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エリーザベトの結婚は唐突だった。
だが、珍しい話だというわけでもなかった。
その日、いつも通りに家じゅうの掃除に精を出していると叔父がドスドスやってきて、
「エリーザベト、喜べ! 嫁入り先が見つかったぞ!」
といつになく優しい声で叫んだ。
エリーザベトは目を白黒させながら振り向いた。
「――はい?」
「素晴らしい縁談だぞ、シュヴァルツェン家の長男だ。軍人貴族だが土地持ちだというぞ。国王陛下は軍人贔屓だ。時流にうまく乗ったなあ、お前!」
「ホントよねえ。あんたはコマネズミみたいにあちこち走り回って仕事するから、軍人の身の回りの世話にはちょうどいいでしょうよ、オホホホ!」
と、いつの間にか現れた叔母も一緒になって声を合わせて笑う。
エリーザベトは曖昧な笑みを浮かべ、雑巾をぎゅうっと握って立ち尽くした。
この家は元々エリーザベトの両親のものだった。
だが彼女が幼い頃に流行った流感で両親が相次いで亡くなると、相続者となった叔父一家が家にやってきた。
法律上、女性であるエリーザベトには何の権利もなかった。とくに父の弟である叔父が生きている間は!
彼らはエリーザベトを養女にすることなく、ただの居候として扱い、給金のいらないメイド代わりにこき使った。
げんに叔父夫婦の装いは伯爵家らしい豪華で手の込んだ仕立てだが、エリーザベトが着るのは他のメイドたちと同じ黒いワンピースだ。
装飾といえば、手と首についた汚れよけの真っ白なカフスと白い貝のボタンくらい。
「さあさあ、そうと決まればキレイにしなくちゃね!」
叔母は朗らかな声を上げた。
エリーザベトに向けたことは一度もない、お客様に向ける笑顔だった。
――もう自分はこの家に戻ってこられないだろう、とエリーザベトは悟った。
叔母について二階に上がりながらエリーザベトはおずおず尋ねた。
「あの、お相手はなんというお名前なのですか……」
「え? 名前? さあ。お父さんなら知ってるんじゃないの?」
と叔母は上の空である。
寄宿学校に入っている息子たちの相続の邪魔になりかねない義理の姪っ子がいなくなることが、ものすごく嬉しいらしかった。
今にも踊り出しそうだ。
叔母は夫婦の寝室に入り、自分のドレスを何枚か見繕ってエリーザベトに渡した。
全部ほころびてシミが浮いて、着られたものではないものばかり。
埃のにおいの染みた古着を両手に抱えてエリーザベトが立ち尽くしていると、背後からのしのし近づいてきた叔父が怒鳴る。
「さっさと荷物をまとめろ。使者殿が昼過ぎに来ることになっているのだ」
「昼過ぎですか?」
エリーザベトは信じられない思いで振り返った。
家の都合で急な結婚が決まるのは、貴族にとってよくあることだった。
それにしても急すぎる。
エリーザベトはこの家で生まれ育ったのに、家や庭園に別れも告げさせてもらえないとは。
「もう午前中も終わりじゃありませんか。そんな急に……急に!」
エリーザベトはまごつきながら訴えたが、叔父は犬でも追い払うみたいにシッシと手を振った。
太った腹がたぷたぷ揺れた。
部屋から出てきた叔母はにこやかに天井を示す。
エリーザベトはとぼとぼと屋根裏部屋に上がった。
そこは斜めの天井の部屋で、明り取りにはガラスもない。
雨戸だけである。
エリーザベトはここで十年以上を過ごしてきた。
彼女は見知った小さいが清潔な部屋を眺め、諦めて肩を落とした。
父が若い頃留学に持って行ったという古い革鞄を小さな寝台の下から取り出して、叔母からもらった衣服を詰める。
これはあとでこっそり処分しなくてはならないだろう。
それから一番大事なものを枕の下から取り出して大切に収めた。
母の形見の金の鎖の懐中時計、父母の小さな肖像画、二人の結婚指輪……。
と、コンコンと控え目なノックがして若いメイドが入ってきた。
疲れた様子の栗色の髪の娘で、そばかすと大きな目と大きな耳を持っていた。
「ノーマ」
「お嬢様」
エリーザベトはノーマに近づき、きゅっと自然なハグをした。
ノーマの腕もエリーザベトの身体に回った。
「何かお祝いを差し上げられたらよかったんですけど」
「ううん、そんなのいらない。寂しくなるわ、ノーマの顔が見れないと」
「あたしもです、エリーザベトお嬢様」
二人はエリーザベトの父母が生きていた頃から同じ家にいた。
一方はお嬢様で一方はメイドだったけれど、ずっと幼い頃は一緒に庭園で遊んだ。
突然の別れは、つらかった。
「旦那様がよい方でありますように、お嬢様。いっぱい愛されて、たくさんのお子様に恵まれますように」
「ありがとう、ノーマ。私からも何かお別れの印にあげられるものがあったらよかったのに」
ノーマは首を激しく横に振った。
「いいえ、いいえ。あいつらに……取られて、エリーザベト様の持ち物がもうほとんど残ってないことは、使用人ならみんな知ってます。何もいただけないです。ああ、お嬢様……!」
「――エリーザベト、何をぐずぐずしているのだ! 早くしろ!」
叔父の怒鳴り声に二人は抱擁を解いた。
協力して古い頑丈な重たい鞄を閉じると、最後に涙が浮かんだまなざしを交わし合い、幼馴染と別れた。
屋根裏部屋から二階に続く急な階段を駆け下りるエリーザベトの背中に、ノーマの声が鋭く届く。
「どうかお幸せに、エリーザベトお嬢様!」
「ありがとう、あなたもね!」
そうしてエリーザベトは、十年近くを過ごした屋根裏部屋に永遠に別れを告げた。
屋敷の大扉から鞄ひとつを下げて玄関先のロータリーに出ると、すでに叔父が使者らしい軍服姿の若者と汗をかきかき何か喋っていた。
エリーザベトに気づいて、垂れた頬をたぷっと揺らしながらいらいらした目を向ける。
「おお、これが我らの愛しいエリーザベトです」
と叔父は彼女を引き寄せた。
そのときその場にいた全員が同じことに気づいた。
エリーザベトは手首と首元のカフスを外し忘れていた。メイドしか着けないはずの装飾を。
叔父の額に青筋が浮かんだが、使者の青年は気にしないようだった。
「初めまして、エリーザベト嬢。お会いできて光栄です」
と形式通りに挨拶をして、優雅に一礼してみせる。
なんて姿勢のいい若者だろう。
髪の毛はダークブラウン。こっくりした色合いは日差しを吸い込んで黒檀のよう。夏空の色の瞳。
堂々とした体躯で胸を張って立つ様子はいかにも軍人らしい。
勲章のついたプロスティア王国軍の軍服が似合っていた。
腰に下げた剣は使い込まれてあちこちに小さな傷がついていたが、鞘も柄もきちんと手入れされている。
エリーザベトは自分の白っぽい金髪と冬の湖面のような灰色の目が急に恥ずかしくなった。
メイド用の服を恥ずかしいなんて思ったことはなかったはずなのに、急にみすぼらしく見える。
「昼過ぎのお約束でしたところ、早まってしまって申し訳ない。この美しいお嬢様に一刻も早くお会いしたい気持ちが強いばかりに、馬の脚を急かしてしまったようです」
「おお、なんのなんの。嬉しいことです」
ふと見ると、門のところに黒い大きな軍馬が繋がれていた。
エリーザベトはこんな立派な馬を見たことがなかった。
凱旋パレードで見た将校さんの馬でさえ、あれほど大きな体躯と太い脚をしていなかった。
エヘン、と叔父は大きな咳払いをする。
「それでは可愛いこの娘をどうぞよろしく……」
いつの間にかその横に並んだ叔母も、夫そっくりの笑顔でうんうん頷く。
「ええ、それはもう。全力でそうさせていただきますよ」
若者は闊達に笑った。
気持ちのいい笑い声だった。
彼はぱっと馬の手綱を手に取った。
踊り子のように俊敏な動き方で、短く刈り込んだダークブラウンの襟足がみずみずしい。
「それでは参りましょう、エリーザベト嬢。門の外で馬車が待っています」
「え、ええ……」
エリーザベトは大きく息を吸い込んだ。
彼女は最後に住み慣れた実家を振り返った。
そこにもう父母が大事にしていた先祖伝来の飾り窓だとか、古い物見塔だとかはない。
全部叔父夫婦が古くさいと言って壊してしまったのだ。
とてつもなく値打ちのある古い建築だったのに。
だが、珍しい話だというわけでもなかった。
その日、いつも通りに家じゅうの掃除に精を出していると叔父がドスドスやってきて、
「エリーザベト、喜べ! 嫁入り先が見つかったぞ!」
といつになく優しい声で叫んだ。
エリーザベトは目を白黒させながら振り向いた。
「――はい?」
「素晴らしい縁談だぞ、シュヴァルツェン家の長男だ。軍人貴族だが土地持ちだというぞ。国王陛下は軍人贔屓だ。時流にうまく乗ったなあ、お前!」
「ホントよねえ。あんたはコマネズミみたいにあちこち走り回って仕事するから、軍人の身の回りの世話にはちょうどいいでしょうよ、オホホホ!」
と、いつの間にか現れた叔母も一緒になって声を合わせて笑う。
エリーザベトは曖昧な笑みを浮かべ、雑巾をぎゅうっと握って立ち尽くした。
この家は元々エリーザベトの両親のものだった。
だが彼女が幼い頃に流行った流感で両親が相次いで亡くなると、相続者となった叔父一家が家にやってきた。
法律上、女性であるエリーザベトには何の権利もなかった。とくに父の弟である叔父が生きている間は!
彼らはエリーザベトを養女にすることなく、ただの居候として扱い、給金のいらないメイド代わりにこき使った。
げんに叔父夫婦の装いは伯爵家らしい豪華で手の込んだ仕立てだが、エリーザベトが着るのは他のメイドたちと同じ黒いワンピースだ。
装飾といえば、手と首についた汚れよけの真っ白なカフスと白い貝のボタンくらい。
「さあさあ、そうと決まればキレイにしなくちゃね!」
叔母は朗らかな声を上げた。
エリーザベトに向けたことは一度もない、お客様に向ける笑顔だった。
――もう自分はこの家に戻ってこられないだろう、とエリーザベトは悟った。
叔母について二階に上がりながらエリーザベトはおずおず尋ねた。
「あの、お相手はなんというお名前なのですか……」
「え? 名前? さあ。お父さんなら知ってるんじゃないの?」
と叔母は上の空である。
寄宿学校に入っている息子たちの相続の邪魔になりかねない義理の姪っ子がいなくなることが、ものすごく嬉しいらしかった。
今にも踊り出しそうだ。
叔母は夫婦の寝室に入り、自分のドレスを何枚か見繕ってエリーザベトに渡した。
全部ほころびてシミが浮いて、着られたものではないものばかり。
埃のにおいの染みた古着を両手に抱えてエリーザベトが立ち尽くしていると、背後からのしのし近づいてきた叔父が怒鳴る。
「さっさと荷物をまとめろ。使者殿が昼過ぎに来ることになっているのだ」
「昼過ぎですか?」
エリーザベトは信じられない思いで振り返った。
家の都合で急な結婚が決まるのは、貴族にとってよくあることだった。
それにしても急すぎる。
エリーザベトはこの家で生まれ育ったのに、家や庭園に別れも告げさせてもらえないとは。
「もう午前中も終わりじゃありませんか。そんな急に……急に!」
エリーザベトはまごつきながら訴えたが、叔父は犬でも追い払うみたいにシッシと手を振った。
太った腹がたぷたぷ揺れた。
部屋から出てきた叔母はにこやかに天井を示す。
エリーザベトはとぼとぼと屋根裏部屋に上がった。
そこは斜めの天井の部屋で、明り取りにはガラスもない。
雨戸だけである。
エリーザベトはここで十年以上を過ごしてきた。
彼女は見知った小さいが清潔な部屋を眺め、諦めて肩を落とした。
父が若い頃留学に持って行ったという古い革鞄を小さな寝台の下から取り出して、叔母からもらった衣服を詰める。
これはあとでこっそり処分しなくてはならないだろう。
それから一番大事なものを枕の下から取り出して大切に収めた。
母の形見の金の鎖の懐中時計、父母の小さな肖像画、二人の結婚指輪……。
と、コンコンと控え目なノックがして若いメイドが入ってきた。
疲れた様子の栗色の髪の娘で、そばかすと大きな目と大きな耳を持っていた。
「ノーマ」
「お嬢様」
エリーザベトはノーマに近づき、きゅっと自然なハグをした。
ノーマの腕もエリーザベトの身体に回った。
「何かお祝いを差し上げられたらよかったんですけど」
「ううん、そんなのいらない。寂しくなるわ、ノーマの顔が見れないと」
「あたしもです、エリーザベトお嬢様」
二人はエリーザベトの父母が生きていた頃から同じ家にいた。
一方はお嬢様で一方はメイドだったけれど、ずっと幼い頃は一緒に庭園で遊んだ。
突然の別れは、つらかった。
「旦那様がよい方でありますように、お嬢様。いっぱい愛されて、たくさんのお子様に恵まれますように」
「ありがとう、ノーマ。私からも何かお別れの印にあげられるものがあったらよかったのに」
ノーマは首を激しく横に振った。
「いいえ、いいえ。あいつらに……取られて、エリーザベト様の持ち物がもうほとんど残ってないことは、使用人ならみんな知ってます。何もいただけないです。ああ、お嬢様……!」
「――エリーザベト、何をぐずぐずしているのだ! 早くしろ!」
叔父の怒鳴り声に二人は抱擁を解いた。
協力して古い頑丈な重たい鞄を閉じると、最後に涙が浮かんだまなざしを交わし合い、幼馴染と別れた。
屋根裏部屋から二階に続く急な階段を駆け下りるエリーザベトの背中に、ノーマの声が鋭く届く。
「どうかお幸せに、エリーザベトお嬢様!」
「ありがとう、あなたもね!」
そうしてエリーザベトは、十年近くを過ごした屋根裏部屋に永遠に別れを告げた。
屋敷の大扉から鞄ひとつを下げて玄関先のロータリーに出ると、すでに叔父が使者らしい軍服姿の若者と汗をかきかき何か喋っていた。
エリーザベトに気づいて、垂れた頬をたぷっと揺らしながらいらいらした目を向ける。
「おお、これが我らの愛しいエリーザベトです」
と叔父は彼女を引き寄せた。
そのときその場にいた全員が同じことに気づいた。
エリーザベトは手首と首元のカフスを外し忘れていた。メイドしか着けないはずの装飾を。
叔父の額に青筋が浮かんだが、使者の青年は気にしないようだった。
「初めまして、エリーザベト嬢。お会いできて光栄です」
と形式通りに挨拶をして、優雅に一礼してみせる。
なんて姿勢のいい若者だろう。
髪の毛はダークブラウン。こっくりした色合いは日差しを吸い込んで黒檀のよう。夏空の色の瞳。
堂々とした体躯で胸を張って立つ様子はいかにも軍人らしい。
勲章のついたプロスティア王国軍の軍服が似合っていた。
腰に下げた剣は使い込まれてあちこちに小さな傷がついていたが、鞘も柄もきちんと手入れされている。
エリーザベトは自分の白っぽい金髪と冬の湖面のような灰色の目が急に恥ずかしくなった。
メイド用の服を恥ずかしいなんて思ったことはなかったはずなのに、急にみすぼらしく見える。
「昼過ぎのお約束でしたところ、早まってしまって申し訳ない。この美しいお嬢様に一刻も早くお会いしたい気持ちが強いばかりに、馬の脚を急かしてしまったようです」
「おお、なんのなんの。嬉しいことです」
ふと見ると、門のところに黒い大きな軍馬が繋がれていた。
エリーザベトはこんな立派な馬を見たことがなかった。
凱旋パレードで見た将校さんの馬でさえ、あれほど大きな体躯と太い脚をしていなかった。
エヘン、と叔父は大きな咳払いをする。
「それでは可愛いこの娘をどうぞよろしく……」
いつの間にかその横に並んだ叔母も、夫そっくりの笑顔でうんうん頷く。
「ええ、それはもう。全力でそうさせていただきますよ」
若者は闊達に笑った。
気持ちのいい笑い声だった。
彼はぱっと馬の手綱を手に取った。
踊り子のように俊敏な動き方で、短く刈り込んだダークブラウンの襟足がみずみずしい。
「それでは参りましょう、エリーザベト嬢。門の外で馬車が待っています」
「え、ええ……」
エリーザベトは大きく息を吸い込んだ。
彼女は最後に住み慣れた実家を振り返った。
そこにもう父母が大事にしていた先祖伝来の飾り窓だとか、古い物見塔だとかはない。
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