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#51 ハイリー ほころび

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 着替えるだけは着替えようと、実家に寄って身支度だけは整えた。埃と汗にまみれた恰好で見舞いに行くわけにはいかない。
 その間に使いを出して、シェンケルに訪う旨を伝えておいた。
 役に立つかはわからないが、精がつくよう滋養のある酒を手土産に、母への挨拶すらろくにせずシェンケル家に向け車で出発する。二日間ほぼ不眠不休でいたので、体力が底をつきかけていたが、運転を下男に任せたからわずかに休めた。

 夕刻にシェンケルの門を叩いたら、すっかり禿頭になったバルデランが迎えてくれた。

「ああ、ハイリーお嬢さま。よくぞお越しくださいました」
「クラウシフの調子はどうだ? 良くないようであれば出直すが」
「いえ、もしお嬢さまがお見えになったらお通しするよう仰せつかっております。どうぞこちらへ」

 屋敷の中は静かで、すでに夜かと思うほどだった。居間ではなく、階段の先の寝室に案内される。

「クラウシフさま、ハイリーお嬢さまがお見えですよ」

 バルデランのノックの後、少ししてから「どうぞ」といういらえがあった。
 
 私が深呼吸している間に、バルデランがドアを開ける。

 クラウシフは、ベッドの上に上半身を起こしていた。寝巻きとも部屋着とも断定できないゆったりしたシャツを着て、下もゆったりしたパンツを履いている。ももの上まで掛布に包まれた身体はまだやせ衰えたりはしていないが、顔色がやけに白く、目の下にくっきりした隈ができている。いつもの不敵な表情を、余裕ともとれなくはないが……。

「やあハイリー、遠いところ我が家へよく来てくれた」
「毎回似たような挨拶だな、今度は違う文句を考えておいてくれ、飽きたよ」
「ははは。バルデラン、飲み物を」

 バルデランが下がり、私はクラウシフに手招きされ、彼のベッドの隣に置いてある丸椅子に腰を降ろした。なんだか見たことある光景だ。記憶が正しければアンデルの部屋とちょうど左右対称の造りになっている。
 じき暗くなるからか、室内にはあらかじめ照明が点灯されているようだ。
 
「久々にお前のスカート姿を見たな」
「葬式でも履いていたよ」
「そうだったか?」
「それより、子どもたちはどうした? アンデルは?」

 クラウシフの回答よりさきに、ドアがノックされ、女中がお茶を持ってきた。私はそのトレーごと受け取ってしまう。彼女は逆らわずに一礼し、部屋を出ていった。トレーに乗ったカップに手を伸ばす気にならずにいたら、クラウシフが空いているチェストの上に置いてくれた。

「……子どもたちはまたケートリーに預けている。穢れが感染ると義母は思い込んでいるようでな。実際は感染らないが、まあ、面倒をみてやれる状況にないから、預かってくれるというなら甘えようと」

 艶を失った黒髪を掻き上げ、クラウシフは口の端を上げた。病褥にありながらも、髭はきちんと手入れしている。

「アンデルは部屋で休んでいる。疲れて体調を崩しているようでな。これでシェンケルの次期当主が務まるのかと心配になるが……俺がなにを言ってもどうしようもないな、アンデルの頑張り次第だ」
「クラウシフ、君、本当に呪いなんかもらったのか?」

 あんまりにもいつもの調子で話し続けるものだから、これはクラウシフが画策した手の込んだ、そしてタチの悪い冗談なのではないかと思い始めていた。
 それを否定するように、自嘲して肩をすくめると、彼はシャツのボタンを外した。筋肉のはっきりした胸板の真ん中、心臓の上の位置に禍々しく橙色に燐光を放つ六本指の手形があった。

 これ以上ないくらい完璧な、死の呪い。遅効性だが、確実に死に至るものだ。逃れるすべはない。解呪のギフト持ちがひょいと現れるような奇跡でもない限り。

 これは死霊が下すようなものではなくて、悪霊――死霊の上位種といわれ十数種類の呪いを使う水死体に似た外観と臭いの魔族だ――が行使するもので、苦痛が長い。呪いで死ぬより前に、恐怖と苦痛に耐えきれず発狂する者も多い。
 心拍をいたずらに乱され、心身ともにじわじわ弱り、最期は意識明晰のままふっつりと心臓が止まる。同じ呪いをもらった部下は、二人は自ら命を絶ち、三人は請われて私が楽にしてやった。
 一週間以上この呪いと付き合って、ニヤケ顔をしている余裕のある人間に出会うのは初めてだ。
 
「これは絵の具かなんかでは?」
「おい、いてっ、ちょっと待てこんな光る絵の具聞いたことないぞ、やめろ」

 シャツの前を掴んでぐいぐいとその胸の手形を擦ってみたが落ちる気配はない。

「……本当に死ぬのか。君が?」
「なんだ急にしおらしくなって。前回別れ際に水を引っ掛けたことを悔いてるのか? それならもう気にしてないぞ」
「いや、どうせだったらあのとき横面を拳で殴っておけばよかったと自分を責めているところだ。こんな病人相手ではさすがにそんな非道できないからな」
「あの場でとっさに拳が出ない辺り、お前はお人好しだよ。そのうえこうしてここに来ちまった。捨て置けばいいのに馬鹿だな」

 あっさり言い当てられて、おまけに茶化されて、それまで胸にわだかまっていたものが急に軽くなる。真面目に傷ついたり悩んでいた自分が愚かに思えてきたのだ。

「そもそも、どうしてこうなった? どこで悪霊と遭遇したんだ?」
「うちの庭で」
「ふざけるなクラウシフ」
「ふざけちゃいないさ、事実だ。どういうわけか我が家の庭先に、悪霊を封じた魔石があってな。子供がそれをおもちゃにしようとして、こうなった」
「人が踏み入れない森や林ならわかるが、こんな人里、それも長年君たち一族が住んでいる場所にそんなものがあるわけないだろう。不自然だ」

 不自然。そうだ不自然過ぎる。私はじっと、幼馴染の黒い双眸を見つめた。
 
「クラウシフ、君は誰かに恨みを買っているのか。これは、……暗殺なのでは」
「俺を煩わしく思っているヤツね。心当たりが多すぎて候補を絞れないな」
「嘘だな、見当がついている顔だ」

 にらみつけたら、へらへらしていたクラウシフが真顔になる。

「起きちまったことは仕方ないし覆らない。それよりお前を呼び立てたことの本題にはいっていいか。そっちのほうが重要だ」

 あとで問いたださねば、と心に留め、気持ちを切り替える。本当なら、肩を掴んで揺さぶって、そんな行いをした卑怯者の名前を聞き出し、しかるべき裁きを受けさせたい。今すぐにだ。

「子どもたちの後見人というのはどういうことだ? ケートリー氏やアンデルではだめなのか?」
「本来だったらアンデルが一番いいんだろうが、さっきも言ったとおりあいつはもう限界らしい。イェシュカが死んだことでがっくりきていた上に、俺までだからな。
 結婚の話も難航している。アンデルが精神的に落ち着かないからだ。
 これ以上重荷を与えると、潰れる」

 心臓がぎゅっと縮んだ。
 イェシュカのことを思い出してしまう。実際に彼女が病んでいたときの様子はほとんど知らないくせに。すぐにでもアンデルの部屋に行って様子を確認したいと思うが、ぐっと堪える。自分の役目はそれではない、と。

「大丈夫なのか、アンデルは」
「大丈夫とは言えないな。でなければ、前線基地に詰めていて俺のことは絶対嫌悪しているお前に手紙を書くか? しかめっ面するなよ。俺にだって、客観的に自分がどう見られているか顧みることくらいあるぞ」
「ろくに反省もしないくせに。
 それで、アンデルはだめだとして、――ケートリーは?」
「ケートリー夫人がな、子どもたちを引き取りたいというんだよ。義母とは折り合いが悪くてな。イェシュカが死んでからは特にだ。忘れ形見の子供たちをどうにか自分の手元に置いておきたいらしいが、それはこちらとしても困る。
 嫌な話を聞かせるが……アンデルになにかあったとき、あいつに子供がいなかったらうちを継げるのはユージーンたちだからな」

 以前も同じような話をしたことがある。ギフトの継承。それがある限り、シェンケルもユーバシャールも、血を絶えさせるわけにはいかない。

「それで私にどうしろと? 血縁のケートリー夫人がどうしてもといえば、私より彼女の意志のほうが優先されるのは当然だぞ。私は所詮他人だ」
「それはわかっている。だが俺の遺言書で子どもたちの生活にかかわること全般の判断をお前に任せると指定し、役所に認めさせれば、ケートリー夫人が騒いだところでどうにもなるまい。俺は父親だからな、彼女の意志より俺の意志のほうが優先される。死んじまったとしてもだ」
「……私は今後も前線基地にずっといるつもりだ。速やかな決断を要するときどうするつもりだ? あまりに距離が開きすぎだろう?」
「基本はアンデルに任せる。なにかあったとき、お前は後追いでいいからアンデルの決定に同意してくれりゃいい。つまりは形だけの後見人でいいのさ。アンデルもお前が後ろにいてくれるとなれば安心するだろう。
 もちろん、報酬はある。金銭で請け負う後見人の相場よりは色をつけてやれるが」
「不要だ。金には困ってない。
 それより、君の父上や母上にご兄弟はいなかったのか? そちらに頼んだほうが確実では」
「あいにく、親父の弟はとっくに逐電している。母方とは絶縁。だから頼れる親族はもういないのさ。もしお前に断られたら、金で雇われてくれる後見人でも探すさ」

 クラウシフは明るく言うが、その方法で選んだ後見人が被後見人の財産を使い込んだりする気分の悪い話はよく耳にする。もちろん、信頼できる筋に頼むのだろうが……。
 ただ万が一ということもある。そうなったとき困るのは、アンデルとクラウシフの子供たちなのだ。ここで話している私やクラウシフは渦中にいない。

「……わかった。引き受けよう。だが、金はいらない、それは遺された子供たちに」
「助かる。明日には代筆屋に一筆書かせるから、出来上がった文章を読んで瑕疵がなければサインをくれないか。使いをだす」
「今から呼べないのか? そのほうがことが済んですっきりするだろう」
「お前、今何時だと思っているんだ? どこの代筆屋ももう夕飯を食ってるころだぞ。それに、今日は休息日だ」

 言われてはじめて、外がかなり暗くなっていることに気づいた。曜日についても、年中無休、不意に襲ってくる魔族には通用しない概念だからうっかり失念していた。
 金を詰めば、と思ったが、……クラウシフの顔色も優れないから、休ませたほうがいいだろう。

「わかった。明日もまたここに来る。なにか入り用ならば、言ってくれたら用意する」

 腰を浮かせたら、クラウシフが肩をすくめた。

「おい、夕飯くらい食べていったらどうだ」
「結構だ。君はもう休んだほうが良さそうな顔をしているし、私もたまには母と食事を摂りたいしな」
「そうか。……じゃあ、来てくれたついでに、もうひとつ頼み事を聞いてくれよ」
「なんだ?」
「口づけを。一度でいいからお前の口づけがほしい」
「その呪いは心拍をいたずらに速めたり遅めたりするわけだが、脳が酸欠状態になると急激に思考力が衰えることもあるらしいな。大丈夫か? 発作か?」

 ぐるりと首を回して睨みつけてやれば、ベッドの上に座った男がくつくつ笑った。

「なんだ、可愛げない。昔はもっとどぎまぎした様子で反応したのにな。さてはお前も向こうでいい相手ができたか」
「君に関係ない話題だな。用件は済んだ、帰るよ」

 腰を浮かす。手首を掴まれた。病人のくせにやけに握力が強い。

「クラウシフ。あまりふざけるなよ、病身の君なんか武器なしでも私は殺せるぞ」
「キスをねだっただけで殺されちゃたまらん。だがな、どうせ死ぬ身だ、みっともなく、昔欲して得られなかったものを求めてもいいだろう」
「君の感傷に付き合う義理はないよ。それともそこのガラスの水差しを頭で割ることになりたいのか」
「頼む、ハイリー」

 クラウシフは拘束していた私の手首を放す。ふっと笑顔を消して、沙汰を待つ罪人のように目を閉じる。
 
 ため息のあと、私は立ち上がった。そしてベッドの上に身を乗り出す。敷布の上に手を突けば、ぎしりとベッドが軋んだ。

 こうやって半死人にキスをするのは初めてではない。手足を失いもうじき命の火が消える少年兵や、呪いをもらって悶死まで待てぬから楽にしてほしいと泣く同僚、あるいは失血で意識朦朧としている老兵に、母や妻や恋人の幻に重ねて求められたり、あるいは単純に死出の餞別にと請われ、与えてきた。そのくらいで彼らの心が救われるなら、と。

 それと同じことだ。昔なじみのこの男にだって、そのくらいの情けはかけてやってもいい。腹が立つことばかりされているので気はすすまないが、それすら拒絶するほど情がないわけじゃない。

 クラウシフの額にかかる硬い感触の黒髪を手で掻き上げ、目を閉じてそこに唇を寄せる。そういえば彼に口づけるのは初めてだ。なんてことはない、利益りやくもなければ毒にもならないつまらない口づけ。

 ぐいっと首の後ろを掴まれ、反射的に腕を突っ張った。体が離れるより速く、冷えた柔らかいものに唇がぶつかった。唇に唇を重ねられたのだと知って、抗議の声をあげようとすると、ますます強く拘束される。

「んぐっ!?」

 柔らかい皮膚の向こうにある硬いものに歯がぶつかる。驚きで声をあげようとし口を開け、その隙間からぬるりと柔らかくて力強いなにかが侵入してきた。うっかりそれを噛んでしまった。
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