DR.清白の診察室 Ⅳ~ストーカー

翡翠

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 休暇を取った清方が雫に連れて来られたのは、別荘というよりも別邸という風体の建物だった。 

「ここは……?」 

「一応、俺の所有物だ」 

「あなたの?」 

「20年程前に祖父から相続した。実家に関わるものは見たくもなかったんでな、管理費だけ払って放置してたんだ」 

 本当は清方をここへ連れて来たくはなかった。だがこの別荘から少し入った山の中に天然の露天風呂がある。昔から気病みに効用があると伝えられていた。 

 気病みとは今で言う神経症をさす。言い伝えは嘘ではなく本当に効くと言われているのだ。露天風呂のある場所も現在は雫が所有している。山を荒らされるのが嫌でマスコミなどの取材も一切拒否していた。 

「お待ち申し上げておりました、若さま」 

 管理を任されている一族は、代々成瀬家に仕えている麓の盆地の村一番の旧家だ。成瀬家は本来、この辺り一帯が所領地だった。戦後処理の中でそのほとんどを失ってしまった。この別荘のある場所は避暑や湯治の為に建てられたが古くは成瀬家の館があった。 

柳井やない、若さまはないだろ?俺が幾つになったと思ってるんだ」 

 苦い顔をした雫を見て清方が肩を震わせた。 

「清方、笑うな」 

 不満げに言った瞬間、耐えられなくなったのか声を立てて笑った。 

「笑うなと言ってるだろうが、覚えておけよ」 

 こんな可愛い雫には初めてお目にかかる。柳井は髪は白くそれなりに年齢を重ねていると見えた。それはつまり雫の幼い頃を知っているという事だ。 

「柳井、紹介する。 護院 清方、俺の大事な人だ。 

 清方、彼は{柳井 武次《やないたけじ》と言って下の村の旧家の主だ。昔から成瀬に仕えてくれている」 

「護院 清方です、お世話になります」 

「ああどうぞ、おつむりをお上げくださいませ。お話は伺っております」 

「え…?」 

御中連ごちゅうれんさまからお伺い申し上げております」 

 御中連さまというのは摂関貴族や精華貴族の夫人の事だ。当主や当主夫人の呼び方も、本来はその身分で分けられていた。 

「おたあさんが何故?」 

「昨日、お電話をちょうだいいたしました」 

 だから嫌だったのだと雫は心の中で呟いた。皇家から成瀬に嫁いだ彼女は恐ろしく気位が高い。 

「雫さまが大切な方をお連れになられて湯治に参られるからと」 

「一体、どこから聞いたんだ?」 

 雫は来る事を管理をしている柳井に10日程前に連絡しただけだ。成瀬家に連絡はしていない。 

「雫…多分、おたあさんだと思います」 

「高子さんが連絡した?」 

「はい、多分。その、おたあさんと史子ふみこさまは私が護院に戻った頃から、連絡を取り合っているようなのです」 

「はあ?初耳だぞ?」 

「私も最近知りました」 

「そう言えばうちのおたあさんと高子さんは、面識があるような話だったな?」 

「琴と茶道と華道の師匠が同じ方らしいです」 

「ああなる程…って、それでは筒抜けか?」 

「恐らくは」 

 雫は思わず天を仰いだ。母史子の説得を高子がしてくれているのだろうが、それはそれで面倒な気がした。 

「今回の件も筒抜けか?」 

「そう思った方が良いでしょうね」 

 目を伏せて答えた姿が痛々しい。あの事件から清方は体重がかなり落ちてしまっていた。元々細身だった身体が折れそうなくらいに痩せてしまった。

 雫は今、ロサンゼルスの頃の夕麿の心配を、追体験させられている気分だった。病みやつれて痩せて行く武に、夕麿がどれほど心を痛めたのかがわかってしまう。今も発作の都度、武は体重を落とす。夕麿が悩むのは当然だと思った。

「冷蔵庫に食料はお入れしてございます。本日の御夕食は鍋に」

「ありがとう」

「では明日は午前10時に参ります」

 柳井はそう言って帰って行った。

「さて、夕食まで少し休め、案内する」

 持って来た荷物を持って、清方の手を引いて奥の階段を上がった。幾つかのドアの前を通り過ぎて、雫は観音開きになったドアを開いた。古いインテリアを設えた部屋だった。

「高度成長期の始めに建てられたんで、内装が古臭いが我慢してくれ」 

 雫はそう言うがこの部屋の物は皆、アンティークだとわかる。 

「私は好きですが?」 

「好きな物があったら、持って帰れば良い」 

 雫はそういった物にはまるで興味がなかった。 

「ああ、日が沈むな。 こっちへ来てみろ」 

 大きく開いた窓を開けて、雫は清方をバルコニーへと誘った。 目の前に麓の村の家々が広がり、向こう側の山間に夕陽が赤く沈もうとしていた。 

「綺麗ですね……」 

「これだけは子供の頃から好きだったんだ」 

 夕陽に空がオレンジに染まり山々も染まっていた。美しい光景を見て、清方はそっと涙を拭った。紫霄の高等部で独り見つめた夕陽を思い出したのだ。死ぬまでずっと夕陽を独りで見続けるのだと孤独感でいっぱいだった頃を。

「雫、ありがとう。あなたとこんな美しい夕陽が見れて、私は幸せです」

「これからでも幾らでも一緒に見られるさ」

 抱き締めて囁かれると余計に涙が溢れた。精神的に不安定で些細な事で涙が溢れる。誰かが側にいないと微かな物音にすら恐怖する。

 これはPTSDだ。清方にはわかっている。わかっているが心は納得しない。恐怖が募って限界を超えれば激しい過呼吸となって苦しむ。夕麿がかつて雨や他人に触れられて、激しい拒否反応として過呼吸を繰り返したように。

 注射器への拒否反応はもっと凄まじい。視界に入っただけで泣き叫んでしまいたくなる。全身が激しく震え、時には全身に痛みを感じる。解毒剤の投与が正しく行われた為、副作用もなく後遺症もない。ただ心が与えられた恐怖に磨耗してしまっただけ。

 PTSDによるパニック発作には、症状を緩和する薬が存在する。清方も当然服用してはいる。だが心の問題は薬だけでは治癒しないのだ。 

 雫は夕麿が回復する過程をある程度見て来た。彼の回復には武の愛情が不可欠だった。見返りを求めない無償の強く深い愛情が。 

 清方への愛情ならば雫も負けない自信はある。だから絶対に医師として伸び伸びとしていた時の彼に戻すと決心していた。 

 犯罪心理学を学んだ雫にも通常の心理はわかる。基本は同じなのだ。 

「そろそろ入ろう。ここは陽が落ちると冷えて来る」 

 雫は清方の腰を抱いて寝室に戻った。ソファに座って改めて抱き締めた。 

「我慢するな。泣きたい時は遠慮なく泣け。ここには俺とお前しかいない。泣くのも叫ぶのも、誰かに見られたりきかれたりしないから」 

「雫…雫…」 

 涙が止まらない。何故流れるのかも、胸を満たす切なさもわからない。ただ抱き締めてくれる腕の力強さと、頬を寄せた胸の温かさが愛しかった。顔を上げて両手を差し出して愛する人の首に絡めた。顔を近付けて唇を重ねて、濃厚な口付けを強請った。 

「ンふ…ン…」 

 口腔内を余す所なく舌先で探られ愛撫される。それだけで頭が霞み、背中が快楽に戦慄く。 

「雫…欲しい…」 

 潤んだ瞳で見つめて囁くと、愛しい人の喉が欲望に鳴る。抱き上げられてベッドに横たえられた。唇を再び重ねながら互いのシャツのボタンを外していく。口付けの合間にどちらともなく熱い吐息が漏れた。 

 衣擦れの音……衣類が床の上に落ちた音さえも官能を揺さぶる。 

「あッ!」 

 唇がそらされた次の瞬間、耳朶を甘噛みされて声を上げた。そのまま舌先が中へ侵入する。 

「ひゃ…ああン…」 

 腰が揺れてしまう。指先が頬を撫で首筋を伝う。それに合わせるように唇もゆっくりと移動する。 

「ンあッ!ダメぇ!」 

 首筋に歯を立てられてやや強く噛まれた。首筋には太い血管が走る。これを刺激すると脳に直結する。すると脈拍が上昇し軽い崔淫効果をもたらす。 

 指先が乳首を抓み指の腹でこね回す。 

「ンッ…雫…あッンン…」 

 降りて来た唇が乳首を捉え、舌先がつつくように舐めた。 

「ああ…ふン…ぁあ…」 

 泣きどころを知り尽くした男の愛撫に底無しに溺れていく。唇はまだ乳首を愛撫しているが、指先は脇腹を撫で回していた。くすぐったいような、それでいて痺れるような甘い感覚に、清方は爪先をシーツに擦り付けた。乳首を離れた唇が、その脇腹に押し当てられた。 

「あッ…あ、ああ…そこ…ダメ…」 

 中心に集まった熱が限界を訴えていた。片足を雫の背に絡めて、ちょうど彼の胸の辺りへと、欲望に熱くなったモノを擦り付けた。 

「ふ、いやらしいな、清方。もうこんなにして……イきたいのか?」 

 指が絡められて焦らすように動かされる。溢れた蜜液に濡れたモノがいやらしく音をたてた。羞恥心よりも欲望が増す。清方は首を振って懇願した。 

「イかせてください…お願い…」 

 その言葉を待っていたかのように、両脚を大きく開かれた。舌先が根元からゆっくりと舐めあげて来る。愛しむように……優しく。 

「ああッ…ン…」 

 触れられた場所から溶け出してしまいそうだった。口腔の熱に包まれ、温かく柔らかな舌が絡み付く。次いで指先が蕾にローションを塗り始めた。与えられる快感を知っている蕾は、更なる刺激を求めるようにすぐに綻んだ。 

「はぅッ…あッあッ…」 

 体内に侵入した指はすぐに、清方の感じる部分を探り当て刺激する。口淫されながら体内を刺激される。 

「やァ…あッあッ…ひン…ダメ…雫…イく…イく…ああッあああああッ!」 

 頭が真っ白になって快感に悲鳴のような嬌声をあげて達した。残滓を舐め啜られあられもなく身を震わせてしまう。体内の指はいつの間にか増えていた。 

 指が抜かれ絶頂に震える蕾に、雫の灼熱のモノがあてがわれた。清方は目を閉じてゆっくりと息を吐き出し、雫を受け入れる為に出来るだけ身体の力が抜けるように努力する。

「あ…ああッ…ひ…」

 慣れたとはいってもそこは、やはり受け入れるのに多少の苦しさは残る。それでも自分の中を圧し開くのは、愛しい男のモノだからこそ欲しいと望むのだ。雫は全てを収めると清方を抱き締めた。

「辛くないか?」

 自然と溢れ出た涙を舐めとりながら囁く。

「大丈夫…」

 愛しい男の鼓動を体内で感じるが嬉しい。

「雫、動いて」

 広い背中に手を回して懇願した。もっとこの熱が欲しい。膝が胸に付くように脚を曲げられ、叩き付けられるように抽挿が開始された。

「あ…うン…ああッ…ひ…ヤア…あン…」

 嬌声が止まらない。肉壁が体内のモノに熱く絡み付き、更なる刺激を貪ろうとする。

「く…清方…今日は凄いな…」

 持って行かれそうになって、雫が呻きながら歯を食いしばった。

「ああ…もっと…もっと…」

 言葉と共に自らの腰を揺らして、蜜液に濡れたモノをなすりつける。すると中のモノが更に大きさを増したのがわかった。

「あン…大きい…」

 うわごとのように言った濡れて開いた唇から、誘惑するように淫らに舌先が覗いた。

「清方ッ!」

 噛み付くような口付けに更に腰が揺れる。何もかもが快楽の蜜の中へ溶け出してしまったようだった。ただ雫を受け入れた部分だけが|《うごめ》蠢いていた。

 熱い…… 中も外も熱い。吐き出す息さえ燃え上がりそうだ。

「雫…雫…も、もう…イく…」

「ああ、イけ、清方」

「雫…イく…あッ…イくぅッ…」

 快感が電流のように全身を震わせ、清方は雫の背に手を回したままで仰け反った。噴き出すように吐精が、互いの胸元を散り濡らした。

「くッ…」

 雫も清方の絶頂の収縮に引きずり込まれて、その体内に激しく吐精した。その感覚に眩暈すら覚えた。清方の脚を離して倒れ込むように覆い被さる。余韻に半ば放心した顔が綺麗で愛しくて、貪るように口付けをした。

「ン…あふ…ンン…」

 敏感になっている身体が悦楽の痙攣をする。雫は唇を放して囁いた。

「愛している」 と。

 清方は幸せそうに微笑むとゆっくりと目蓋を閉じた。


 目を覚ますと見知らぬ部屋だった。広いキングサイズのベッドに、たった一人で寝ている。少し光度を落とした部屋には自分以外誰もいない。

 清方はゆっくりと身を起こした。

 誰もいない……誰もいない……知らない場所に一人……恐怖が押し寄せて来た。

 誰かが絶叫していた。それが自分の声だと気付くのに時間がかかった。頭を掻きむしり叫び続ける。

「清方!」

 雫が飛び込んで来た。

「清方、落ち着け」

 雫の腕がしっかりと抱き締めた。だが清方はもがいて悲鳴を上げ続けた。

「清方、俺がわからないのか!?」

 パニック状態の清方の瞳には、一体何が映っているのだろう?泣き叫ぶ彼の背中を雫は優しく撫でた、その耳に繰り返し囁く。

「清方、怖かったな。慣れない場所で一人きりにして悪かった」

 自宅マンションでは清方の両親、護院夫妻も懸命に息子を癒やそうとした。それでも彼は些細な、それこそ彼以外の者には気付かなかったり、理解出来ないものにパニックを起こした。

 雫はこの休暇の為に特務室の役割、全ての指揮権を貴之に委ねる必要があった。如何に彼が実質的に副室長として動いていても、未だに警視の身分である。事情を理解していないキャリアや所轄が、つまらない横槍を入れて本来の任務を阻害されては困る。その為の手配をしたのだ。留守中の判断は貴之に一任する。貴之の後ろには彼の父、良岑 芳之刑事局長がいる。来年の人事で公安委員長に就任する事が内定されている。だからいざという時にのバックアップは心配ない状態ではあった。

 発作を繰り返す武には義勝も周もいる。それでも清方との意見交換は、ネットを介して出来るようにしてある。わざわざこの別荘に光通信の回線を実費を投じて引き込んだ。

 万全の準備をする……期間の昼間はどうしても、清方を護院夫妻に委ねるしかなかった。

 高子は強かった。30年以上母として息子を抱き締められなかった強い想いが、彼女を強く深い母性愛へと導いていた。義勝や雫から学び、懸命に息子の状態を受け入れ理解した。彼女も夫の久方も怯みも退きもしなかった。だから雫は安心してここへ来る為の準備に、全力で集中する事が出来たのである。症状を緩和する薬を取り出し、口移しに水と一緒に呑ませた。

 ゆっくりと清方は落ち着いていく。

「……雫?」

 弱々しい声が問い掛ける。

「ああ、そうだ。一人きりにして悪かった。怖い想いをさせたな?」

「ここは…どこ?」

「俺の別荘だ。夕方に到着して、夕陽が沈むのを見ただろう?」

「夕陽…?空がオレンジ色だった?」

「そうだ。一緒に見ただろう?」

「ああ…雫…夕陽…その後…私を抱いてくれた?」

 こうして確認しないと今の彼は全てを納得出来ない。

「たっぷりとな」

「その後は?」

「お前は眠ったんだ。疲れたんだろう、ずっと車で走って来たからな。俺は下で夕餉の準備をしてたんだ」

 思った以上に手間取って清方が目を覚ましてしまった。

「一人きりにするつもりはなかったんだ」

 すると清方は首を振った。

「自分を責めるな。お前は今、病気なんだ」

 濡れた瞳が怯えたように雫を見つめた。

 自分さえあの時、忘れ物をしなかったら……

 清方を連れて戻っていたら。……

 多久 佑頼をもっと警戒していたら……

 どれだけ後悔しただろう。愛する人の苦痛を見る度に雫の苦悩は深まる。似たような経験と後悔をした貴之は雫にこう言った。

「俺も夕麿さまや武さまをお守り出来なかった事をずっとずっと後悔しました。でも室長、後悔をいくらしても事実は変わりません。過去に戻ってやり直す事は決して出来はしないんです。

 ならばこれから何をすれば良いのか。

 何をしなければならないのか。

 俺はそれを考えて今は警察官としても、紫霞宮家の警護をする立場としても考えています。

 清方先生は強い方です。あなたの愛情があれば、夕麿さまが回復されたようにきっと、元気になられると俺は信じます。そして患者の痛みを経験したからこそ、今まで以上の良き精神科医になられると思います」

 その言葉の強さに雫は打たれた。と、同時に多少嫉妬した。貴之が清方をこうまで信用する理由を知っているからだ。自分でも大人気ないとは思ったので、敢えて呑み込んでなかった事にした。

「雫、ごめんなさい」

「あやまるな」

「でも食事、きっと冷えてしまいました」

「温めれば良い」

 そう失敗をしたらそこから学べ。もう一度スタートしろ。

 失った訳ではない。心は深く傷付いてはいるが、彼は無事に救出できたのだ。幸いな事に陵辱も外傷も負わされていない。

 前向きに考えて、最善を尽くす。

「起きられそうか?」

「支えていただかないと少し…」

「だったら抱いて降ろしてやるよ。新婚みたいで良いな」

「し…何、馬鹿な事を言ってるんです、あなたは!」

 清方が真っ赤になった。

「可愛いぞ、清方」

 すると彼はますます頬を染めた。

 それなりに年齢は重ねた。だがそれが何だと言うのだろうか。互いを想う愛情は深く強くなっても、色褪せたりはしていない。雫は清方を抱き上げてゆっくりと階下へと降りた。



 レンジで温め直した夕食を摂り、同じように温泉が引き込まれている風呂に入った。

「ここの効用は?」

 笑い声をあげながら清方が尋ねた。

「こっちは疲労回復…だったけな?」

「こっち?」

「山へ10分程入った沢に天然の露天風呂がある。明日昼に連れて行ってやる」

「天然の露天風呂?ふふ、誰かに見られないのですか?」

「一般に解放していない。登山口は一ヶ所しかないし、当分誰も近付かないように下の村には言ってある」

 普段はもったいないので柳井家が管理をして、麓の村人限定で入浴を許可している。

「でそちらの効用は?」

「昔から気病みに良いと言われている」

「気病み…?」

「気休めにしかならんかもしれないが、俺はわらにでも縋りたい」

「雫…」

 夕麿程ではなくても清方も誇り高い。毅然とした姿の彼を美しいと思う。その誇り高さ故に心の傷も深い。

「ごめんなさい…」

 実家に関わるのを嫌うのは、余程の事があったと予想が出来る。雫の今の実家への感情は嫌悪に近いものだ。

 それなのに……… 幾ら自分の持ち物になっているとは言っても、ここの存在を口にした事はない。維持費は払っていたらしいが、使う気持ちはなかったようだ。

 自分の為に…… そう思うと胸が痛い。不様な有り様の自分を申し訳なく思う。焦ってもどうしようもないのはわかってはいる。わかっていても雫には申し訳ないと思ってしまう。大事な仕事を長期間休ませてまで、面倒をかけてしまっているのだから。

 側にいない方が良いのだろうか。だが彼をもう一度失って、生きて行ける気がしない。

 考えれば考える程に涙が溢れて胸が痛くなってしまう。両手で顔を覆って泣き出した清方を、雫はしっかりと抱き締めた。 

「ごめんなさい…ごめんなさい…」 

 清方が陥っているのは犯罪被害者特有の精神状態だった。自分に落ち度があったから犯罪に巻き込まれた。それ故に周囲の大切な人々を苦しめてしまう。そんな風に思って自分を責めてしまうのだ。 

 度重なるPTSDも天罰に感じてしまう者もいる。精神的不安定。無気力。引き籠もりなどの様々な状態になる。見知らぬ場所や人に恐怖を抱き外が怖いのだ。 

 雫は所轄にいた時にそういう被害者を見て来た。加害者を憎める被害者はまだ救いがあるのだ。憎しみに移行出来ない恐怖に、捕らえられてしまった被害者は悲痛だった。ましてやそれが愛しい人の苦しみならば。 

「謝らなくて良い。お前は何も悪くない」 

「雫…雫…」 

「大丈夫だ、必ず良くなる。俺が治してやる」 

 ここに来たからと言って、完治するなどとは思ってはいない。ただ少しでも改善するなら、そういう気持ちで連れて来たのだ。 

「寒くないか?」 

 そう言いながら、手で湯を掬って肩にかけた。 

「いいえ…あなたの腕の中が温かいから…寒くない」 

 雫がいてくれるからこうして抱き締めてくれるから、恐怖を乗り越えたいと切に願う。彼の側にいたいから。 

「雫…愛してます」 

 どんなに他者と肌を重ねても、彼を失った空洞は埋める事が出来なかった。自分自身の事はただ移ろう時に任せて流れて行くだけ。医師としての自分はあっても、一人の人間としては何もない。感覚すら麻痺していた。 

 どうやって10年以上もの時間を過ごして来たのだろう? 

 学生の間はまだ某かの到達点が存在していたのに。 

 記憶が曖昧な程、心が麻痺していたのかもしれない。 

 もうあんな自分には戻れない。 

「何を考えてる?」 

「あなたがいないと私は生きていけない」 

「俺もそうだ。誰と付き合ってもお前を思い出した。誰かと肌を重ねてもお前と比べてしまう。あれは俺には地獄だった。10年前、病院で再会して抱き合ってやっと俺は満たされたんだ。 

 清方、お前しかいない」 

 言葉で少しでも癒やされるなら幾らでも紡ぐ。抱き合って癒せるなら一日中だって抱き合う。どんな代償を払おうとも二度と愛しい相手を放したりしない。子供の短慮で好きな人の手を放してしまった。その事実に気付いたのは大学を卒業する頃だった。

 清方を忘れたいと、忘れなければならないと、自分に言い聞かせて女性と付き合った。大抵は向こうから誘って来た。断る理由もなかったから付き合った。けれども彼女たちの誰にも心は動かなかった。肌を重ねても同じだった。

 違う……

 違和感だけが心を満たした。そうしてやっと気付いたのだ。彼女たちが入る隙間もない程、自分は清方を想い続けているのだと。

 学院に戻る事は出来ない。手許に残っているのは、一枚だけの写真と思い出だけ。事実は雫を絶望へ追い込んだ。結果として雫が見出したのが都市警察の存在だったのだ。

 武の存在が彼へと導いてくれた。

 再び抱き締める事が叶ったあの夜、雫は誓ったのだ。どんな事があってももう、絶対に愛しい人の手を放さないと。深く強く八百万神に誓ったのだ。



 湯から出て寝室へ移動した。月明かりが美しい中で再び互いを求め合う。

 二人っきりの夜。 半径数キロ内に自分たちしかいない環境の中で二人は熱い抱擁を繰り返し求めた。 


「失礼いたします、雫さま」 

 その声で雫は目が覚めた。 

「柳井か…もうそんな時間か?」 

 枕元に置いた腕時計で時間を確認する。10時を20分余り過ぎていた。 

「朝餉の用意が出来ましたので、食堂へいらっしゃってください」 

「わかった、すぐ降りる」 

 ドアを少し開いて声を掛けていた柳井は、雫の返事で再びドアを閉めて立ち去った。清方に覆い被さるようにしてから、すっかり細くなった肩を揺すった。 

「清方、清方」 

 彼が目を開けた時に真っ先に雫を見るように。さもないとまた見知らぬ部屋にいると思って、激しいパニックに襲われる。必要以上に苦しめない為には、その時々の配慮がいる。 

「ん…」 

 清方は吐息を吐いてゆっくりと目を開いた。 

「雫…」 

「おはよう、良く眠っていたな」 

「おはよう、雫。 

 何時ですか?」 

 パニックにならずに普通に目覚めた。その事に雫はホッとする。 

「もうすぐ10時半になる。二人とも見事な朝寝坊だ」 

 雫が低く笑うと清方も微笑んだ。応えるように清方も小さく笑った。笑顔を美しいと思う。 

「朝食が出来ているそうだ、起きて下へ行こう」 

「ええ」 

 身を起こした清方の胸や背中、首筋や腕にも昨夜の抱擁の証がくっきりとあった。互いに着替えるとゆっくりとした足取りで階下へ降りた。 



 露天風呂は山中の岩場にあった。大きな一枚岩がなだらかな坂を作り、中腹に誰かが作ったように岩棚がある。岩棚に恐らくは手を加えたのだろうが、程良いうろがある。温泉は虚の奥に湧き出していた。だがそのままでは入浴出来ない温度らしく、岩場を流れ落ちる川の水を竹を通して引き込んである。山道側には簡単な脱衣場が設けられ虚へ橋が架けられていた。 

 湯はやや熱めだったが、肌触りの良いものだった。温泉は成分が同じでも土地によって効力が異なる。従ってどんなに成分を合成しても、そこへ行かなければ本当の効力は得られないとも言える。何がどう作用するのか。科学はまだその詳細を解明してはいない。 

「熱くはないか?」 

「大丈夫です」 

 山の景色を眺めながら入浴するのは、何と心地良い事だろうか。清方はふと武の顔を思い出した。 

「雫、武さまをここへお連れ出来ないでしょうか」 

 閉じ込められる心配はないけれど、旅行と言えば無理な公務だけの状態である。夕麿も共に静かに過ごさせてやりたいと思う。 

「そうだな。そのうちご招待申し上げよう」 

 清方の優しさを愛しく思う。 

「だが、たとえ武さまと夕麿さまの事でも、二人きりの時に他の男の事を考えるな」 

 清方は雫のその言葉に、思いっ切り吹き出した。 

「嫉妬ですか、雫?ふふ、あなたでも妬くんですね」 

「どういう意味だ?」 

「あなたは周の事も貴之の事も平気でした。紫霄の学祭で再会した者たちにさえ、嫉妬の片鱗さえ見せてくださいませんでした」 

 少し拗ねたように言った清方を雫は笑いながら抱き寄せた。 

「何だ、俺を妬かせたかったのか?我慢して大人の余裕を見せて損をしたな」 

「やせ我慢をお願いしたつもりはないのですが?」 

 いつも涼しい顔をしている雫は清方には寂しく思えた。ないものねだりだとはわかっていても、過去の相手を見ても何も反応されないのは悲しい。抱き締めてくれる熱が熱いからこそ、平然とされてしまう落差が悲しいのだ。 

 嫉妬して責めても、離れ離れだった時間は埋まらないとわかっている。それでも…と、わがままな考えを抱いてしまう。もちろん雫には清方のそんな気持ちはお見通しだった。 

「周に始めて会った時、お前が昔話してた奴だとすぐにわかった。お前の10歳下の乳兄弟、久我 周。そして夕麿さまだ。お前の従弟で周にも従弟。不思議な関係だと思った。夕麿さまを間に従兄弟同士の繋がり。しかも武さまは俺の従兄子になる。いくら貴族同士が血縁関係が強いと言っても、とても不思議なえにしだと思った。 

 だが……紫霄にいる筈のお前がいなかった。まさか周に訊くわけにも行かなくて………清方、外に出られたなら何故、俺を探さなかった」 

「それは………」 

 雫の腕の中で清方は顔を背けた。 

「怖かったのです。誰か良い方を得て良き夫、良き父親になっているあなたを見るのが。いえ、その知らせを受け取る事自体が私には恐怖でした。 

 あなたとの事は既に終わった事。自分にそう言い聞かせて私は蓬莱皇国を離れました」 

 雫以外の誰も愛さない、愛せない。それならば思い出を抱いて生きて行こう。それだけだった。 

「清方……」 

「あなたが幸せならば、それで良かったのです。でも私はその事実を知りたくはなかった。貴之に依頼すればすぐに調べてくれるのをわかっていて、敢えてその気持ちを封印しました」 

 そう、雫は自分の事などもう忘れてしまっているだろう。紫霄に閉じ込められる事は、全てを諦めて生きる事。 

 何か希望を持てば必ず失望して絶望する。何も望まない事が紫霄での生活を続けるには必要だった。さもないと生きてはいけない。外に出られても、過ぎ去った日々は埋められない。外で生きる者とは別の時間を生きて来たようなものだったから。 

「すまない…辛い想いをさせたな」 

「いいえ、あなたの所為ではありません。あの時の別れがなくても、私たちはいずれは離れ離れになる運命でした。 

 武さまがいらっしゃらなければ死んでも再会は難しい運命だったと思っています」 

 清方は囁くように言って雫の首に腕を絡めた。雫の腕がしっかりと抱き締めてくれる。 

「雫…雫…」 

 愛しい人と一緒に生きる……本来ならば叶う筈のない幻でしかなかった。 

 抱き締めて欲しい。今は彼の腕の中にいたい。 

「清方…俺はもうどこへも行かない。ずっとお前の側にいる」 

 自然の中で二人きり。本当の癒しはこの風景の中で生まれたままの姿になる。飾りも気負いも解き放ち、素のまま、ありのままの一人の人間になる。それが大切なのかもしれない。 

「清方、愛してるよ」 

 囁いて唇を重ねた。 




 二人が別荘に戻ると護院家の車が止められていた。周の休日を利用して護院夫妻が朔耶と彼を連れて来る話が出ていたが、雫と清方は昨日到着したばかりである。いつも二人を気遣ってくれる、護院 高子らしからぬ行動に思えた。 

 携帯の電源を落としてここの電話は前以て変えた。番号は貴之しか知らない。インターネットにPCを繋ぐのは朝食後と夕食後の二回のみ。極力外部との接触を拒絶するつもりの休暇だった。 

 不審に思いながら中へ入ると柳井が耳打ちして来た。 

護院 高子ごいんたかいこさまと御中連さまが参られました」 

 耳元でそっと告げられた言葉に雫は絶句した。 

 出来れば今の清方と史子を会わせたくはない。おそらくは高子も押し切られたのだろう。 

 雫は渋々、清方を連れて居間へ入った。 

「ああ、おかえりなさい、雫」 

 史子とはどれくらい会っていないだろう?一目で老いたと感じた。 

「ごめんなさいね、雫さん。史子さまがどうしても、あなたにお会いになりたいと仰るから…」 

 高子が申し訳なさげに言う。 

「いえ、母の身勝手さは重々承知いたしておりますから」 

 史子は息子の言葉を気にする様子もなく、マイセンのカップからお茶を飲んでいた。清方には視線すら向けない。まるで彼がそこに存在していないかの如く振る舞う。気に入らない相手には、史子はいつもこういう態度をするのだ。 

「すぐに戻ります」 

 そう声をかけて踵を返した。清方の手を取り居間を後にする。 

「雫?」 

「母の事は気にするな。嫌がらせに来たんだ、あれは。ここに滞在してお前を無視して追い出すつもりなんだよ」 

「まさか…」 

「いいや、母はそういう人間だ。武さまがいらしても同じようにするだろう。あの人は自分の価値観の枠から外れたものは絶対的に認めたりしない」

 高子はすぐに帰って行った為、雫と清方の休暇療養に史子が参加する形になった。

 史子は清方を無視し続けている。いや正確には完全に無視してはいない。彼女は離れた場所から、無言で刺すような眼差しを向けて来る。 

 正常な精神状態の清方ならば平然と睨み返すくらいの気概はあった。だが今の彼にはそんな余裕はなかった。まして相手は雫の母なのだ。雫が神経をピリピリさせているのすら今の清方には辛かった。 

 あらゆる事がストレスになり、当然ながら清方がパニック発作を起こす頻度が増した。とうとう5日目には清方は寝室から出ようとしただけで、発作を起こすような状態に陥ってしまった。 

 雫は仕方なく義勝にメールで連絡を取った。電話だと史子が盗み聞きして何を始めるかわからない。清方の状態が悪化しているのは間違いなく史子が原因だとわかっている。 

 義勝が指示した薬をメモして清方自身に処方箋を書かせた。雫は『犯罪心理学』の修士資格は持っていても医師免許は取得していない。従って処方箋は発行出来ない。どの道、薬そのものを見れば何をどう処方されたのかわかってしまう。だから清方本人が処方箋を作成しても結果は同じではあるのだが。 

 清方は自力で眠れないようになっていた。夜間は必ず睡眠導入剤を必要としたし、午後の微睡みにすら誘発剤を欲しがる。回復傾向にあった食欲も低下する一方だった。軽い対人恐怖を訴える。それが薬を使用しての睡眠という逃避へ繋がっているのだ。 

 ここへ来て半月。本来ならばもっと回復していなければならない。雫は処方箋を手に眠った清方を残して出掛けた。 

 誘発剤は3~4時間で切れる。一番近い町へ出て薬局へ行き、薬をもらって戻って来る。時間的余裕はある筈だが、清方に耐性が付き始めているとそれよりも目覚めは早い。ギリギリの時間だと考えて行動するべきだろう。 

 義勝の話によると武がこれまでとは違う形の発作を起こしたと言う。これ以上悪化するようなら、導入剤を服用させた上で帰るしかない。義勝も周も動けない筈だ。 

 断ち切った筈の身内が、家族のしがらみを持って来る。雫の想いも願いもまるで無視して。10代や20代ならいざ知らず、今更と歯軋りする心地だった。



 目を覚ますと部屋に一人だった。ここへ来て半月、さすがに部屋の有り様には慣れた。ゆっくりとベッドから身を起こす。 

「起きたのね」 

 いきなり声を掛けられて、清方は危うくパニックを起こしそうになった。 

 物影から史子が姿を現した。どうやら清方が目覚めるのを待っていたらしい。 

「あなたと話をしようと待っておりましたの。雫もちょうどおりませんし…」 

 その言葉にはえもいわれぬ圧力があった。 

 清方はベッドの上で頷いた。 

「雫があなたの事を最初に口にしたのは、数多の縁談を退けて、紫霞宮さんとのお話があった時でしたわ。それはそれは一家揃って驚きました。でも終わった事だと聞いて安心もいたしました。 

 紫霞宮さんとの事はまあ、あの方の立場では致し方ないかもしれないにしてもと反対いたしました。ねぇ、何故あなたなのでしょう?雫にはたくさんの縁談がありました。お付き合いしていたお嬢さんもたくさんいました」 

「はい」 

 震える声で答えるしか出来ない。清方はシーツを握り締めた。 

「紫霄学院であなたに出逢った事は、それはあそこの環境ならば仕方がなかったのかもしれません。でも一度別れたあなた方が何故もう一度……そう思うとわたくしは腹立たしさでいっぱいになります。 

 何故あなたは、ここにいるのです? 

 何故いつまでも雫を縛り付けるのです? 

 今なら雫はおりません。車なら手配させます。今のうちに出て行きなさい。雫の前から消えて。これはお願いではありません。あなたへの命令です。 

 よろしくて?」 

「はい…申し訳…ありませんでした…」 

 普段ならば史子の言葉に打ちのめされ従ったりはしなかっただろう。だが彼は既に追い詰められるだけ、追い詰められてしまっていた。史子の言葉の是非と雫の気持ちを、冷静に見つめる事が出来なかった。 

 彼女が部屋から出て行った後、清方にはただ泣くしかなかった。一頻ひとしきり泣いた後の清方には、たった一つの選択しか見えなかった。もう雫がいない場所で一人で生きてはいけない。 

 共にいる事を許されないなら……… 

 清方はベッドから降りて、ゆっくりと部屋を見回し、バルコニーへと歩き出した。裸足であるのすら気にはならない。硝子戸を開けて踏み出すとここへ来たあの日と同じように陽が沈もうとしていた。 



 警察官として長年勤めて来たカンだったかもしれない。別荘に踏み入れた瞬間、雫はそこの空気が変化したように感じた 科学的に証明されていなくても、その場所の空気というものが存在するのを、生物は本能的な感覚として持っている。人間の場合それをどれだけキャッチ出来るかは、かなりの個体差が存在している。職業上、雫が敏感なのは当然と言えば当然だろう。 

 その変化を嫌なものとして、階段へと駆け出した雫に、柳井が寄って来て耳打ちした。 

「御中連さまが先程、二階のご寝室より出て参られました。その……大変に上機嫌であらしゃいます」 

 雫の顔から血の気が引いた 階段を駆け上がり寝室のドアを開けた。 

「清方! どこだ!?」 

 清方の姿はバルコニーにあった。 

「清方、そこで何をしている!?」 

 彼はその言葉に応えるようにゆっくりと振り返った。頬をとめどなく涙が零れ落ちていた。清方はそれを拭おうともせずに微笑んだ。優しい悲しげな笑みだった。 

 その視線が伏せられた次の瞬間、清方は手すりに飛び付いた。 

「止めろ!」 

 雫は床を蹴るようにして、清方が身を踊らせる刹那に間に合った。だが辛うじて腕を掴めただけだった。 

「くっ…」 

 如何に鍛えた身体でも成人男性の体重だ。雫でも掴んでいるのが精一杯でバランスを崩せば、二人とも下の斜面へ転落してしまう。左手を懸命に手すりに突っ張り足を踏ん張るが、それ程長く続けられるとは言えない。 

 ダメかもしれない。二人ともここで終わるのか。そう諦めかけた時だった。 

「雫さま!?」 

 異変を感じた柳井が駆け付けて来たのだ。彼が手を貸してくれたお蔭で、清方を引き上げる事がようやく出来た。 

 引き上げた清方には意識がなかった。頬を何度か叩くとゆっくりと目蓋を開いた。 

「清方、俺がわかるか?」 

「雫…私は…」 

「何も言わなくて良い」 

 普段なら清方はどんなに追い詰められても絶対に生命を断とうとはしない。多久 佑頼に拉致された時にも必死に踏みとどまった。 

 これはもう悪化としか考えられない。史子が清方に対する態度が、症状を進ませているとしか思えなかった。雫は清方をベッドに寝かせると携帯を取り出して電源を入れた。 


 清方を急遽きゅうきょ連れ帰り、そのまま御園生系の病院に入院させた。連絡を取った義勝の判断だった。本来ならば誰かが迎えに行くべきだったが、武が発作を起こしている為に義勝も周も動けない。雫も一刻も早く、史子から清方を離したかった。 

 そこで清方に睡眠導入剤を飲ませて眠らせ、後部座席に横たえて運んだのだ。 

 病院に到着したのは正午を少し過ぎた頃、周が準備を整えて待っていた。すぐに特別病棟へ運ばれ、護院夫妻が駆け付けて来た。 

 雫は二人に手をついて謝罪した。悪化の原因は自分の母親なのだ。彼女が清方に何を言ったのか、準備をしている間に聞き出していた。 

 雫は怒りの余り彼女を別荘に置き去りにして来たのだ。別荘を出る時に雫は別荘を、麓の街に山を含めて寄付する旨を口にした。先祖代々の所領地を手放すのは雫にも悲しい事ではある。だが今回のように我が物顔をされて、誰かを傷付ける行為をされてはここを所有する意味がない。柳井は渋ったが、これ以上は我慢がならなかった。 

 家族とは何なのか。 

 雫は自分の親兄弟を想って胃が痛くなる程落ち込んだ。高子と交流があるならば、いつかは理解してもらえるのではないか。そんな淡い望みすら史子は打ち砕いてくれたのだ。自分の家族は清方と護院夫妻たちなのだと思い知った。 

 幸いな事に清方は快方に向かっている。護院夫妻も雫を一切責めなかった。 

 そして話を聞いた周は上には上がいるものだと自分の母親よりも、凄まじい雫の母のやり方に深く溜息を吐いたのだった。
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