指輪と娘がつなぐもの

重田いの

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 三年ぶりにシュヴァルツェン家の門をくぐったとき、エリーザベトは自分が再びここにいることが信じられなかったし、スカートに抱き着いたソフィアが物怖じせずにいてくれるのが嬉しかった。
 あらかじめ連絡を飛ばしておいたので、屋敷の前庭に使用人が勢揃いして出迎えてくれる。

 数年の間に使用人は入れ替わり、エリーザベトを知っている者も知らない者もいた。
 マティアスのことさえ知らない新顔の使用人もいた。

「若奥様……」
 と進み出てきた年嵩のメイドのふっくらとした頬は涙に濡れている。
 エリーザベトは驚いて彼女の腕をそっと撫でた。

「シモーヌ。どうしたの。どうして泣いているの? 私のせいかしら」
「あたしゃ、あたしゃ若奥様が悩まれてることに気づかず、とんでもねえこって……」
 エリーザベトは虚を衝かれた。
 彼女がそんなふうに考えているとは思ったこともなかったし、自分が惜しまれる存在だと考えたことはなかった。

 しかし――
 わあっと小さなどよめきがあり、使用人たちがエリーザベトとソフィアにむかって押し寄せる。
 エリーザベトが健康そうなのを喜ぶ者、シモーヌと同じように謝る者、戻って来てくれてありがとうと帽子を振り回す者までいた。

 そして何より、屈んでソフィアと目を合わせる者、ソフィアに笑いかける者、触ろうとする者たちがいた。
 彼らは幼い娘の顔のあちこちにマティアスとエリーザベトを見出し、狂喜乱舞した。
 エリーザベトとマティアスを囲む者たちより、ソフィアに群がる人数の方が多かった。

 使用人たちは心からエリーザベトとソフィアの帰還を喜び、受け入れていた。
 戦争帰りのマティアスへの歓迎よりも、ひょっとしたら強いかもしれないほど。

「もうそのへんにしておけ! まったく、娘が疲れて熱を出すだろう」
 とマティアスが大声を張り上げなければ、使用人たちのお祭り騒ぎはいつまでもいつまでも続いていたに違いない。

 エリーザベトがぐらぐらと考えていたのはまさしく杞憂だったのだ。
 彼女はとっくの昔にルスヴィアに受け入れられていたのだった。

 何故そんなことが?
 それはもちろん、マティアスが長い間名前も知らないどこかの令嬢に入れ込み、空想の手紙を書き、両親に顧みられない寂しさを埋めていたのを皆が知っていたから。

 マティアスがエリーザベトを見つけたのはほとんど執念の賜物だったが、そのために彼は人脈を作り、礼儀正しい名家の好青年になるため努力した。
 使用人たちは皆、その努力と目的を微笑ましく応援していたのだった。
 ――という話は、おそらくマティアスは決して話そうとしないだろうから、エリーザベトが知ることはないだろう。

 そして何より、もうひとつの原因がそこにあった。

「お嬢様ァ!」
 若く澄んだ通りのいい声でノーマは叫び、メイドのお仕着せを翻してエリーザベトに駆け寄った。
 彼女こそがシュヴァルツェン家の人々にエリーザベトの良い噂を吹き込み続け、とうのエリーザベトがいないうちに彼女の座る椅子を確保し続けた大本の原因だった。

 ノーマはエリーザベトに抱き着こうか逡巡して、結局はソフィアの前に膝をついた。

「お小さいお嬢様! ああ、あんな小さかったお嬢様のお子様、きゃあ、天使のよう! 天使のよう!」
「ノーマ、あなたどうしてここにいるの?」
 エリーザベトはソフィアごとノーマを抱きしめる。
 まだ父母が生きていた頃から実家に仕えていた同い年のメイド。
 幼馴染で、親友のような間柄の娘だった。

「こちらで使用人募集があるけどどうって、お声がけいただいたんです。旦那様の発案だったと聞いてます」
 エリーザベトは思わずマティアスを振り仰いだ。
 彼は気まずそうに目を逸らしたが、頬がわずかに赤かった。

「見知った使用人がいた方が、君は安らぐだろうと思った」
 エリーザベトは満面の笑みを浮かべ、立ち上がってマティアスに抱き着き、キスをした。
 わあああっと人々は囃し立て、ソフィアもわけもわからずぱちぱち手を叩く。

 幼い娘はにこにこと初対面のノーマを見上げると、すぐにその白いカフスをした腕に抱き着いた。
 二人はそれを見て、泣き笑いに笑った。
 使用人たちは再びどっと笑い崩れる。
 再び家に主人夫婦を迎え、シュヴァルツェン家はこの世の春だった。

 ――レオポルドがいないことに、誰かがすぐに気づくだろう。
 そして彼が何をしたのか、マティアスが話さずとも、いつの間にか皆が知ることになる。
 彼は元からいなかったものとして扱われ、そのうち存在も忘れ去られるだろう。

 エリーザベトが恐れた人の輪の残酷さはこの世のどこにでもある。
 だが彼女はもうそれを恐れないし、身が竦んで身動きが取れなくなることもない。
 エリーザベトには家族がいるのだ。
 守るべき子供と、守ってくれる夫が。

 ここが彼女の居場所だった。
 もしまたシュヴァルツェン家からエリーザベトを追い出そうとする何かがあれば、彼女は周囲に助けを求め、そして戦う。
 力の限り。

「エリーザベト、部屋に入ろう」
 マティアスはぶっきらぼうに言ってエリーザベトを抱き上げる。
 ソフィアが嬉しそうに自分もと手を伸ばし、彼は難なくもう片方の手に娘を抱えた。

 そしてまるで結婚式の夜の儀式のように屋敷の玄関をまたぐ。
 そうだ、すでにソフィアという長子がいるのだから、二人は式を挙げて内外に事実を知らさなければならない。

 結婚し、子供がいて、幸せだと。
 彼らは家族であり、その絆は誰にも打ち砕けるものではないのだと。

 エリーザベトは幸福だった。
 これから先の困難を夫婦はともに乗り越えるだろう。
 どんな悲しいことがあってもソフィアの笑顔を見れば大丈夫だろう。
 きっとこれからどんどん家族が増えて、屋敷は笑い声と走り回る音に満ち満ちるだろう。

 あの日に望んだ光がそこにあった。
 エリーザベトはマティアスを見つめた。
 彼の夏の空の青い目を。
 その中に自分と同じ幸福があることが、これ以上ないほど、胸が張り裂けるほどに、幸福だった。


【完】
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