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#66 クラウシフ 予兆
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「どうせ、わたしのことなんか、愛してないくせにっ」
ガラスが砕けて、床に飛び散る。びくっとなったユージーンは、イェシュカの傍らから逃げてこちらに来ようとした。ユージーンの室内履は布製だ。
「ユージーン、待て!」
言葉の意味など理解できない幼児の動きを止めるには、怒鳴るしかなかった。母親の剣幕に圧倒され、父親に怒鳴られ、行き場を失って身をすくませたユージーンは、しゃくりあげその場で本格的に泣き始める。すでに泣いていた双子の声も唱和する。
「ふたりともどうしたの。なにが……」
アンデルがノックもせずに入ってきて、さっと室内を見て状況を察し、ユージーンの手を引いて部屋を出た。そしてすぐにひとりで戻ってきて、両腕に双子を抱えて部屋を出ていった。
双子の泣き声が遠くなっていく。かわりに部屋には、イェシュカの獣の唸り声のような泣き声が響いていた。
「イェシュカ、落ち着け」
「触らないでっ! どうせわたしなんかにはもう飽きて、他のひとがいるんでしょ?! 子供を生んだらわたしは用済みなんでしょ?」
「そんなわけないだろうが」
イェシュカは寝間着のまま、髪を振り乱して、夜中にもかかわらず大声をはりあげる。
なだめようと背中を撫でるために伸ばした手は、振り払われた。俺はためらわずまた手を伸ばす。振り払われる。手を伸ばす。
何度もそれを繰り返していると、とある瞬間でわっとイェシュカが掴みかかってきた。胸を殴打される。その打擲ごと拘束するように抱きしめた。泣き声は嗚咽にかわって、彼女から俺の胸にしがみついてくる。もともと華奢だったが、さらに痩せた。心労がそうさせているのは明らかだ。
ため息をつきそうになって、ぐっと堪える。
いつものことだが、こうまでことが深刻になったはじめの原因はヨルク・メイズにある。発端は半年ほど前、イェシュカが双子を出産してから三ヶ月のときに遡る。
◆
招待状が届いた。ヨルク・メイズ主催の晩餐会への招待状だ。ぜひ、夫婦で参加するように、と直筆のメッセージが添えてあった。俺の手元でさっさと破り捨てて、妻が出産直後なのでと断れればよかったのだ。
ところが、封筒の宛名が俺とイェシュカ連名で、送り主がヨルク・メイズだったから、気を利かせたイェシュカが先に封筒を開けちまった。そこにヨルク・メイズのサインを見つけて、断るなんてとんでもない、と言い出したのだ。
彼女はせっせと出席の準備を整えた。俺の制止に耳も貸さず、勝手に二人で参加すると返事を出したらしい。過去、挨拶に行って嫌な思いをしたはずなのに――あるいは、だからこそ? ――やけに積極的で、けんかになった。
当日、ひとりで車に乗り込んで出発しようとする彼女を、黙って見送るわけにもいかず、俺も同乗したのだ。
車中、俺は問いかけた。
「どうしてそんなに城に行きたがる? 面白いもんもないだろうに」
「どうしてそう決めつけるの? あなたには珍しいものじゃないかもしれない、でもわたしには……」
そういっておきながら、城の豪華な内装に目を輝かせたりせず、美しく着飾った他の出席者と談笑したりもせず、イェシュカはぴったり俺に寄り添い離れなかった。腕を組んで、俺を自分の盾にする。周囲を威嚇し警戒しているような不自然な態度を疑問に思いながら、俺はとりあえず挨拶だけ済ませたら退場できると、まっさきにヨルク・メイズに挨拶に行った。壁際で、年配の美女と談笑していた彼は、俺たちに気づくとさらに笑顔を深くした。
「陛下、お招きありがとうございます」
俺が形ばかりの礼をすると、ヨルク・メイズは白くなった前髪を指で跳ね上げた。
「お前の美しい妻の顔を、久々に見たくなったのだ。相変わらず可憐だな」
「もったいないお言葉です」
イェシュカもスカートをつまんでみせた。ヨルク・メイズがその手をとって甲に口づけを落とす。俺の妻に触るな、と喉元まで出かかった。
「クラウシフ、奥方を大事にするのだぞ。たまには早く帰って労るんだ。
イェシュカ、このところ、クラウシフは帰りが遅いだろうが、安心してほしい。彼は真面目に働いて、帰りが遅くなっているだけで、決して奥方を悲しませるようなことはしない男だ。言い寄られても、麗しい妻がおりますのでと断ったらしい。愛されているな」
「……ええ」
イェシュカの笑顔は真っ白だった。あまりにはっきり、顔色が変わった。みるみるうちに目も暗くなっていく。
「イェシュカ」
「……少し、風にあたってきます」
俺を無視し、イェシュカは踵を返して小走りに窓の向こうへ消えた。
いつの間にか、ヨルク・メイズと談笑していた年配の女性はいなくなっている。不穏な空気を察したのか、他の人間も俺たちの周辺を避けていた。空白地帯のなか、俺は目を眇める。眼前の男は頬を緩めた。
「妻をおちょくるのはやめてください。言い寄られたなんてまったく身に覚えがありません、勝手に捏造してどういうおつもりですか」
「おちょくってなどないし、捏造もしてないぞ。お前が忘れてしまっただけだろう」
「そもそも、ほとんど女性と話した記憶もありませんから。おかげさまで激務ですので」
「だれも女相手とは言ってない。ほれ、マルートの……モーシティとかいったか、あれに随分好かれていただろう」
なんだその屁理屈。面白くもねえ。面白がってるのはこのジジイだけだ。あとは教会の気持ち悪いおっさんたち。
「あくまで職務上の付き合いしかありませんが」
ヨルク・メイズは一歩距離を詰め、親しげな者同士が秘密を共有するように、俺の耳元でささやいた。
「別に、誰にも言うつもりはないから安心しろ。お前が私の気持ちを忖度して……ギフトを行使したのだろう? 私が体調不良で調印式を欠席したとき、マルートの大臣は怒り心頭だった。引き止めるために、お前が自主的に、その息子の晩餐に単身出席したということは聞いたぞ。調印式でも親密そうだったじゃないか。真夜中まで戻らなかったんだろう?」
俺の行動をヨルク・メイズが把握していることにはもう驚きもしない。だが、曲解されるのは腹が立つ。
既婚者に、伴侶以外の相手との関係を邪推するなんて悪趣味にも程がある。しかも同性。マルートじゃどうか知らんが、この国では嫌悪の対象だ。
というか、なんでお前に義理立てして、俺が妻以外と寝なきゃなんねえんだ阿保か。そんな義理ないだろ。
「あれはただ会話を楽しんだだけですよ。同じ立場にある者同士ですから、話題はつきません。モーシティ殿には、そこに共感いただいただけです。
それに、ギフトなど使わずとも、俺は調印式を再設定するくらいできます。そこまで無能じゃない」
「そうなのか? てっきり、私の気持ちを汲み取ってくれたのかとばかり。なにしろお前は優秀だからなあ。それでいて、奥方への愛情を言い訳にするから、見ていて心苦しかったのだ。
その愛する奥方にいらぬ心配をかけさせぬように、口添えしたつもりだったが、であれば余計なはからいになってしまったかな。どれ、奥方を迎えに行こう。誤解は解いておかねば」
「妻をエスコートするのは夫の役目、気遣いは不要です。彼女の体調が優れないようですから、このまま失礼します」
「そうか。残念だな、一度ダンスをと思ったのだが」
「陛下、佳い夜を」
言葉を遮り礼をし、俺はイェシュカが消えたベランダの方へ急いだ。
◆
帰りの車に乗り込んだイェシュカは、ぽろぽろ涙をこぼした。
本当は双子のお披露目のパーティーに着る予定であつらえさせた薄紅色のドレスのスカートに、水滴が落ちて、生地を水玉模様に変えていく。俺が差し出したハンカチを握りしめ、つっかえつっかえ、事情を打ち明けた。
「マーニャが、……妊娠中は男性が一番浮気をする時期だから、はやく体型を戻さないとって。不安になってしまったの。だってわたし、結婚してからほとんど妊娠していたから、……あなたの帰りはいつも遅いし、お仕事の話を聞いても答えてくれないし……。それでこの間、ジュリアンとジェイドの顔を見にきてくれたお友達から、あなたの話を聞いたのよ。若手でとても注目されているし、きっと女性にももてているはず、って」
「馬鹿だな、そんな根拠のない話をどうして確信する」
「でも! ……さきほど陛下だってそんな話をしていたわ」
「それがなんの根拠になる。周囲のくだらない邪推より、夫の言葉を信用しろ」
言ってて反吐が出る。俺がイェシュカを批難できる立場か? 信じてくれなんて言えない。嘘で塗り固めた夫婦関係なのに。
とにかく、マーニャ――元乳母のメイドだ――には余計なことを言うなと注意をしなければ。産後で不安定な妻を煽るなよ。帰りが遅いのはヨルク・メイズが言っていたとおり仕事が忙しいからだし、仕事の話をしないのは機密の情報が多いからだ。
あとはイェシュカの友人。なぜ不確かなことを言って他人の夫婦関係にヒビをいれるような真似をする? どこのどいつだ、バルデランに確認して出入り禁止にしてやろうか。もしメイズ家と懇意だったら、問答無用で出入り禁止だ。
「ごめんなさい、……クラウシフ。今日は、あなたの相手を見つけてやろうって思って、……陛下にも失礼なことを」
「もう泣きやめ、怒ってないし、陛下も気にしてない。
お前が心配しているようなことは一切ない。陛下だってそう言ってただろう」
「はい……」
ぱたぱた涙をこぼすイェシュカの手からハンカチを取り戻し、頬、顎、それから膝で重ねられた両手の甲を拭ってやる。
顎を拭ってやるときに目についたのは、不吉に赤く光るあの三角の首飾りだ。ドレスと合わないと着けるのを嫌がったイェシュカだが、メイズ家から下賜された家宝なのだから、メイズに挨拶するときはつけろと言って、了承させたものだ。今も禍々しく光る赤く染まった石は、イェシュカの心がギフトの魔力にさらされていることを示す。
やっぱり、ギフトはちゃんと作用しているんだよな。
このところ、性交はおろか口付けもろくにしていなかったが、長期に渡って俺に縛られているイェシュカの精神は、しばらく体液の摂取をおこたっても問題ないのだろう。むしろ、日常生活での時間の共有や接触だけで十分なのかもしれない。
彼女が俺の不倫を疑っていたということはつまり、俺の呪縛が揺らいだのかと思ったのだが、杞憂か? 嫉妬したと言うと、……むしろ逆説的に、ちゃんと呪縛されているということになるのか。
その疑念に答えを呈すかのように、イェシュカがそっと俺の肩に頭を預けてきた。自宅に着くまで、小さな頭を抱き込むように撫でてやったからか、彼女はその後は素直で落ち着いていた。
当然のような流れで、俺は久方ぶりに彼女を抱いた。体型が崩れたかどうかなんか、気にもならない。それを嘆く彼女に抱く気持ちは『罪悪感』でしかない。
イェシュカが俺のために体型を気にしたり、他の女の影を疑って気に病む必要なんかないのだから。
俺の呪縛にかかって、子供まで産まされて、口先だけの言葉で満足させられて、――一等可哀想な女だ。
少しでもその心が安らぐように、時間をかけて丁寧に丁寧にその体を愛撫した。愛している、とささやくたびに、誘惑にかられる。いっそのこと、自分自身にも暗示をかけて、この罪悪感を忘れたい、と。嘘はついていない、彼女を愛しているが……だからといって、罪悪感は消せない。彼女への情が強くなり、一緒に過ごす時間が長くなるほど、俺の嘘も深くなる。
実のない言葉にイェシュカが歓喜の涙をこぼしながら微笑むとき、俺の心は凍りついた。
その日が、俺の妻殺しに向けて加速するきっかけだったのだろう。
ガラスが砕けて、床に飛び散る。びくっとなったユージーンは、イェシュカの傍らから逃げてこちらに来ようとした。ユージーンの室内履は布製だ。
「ユージーン、待て!」
言葉の意味など理解できない幼児の動きを止めるには、怒鳴るしかなかった。母親の剣幕に圧倒され、父親に怒鳴られ、行き場を失って身をすくませたユージーンは、しゃくりあげその場で本格的に泣き始める。すでに泣いていた双子の声も唱和する。
「ふたりともどうしたの。なにが……」
アンデルがノックもせずに入ってきて、さっと室内を見て状況を察し、ユージーンの手を引いて部屋を出た。そしてすぐにひとりで戻ってきて、両腕に双子を抱えて部屋を出ていった。
双子の泣き声が遠くなっていく。かわりに部屋には、イェシュカの獣の唸り声のような泣き声が響いていた。
「イェシュカ、落ち着け」
「触らないでっ! どうせわたしなんかにはもう飽きて、他のひとがいるんでしょ?! 子供を生んだらわたしは用済みなんでしょ?」
「そんなわけないだろうが」
イェシュカは寝間着のまま、髪を振り乱して、夜中にもかかわらず大声をはりあげる。
なだめようと背中を撫でるために伸ばした手は、振り払われた。俺はためらわずまた手を伸ばす。振り払われる。手を伸ばす。
何度もそれを繰り返していると、とある瞬間でわっとイェシュカが掴みかかってきた。胸を殴打される。その打擲ごと拘束するように抱きしめた。泣き声は嗚咽にかわって、彼女から俺の胸にしがみついてくる。もともと華奢だったが、さらに痩せた。心労がそうさせているのは明らかだ。
ため息をつきそうになって、ぐっと堪える。
いつものことだが、こうまでことが深刻になったはじめの原因はヨルク・メイズにある。発端は半年ほど前、イェシュカが双子を出産してから三ヶ月のときに遡る。
◆
招待状が届いた。ヨルク・メイズ主催の晩餐会への招待状だ。ぜひ、夫婦で参加するように、と直筆のメッセージが添えてあった。俺の手元でさっさと破り捨てて、妻が出産直後なのでと断れればよかったのだ。
ところが、封筒の宛名が俺とイェシュカ連名で、送り主がヨルク・メイズだったから、気を利かせたイェシュカが先に封筒を開けちまった。そこにヨルク・メイズのサインを見つけて、断るなんてとんでもない、と言い出したのだ。
彼女はせっせと出席の準備を整えた。俺の制止に耳も貸さず、勝手に二人で参加すると返事を出したらしい。過去、挨拶に行って嫌な思いをしたはずなのに――あるいは、だからこそ? ――やけに積極的で、けんかになった。
当日、ひとりで車に乗り込んで出発しようとする彼女を、黙って見送るわけにもいかず、俺も同乗したのだ。
車中、俺は問いかけた。
「どうしてそんなに城に行きたがる? 面白いもんもないだろうに」
「どうしてそう決めつけるの? あなたには珍しいものじゃないかもしれない、でもわたしには……」
そういっておきながら、城の豪華な内装に目を輝かせたりせず、美しく着飾った他の出席者と談笑したりもせず、イェシュカはぴったり俺に寄り添い離れなかった。腕を組んで、俺を自分の盾にする。周囲を威嚇し警戒しているような不自然な態度を疑問に思いながら、俺はとりあえず挨拶だけ済ませたら退場できると、まっさきにヨルク・メイズに挨拶に行った。壁際で、年配の美女と談笑していた彼は、俺たちに気づくとさらに笑顔を深くした。
「陛下、お招きありがとうございます」
俺が形ばかりの礼をすると、ヨルク・メイズは白くなった前髪を指で跳ね上げた。
「お前の美しい妻の顔を、久々に見たくなったのだ。相変わらず可憐だな」
「もったいないお言葉です」
イェシュカもスカートをつまんでみせた。ヨルク・メイズがその手をとって甲に口づけを落とす。俺の妻に触るな、と喉元まで出かかった。
「クラウシフ、奥方を大事にするのだぞ。たまには早く帰って労るんだ。
イェシュカ、このところ、クラウシフは帰りが遅いだろうが、安心してほしい。彼は真面目に働いて、帰りが遅くなっているだけで、決して奥方を悲しませるようなことはしない男だ。言い寄られても、麗しい妻がおりますのでと断ったらしい。愛されているな」
「……ええ」
イェシュカの笑顔は真っ白だった。あまりにはっきり、顔色が変わった。みるみるうちに目も暗くなっていく。
「イェシュカ」
「……少し、風にあたってきます」
俺を無視し、イェシュカは踵を返して小走りに窓の向こうへ消えた。
いつの間にか、ヨルク・メイズと談笑していた年配の女性はいなくなっている。不穏な空気を察したのか、他の人間も俺たちの周辺を避けていた。空白地帯のなか、俺は目を眇める。眼前の男は頬を緩めた。
「妻をおちょくるのはやめてください。言い寄られたなんてまったく身に覚えがありません、勝手に捏造してどういうおつもりですか」
「おちょくってなどないし、捏造もしてないぞ。お前が忘れてしまっただけだろう」
「そもそも、ほとんど女性と話した記憶もありませんから。おかげさまで激務ですので」
「だれも女相手とは言ってない。ほれ、マルートの……モーシティとかいったか、あれに随分好かれていただろう」
なんだその屁理屈。面白くもねえ。面白がってるのはこのジジイだけだ。あとは教会の気持ち悪いおっさんたち。
「あくまで職務上の付き合いしかありませんが」
ヨルク・メイズは一歩距離を詰め、親しげな者同士が秘密を共有するように、俺の耳元でささやいた。
「別に、誰にも言うつもりはないから安心しろ。お前が私の気持ちを忖度して……ギフトを行使したのだろう? 私が体調不良で調印式を欠席したとき、マルートの大臣は怒り心頭だった。引き止めるために、お前が自主的に、その息子の晩餐に単身出席したということは聞いたぞ。調印式でも親密そうだったじゃないか。真夜中まで戻らなかったんだろう?」
俺の行動をヨルク・メイズが把握していることにはもう驚きもしない。だが、曲解されるのは腹が立つ。
既婚者に、伴侶以外の相手との関係を邪推するなんて悪趣味にも程がある。しかも同性。マルートじゃどうか知らんが、この国では嫌悪の対象だ。
というか、なんでお前に義理立てして、俺が妻以外と寝なきゃなんねえんだ阿保か。そんな義理ないだろ。
「あれはただ会話を楽しんだだけですよ。同じ立場にある者同士ですから、話題はつきません。モーシティ殿には、そこに共感いただいただけです。
それに、ギフトなど使わずとも、俺は調印式を再設定するくらいできます。そこまで無能じゃない」
「そうなのか? てっきり、私の気持ちを汲み取ってくれたのかとばかり。なにしろお前は優秀だからなあ。それでいて、奥方への愛情を言い訳にするから、見ていて心苦しかったのだ。
その愛する奥方にいらぬ心配をかけさせぬように、口添えしたつもりだったが、であれば余計なはからいになってしまったかな。どれ、奥方を迎えに行こう。誤解は解いておかねば」
「妻をエスコートするのは夫の役目、気遣いは不要です。彼女の体調が優れないようですから、このまま失礼します」
「そうか。残念だな、一度ダンスをと思ったのだが」
「陛下、佳い夜を」
言葉を遮り礼をし、俺はイェシュカが消えたベランダの方へ急いだ。
◆
帰りの車に乗り込んだイェシュカは、ぽろぽろ涙をこぼした。
本当は双子のお披露目のパーティーに着る予定であつらえさせた薄紅色のドレスのスカートに、水滴が落ちて、生地を水玉模様に変えていく。俺が差し出したハンカチを握りしめ、つっかえつっかえ、事情を打ち明けた。
「マーニャが、……妊娠中は男性が一番浮気をする時期だから、はやく体型を戻さないとって。不安になってしまったの。だってわたし、結婚してからほとんど妊娠していたから、……あなたの帰りはいつも遅いし、お仕事の話を聞いても答えてくれないし……。それでこの間、ジュリアンとジェイドの顔を見にきてくれたお友達から、あなたの話を聞いたのよ。若手でとても注目されているし、きっと女性にももてているはず、って」
「馬鹿だな、そんな根拠のない話をどうして確信する」
「でも! ……さきほど陛下だってそんな話をしていたわ」
「それがなんの根拠になる。周囲のくだらない邪推より、夫の言葉を信用しろ」
言ってて反吐が出る。俺がイェシュカを批難できる立場か? 信じてくれなんて言えない。嘘で塗り固めた夫婦関係なのに。
とにかく、マーニャ――元乳母のメイドだ――には余計なことを言うなと注意をしなければ。産後で不安定な妻を煽るなよ。帰りが遅いのはヨルク・メイズが言っていたとおり仕事が忙しいからだし、仕事の話をしないのは機密の情報が多いからだ。
あとはイェシュカの友人。なぜ不確かなことを言って他人の夫婦関係にヒビをいれるような真似をする? どこのどいつだ、バルデランに確認して出入り禁止にしてやろうか。もしメイズ家と懇意だったら、問答無用で出入り禁止だ。
「ごめんなさい、……クラウシフ。今日は、あなたの相手を見つけてやろうって思って、……陛下にも失礼なことを」
「もう泣きやめ、怒ってないし、陛下も気にしてない。
お前が心配しているようなことは一切ない。陛下だってそう言ってただろう」
「はい……」
ぱたぱた涙をこぼすイェシュカの手からハンカチを取り戻し、頬、顎、それから膝で重ねられた両手の甲を拭ってやる。
顎を拭ってやるときに目についたのは、不吉に赤く光るあの三角の首飾りだ。ドレスと合わないと着けるのを嫌がったイェシュカだが、メイズ家から下賜された家宝なのだから、メイズに挨拶するときはつけろと言って、了承させたものだ。今も禍々しく光る赤く染まった石は、イェシュカの心がギフトの魔力にさらされていることを示す。
やっぱり、ギフトはちゃんと作用しているんだよな。
このところ、性交はおろか口付けもろくにしていなかったが、長期に渡って俺に縛られているイェシュカの精神は、しばらく体液の摂取をおこたっても問題ないのだろう。むしろ、日常生活での時間の共有や接触だけで十分なのかもしれない。
彼女が俺の不倫を疑っていたということはつまり、俺の呪縛が揺らいだのかと思ったのだが、杞憂か? 嫉妬したと言うと、……むしろ逆説的に、ちゃんと呪縛されているということになるのか。
その疑念に答えを呈すかのように、イェシュカがそっと俺の肩に頭を預けてきた。自宅に着くまで、小さな頭を抱き込むように撫でてやったからか、彼女はその後は素直で落ち着いていた。
当然のような流れで、俺は久方ぶりに彼女を抱いた。体型が崩れたかどうかなんか、気にもならない。それを嘆く彼女に抱く気持ちは『罪悪感』でしかない。
イェシュカが俺のために体型を気にしたり、他の女の影を疑って気に病む必要なんかないのだから。
俺の呪縛にかかって、子供まで産まされて、口先だけの言葉で満足させられて、――一等可哀想な女だ。
少しでもその心が安らぐように、時間をかけて丁寧に丁寧にその体を愛撫した。愛している、とささやくたびに、誘惑にかられる。いっそのこと、自分自身にも暗示をかけて、この罪悪感を忘れたい、と。嘘はついていない、彼女を愛しているが……だからといって、罪悪感は消せない。彼女への情が強くなり、一緒に過ごす時間が長くなるほど、俺の嘘も深くなる。
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