上 下
10 / 122

#8 アンデル 新月祭 後

しおりを挟む
 陽が落ちてきて、手元の文字が読みづらくなり、私は没頭していた本の世界から現実に引き戻された。
 窓の外の露店の店先にもちらほら明かりが灯り始めている。そして、一番大きな正門前の広場の方へ、何かの柱やら楽器やらを持った人たちが歩いていくのが見えた。もうあと一時間もなくダンスが始まるのだ。
 私は帰り支度を始めた。
 
 建物を出て、その騒ぎに驚いた。楽しげに談笑する男女、恋破れて物陰で涙をこらえる少女、大げさに悲しんで笑ってそれをごまかそうとしている少年、これから意中の人に声をかけるのか緊張した面持ちの少年……。

 今まで見たことのない熱気で、学舎内は色めき立っていた。確かにこれはお祭りだ。

 とても通り抜けられそうにない正門からの下校を諦め、裏庭を突っ切って、この場を脱出することにした。以前はよく顔を出していたあの裏庭も、クラブに参加するようになってからは足が遠のいていた。
 兄とハイリーは、きっとあの喧騒の真ん中で踊るんだろうなと想像する。ちょっと胸が痛んだが、不思議と誇らしく思えて、それだけで満足だった。

 裏庭に出るなり、人の気配を感じて足を止め、慌てて木陰に隠れた。普段は人気のない場所なのに人がいる。
 別に疚しいことをしているわけではないので、堂々とその場を通り過ぎればいいのに、私は反射的にその行動をとっていた。そこで向き合っていたのが、クラウシフとハイリーだったからだ。

 ハイリーは、白いドレスに着替えていた。体の線に沿ったドレスのスカートは足首まであり、大胆に太腿までスリットが入っていた。長い首を飾る高い襟に、肩を出した意匠。上腕半ばまでの手袋をし、長い髪を背中に流した彼女は、別人と見紛うほど印象が違っていた。化粧もしているのか、形の良い唇が普段よりさらに赤い。

 いつも堂々としているハイリーがうつむいている。クラウシフは少し低いところにある彼女の頭の天辺を見つめていた。ハイリーは、よそ行きのかかとの高い靴を履いているが、それでもクラウシフの方が背が高い。

 正門側の喧騒がうるさく、ハイリーがなんと言ったか、私は聞き取れなかった。彼女は決心したように顔をあげ、自分の胸にあった金の羽根を手に持ち、クラウシフに語りかけた。頬が紅潮して見えるのは夕陽の仕業だろうか。あの彼女が緊張し興奮している。しきりにまばたきするのにあわせ、長いまつげが上下する。

 ハイリーが、羽根を差し出した。羽根には、彼女が昼間、髪に結びつけていた深い青色のリボンが飾られている。ばっと、それをクラウシフに押し付けるような仕草だった。怯えたような。
 そんな彼女のいじらしい姿を見たのは初めてだ。目を合わせられないというように真っ赤な顔で、ハイリーは地面を見つめている。

 ――羨ましい。

 私は、ぎゅっと自分の荷物を握りしめた。羨ましかった、クラウシフが。忘れようとしていたハイリーへの想いが、じわりと私の胸に蘇ろうとしていた。だが、それは、クラウシフが羽根を受け取れば、また為す術なく死ぬものである。

 クラウシフは踵を返した。
 金色の羽根は受け取らずに。

 ハイリーが、なにか言った。クラウシフも、何か言っていた。それに対し、ハイリーが泣きそうな顔で何度か声を掛け、――ぽとりと羽根をその場に落としうつむいた。途方に暮れた顔をして立ちすくむ彼女を残し、クラウシフは去った。自分の羽根は、胸に差したままだ。

 混乱したのは、私だ。理解出来ない展開に、自分が隠れていたことを忘れて飛び出しそうになる。それをしなかったのは、そうする前にハイリーがこちらに向かってとぼとぼ歩いてきたからだった。

 まずい。私は、慌ててこそこそその場から離脱しようとした。
 薄暗くなりつつあるとはいえ、草むらで人ががさがさ動いたら目立つ。

「アンデル」

 名前を呼ばれ硬直した。叱られる。いや、叱られるくらいで済めばいいが、絶交とか、もっとなにか悪いことが。

 それでも彼女の声を無視するという選択肢はなく、ぎこちなく振り返った。
 ハイリーは茫然とこちらを見ていた。髪が乱れ一房頬にかかっている。夕方の茜色の太陽の光に、緑色の目が金色に光っていた。

 彼女は、なにか言おうと唇を開いたが、声を発する前にその目を潤ませ、うろたえたようにきょろきょろ左右を見回して――どうにもできなかったらしく落涙した。ぽたぽた、きらきら、うつむいた彼女の双眸から、涙の雫がまばたきのたびに草に落ちては弾けて消ていく。

 ハイリーにかけるべき言葉も、その場でとるべき行動も思いつかなかった。
 これはなにかの茶番だと冗談めかして笑いながら、彼女の背後から兄のクラウシフが追いかけてきやしないかと、もしくは、二人で私を驚かすために仕組んだ小芝居なのだと、今すぐに種明かししてくれやしないかと望んだが、そういう展開は用意されてなかった。

 硬直以外に、なにができただろう。逃げ出さなかっただけマシだったのではないか。今までずっと高みにあって母のように姉のように私を慈しんでくれた少女が、それは私の頭の中の聖母像に過ぎず、たしかにただの生身の少女なのだという証明のために泣いているような。混乱の極みで、わけのわからないことを考えた私は、恐る恐る、彼女の手を握った。そうする他、思いつかなかった。
 すると、すべすべの手袋に包まれた手が、大きくない私の手にしがみついてきた。

 ハイリーはふにゃふにゃその場にしゃがみこむ。白いドレスの裾が開いて、地面に楕円を作った。ああ、美しい服が汚れてしまう。この日のために作られたドレスが。

「ハイリー、あっち、いこう」

 本格的に嗚咽を漏らしだした彼女の腕を引き、なんとかそれだけ言って、同じように人気のない東屋の方へ向かう。ハイリーはよろけながら、ほとほと涙をこぼしながら、私に従順についてきた。
 東屋のベンチに力なく座り込み、膝の上で手を握って、彼女は涙をこぼし続けた。触れれば柔らかい頬に、幾筋も涙のあとができる。

 可哀想なハイリー。

 この、一生の記念になる祭りの日に、こんなことが起きるなんて。そんな人をどう慰めればいいのか、知らない。思いつきもしない。おろおろしながら、掴まれた手を握り返すことしかできない。
 私が泣きじゃくった時、彼女はどうしてくれた。恐慌状態の頭の中で、それを思い出し、実践した。

 柔らかくて素直な赤い髪を撫でる。力加減がわからなくて、痛くしないようにと気をつけるあまり、指先だけで梳るような不格好な慰めになってしまった。
 土いじりばかりしてる私の手の指は、爪も皮膚も硬くなっている。そのかさついた皮膚に彼女の細い髪が引っかかってしまった。

「ご、ごめんね、ごめんねハイリー」

 ぴんと引っ張ってしまった髪から慌てて手を離すと、ようやくハイリーは顔を上げてくれた。まだ目は潤み赤いが、ふ、と頬を緩める。

「大丈夫だ、アンデル……ありがとう」

 そう言って、ハイリーはぐいぐい、自分の目元を手袋で拭う。そして、剣技の合間の気合のように「ふうっ」と強く息を吐くと、もう、涙は止まっていた。相変わらず目は真っ赤ではあったが。

「いつもと、逆になってしまったね。ごめんね、みっともないところを見せて。恥ずかしいな」

 目が潤んでいなければ、もう、いつものハイリーだった。その姿を見て、胸が疼いた。複雑な気持ちだった。以前のように、彼女に抱きつきたいのは同じだが、その腕の中で甘やかされたいというより、彼女に同じ思いを、深い安堵を味わってほしいと思ったのだ。初めてのことで、自分でも驚いた。それでいて、もう一度、彼女が涙をこぼさないかなと期待する気持ちもあった。はらはら涙を落とす姿は、かわいそうで、なぜか好ましかった。

「もう、大丈夫だ」

 立ち上がろうとする彼女の手を、私は引いた。

「ハイリー。ねえ、僕と踊って」

 何を馬鹿な。
 言い終わる前に後悔した。想い人に受け入れられず傷ついている人に、そんなことを言うな、と。そして、勢いで口をついて出た言葉の意味を反芻して、かあっと頬が熱くなった。緊張が走り、さっきはじめて彼女の泣き顔を見たときと同じように、心臓が早鐘のごとく忙しなく拍動しはじめる。

 だが、撤回はしなかった。自分のカバンに突っ込んでいた羽根を引っ張り出し、彼女の眼前に突き出す。折れ曲がってくしゃくしゃになっていた。
 きょとんとしていたハイリーは、ゆっくりと微笑んだ。

「いいのアンデル。私がもらってしまうよ、君の羽根」

 こくり頷くと彼女は自分のものがないことを思い出したのか、胸元を手で探って困った顔をした。

「ハイリーの、あとで僕がもらってきてもいい?」
「きっともう泥だらけだよ」
「いいんだ。ちょうだい、お願い」

 じっと見つめれば彼女はすぐに折れた。
「……君が、それでいいなら」
 
 私はハイリーと比べて背が低く、普通の男女のように組んでは踊れなかった。手をつなぎゆっくり回る、児戯に等しいダンス。松明もなく、薄暗くなった裏庭で、月明かりを頼りに、草を踏みつけて踊る。遠く正門の方から流れてくる音楽のかけらに、少しだけ力を借りて。

 途中からハイリーは私の大好きな屈託ない笑顔を見せてくれたし、私も、久々に腹の底から笑いながら楽しんだ。斜に構えて不参加を決め込むつもりだった祭りは、おそらく、一番欲しいものが手に入らないことがわかっていたから、拗ねて距離を置いていただけだったのだ。
 この年の新月祭は、私の中で特別だった。


 
 ハイリーを、迎えの車まで送り届けまた裏庭に戻った。正門の方のダンスももう佳境。音楽が最後の盛り上がりに差し掛かっている。

 地面に這うようにして、ハイリーが落としたガチョウの羽根を捜したのだが、見つからなかった。何度も何度も、草の一本一本をもかきわけ、捜し続けた。おかげで、浮かれた生徒たちもほとんど捌けてしまって、正門を閉めるために見回りの人が来てつまみ出された。
 それでも、ハイリーの羽根は見つからなかった。

 しょんぼり気落ちして帰宅した。
 その私が玄関に入った途端に、遅くなりすぎだアンデル、と叱責が飛んできた。父はもう、起き上がっても来れなかったので、私を叱ったのはクラウシフだ。
 出迎えに、ホールに降りてきた彼の胸元を見て、私は言葉を失った。

 まだ着替えていないクラウシフのシャツの胸にあったのは、ふわふわのすみれ色のリボンが飾り付けられ、真ん中に留め付けられたパールが光をはじく金の羽根だった。

 これまでただの一度も感じたことがないような、激しい感情に突き動かされた私は、飛びかかって彼の胸の羽根をむしり取ろうとした。身長も腕力も足りず、簡単にいなされ、床に転がされる結果になろうとも。

「兄さん! 兄さんは、ハイリーを裏切るの」

 頭がぐらぐら茹だるようだ。泣くハイリーの横顔が、ぐんにゃり歪んだような気がした。興奮で息が苦しい。打ち付けた膝や肘の痛みなんか、どうでもよかった。

「さあな」

 一瞬、驚いたように目を見開いたあと、すっと無表情になったクラウシフは、ひどく冷めた調子でそう言って、「さっさと体を洗って寝ろ。夕飯はないぞ」と、家長のように私に命令して、踵を返した。
 夕食なんて、どうせ喉を通らなかっただろう。
 そうしていたって意味がないことくらいはわかっていたが、私は悔し涙を堪えきれず、執事のバルデランが心配して声をかけにくるまで、その場にうずくまっていた。
しおりを挟む

処理中です...