阿部師成

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鵜 4

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 赤レンガの見えるスペイン料理の店〈casa de campo〉で男は青い顔して待ちわびていた。唇に血の気はなく、昨夜は眠れなかったのか目の下の隈が一段とヤツれた印象を与えていた。ランチタイムが落ち着いたカフェレストランの店内はスィーツをコーヒーで楽しむカップルで溢れていた。会話の弾む店内で悲壮感漂う男に視線をやるものはいない。仕事から抜け出せる店にここを選んだのは男の意向だった。ちょうど大桟橋が正面に見える観光めいた場所だが数分も歩くと石油プラントの日揮の本社を始め首が痛くなるほど見上げるような大企業の本社がツラを並べている。
 男の会社も近くにあるのだろうが舞寺ワタルはあえて訊ねることはせずに約束を取り付けた。
 調べれば職場など直ぐにでも解るが、男にとって自分の職場が知れるのがよほど恐ろしいのだろう。こちらがあえて遠ざけているにも関わらず本人はうまく逸らしていると思い込んでいるようだった。活かさず殺さずのほうが効率よく物事が進むし、逆に追い込んで窮鼠《きゅうそ》猫を噛む事態になって面倒を起こされては困る。
「ではこちらで振り込みをして頂きます。今日はクレジットカードをお持ちですよね?」
 目の前のアイスコーヒーに一切手をつけずに男は眉を八の字に垂らして頷いた。数週間前のさらけ出すような自信はなく、右腕に煌々としていたフランクミュラーは非運な男から飛び去っていた。代わりに彼の手首には量販の安物が巻かれている。
「この額でお話しがついていると思いますが、ご確認頂けたら暗証番号を打ち込んでください」
 ワタルはiPadを男の方に向け画面を確認させた。目で追うように数字の桁を数えると充血している瞳が一層潤んだ。
「……はい。間違いありません」
 力なく俯いた男はインターネットバンキングの暗証番号を打ち込見出した。四桁の最後の数字で指を止めた。
「あの……」
「何でしょう?」
「今日は彼女は来られないんですか?」
 必死の抵抗だったのだろう。泳いだ目の奥に戸惑いを感じられた。
「エリさんはあれ以来体調が優れないみたいですよ」
「そ……そうですか」
「そりゃそうですよ。彼女の身にもなってください。アナタはお金で済みますがエリさんは体を傷つけるわけです。妊娠っていうのは女性にとって大変な出来事なんですよね。しかも望まない子であれば、なおさらでしょう」
 男はすがるようにワタルの言葉を聞き入った。一度納得したはずなのに振り込む額を目にしたら急に現実味を帯びたのだろう。
「それに……」
 含みを持たせるようにいうと案の上、男は心配そうな顔をした。
「……それに?」
「もしかしたら彼女はもう二度と子供を産めないかもしれません」
 男の顔からいっきに血の気がなくなった。唇がアワアワと震えだすと目尻に雫が伝った。
 ポン引き稼業で引っ掛けたこの男は数週間前にエリというキャバ嬢と一夜を共にした。二人組のエリート会社員は女とシケこみたくてウズウズとしていた。鴨ネギとはこのことだった。ワタルとイタオはキャバ嬢との一夜を過ごせるように手はずを整えてやったのだ。さぞ男は自己陶酔した事だろう。だが全てにカラクリがある。
 引き合わせた女はキャバ嬢はなく、普段はヘルス嬢だった。三人の子を持つシングルママで必死に生活費を稼ぐために加担した。今回の詐欺行為はすでに三回目になる。つまり妊娠したというのは全くの嘘で龍誠会が仲介に入ることにより男は脅迫まがいの示談に泣き寝入りする罠にまんまと掛かったわけだ。男は一晩に六百万を支払う羽目になった。エリという名のキャバ嬢も龍誠会も瑛士とイタオのコンビも全てが繋がっている。何も知らないのは架空の妊娠に狼狽してフランクミュラーを質に出したこの男一人だけだった。
 男は振り込みの確認ボタンを押すと目をつむった。何か聞き取りづらい小言を呟いた。自分に言い聞かせるように「これでいいんだ」と数回いったのだとワタルは気づいた。臆した姿は情けなさを通り越して狙われた小動物のようだった。
 六百万の送金完了を知らせる画面を現れた。コピーして龍誠会のムトウにメールを送った。
「これで良かったんでしょうか?」
 iPadで作業している横で男が申し訳なさそうに訊ねた。ワタルは画面から目を離さずに聞いた。
「どういう意味です?」
「僕はただキャバクラの女とヤりたくて仕方なかったんです。いつも高い酒ばかり入れさせて、やらしてくれるような顔するでしょ。蛇の生殺しだとずっとそう思ってた。だから仕返しやりたかった」
「そう考える方もいるでしょうね」
 煙草に火をつけてワタルは軽く返した。往生際の悪い奴だと思いながら。
「本当はバカだと思ってるんでしょ?」
 顔を紅潮させた男の目がワタルを捉えていた。動揺から疑い深い視線に変わりつつあった。面倒な予兆を感じさせる顔だった。勘付きはじめたのかもしれない。前回の男は駄々をこねるガキのように店の中で取り乱した。
「男は皆、馬鹿ですよ」
 ワタルの言葉に男は以外な顔をした。
「考えようによっては羨ましい話ですよ。貴方には彼女に謝罪できるほどの資産があるわけですから」
「そう言って頂けると心が楽になります」
 納得した様子だった。潔く帰ってくれるならいくらでも太鼓を打ってやるつもりだった。
 作業が終わったので帰って問題ない、と告げると男は肩を落としながら立ち上がった。背を向けてトボトボと歩き出すと突然に歩を止めて振り向いた。
「すいません……」
「まだ何か?」
「その……もう僕は責任を果たしたわけで……」
 周りくどい言い方だった。
「つまりもう無関係だと? そういうことですよね」
「はい……もう貯金もつきました。妻には内緒ですがそのうちバレるでしょう。それはそれで仕方ない。だけどまた金を請求されたら僕は……どうしたらいいのか」
 肩を震わせる男をワタルはなだめた。店員が訝しくこちらの様子を伺っていた。早めに男を帰らしたほうが良さそうだった。
「ご安心ください。これは当事者同士の示談なんです。一応領収書を作りましょうか?」
「そうして頂けるとありがたいです」
 意味のない領収書を切ってやると男は嬉しそうに涙ぐんだ。大切そうに鞄に仕舞い仕事場へと戻っていった。
 一服をしながら男の背中が見えなくなるのを確認するとワタルは一旦家に戻ることにした。
 京浜東北線の陸橋を渡ろうとした時、親子が走り去る車両に手を振っていた。父親の腕に抱えられた坊やの健気に手を振る姿。 
 心温まる光景に幼い頃の記憶が脳裏を掠めた。写真好きのオヤジに連れられて休みの度に列車の跡を追った記憶。子供ながらに大人になれば鉄道運転士になるものだと確信に近いものを抱いていた。 
 今はどうだろう。小便ホストと罵られ、犯罪の片棒を担いでいる。時間さえ奪われた奴隷のような生活。子供の頃の夢が微塵もなく風化していることさえ気づかなかった。
 陸橋の上の親子に目をやる。幼い目は希望に満ちていた。それは純度の違いはあれ、イタオや達郎の目の輝きと同類であった。
 ひどく彼らの背中が遠く感じた。埋まったドロ沼から彼らを眺めている。そんな感覚だった。
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