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しおりを挟むマティアスがルスヴィアを立ち去ってしばらくすると、エリーザベトは熱を出して寝込んだ。
疲れが溜まっていたのでしょう、と使用人たちは言い、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。
申し訳なく、自分がみっともなくて悲しかった。
けれどそれ以上に、屋根裏部屋で一人で病気に耐えなくていいということがエリーザベトには嬉しかった。
熱が下がってからも体調不良は続き、夏は駆け足で過ぎ去っていった。
秋の入り口に立つ頃にはエリーザベト本人も認めざるをえなくなった。
節々が痛み、ずっと微熱が続き、特に朝に吐き気がして起き上がれない。
口の中が金臭く、普段よりも疲れやすく眠気が強い。
放っておかれては一日じゅう眠り続けてしまいそうなほどだった。
吐き気がるのに、お腹が張って気持ち悪くなることもある。
突然わけもなく昔のことを思い出しては泣きたくなり、あるいはマティアスが敵の剣に刺殺される夢を見る。
それから何よりも、ボソボソした食感が好きではなかったはずのじゃがいもをよく食べるようになった。
一日のどこかで芋の味を感じないと落ち着かず、間食にさえ蒸した芋にバターを塗って食べた。
たぶん――つわりだろう。
エリーザベトは街の産婆のところに行って、確認してもらった。
産婆はだいぶん耳が遠くなって腰の曲がった白髪の老婆だったが、なんと十六歳からその母親の後について街じゅうの人間を取り上げてきたと自負する古強者で、エリーザベトのまだぺったんこのお腹を撫でて満面の笑みを浮かべた。
「こりゃあ、いますねえ。ああ、嬉しいね。シュヴァルツェン家の跡取り息子か、美しいお姫様がここにいるんだよう」
お礼を言って帰ってくる間にも、頭がふわふわして足は雲を踏むよう。
街の通りには神への祈りを声高に叫び続ける奇怪な一団がおり、最近流行りの新興宗教らしく煙たがられていた。
戦争に呼ばれないほど力が弱い魔法使いくずれが徒党を組んで人を集めて、何をしたいのやら。
通りすがりの修道士が苦々し気に彼らを睨みつけ、井戸端会議中の主婦たちはあれが誘拐犯……そう、若い者たちを口説いて隠れ場所に連れて行くんだってさ、と口々に噂する。
ふと、エリーザベトは泣きたくなった。
変な団体に連れ去られて泣いている三歳くらいのマティアスを想像してしまったのである。
どうやら今の彼女はちょっと、いやかなり、頭がおかしい。
彼女は慌てて頭を振って気を取り直し、家までの道のりを足早に歩いた。
街は誰もが浮足立っていた。
戦争についての速報が届くたび、街はお祭り騒ぎになったりお通夜のようになったりした。
家にたどり着く頃にはだいぶ落ち着いていた。
みんなにはいつ言おう。
ある程度落ち着くまで待った方がいいだろうか。
舅姑夫婦が家にいなくて困るのはこんなときである。
エリーザベトは叔母が妊娠したときを思い出そうとしたが、何故だかまったく当時のことを覚えていないのだった。
マティアスが戦争に赴いて三か月。
季節はすっかり秋である。
ルスヴィアの穏やかな夏のあと急にやってきた冷たい秋に、エリーザベトは体を冷やさないようにしなくてはならない。
マティアスは子供のことをどう思うだろうか?
彼が戻ってくるとき、彼女のお腹はどんな具合だろう。
ポッコリ膨れているのか、あるいは出産後と言うこともありうる。
赤ちゃんを腕に抱いてこの家で彼を出迎える自分の姿を想像したとき、心臓から脳天を突き抜けるような喜びが襲ってきてエリーザベトは身震いした。
ああ――この子がダークブラウンの髪を持っていたらどんなにいいだろう!
エリーザベトは自分の白っぽい面白みのない金髪が好きではなかった。
光の具合で、その、頭皮まで透けてハゲて見えるときがあるから……。
少なくとも叔母夫婦は白髪みたいだと言って彼女の頭を嘲笑した。
だからエリーザベトはマティアスのダークブラウンの髪が好きだった。
それだけではない。
夏の晴れ渡った空のようにこっくりした青い目、それから古代の神々の彫像のように整った彼の顔のつくりと均整の取れた身体つき、すべてを愛している。
(こんな幸運が私のものだなんて、まだ信じられない)
あんなに優しい、格好いい旦那様に恵まれて。
どうしてもっと早く気づかなかったんだろう。
一緒にいられたのはたったの一か月。
それでもエリーザベトは幸福だった。
もっと感謝を伝えていればよかった。
もっとたくさん、近くにいたいと努力すればよかった。
(この子のこと、ちゃんと守らなきゃ)
と決意もあらわにお腹を撫でた。
やっぱり使用人たちに伝えるのはもう少し安定してからにしよう、メイドたちにはばれてしまうかもしれないけれど。
誰かの叫び声が聞こえた。
若いメイドの声だった。
若奥様、と鋭い悲鳴に呼ばれてエリーザベトは駆け出、そうとして、速歩きに切り替えた。
玄関先で騒動が起こっているらしかった。
「どうしたの!?」
と足早に入った玄関ホール、大理石の石の上に、血が滴った。
エリーザベトは息を飲む。
メイドたちに介抱されているのはレオポルドだった。
頭に巻かれた包帯から滲んだ血が流れている。
立ちすくむばかりの若奥様の傍らを手順を心得た年老いた使用人たちがすり抜け、ただちにお湯が沸かされた。
傷口を洗い、薬を塗り込み、新しい包帯に換えるまでものの数分。
レオポルドは呻きながらもよく辛抱した。
彼の目は悲しそうだった。
ヒビの入った眼鏡はまるで崩壊の予兆のようだった。
彼はよろよろ立ち上がり、細い悲しそうなため息をついてエリーザベトを見つめる。
そんな、まさか。
エリーザベトは心臓がばくばくして、耳元でその音が鳴っているように思った。
「嘘よ……」
へなへなと崩れ落ちる彼女を、誰かの手が支えた。
「若奥様――ひどいお知らせをしなくてはなりません」
「そんな。神様……」
レオポルドはぜいぜい息をしていた。
エリーザベトは自分の耳にさえ届かないほど小さい声で囁いた。
「マティアスが死んだの?」
「いいえ」
――それならどうして、レオポルドはそんな絶望に満ちた顔をしているのだろう?
どうしてそんなに怪我をして、一人で戻ってきたのだろう?
「応接室を使わせてくれ」
とレオポルドは告げた。
部屋が整えられ、真っ青な顔のエリーザベトを心配して年嵩のメイドが付きそうと申し出てくれたけれど、
「大事な話なんだ。若奥様だけにお伝えしたい」
とレオポルドが言えば引き下がる他ない。
エリーザベトは出された温かいお茶を飲み、暖炉の火にあたってようやく顔色が戻った。
レオポルドの方も疲れ切った様子で、だがさすが軍人らしく胸を張ってソファに腰かける。
肘掛け椅子の背面がやけに柔らかくて、エリーザベトはそこに自分を飲み込む口がついている気がした。
戦争は国境地帯で行われていた。
ルスヴィアから馬で五日ほど、行軍なら一週間もあれば到達できるだろうか。
だからもしマティアスに何があったのだとしても、それは少なくとも五日は前の出来事ということになる。
「お願い、聞かせて。あの人は無事なの……」
「マティアスは……」
レオポルドは悔しさに顔を歪め、握りしめた拳の中で革手袋がギュっと音を立てるほど強く膝を殴った。
小さな祈りが聞こえた。
神に許しを請う一説のように思われた。
レオポルドの赤い目がひび割れた眼鏡ごしにエリーザベトをまっすぐに見た。
そしてまるで古い時代の天使のお告げのように厳かに、彼は告げた。
一言がしっかりとエリーザベトの耳に届いた。
「若奥様、マティアス若様は戦争で重傷を負って気を失い、近くの診療所に保護されました。そして目覚めたとき、彼はすべての記憶を失っていました。あなたのことも、私のことも覚えていませんでした」
エリーザベトは激しく喘ぎ胸を抑える。
血が、全身の血が逆流しそうだった。
「そして彼は――ああ、彼は優しく手当してくれた若い娘に心を奪われたのです。申し訳ありません、若奥様! 私がついていながら。……彼はその娘と結婚の誓いをしました。若奥様、あなたのことを彼は完璧に忘れてしまったのです。今、彼は小さな診療所に入院して、そこの治療魔法使いと見習い魔法使いである娘とともにゆるやかに過ごしています。全快したら戦争に復帰し、そして……終戦後、娘を連れてルスヴィアに戻ってくるつもりでいます!」
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