極楽往生

岡智 みみか

文字の大きさ
2 / 9

第2話

しおりを挟む
 奥さまと八代の逢い引きを、又吉と二人で見てしまったその日から、どうにも離れられなくなった。

情を交わす二人の様子を、月明かりの下で盗み見た。

早く逃げ出してしまいたかったのに、手を掴んで離さない又吉のせいで動けなかった。

そういえばあの日の晩も、こんな大きすぎる満月の夜だったっけ。

「こんな奴らのことなど、何とも思ってはおりませぬ」

 声に出して言ってみて、益々馬鹿らしくなった。

「……こんな奴らって、どいつのことだよ」

 いいことなんて、何にもなかった。

貧しい水呑百姓の生まれだ。

気がつけば泥にまみれて暮らしていた。

土を掘り、草を抜き、日に焼かれるだけの日々が過ぎてゆく。

そうしなければ生きてゆけぬから、ただ目の前の、やれと言われたことだけをやってきた。

その理由なんて考えたこともない。

それでも町の枝豆売りや茶屋娘などより、よっぽど良い身分だと信じて疑わなかった。

馬鹿だった。

 田畑の間を走り回っていた。

幼い時分には、石を見つけて投げ捨てるだけでほめてもらえた。

百姓として生きることに、なんの疑問を抱いたこともない。

若旦那や八代に顔を覚えられていたのをいいことに、両親が村名主である旦那さまに奉公の話しを持ちかけた。

なかなかに渋られていたのが、一昨年にようやく雇ってもらえた。

 うれしかった。

地を這うような野良仕事から解放された。

毎日まともな着物を着て掃除や洗濯に明け暮れた。

これでお給金までもらえるだなんて。

そんな人生を想像したこともなかった。

一生懸命に働いた。

食うにも困らなくなった。

次の年季も勤めないかと言われ、天にも昇るような気分だった。

 この前の秋の出替りで、お富が入ってきた。

ずっと働いていたお松さんの代わりだ。

四十を超え、お役御免を申し出たお松さんと違って、十を過ぎたばかりのお富には手を焼いた。

知恵も回らず力もないお富に、あれこれと仕事の要領を教えるのには骨が折れた。

まだ遊びたい盛りだ。

殴りつけたこともある。

怒鳴り散らしたこともある。

投げつけた薪で怪我もさせた。

だけどそれで、こんな恨みを買うこともないじゃないか。

野良仕事で泥の中に埋められるより、よっぽどマシだ。

お富と又吉が恋仲だろうがなんだろうが、あたしは知らない。どうだっていい。

だけど、少しでも世話を受けた相手に向かって、どうしてこんな仕打ちが出来るのだろう。

 又吉のことは何とも思っていないと、何度説明しても誰も耳を貸さなかった。

調子にのるあの男の顔を見るたびに、吐き気がした。

便利に思っていたことは間違いない。

又吉に頼めば大概のことはやってもらえた。

 誰の邪魔にもならないように、誰の迷惑にもならないようにと、そうやって生きてきた。

自分は不幸なのだと、誰からも認められるような困難もなく、かといって幸せかといわれれば、そうでもない。

どうすれば幸せになれるかだなんて、そんなことを考えたこともなかった。

 今ではもう、遠い昔の話しだ。

あぜ道を裸足で走り回っていたら、屋敷へ招かれた。

何事かと思い誘いに乗ってみれば、ほぐした鯛を混ぜた握り飯が差し出された。

「昨晩、若旦那の祝言があってね。その祝い膳の残りだよ」

 まだ若かりし頃の奥さまが自ら差し出したそれは、塩のよく効いた握り飯だった。

その座敷の奥に干されていた真っ白な打掛の艶やかさが、今も目に焼き付いている。

染み一つ無い純白の、その汚れ無き白に憧れた。

 眼前の月が眩しく輝く。

目の前を大きな蛇が横切った。

冷たい鱗がぬめりと光る。

遠くでカサカサと物音が聞こえた。

「誰か! 誰かお助けを!」

 無言のまま足早に駆け出す足音は、イノシシだったか? 

ここでこうして縛り付けられたまま一夜を明かしたその後に、何が待っているのだろう。

傷の手当てくらいはしてもらえるかもしれない。

それはお富か又吉なのか。

お富ならイヤミばかりを言いながら、いい加減な仕方で終わるのだろうな。

又吉なら着物を全部脱げとか言ってくるかもしれない。

 喉の渇きにゴクリと唾を飲み込む。

動かした口の端から、また血が流れ始めた。

これで本当に変われるのなら、安いもんだ。

 若旦那の手が伸びて、あたしの頬に触れた。

そのまま顔は近づいて、唇を重ねる。

灯明皿の火が消え、初めて男の腕に身を預けた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

無用庵隠居清左衛門

蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。 第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。 松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。 幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。 この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。 そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。 清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。 俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。 清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。 ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。 清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、 無視したのであった。 そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。 「おぬし、本当にそれで良いのだな」 「拙者、一向に構いません」 「分かった。好きにするがよい」 こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

処理中です...