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#EXTRA 新妻のためのあんちょこ下巻(前)
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「今度の物件もなかなかだなあ」
クリーム色の外壁の家を目の前にして、ハイリーが感心したのか呆れたのかわからない口調でそう言い、肩をすくめた。
「中は手入れしてもらっているから、この前のところより住みやすいんだよ。さあ、荷物を運ぼう。貸して」
私は、彼女の金属の手から大きなかばんを受け取って、薄い玄関のドアに手をかけた。
「ありがとう。早く片付けて昼食にしよう」
玄関の蝶番が耳障りな音をたてる。ハイリーが通れるようにドアを押さえた。そして彼女の反応を楽しみに、室内を今一度見回す。
淡い黄色の壁に、赤みのある木材の腰壁。家具は古い上に安物だが、白く塗装し直されて、見た目は悪くない、……と、思われる。あくまで私の基準ではだが。
「本当だ! きれいだね、壁の色も素敵だ」
玄関に踏み込むなり、ハイリーがくるりと振り返る。満面の笑み。日が高く登った昼時、玄関の扉の上の採光窓から差し込む光は、彼女の髪を金色に輝かせている。彼女は小振りの荷物を手に、ざくざくと奥に進み、中を確認し始めた。その様子を、私は楽しく見守る。
あの崖の横の小屋を引き払い、この家に先んじて私が住みはじめてから約二週間。今日から二人暮らしになるのだ。
研究材料があるあの洞窟には、ウマがいれば簡単に行ける。そして街は半日で往復できる。ここはそんな海の近くの丘の中腹にあたる。見える範囲に他に民家はない、波音だけがかすかに聞こえる静かな場所である。
そこに建つ築十数年の、狭苦しいこの家がふたりの新居なのだ。美しいとはお世辞にも言えない物件だが、それでも、これまで私がひとりで暮らしてきたどの小屋より上等だ。なんと、雨漏りしないのだ。
家の敷地にある、貸主の妻が建てたという小さな温室は、研究にも生計をたてるのにも役立つ。嬉しいおまけである。
本当は、私の先に賃借契約を申し入れた人がいたらしいのだが、ご破算になったとのことで、内装の手入れの行き届いた状態ですぐに借り受けることができた。我々にとっては立地もいいし、幸運だと飛びついたのだった。
もちろん、ハイリーさえいてくれたら、私は別に、野宿だろうがあばら家だろうがかまわない。だが、彼女にそういう不便を味わわせたくはない。できる限り、住みやすいところを選んだのだ。
私は、日当たりだけは良い――良すぎるかもしれない――台形の部屋にハイリーを案内した。
「こっちがあなたの部屋。好きに使って。狭くて申し訳ないけど」
「基地の個室もこのくらいだったよ。広すぎるより、使い勝手がいい」
彼女は青いカーテンをめくったり、備え付けの小さなタンスの引き出しを開けてみたりして、目を輝かせている。箪笥の引き出しの取っ手は、陶器に金で絵付けがしてある、可愛らしい意匠である。
「ふふふ、なんだかわくわくするね。新生活のはじまりだ」
「そう言ってもらえて嬉しいよ。こんなあばら家嫌だって、落胆するんじゃないかと思っていた」
「なにを言ってるの。君との新生活だ、そんな些細なことどうでもいいよ」
にっこりされて、衝動的にハイリーを抱きしめようと一歩近づいた。
だが、ハイリーは、さっとなにかを私の前に突き出した。私は彼女ではなく、そのなにかを胸に抱え込むことになった。
一冊の本。エプロンをつけたメイドの装画で、厚みはあまりないが、大きい。学舎の初等部の教本くらいの大きさだ。
『新妻たちのために――生活の知恵と実践――』……?
しかも、上巻である。下巻もあるのか。中巻もあるという可能性も捨てきれない。
「知人からもらったんだ。今、巷で人気の本らしいよ。なかなかおもしろい内容だったから、実践してみたかったんだ。
ほら、この国に来てから私は、定宿でなんでもやってもらえる、家事とは無縁な生活をしていたでしょう?
そもそも家事なんてほとんどしたことなかったわけだ。
それを知っていたかのように、その人が結婚祝いに一緒に入れてくれたんだ。すごいんだよ、この本。鍋の焦げをどうやったら落とせるか、君、知ってる?」
「玉ねぎの皮を炒る?」
開いたページがちょうどその内容だった。
平易な文章ときれいな挿絵でその方法が説明されている。
この本は、風邪を引いたときに飲ませる症状別の滋養のあるスープだとか、絡んでしまったネックレスの鎖の解き方だとか、家庭でちょっと役立つような豆知識が列記されているのだ。
「のどが渇いたから、水をもらうね。そしたらすぐに片付けを終わらせるから、君はゆっくり休んでいて」
私の返答など待たずに、ハイリーはぱたぱたと部屋を出ていってしまった。彼女が浮かれているように感じるのは、私の願望が見せる都合のいい幻覚だろうか。そうではないといいな、と期待してしまう。
「わっ」
棚の上に置かれていたハイリーのかばんから、どさりとなにかが落ちてきた。不安定になって倒れてしまったのだろう。これもまた一冊の本で、拾い上げてひっくり返し、先程の『新妻たちのために――生活の知恵と実践――』の下巻であることを確認した。上巻に比べて小さい上に薄い。まるで、持ち運びを考慮したような小ささだ。表紙には絵がない。
なにげなくぺらりと頁をめくって、私は硬直した。
クリーム色の外壁の家を目の前にして、ハイリーが感心したのか呆れたのかわからない口調でそう言い、肩をすくめた。
「中は手入れしてもらっているから、この前のところより住みやすいんだよ。さあ、荷物を運ぼう。貸して」
私は、彼女の金属の手から大きなかばんを受け取って、薄い玄関のドアに手をかけた。
「ありがとう。早く片付けて昼食にしよう」
玄関の蝶番が耳障りな音をたてる。ハイリーが通れるようにドアを押さえた。そして彼女の反応を楽しみに、室内を今一度見回す。
淡い黄色の壁に、赤みのある木材の腰壁。家具は古い上に安物だが、白く塗装し直されて、見た目は悪くない、……と、思われる。あくまで私の基準ではだが。
「本当だ! きれいだね、壁の色も素敵だ」
玄関に踏み込むなり、ハイリーがくるりと振り返る。満面の笑み。日が高く登った昼時、玄関の扉の上の採光窓から差し込む光は、彼女の髪を金色に輝かせている。彼女は小振りの荷物を手に、ざくざくと奥に進み、中を確認し始めた。その様子を、私は楽しく見守る。
あの崖の横の小屋を引き払い、この家に先んじて私が住みはじめてから約二週間。今日から二人暮らしになるのだ。
研究材料があるあの洞窟には、ウマがいれば簡単に行ける。そして街は半日で往復できる。ここはそんな海の近くの丘の中腹にあたる。見える範囲に他に民家はない、波音だけがかすかに聞こえる静かな場所である。
そこに建つ築十数年の、狭苦しいこの家がふたりの新居なのだ。美しいとはお世辞にも言えない物件だが、それでも、これまで私がひとりで暮らしてきたどの小屋より上等だ。なんと、雨漏りしないのだ。
家の敷地にある、貸主の妻が建てたという小さな温室は、研究にも生計をたてるのにも役立つ。嬉しいおまけである。
本当は、私の先に賃借契約を申し入れた人がいたらしいのだが、ご破算になったとのことで、内装の手入れの行き届いた状態ですぐに借り受けることができた。我々にとっては立地もいいし、幸運だと飛びついたのだった。
もちろん、ハイリーさえいてくれたら、私は別に、野宿だろうがあばら家だろうがかまわない。だが、彼女にそういう不便を味わわせたくはない。できる限り、住みやすいところを選んだのだ。
私は、日当たりだけは良い――良すぎるかもしれない――台形の部屋にハイリーを案内した。
「こっちがあなたの部屋。好きに使って。狭くて申し訳ないけど」
「基地の個室もこのくらいだったよ。広すぎるより、使い勝手がいい」
彼女は青いカーテンをめくったり、備え付けの小さなタンスの引き出しを開けてみたりして、目を輝かせている。箪笥の引き出しの取っ手は、陶器に金で絵付けがしてある、可愛らしい意匠である。
「ふふふ、なんだかわくわくするね。新生活のはじまりだ」
「そう言ってもらえて嬉しいよ。こんなあばら家嫌だって、落胆するんじゃないかと思っていた」
「なにを言ってるの。君との新生活だ、そんな些細なことどうでもいいよ」
にっこりされて、衝動的にハイリーを抱きしめようと一歩近づいた。
だが、ハイリーは、さっとなにかを私の前に突き出した。私は彼女ではなく、そのなにかを胸に抱え込むことになった。
一冊の本。エプロンをつけたメイドの装画で、厚みはあまりないが、大きい。学舎の初等部の教本くらいの大きさだ。
『新妻たちのために――生活の知恵と実践――』……?
しかも、上巻である。下巻もあるのか。中巻もあるという可能性も捨てきれない。
「知人からもらったんだ。今、巷で人気の本らしいよ。なかなかおもしろい内容だったから、実践してみたかったんだ。
ほら、この国に来てから私は、定宿でなんでもやってもらえる、家事とは無縁な生活をしていたでしょう?
そもそも家事なんてほとんどしたことなかったわけだ。
それを知っていたかのように、その人が結婚祝いに一緒に入れてくれたんだ。すごいんだよ、この本。鍋の焦げをどうやったら落とせるか、君、知ってる?」
「玉ねぎの皮を炒る?」
開いたページがちょうどその内容だった。
平易な文章ときれいな挿絵でその方法が説明されている。
この本は、風邪を引いたときに飲ませる症状別の滋養のあるスープだとか、絡んでしまったネックレスの鎖の解き方だとか、家庭でちょっと役立つような豆知識が列記されているのだ。
「のどが渇いたから、水をもらうね。そしたらすぐに片付けを終わらせるから、君はゆっくり休んでいて」
私の返答など待たずに、ハイリーはぱたぱたと部屋を出ていってしまった。彼女が浮かれているように感じるのは、私の願望が見せる都合のいい幻覚だろうか。そうではないといいな、と期待してしまう。
「わっ」
棚の上に置かれていたハイリーのかばんから、どさりとなにかが落ちてきた。不安定になって倒れてしまったのだろう。これもまた一冊の本で、拾い上げてひっくり返し、先程の『新妻たちのために――生活の知恵と実践――』の下巻であることを確認した。上巻に比べて小さい上に薄い。まるで、持ち運びを考慮したような小ささだ。表紙には絵がない。
なにげなくぺらりと頁をめくって、私は硬直した。
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