――いや、あの日よりはるかに壊れていた。
「アランが……アランはね、別の女を作って逃げたの。借金だけ残して。あたし、追い出されたのよ……ひどいわ。ひどいわ。向こうの女には赤ちゃんがいるんですって」
 ウッウッウッと嗚咽が漏れる。息は乱れ、青い目は私を捕らえて離さない。
「お兄様に助けてえーって言ったのに、お兄様……お兄様……」
「収賄の罪で捕まったらしいね。聖騎士団の仕事のひとつは罪人の捕縛でもあるから」
 家の奥から進み出てきたクロヴィスがそう言った瞬間、ラヴィニアの目がきらーんと光った。私は言葉を失った。異母妹は明らかに、私の夫を品定めしていた。
 こんな有様になってもなお、この子にはそういう欲求があるのだ。そして欲を満たすため行動しようとすることができる。すごい、なんて生命力だろう。
 胸の奥が冷たく重くなった。これほどの活力でもって襲い掛かられては、なるほど、父なんて兄なんて抵抗もできなかったろう。ラヴィニアは手に入れたいものを手に入れるため動く。きっとそのために生まれてきたのだ。
「そっ、そうなのぉ。おにいたまの屋敷も財産も、全部、没収されて……あたしっ。かわいそうでしょお? 行く場所なんてないもん……もう、何もないのぉ……」
 と、くねくねしながらクロヴィスに向かっていこうとするのを私は押しとどめた。
「お父上はどうしているんだい?」
 と聞く彼に向かって首を横に振る。
「手紙で執事に聞いたわ。別邸を買って、そこにいるそうよ」
 次の愛人というわけだ。ラヴィニアの母と同じに。次のラヴィニアもいるのかもしれない。
 父のあれは、病気だ。治らない。
 ラヴィニアは泣きながら私の手を掴んだ。その指は濡れて冷たく、ぷるぷる震えていた。
「お姉様あ……お願い助けて。お願い。あたし、もう、あなたしかいないの……」
 背後で、クロヴィスが静かにこちらを見守っていた。
 私はゆっくりと息を吸い、吐いた。胸の奥で、長く沈んでいた感情が動き出すのを感じた。人形のミリア。手帳。万年筆。婚約者のアラン。ああ。
「ラヴィニア。あなたは――」
 私は背筋を伸ばし、はっきりと言った。
「いつだって、与えてもらって当然だと思っているのね」
 ラヴィニアの唇が震え、目が見開かれた。
「なっ、なんてこというのよ。あたしそんなつもりじゃないもん……」
「いいわ。あなたに会わせたい人がいる」
 私たちは目を見かわし、頷きあった。
 ラヴィニアを連れて、客間へ。そこにはローエングリン伯爵と、もう二人の人物がいる。彼らは昨日のうちにこの家に着いて、母の許可の元客間に泊まったのだ。
 たとえどんなに不潔で不浄な存在であろうと、ここで因縁を終わらせるために、母はそうしたのだ。扉を開いた先、暖炉が燃えるだけの薄暗い部屋の中、ひとりの女が椅子に座っている。もうひとり、男はその背後に立っている。
 どちらもうすらぼんやりとした目つきで、口元が閉まりなく歪んでいた。だが、ラヴィニアを見つけてにやにやと笑い、お互いに肘でつつきあった。
「ママ……?」
 ラヴィニアの喉から、掠れた悲鳴のような声が漏れた。


「あなたがアーデルハイト伯爵家へやってきた、大雨のあの日。あなたの母親は愛人と一緒に我が父から逃げたのよ。ローデン領では大雨の日に限り、避難のため関所が開放される。誰でも通って逃げられるように。その隙を使って借金取りから逃げ出すような人も、もちろん中にはいる」
 私は静かに告げた。外は静かで、メイドたちにも休暇を出しているので家の中も静か。呼吸の音さえ石壁に吸い込まれて聞こえない。
「どうぞ。あなたの大事なママよ?」
 私は後ろに下がり、クロヴィスの横に並ぶ。夫の温かい腕にもたれかかると安心した。
 ラヴィニアはぼたぼた汗をかきながら口を半開きにしている。男が、ラヴィニアの母の情人が口を開いた。
「これならあ……いい値段がつきますわあ」
「ホントよねえー? いいよねっ、これならいいね!」
 と、年甲斐もなく足をばたばたさせて母親がはしゃいだ。
「な、なんで? なんでママ? どゆこと? えっ? んえええ?」
 混乱しきった顔でラヴィニアは私と夫の顔を交互に見る。媚びは消えた。それどころではないと知ったのか。私は冷たく言う。
「ラヴィニア。――ルーク・ベルハルトという男と商売をしていた商人へ、アーデルハイト伯爵家の名を使って投資を持ち掛けたわね?」
 ラヴィニアの顔がぐにゃりと歪んだ。彼女は震え、中毒患者のように汗をかきながらさかんに首を振りたくる。
「あ、あれはあ……っ」
「彼が夫の友人だと知っていたか、いないかはどうでもいいの。その結果商人は破産し、借金が夫の方へ回ってくるのを見越していたか、いないかも。あなた一人の考えではないわね? 父か、兄か。アランかも? どこかの男を焚きつけて、そうしたのよね? 私を攻撃した一心で」
「あのさあっ、そういうの自意識過剰っていうんだよお? お姉様知らないのォ?」
「もう、どうでもいいことだわ。さっさと消えて頂戴。母親と一緒に。彼女たちには薬が必要なのですって」
「そーおっ、なの! おくすりっおくすりっ」
「ギャハハハハハ!」
 ラヴィニアの母親と、情人が狂ったように笑い出す。異母妹は逃げ道を探して大きな目をきょろきょろさせたが、この古い石の家にそんな都合のいいものはない。唯一の出入り口は、私たち夫婦の背後にある扉だけ。
「借金の返済のため、あなたを娼館へ売るんですって。残酷な母親よねえ? そのために今日、わざわざ迎えに来たのですって」
 ラヴィニアの母はよろよろと椅子から立ち上がる。唇を歪ませた薄笑いは醜いや綺麗といった概念ではなく、ただただ、一線を越えているとわかるもの。
「そうよ。アンタは私の子。私の好きにして何が悪いの? 伯爵家の子じゃない。戸籍にも入っていない。誰も助けられやしないわ」
 ラヴィニアはピイーッと聞こえる悲鳴を上げた。走り出そうにも足が竦んで立てないのだろう、崩れ落ち、嗚咽を漏らした。
「そんな、や、やめてよお……お願い……」
 私は静かにラヴィニアの肩に手を置いた。
 その肩はあまりにも細く、冷たかった。
「私はもう、あなたを守れない。私はあなたが私のものを得ることを容認してきたわ。けれど――見返りを求めたことはただの一度もなかった。でも、もう終わりよ。自分の足で立ちなさい」
「さあて、いこっかあー?」
「ほらいくよー、ラヴィニアちゃん!」
 母親と情人に両脇を抱え込まれ、ラヴィニアは呆然と私を見つめる。どうして私には家があり、自分にないのか理解できないのかもしれなかった。
 そうして異母妹は私の前から永遠に姿を消した。
 ようやく。


「終わったかしら?」
「ええ」
 ひょっこり顔を出した母に頷くと、彼女は軽やかな足取りで客間に入って来て、窓を開けた。さあっと大雨のあとの爽やかな空気が流れだす。
 ずっと黙っていたローエングリン伯爵がのっそりした足取りで窓際へ行き、母の肩を抱いて外を眺めた。私たちはそっと、客間から退散する。私はクロヴィスの手を取り、濡れた石畳の裏庭へ出た。沁み込んだ雨はとうぶん、乾くことはないだろう。土の香り、覆いをかぶせて守った小さな畑。
 雲間から差し込む淡い光が、雨粒に反射してきらきらと輝いていた。
「これで終わった……といいけれど」
 私がぽつんと呟くと、クロヴィスは首を傾げる。
「お父上のことを心配しているのかい? 老後の面倒を見させようとするだろうと?」
「そんなところ」
「大丈夫、お父上にはもうほとんどなんの力もないよ。カイル殿が捕縛されたときに、保釈金を相当支払ったようだから。兄上もどうも離婚されるようだから、財産を取られてしまうんじゃないかな?」
 私は苦笑した。形式的な手紙でのやり取りしかしたことがない、それでも気の強さがうかがえる嫂の右肩上がりの文字を思い出す。
「そうね、くよくよしてても仕方ないものね。誰にも――私を傷つけた誰にも、これ以上この家に立ち入らせないわ」
「もちろん。これ以上きみが傷つけられることは、僕が許さないよ」
 夫は片目をつぶり、私の片手にキスをした。それで私はようやく、声を出して笑うことができたのだった。


 クロヴィスはその後、ローデン領よりよい質の羊を飼う地域から羊毛を輸入し、丘を越えた先の領地(彼の兄が治めている)に卸す事業を始めた。小さな領内で仕事もなくぶらぶらしている若者を雇用し、徐々に流通が生まれ始めている。
 ローエングリン伯爵があちこちに口をきいてくれたおかげで、順調にいきそうだった。
 何度目かの大雨の日、父は若い愛人が再び逃げ出したのに気づき、後を追いかけ、滑って転んで頭を打った。目の奥の方に血のかたまりができてしまったらしく、兄が金で雇った数人の使用人に見張られて別邸で大人しくしているそうだ。噂では、下のことも自分でできなくなっているため大変だとか。
 若い愛人の方は体よく金をとって行方をくらまそうとしたところ、川に落ちて死体が上がった。かわいそうに。
 兄は牢獄暮らしで体調を崩し、片足が不自由になった。離婚され、領地の中でもよい羊を育てる牧草地と、川とその流域の森を妻の実家に慰謝料としてふんだくられた。王に逆らった収賄罪の罪人と縁続きでいるわけにはいかない――というのは、離婚には十分正当な理由である。アーデルハイト伯爵家の名前を冠さなくなったローデン領の羊毛と毛織物をクロヴィスが取り扱い、新しいうちの特産品となっていく日を、私は楽しみにしている。
 今日は小春日和。日だまりの中で、私とクロヴィスはベンチに座り、まどろんでいる。
 お腹が大きくなってきたので苦しくて、もうずいぶんとコルセットを見ていない。彼は私のお腹を撫でながら微笑んだ。
「ねえ、ひとつ聞いてもいい?」
「なあに?」
「ルークを騙した奴がアーデルハイト伯爵家の、きみの異母妹の手先だったってこと、どこで知ったの?」
「ああ、でたらめよ。どうせあの子ならそのくらいやっていそうだと思ったの。借金漬けだったときはつい気が回らなかったけれど、あの子が私を追いやったくらいで満足するはず、なかったのよね」
 私は彼に向き直った。
「気づかなくて、対策取れなくて、ごめん」
 クロヴィスははあ、とため息をついて天を仰ぐ。
「なんてことだ。そこまで――いったいどうして、そこまできみを憎む? どうやったらあんな女が生まれてくるんだ? 愛人の子だからか? だから、ああなったのか?」
「ううーん……」
 私は考え込みながら、お腹を撫でた。我が子がぽこんと蹴り返した。
「たぶん、あの子のあれは生まれつきだったわ。もしかしたらアーデルハイト伯爵家の血筋を通して、この子にもそうした性質が流れ込んでいるのかもしれない。でも」
 私はクロヴィスにキスをする。彼の笑いを含んだお返しを受けながら、夢見心地で笑う。
「きっと大丈夫、あなたと私なら。どんな子だって愛せるし、誰かを害さないように育てられるわ、きっと」

【完】
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みんなの感想(1件)

ゆう
2025.12.10 ゆう

面白かった
浮気する婚約者は次もするのね
妹の最後もすかっとした

2025.12.11 重田いの

お読みいただきありがとうございました!!!
人はそうそう変わらないですからね…

解除

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