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第四章 晩秋
チェイス・チェイス・チェイス 後
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私達の車は、片側二車線の交差点に差し掛かっている。音源は、我々の進行方向に対して垂直に交わっている道路の、右手側のようだった。
次々に、ブーイングのごとくあがるクラクションに送り出されて、交差点のど真ん中にふらふら進んできたのは、軽自動車だった。パールホワイトの車体が、夜の暗さを感じさせないほどライトで照らされた道路を、蛇行してくる。迷子の子犬のように。
右折しようとした車が、お見合い状態になって急停止すると、軽自動車の方から頭突きをかまし、がしゃんと派手な音がここまで聞こえた。
それでも止まらず白い車は進んでいく。
もはや、クラクションは私達がいる車線からも鳴り響いていた。こちらの信号が青になってしまったからだ。
「なんだありゃ」
つぶやいたのは野田さんで、彼の声はやや大きいから私にも聞こえたのだが、木下さんのは完全に聞き取れなかった。木下さんはなにか野田さんに言いながら、無線の音量を上げた。
「飲酒運転か? なんにしろ無視もできねえな」
野田さんがそう言って、サイレンを鳴らす。避けた前の車両を追い越して、奇行に走った軽自動車を追いかけはじめた。
クラクションとサイレンとで、もう耳が痛い。
サイレンを聞いた前方の車が、スピードを緩めて道の端に避けるのだが、それでできたスペースに軽自動車が先行する。
そのときになって、無線から、暴走車両の情報が入った。交差点名が、たしかに目の前のそれと合致する。
暴走車両?
私は、急に湧いてきたつばを飲み込んだ。
「運転手は女性。二十代? 三十代? 窓を叩いてるが……」
木下さんが目を眇めて、フロントウィンドウに顔を近づけた。そして、スピーカーで停止を呼びかける。しかし、車はまだ蛇行を続けていた。
私も、後部座席から身を乗り出した。
「助手席に、チャイルドシートがありますね。子供の乗車はここからでは確認できませんが」
「止まらないな。なんなんだ一体」
野田さんが訝しげな声をあげた。
この警察車両から逃走するにはスピードが出てないのが気になった。
なにかおかしい。嫌な予感が、一つの仮説を組み上げていく。
「あの、もしかして、システムに異常があるのではないですか? 止まりたいのに止まれない、窓も開かないのでは」
思いついたことを述べると、野田さんが一瞬だけこっちに目を向けた。
「閉じ込められているってことか?」
「運転手さん、停車してください。車両に問題がある場合は、後部に向けて合図してください」
木下さんが呼びかけると、すぐに、運転席から振り返った運転手が、私達の車両に向って大きく手を振った。動作は性急で焦っているようだ。車内は薄暗く、周りの光でなんとか彼女の様子が視認できる。
「まさかと思いますが、例の――」
「ウイルスか」
私の言葉をついだのは、野田さんだった。一気に、車内が緊張した。
さすがの貫禄というべきか、彼は動揺も見せず、応援の要請をするよう木下さんに指示する。
「あんたシステム担当なんだろ。ああいうの、どうにかできないのか」
話を振られたそのときには、私も端末で対応マニュアルを確認していた。全国各地で似たような事件事故が起きているので、当然、緊急時の対応方法は考えられているはず。
「いま、マニュアルを」
「なにもたもたしてる早くしろっ」
びりびり響く声には神前さんので免疫があるから、怯んでも手は止まらない。
膨大な対処マニュアルのなかから合致するものを検索する。通信環境が悪いせいで、結果が出るまでに時間がかかってしまった。
出てきたマニュアルにはいくつかの事例とともに、対処方法が載っていた。しかしどれも、安心安全確実なものではない。
システムに外部から侵入して強制停止させるのが一番確実だが、セキュリティを突破する時間や手段が揃わないことが多い。
そもそも、事故前に警察が現場に居合わせたのは、これまでたった一度だ。車内の人間をその場で助けられた事例も、そのたった一件。事件が発生してから事故が起きるまでのスパンが短い事が多く、駆けつけたときには惨事になっていることがほとんどらしい。
マニュアルの内容は、基本は応援を待ち、緩衝装置を使ったりして、物理的に車両を停止させることを想定している。
しかし、そう素直に伝えると、野田さんは憚りなく舌打ちした。
「そんなもの、ガキでも思いつく! なんかあるだろ、即応できるものだ!」
難しいこと言う。
ならばと、私はたったひとつの成功事例を引っ張り出した。
「ひとつ、現場で対処して救助成功した例があります。車両に乗り込んで、端末を経由してシステムを停止……?!」
とんでもないものを見つけてしまった。事例は福岡のもの。さすが肝が座ってるなあ、なんて言っている場合じゃない。
「待て待て、それ、誰があっちに乗り込むんだよ」
「この場合、私か木下さんでは?」
スピーカーを止めた木下さんがぼやいたので、私も反射的に返していた。
無線で情報がはいる。この先工事により車線減少と。
現在の走行速度は、およそ時速五十キロだ。これ、いける……のか? 私の運動能力で。自信のほどは、口にするまでもない。
「おい木下、運転かわれ。俺がやる」
「無理ですよ野田さん。その体で乗り移れっこないでしょ。あっちの車がひっくり返るって」
木下さんが激しく首を横に振った。
推定百キロの野田さんが、ひらりと隣の車に飛び移る姿は、もはやアニメーションか映画の世界でなければ成立しない。
「私がやります」
「何言ってんの三小田」
木下さんはまたぎょっとする。
私はコートを脱ぎながら、端末の作業を片手で続ける。
「私が向こうに乗り込んで、システムを停止します。作業的には一番それが確実だと思うので」
「いや、危ないって。やめとけよ。お前、南千住のときみたいにはいかないんだぞ」
「承知してます」
わかってる。
あのときだって、私がどうこうできたわけじゃない。
あれは、神前さんが助けてくれたから。
彼は今、ここに居ない。もっと危ないところに自ら飛び込んで行ってしまった。
「でも、ただ見ていられませんよ。チャイルドシートがあるんだったら、あの人誰かのお母さんじゃないですか。私、その子に訃報を伝えるなんて、絶対にごめんですからね」
たぶん、私は、また勝手な親近感を抱き、それを覚悟と履き違えているんだと思う。
運転席の女性は、あの日の私と同じく、理解できないうちに死地に追いやられ、恐怖や絶望を味わっている。今まさに。できることなら、助けてあげたい。
助けられる確率は、ゼロではない、……はず。ならば、逃げられない。これでも、警察官の端くれなのだと自分を鼓舞する。というか、ここで逃げたら、たとえ分析係に戻れても後ろめたさで続かない。きっと。また誰かのSOSを聞き逃せば、夜も眠れなくなる。つまり自分のためだ、これは。
ごめんなさい、神前さん。入れ込みすぎるなと言う忠告、忘れたわけじゃないんですが、自覚してたより私、頑固で自分勝手みたいです。
コートとスーツの上着、靴を脱ぐ。
端末をどうにかしなければ。シャツのなかにでも忍ばせるか。ちょうどよく出っ張りの少ない体してるし、布地に余裕はある。こんなときになに自虐ってるんだ。緊張で思考が空回りしはじめた。
木下さんが大きなため息をついた。ネクタイを緩め、なぜか彼もコートを脱ぎ始める。ふわ、と香水とタバコの混じりあった私の苦手な匂いが、鼻をかすめる。
「はいはい。わかりました、オレが行くよ」
「えっでも」
「だってしゃあないじゃん。オレが一番適任だもん、どう考えても。それに、これでうまく行ったら手柄だろ」
口調のわりに声が堅い。無理もなかった。
無線で、応援を待てという指示がとんでくるが、彼はそれを鼻で笑った。
「現場で判断するなってよ。オレもちょうどそう思ってたところだわあ」
上着を脱いだ彼は、時計も外す。
「それで三小田よ、肝心な作業だけどどうすりゃいいわけ。あー、でもとかやっぱり自分がとか面倒なのはなし。時間無いから」
彼の真意はわからない。だが、その双眸は意欲に燃えていた。
信じようと思う。彼の野心を。なんとしてでも這い上がりたい彼には、この状況は一世一代の大舞台とも言えるはず。
それに彼の言う通り、私が乗り込むより五倍は成功率が高いと思う。もしかすると、もっとかも。
「……この端子を、フロントパネルのソケットに接続してください。接続確認ができたら、あとは私がやります」
自分の端末を、貸与されてる仕事用の端末と無線で接続する。
「なにこれ三小田の私物?」
「はい。木下さんの端末には電話で指示しなきゃいけないし、野田さんのはいざってときの連絡用に持っていていただかないと。お願いです、無事に返却してださいね」
話しながら、貸与端末に、アンチウイルスが無事インストールできたことを確認した。
最初は、私用端末のほうにインストールするつもりだったんだが、そっちは会社のサーバーにアクセスするために認証手続きなんかから始めなければいけなくて手間だったので、無線で経由させることにした。端末同士の通信がスムーズにいってくれることを祈る。
「木下、無理だと思ったらすぐに諦めろよ」
言いながら、野田さんがダッシュボードから非常用のハンマーを取り出した。窓ガラスをこれで割るのだろう。
無線で、矢継ぎ早に指示が飛んできているようだけど、意味を理解する余裕はなかった。
「野田さんのドラテクに期待してますからね、しくじったら末代まで祟りますよ」
「いまの脅迫は、成功報酬と相殺してやる」
野田さんがアクセルを踏み込み、その加速に背中がシートに押し付けられた。強引な車線変更で前方の車両を追い抜いた。
「三小田、窓を開けて手がかりを作ってやれ」
野田さんは減速して対象車両に車を寄せた。前から見ると、チャイルドシートに子供が視認できた。恐怖に泣き出しそうになっている若い女性が、状況が理解できずに口を大きく開けている。悲鳴をあげているのかも。
「あー、運転手さん、運転手さん。これからそちらに乗り移ります。ドアは開きますか? ……開きませんね。窓を破りますので、後部座席にどいてください。速やかに」
木下さんに乗り込むと言われた側は、今度は驚愕で口を開けていた。
クラクションをファンファーレに、木下さんが開いた助手席の窓から身を乗り出す。ドアを開けるより接近できるので、より乗り移りやすいはずだ。
窓枠に腰をかけるかたちで、彼は姿勢を安定させた。彼の革靴がシートの上に乗っている。飴色でぴかぴかしていて、高そう。よく磨かれている。
素早く振り下ろされたハンマーが、運転席の窓を粉々にした。
運転手の女性は運転席の背を倒し、後部座席に退避済み。思っていたより素早い行動だった。もしかすると、なかなか動けないかもと心配していたのに。
砕けた窓を乗り込みやすいようにさらに開口させる。車のスピードは一定で、野田さんはちらちらと隣と前を目視しながら慎重に運転をしている。あと二百メートルで工事、という看板があった。
まずい。今はまだ道幅が広いから、なんとか横列を保てているけど、それが崩れれば、乗り移ることもできない。
木下さんは身軽だった。ひょいと身を乗り出すと、隣の車の窓に手をかける。自由な方の手が差し出され、私はその上に自分の端末を置いた。
私達は頷きあう。
「木下っ」
野田さんが怒鳴った。木下さんがはっとする。
工事現場が近いためか、渋滞が発生して、他の走行車両が左右に避けられなくなっていた。野田さんが焦った様子で「戻れ」と叫ぶ。
しかし、木下さんはするりと車外に躍り出た。
減速して後ろに流される覆面車両と、軽自動車の隙間に挟まれて、彼の靴ががんと音を立てた。
次々に、ブーイングのごとくあがるクラクションに送り出されて、交差点のど真ん中にふらふら進んできたのは、軽自動車だった。パールホワイトの車体が、夜の暗さを感じさせないほどライトで照らされた道路を、蛇行してくる。迷子の子犬のように。
右折しようとした車が、お見合い状態になって急停止すると、軽自動車の方から頭突きをかまし、がしゃんと派手な音がここまで聞こえた。
それでも止まらず白い車は進んでいく。
もはや、クラクションは私達がいる車線からも鳴り響いていた。こちらの信号が青になってしまったからだ。
「なんだありゃ」
つぶやいたのは野田さんで、彼の声はやや大きいから私にも聞こえたのだが、木下さんのは完全に聞き取れなかった。木下さんはなにか野田さんに言いながら、無線の音量を上げた。
「飲酒運転か? なんにしろ無視もできねえな」
野田さんがそう言って、サイレンを鳴らす。避けた前の車両を追い越して、奇行に走った軽自動車を追いかけはじめた。
クラクションとサイレンとで、もう耳が痛い。
サイレンを聞いた前方の車が、スピードを緩めて道の端に避けるのだが、それでできたスペースに軽自動車が先行する。
そのときになって、無線から、暴走車両の情報が入った。交差点名が、たしかに目の前のそれと合致する。
暴走車両?
私は、急に湧いてきたつばを飲み込んだ。
「運転手は女性。二十代? 三十代? 窓を叩いてるが……」
木下さんが目を眇めて、フロントウィンドウに顔を近づけた。そして、スピーカーで停止を呼びかける。しかし、車はまだ蛇行を続けていた。
私も、後部座席から身を乗り出した。
「助手席に、チャイルドシートがありますね。子供の乗車はここからでは確認できませんが」
「止まらないな。なんなんだ一体」
野田さんが訝しげな声をあげた。
この警察車両から逃走するにはスピードが出てないのが気になった。
なにかおかしい。嫌な予感が、一つの仮説を組み上げていく。
「あの、もしかして、システムに異常があるのではないですか? 止まりたいのに止まれない、窓も開かないのでは」
思いついたことを述べると、野田さんが一瞬だけこっちに目を向けた。
「閉じ込められているってことか?」
「運転手さん、停車してください。車両に問題がある場合は、後部に向けて合図してください」
木下さんが呼びかけると、すぐに、運転席から振り返った運転手が、私達の車両に向って大きく手を振った。動作は性急で焦っているようだ。車内は薄暗く、周りの光でなんとか彼女の様子が視認できる。
「まさかと思いますが、例の――」
「ウイルスか」
私の言葉をついだのは、野田さんだった。一気に、車内が緊張した。
さすがの貫禄というべきか、彼は動揺も見せず、応援の要請をするよう木下さんに指示する。
「あんたシステム担当なんだろ。ああいうの、どうにかできないのか」
話を振られたそのときには、私も端末で対応マニュアルを確認していた。全国各地で似たような事件事故が起きているので、当然、緊急時の対応方法は考えられているはず。
「いま、マニュアルを」
「なにもたもたしてる早くしろっ」
びりびり響く声には神前さんので免疫があるから、怯んでも手は止まらない。
膨大な対処マニュアルのなかから合致するものを検索する。通信環境が悪いせいで、結果が出るまでに時間がかかってしまった。
出てきたマニュアルにはいくつかの事例とともに、対処方法が載っていた。しかしどれも、安心安全確実なものではない。
システムに外部から侵入して強制停止させるのが一番確実だが、セキュリティを突破する時間や手段が揃わないことが多い。
そもそも、事故前に警察が現場に居合わせたのは、これまでたった一度だ。車内の人間をその場で助けられた事例も、そのたった一件。事件が発生してから事故が起きるまでのスパンが短い事が多く、駆けつけたときには惨事になっていることがほとんどらしい。
マニュアルの内容は、基本は応援を待ち、緩衝装置を使ったりして、物理的に車両を停止させることを想定している。
しかし、そう素直に伝えると、野田さんは憚りなく舌打ちした。
「そんなもの、ガキでも思いつく! なんかあるだろ、即応できるものだ!」
難しいこと言う。
ならばと、私はたったひとつの成功事例を引っ張り出した。
「ひとつ、現場で対処して救助成功した例があります。車両に乗り込んで、端末を経由してシステムを停止……?!」
とんでもないものを見つけてしまった。事例は福岡のもの。さすが肝が座ってるなあ、なんて言っている場合じゃない。
「待て待て、それ、誰があっちに乗り込むんだよ」
「この場合、私か木下さんでは?」
スピーカーを止めた木下さんがぼやいたので、私も反射的に返していた。
無線で情報がはいる。この先工事により車線減少と。
現在の走行速度は、およそ時速五十キロだ。これ、いける……のか? 私の運動能力で。自信のほどは、口にするまでもない。
「おい木下、運転かわれ。俺がやる」
「無理ですよ野田さん。その体で乗り移れっこないでしょ。あっちの車がひっくり返るって」
木下さんが激しく首を横に振った。
推定百キロの野田さんが、ひらりと隣の車に飛び移る姿は、もはやアニメーションか映画の世界でなければ成立しない。
「私がやります」
「何言ってんの三小田」
木下さんはまたぎょっとする。
私はコートを脱ぎながら、端末の作業を片手で続ける。
「私が向こうに乗り込んで、システムを停止します。作業的には一番それが確実だと思うので」
「いや、危ないって。やめとけよ。お前、南千住のときみたいにはいかないんだぞ」
「承知してます」
わかってる。
あのときだって、私がどうこうできたわけじゃない。
あれは、神前さんが助けてくれたから。
彼は今、ここに居ない。もっと危ないところに自ら飛び込んで行ってしまった。
「でも、ただ見ていられませんよ。チャイルドシートがあるんだったら、あの人誰かのお母さんじゃないですか。私、その子に訃報を伝えるなんて、絶対にごめんですからね」
たぶん、私は、また勝手な親近感を抱き、それを覚悟と履き違えているんだと思う。
運転席の女性は、あの日の私と同じく、理解できないうちに死地に追いやられ、恐怖や絶望を味わっている。今まさに。できることなら、助けてあげたい。
助けられる確率は、ゼロではない、……はず。ならば、逃げられない。これでも、警察官の端くれなのだと自分を鼓舞する。というか、ここで逃げたら、たとえ分析係に戻れても後ろめたさで続かない。きっと。また誰かのSOSを聞き逃せば、夜も眠れなくなる。つまり自分のためだ、これは。
ごめんなさい、神前さん。入れ込みすぎるなと言う忠告、忘れたわけじゃないんですが、自覚してたより私、頑固で自分勝手みたいです。
コートとスーツの上着、靴を脱ぐ。
端末をどうにかしなければ。シャツのなかにでも忍ばせるか。ちょうどよく出っ張りの少ない体してるし、布地に余裕はある。こんなときになに自虐ってるんだ。緊張で思考が空回りしはじめた。
木下さんが大きなため息をついた。ネクタイを緩め、なぜか彼もコートを脱ぎ始める。ふわ、と香水とタバコの混じりあった私の苦手な匂いが、鼻をかすめる。
「はいはい。わかりました、オレが行くよ」
「えっでも」
「だってしゃあないじゃん。オレが一番適任だもん、どう考えても。それに、これでうまく行ったら手柄だろ」
口調のわりに声が堅い。無理もなかった。
無線で、応援を待てという指示がとんでくるが、彼はそれを鼻で笑った。
「現場で判断するなってよ。オレもちょうどそう思ってたところだわあ」
上着を脱いだ彼は、時計も外す。
「それで三小田よ、肝心な作業だけどどうすりゃいいわけ。あー、でもとかやっぱり自分がとか面倒なのはなし。時間無いから」
彼の真意はわからない。だが、その双眸は意欲に燃えていた。
信じようと思う。彼の野心を。なんとしてでも這い上がりたい彼には、この状況は一世一代の大舞台とも言えるはず。
それに彼の言う通り、私が乗り込むより五倍は成功率が高いと思う。もしかすると、もっとかも。
「……この端子を、フロントパネルのソケットに接続してください。接続確認ができたら、あとは私がやります」
自分の端末を、貸与されてる仕事用の端末と無線で接続する。
「なにこれ三小田の私物?」
「はい。木下さんの端末には電話で指示しなきゃいけないし、野田さんのはいざってときの連絡用に持っていていただかないと。お願いです、無事に返却してださいね」
話しながら、貸与端末に、アンチウイルスが無事インストールできたことを確認した。
最初は、私用端末のほうにインストールするつもりだったんだが、そっちは会社のサーバーにアクセスするために認証手続きなんかから始めなければいけなくて手間だったので、無線で経由させることにした。端末同士の通信がスムーズにいってくれることを祈る。
「木下、無理だと思ったらすぐに諦めろよ」
言いながら、野田さんがダッシュボードから非常用のハンマーを取り出した。窓ガラスをこれで割るのだろう。
無線で、矢継ぎ早に指示が飛んできているようだけど、意味を理解する余裕はなかった。
「野田さんのドラテクに期待してますからね、しくじったら末代まで祟りますよ」
「いまの脅迫は、成功報酬と相殺してやる」
野田さんがアクセルを踏み込み、その加速に背中がシートに押し付けられた。強引な車線変更で前方の車両を追い抜いた。
「三小田、窓を開けて手がかりを作ってやれ」
野田さんは減速して対象車両に車を寄せた。前から見ると、チャイルドシートに子供が視認できた。恐怖に泣き出しそうになっている若い女性が、状況が理解できずに口を大きく開けている。悲鳴をあげているのかも。
「あー、運転手さん、運転手さん。これからそちらに乗り移ります。ドアは開きますか? ……開きませんね。窓を破りますので、後部座席にどいてください。速やかに」
木下さんに乗り込むと言われた側は、今度は驚愕で口を開けていた。
クラクションをファンファーレに、木下さんが開いた助手席の窓から身を乗り出す。ドアを開けるより接近できるので、より乗り移りやすいはずだ。
窓枠に腰をかけるかたちで、彼は姿勢を安定させた。彼の革靴がシートの上に乗っている。飴色でぴかぴかしていて、高そう。よく磨かれている。
素早く振り下ろされたハンマーが、運転席の窓を粉々にした。
運転手の女性は運転席の背を倒し、後部座席に退避済み。思っていたより素早い行動だった。もしかすると、なかなか動けないかもと心配していたのに。
砕けた窓を乗り込みやすいようにさらに開口させる。車のスピードは一定で、野田さんはちらちらと隣と前を目視しながら慎重に運転をしている。あと二百メートルで工事、という看板があった。
まずい。今はまだ道幅が広いから、なんとか横列を保てているけど、それが崩れれば、乗り移ることもできない。
木下さんは身軽だった。ひょいと身を乗り出すと、隣の車の窓に手をかける。自由な方の手が差し出され、私はその上に自分の端末を置いた。
私達は頷きあう。
「木下っ」
野田さんが怒鳴った。木下さんがはっとする。
工事現場が近いためか、渋滞が発生して、他の走行車両が左右に避けられなくなっていた。野田さんが焦った様子で「戻れ」と叫ぶ。
しかし、木下さんはするりと車外に躍り出た。
減速して後ろに流される覆面車両と、軽自動車の隙間に挟まれて、彼の靴ががんと音を立てた。
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