蓬莱皇国物語Ⅰ〜学院都市紫霄

翡翠

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 帰校

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 武と夕麿は、学院の玄関口、通称ゲートに立っていた。 

 物資搬入路から大学部附属病院へ入った雅久と義勝が、無事に到着した連絡をたった今、受けたばかりである。 

「ひとまずは安心だね」 

「そうですね。 では私たちも参りましょう、武」 

「あ、うん」 

 差し出された手に手を重ねて二人は、ゲートの中へ入り生徒手帳を差し出す。 

「高等部2年生、御園生 夕麿さまと1年生の御園生 武さまですね。 

 お帰りなさいませ」 

「もう、御園生になってる!?」 

「お義父さんが、手続きを済まして下さったみたいですね」 

 その何気ない言葉に、武は耳まで真っ赤になって立ち止まった。 

「武?どうかしましたか?」 

「それって…全部、連絡が行ってて…今頃は高等部中に知られてる可能性があるって…事だよね?」 

「多分…」 

「うわ~滅茶苦茶恥ずかしいよ~ 俺、どんな顔してりゃ良いんだよ~」 

 更に赤味がさした顔を両手で覆って、その場にしゃがみ込んでしまう。 

「私は鬱陶しい告白から解放されて、気楽になると思ってますが…」 

「はあ!? 告白!? マジ!?で…全部断っていたわけ? 道理で【難攻不落の氷壁】なんて言われるわけだ」 

「何です、それは?私の事ですか?」 

「裏で言われているニックネームらしいよ? 知らなかったの、夕麿?」 

「初耳です。 あなたのなら知ってますが…」 

「俺の? 俺にもあるの?」 

 驚いて見上げる武に婉然と夕麿が答えた。 

「聞きたいですか?」 

「う~ん、微妙~」 

 武が立ち上がったので二人は再び歩き出した。 

 自分にもニックネームが付けられていたと聞いて、仕切りに首を傾げる武の姿を夕麿はクスクス笑いながら見つめている。 

 すると背後から声がした。 

「会長~武君~、新学期早々ラブラブだね~」 

 振り返ると麗が笑顔で立っていた。 再び武が真っ赤になる。 ところが夕麿はにっこりして、武を抱き寄せて答えた。 

「当然です。 新婚なのですから」 

「し、新婚…」 

 確かに事実ではあるが、改めて言われるとやはり恥ずかしいし照れる。 

「会長~あんまりイチャイチャすると、武君が恥ずかしさの余りに目、回すよ~?」 

 平然と甘々な夕麿と恥ずかしがり屋で照れ屋な武。 これはいじり甲斐があると麗は密かにほくそ笑んだ。 

 だが、寮に着くともっと武を驚かす事が待っていた。 部屋の移動だった。同じ特待生寮の最上階で生徒会や白鳳会の会長副会長用の部屋と反対側にある特別室。 数年前に寮が建て直された時から、誰も使っていない部屋へ夕麿と二人で移るように言われたのである。 荷物は既に移動してあるとの事。 

 新しいセキュリティーカードを受け取って、最上階に上がり、重厚なドアの前に立った。戸惑う武に代わって、夕麿が鍵を外してドアを押し開けた。 玄関口の床は大理石が敷き詰められており、立つとうっすらと姿が写る。 玄関ホールのドアの向こうは、広いリビングになっていた。 その奥に螺旋階段があり、上の階に続いている。 

「えっと…寮の部屋なのに、メゾネットなわけ?」 

 あんぐりとする武に夕麿がクスクス笑う。 

「私も初めて入りました…噂には聞いていたのですが…… 建て直される前の古い寮の特別室は別棟だったそうですよ」 

「別棟? 一体何の為に?」 

「私も聞いた話としてですが、随分以前にとある高貴な方の双子の弟君が、この学院都市にいらっしゃったそうです。 

 別棟の特別室はその方のお住まいだったと」 

 その高貴なる人は生涯学院都市を出る事は許されぬ身で、数人の侍従に囲まれて暮らしていたが病気で薨去したという噂があるが、真実は夕麿でさえも知らなかった。 

「ここはあなたの身分が明らかになったので、急遽準備されたのでしょう。 どうしても嫌ならば、学院に申し出ますが…?」 

「……夕麿と一緒にいたいから…いい」 

 新婚カップルの新居のような部屋を用意されて、また恥ずかしくなったが、同時に二人でいられるのは嬉しい。 こんな事の連続に武はこの先、新学期が始まったらどんな顔すれば良いのかと困ってしまう。 

 夕麿は赤くなってもじもじする武が可愛くて、頬が緩みっぱなしになるのを抑えられない。 そろそろ互いの部屋を行き来するのも、人目について鬱陶しいと思っていたので、学院側の配慮は有り難く思っていた。 

「寝室などは上の階のようですね。 中を確かめて荷物を置いたら昼食に行きましょう。 

 その後、私は生徒会室を開けなければなりませんから」 

「うん。 わかった」 

 上の階の部屋は三つ。 真ん中にゆったりとした寝室があり、左右にそれぞれの勉強用の部屋がある。 階段を上がって右側が夕麿、左側が武の部屋になっていた。 

 武が部屋から出ると、夕麿が既に下で待っていた。 

「ごめん、待たせた」 

 声を掛けて螺旋階段を下りると、インターホンが鳴った。 すぐさま夕麿が取る。 

「はい…貴之? わかりました、入って下さい」 

 その言葉の後、夕麿はインターホンに付属しているボタンを押した。 どうやらそこから、玄関のセキュリティーロックが解除出来るらしい。 

「武、座ってください」 

「え…うん」 

 どうやら来客は貴之らしいのに、わざわざ座れと言われる意味がわからない。 それでも、こんな時の夕麿の言葉は某らの理由がある。 そう思っていると、貴之が一人の男を伴って、リビングに姿を現した。 

「帰校早々、お疲れのところを失礼致します、武さま」 

 胸に手を当て頭を下げる貴之に、何か答えようとした武をちょっとした身振りで夕麿が止めた。 

「武さまに何用ですか、貴之」 

「はい、二つお知らせがあって、参上致しました」 

 貴之の言葉を受けて、承諾を求めるように振り返る。 武は黙って頷いた。 

「伺いましょう」 

「ありがとうございます。 

 私、良岑 貴之、本日付けで学院都市警察及び皇宮警察より、武さまの護衛を拝命致しました」 

 もちろん、貴之は一学生である。 だが警察庁高官の子息として現在も武道の訓練は怠らず、大学卒業後は一級公務員試験を経て警察キャリアへと進む事になっている。 

 それでも外の世界では学生がSPまがいの事はしない。 だがここは学院都市。 学院の内部の事は学院内で処理する。 都市警察もまたそのルールに従う。 警察官では学院内で目立つ…というのも、貴之任命の理由だった。 

「以前の階段での事件も、犯人は不明になっております。 御身がつつがなく学院生活を過ごされますよう、学院と学院都市警察は願っております」 

「わかりました。 しかしあくまでも武さまのご身分は内々の事です。 よって極力目立たぬように配慮を望みます」 

「心得ております」 

「結構です。 ではもう一つを伺いましょう」 

「横井、此方へ」 

「はっ」 

 貴之の後ろに控えるように立っていた男が前に進み出た。 40歳前後だろうか。 中肉中背で、感情の読み取れない表情をしていた。 

「この者は、横井 作次郎よこいさくじろうと申します。 本日よりこの部屋の雑務一切を行います」 

「それは助かります。 ただ申し付けておきますが、武さまの身辺の一切は私が行います。 武さまは仰々しい事は好まれません。 その点をよく理解してお仕えしてください。 

 それと、学院の休日はあなたも休んでください」 

「承知致しました」 

 夕麿の言葉に横井は深々と頭を下げた。 

「では、本日は下がって下さい」 

 こういう時の夕麿は尊大で、高校生には感じられない威圧感を発する。 あの文月さえ夕麿にはすっかり心服して、恭しく仕える様子を見せた程だ。武には身分の違い、というのが今一つピンと来ない。 だから何をどうして良いのかわからず、つい夕麿に任せてしまう。 もっと勉強しなければ…と思う。御園生を将来、二人で継ぐのだから。 その時にまだ夕麿に頼りっぱなしでは、負担ばかりかけて迷惑をかけてしまう。 

 複雑な気持ちで夕麿と貴之に誘われて昼食に出た。食堂に入ると、ざわめきがピタリと止まった。 水を打ったような静けさの中、武は身の置き所がなくて夕麿の背中に隠れる。 

 視線と沈黙が怖かった。 

「武?」 

 驚いて振り返った夕麿は、彼がはっきりと怯えているのに気が付いた。 同時に貴之が食堂の一角に歩み寄った。 

 小柄な少年たちが慌てて視線を泳がす。 彼らのその様子に夕麿は深々と溜息吐いた。 彼らの顔に見覚えがあったからだ。 以前、告白して来た者ばかり。 どんなにすがりつかれても泣かれても、当時の夕麿の心は動かされる事はなかった。 時には触れられる事にすら嫌悪した。 むしろそういった感情を、持たれる事自体が気持ち悪かった。 

 それが今、こんな形でやっと巡り会えた愛する人に跳ね返っている。 何の罪もない武に。 

「夕麿…?」 

 武をその場に残して、夕麿は少年たちのテーブルに歩み寄った。 

 夕麿の厳しさを知っている少年たちは、一斉に立ち上がり蒼褪めて震えた。夕麿の視線が少年たちを見回す。 

「夕麿さま!?」 

「六条さま!?」 

 深々と頭を下げた夕麿に、 彼らは悲鳴混じりの声をあげる。

「私は君たちに対して酷い行いをしました。 私を慕ってくれた君たちの気持ちを何一つ理解しようとしていませんでした。 

 本当に申し訳ありませんでした」 

 少年たちだけでなく、食堂中が言葉を失っていた。 夕麿は普段は穏やかで優しく見えるが、なかなか他人を自分の領域に踏み込ませない。 少しでも踏み込もうとすれば、凍てつく氷の壁に阻まれ、それでもなお踏み込もうとすれば凍傷を負わされる。 ましてや学院都市一の高貴なる存在が、遥かに身分が低い一般生徒のグループに、謝罪の言葉を告げて頭を下げたのだ。夕麿自身に自覚がなかった訳ではない。 だがあの一件と義母の事があって、極力他人との関わりを持ちたくなかった。 ただただ自分がこれ以上傷付かない為の保身しか考えられなかった。 

 今ならば如何に自分が弱かったのか手に取るようにわかる。 だがあの頃は 弱さに目を背けて強くあろうとした。 それで強くなれると信じていた。 愚かだったと思う。 自分を慕ってくれた彼らを、傷付けてしまった事を心から悔いていた。 

「許してもらえるとは思ってはいません。 けれど…武に敵意を向けるのは、止めていただけませんか。全ての罪は私にあります」 

 少年たちの目に涙が浮かんだ。 彼らは本当の意味で悟った。 恋い焦がれた夕麿はもう、自分たちの手の届かない場所に行ってしまったのだと。 

「夕麿さま…わかりました。 わかりましたから…どうか、頭をおあげください」 

 少年の一人が絞り出すような声で言った。 夕麿が顔を上げて見回すと、少年たちは皆、同意すると言うように頷いた。 

 悲痛な面持ちだった夕麿に笑顔が浮かんだ。 その鮮やかで典雅な笑みに少年たちは魅了されてしまう。 

「ありがとう」 

 それだけで少年たちは癒された気になった。 

 夕麿はもう一度頭を下げて、立ち竦む武のもとへ戻った。 

 もう元の自分には戻らない。 戻れない。 六条の名を失うと共に、過去の自分とも決別した。 

 全ては愛する者の為に。 共に歩んで行く喜びと、魂の震えを抱き締める事が出来たから。 

 夕麿は呆気にとられる食堂中の生徒たちに、優雅に気品あるお辞儀をした。 その頬に浮かんだ笑みに、食堂中が感嘆の溜息を吐いた。 好奇と嫉妬と、武に対する敵意に満ちていた食堂を、夕麿はすっかり魅了してしまった… 

 その光景を確認してから、夕麿は再び口を開いた。 

「この度私は、六条を出て御園生家の養子となり、ここにいる武を生涯の伴侶として、共に歩んで行く事になりました。 この機会にこれまでを改め、新たな自分になるよう努力するつもりでいます」 

 決意を込めた意思表示だった。皆がどう反応するのか固唾を飲んで、食堂にいる生徒会執行部が見守った。 やがてどこからともなく拍手が起こり、食堂中を席巻した。 

「おめでとうございます!」 

 祝福の声が飛ぶ中、二人は深々と頭を下げた。 少なくとも、今この場に居合わせた生徒たちの心は掴めた。 威圧ではなく、真心で、真摯な気持ちで、彼らの心を掴んだのである。 

 ここに夕麿の常日頃の努力の結果があった。 

 そんな夕麿を武は潤んだ瞳で見上げた。 誇り高い貴公子。 だがその彼が自分の為に幾度も頭を下げてくれた。 

 武は嬉しかった。 自分もまた、他者との関係を拒絶して生きて来た。 だからその孤独さは誰よりも、痛い程知っている。 心を凍り付かせなければ、切望に狂いそうになる。 けれど武にはまだ母がいた。 だから救われていたのだと思う。 そしてこの学院に来て、やはり辛い事や悲しい事もあったが、生徒会の皆がいてくれた。 

 何よりも夕麿との出会いが、武の心を変えた。 他者に興味を持たないようにしていた為、武は誰かを恋い焦がれる感情を知らなかった。 ゲートで初めて会ったあの瞬間から、この孤高の美しい貴公子に、魂まで奪われてしまったと今なら言える。 

 夕麿も同じだったと言う。 だが彼の心を引き裂いた過去のトラウマは、余りも深く大きく、凍て付く氷を溶かせばすぐに剥き出しになり、口を開けて鮮血を吹き出した。 その痛みと恐怖に、何度も綻びた心を必死で凍り付かせようとした。 

 だが、そのうちに気付いた。 武の視線がそらされ、虚ろになったのを見る時に味わう痛みは、疵痕が呼び起こす痛みよりも強いのだという事に。 司の一件でその腕に抱いた後も、関わってしまった後悔に苛まれながら、忘れられない懊悩に焦がされた。 

 だから逃げようとした。 全てはもう、傷付くのが怖かったから。 絶望して絶望して、縋り付くものもないまま、闇の中にいる自分を見たくはなかったから。 感じたくはなかったから。 

 けれど天はそんな愚かさを打ち砕いてくれた。 あの夜、温室の灯りが煌々と点っていた。 その方向から、武が歩いて来るのを見た瞬間、最後の氷が砕け散った。 

 今なら思う。 

 ここは、『紫霄ししょう』と名付けられた場所。 『紫霄』とは天上を意味する。 月や太陽で空が紫色に染まる事からそう表現される。同時に『紫霄』は王宮の意味を持つ。 だが永きに渡って、真の主を欠いた王宮だった。 そこへ尊き血筋を受け継ぐ武が編入した。凍り付いていたのは夕麿の心だけではなく、この学院都市そのものだったのかもしれない。 まるで眠り姫が百年の眠りにあったように。 ゆっくりと歯車が動き出し、人々を目覚めさせ変わろうとしていた。 



 夕方近くになって、生徒会メンバー全員が、大学部附属病院に集まった。 先程、雅久が目を覚ましたと連絡を受けての事だった。 彼は御園生邸で鎮静剤で眠った後、一度目覚めたのだが、すぐにまた眠りに就いていたのだ。 幸いにも容態は安定していたので、全てを義勝に任せて学院での所用を済ませた。 

 そこへ病院側から連絡が入った。 

 今、武と夕麿は出迎えた院長に案内されて、個室しかない病院の奥にある特別室へと向かっていた。 面会を許されたのは、雅久と義勝の後見人である、御園生 有人の息子である彼ら二人だけ。 もちろん、院長は武の身分を知らされている。 それ故の出迎えであると考えられた。 

 病室の隣にある控え室で、目を真っ赤にした義勝が座っていた。 青ざめた顔がただ事ではない。 

「義勝…」 

「葦名先輩?」 

「二人共…来てくれたか……」 

 普段の彼からは窺えない、打ち拉がれた声音だった。 

「院長、彼の、戸次 雅久の…容態を説明して下さい」 

 いつものように武を座らせて、夕麿が口を開いた。 

「身体的には御園生邸で医師が診断したのと、何ら変わりはございません。 

 ただ…一切の記憶を喪失しておられます。 脳に損傷がみられない事から、過度の虐待による心的障害が原因と思われます」 

「それって…葦名先輩の事も、わからないって事!?」 

 絶句した夕麿の横で武が叫んだ。 義勝は目を伏せたまま力なく頷く。 

「そんな…」 

 それは一体、どれほどの苦痛だったのだろう。 助けを求めて、どれほど叫んだのだろう。 突き付けられた事実に、武も夕麿も愕然とする。 

「俺が…もっと早く貴之に連絡してたら…こんな事には…」 

 いつも武をからかって笑う義勝が、啜り泣きながら悲痛な声を上げる。 

「それは違います! 義勝、自分を責めてはいけません。 あなたは精一杯努力したのです。 少なくとも私たちは、彼がどこかに売り渡される事だけは防げました。 

 院長、記憶が回復する可能性は?」 

「あるともないとも言えません。 前例としては、回復した者は少なくとも此処にはおりません。 

 ただ、戸次さんの場合、日常的な事に支障はみられないのが救いであり、回復の可能性が高いと申し上げれます」 

「それはどういう事ですか?」 

「この学院で過去に記憶を喪失した者は皆、食べるという本能的な行為まで喪失していました。 完全に生命としての自己を喪失した状態なのです。 

 ですが、会話もスムーズに出来ますし、飲み物も普通に摂取いたしました。 自分がこれまで生きて来た記憶、どこの誰で、どのような人々と交流して来られたのか。そういった記憶が喪失した状態です。 

 この場合、脳の損傷はありませんから、記憶そのものが消失したわけではございません。 今現在も脳のどこかに記憶はあるのですが、心的障害がそこへ至る回路を切断してしまったのです。 

 日常的な生活で徐々に回復するかもしれません。 何かのきっかけが必要な場合もあります。 

 傷そのものはさほど心配しなくても大丈夫ですし、身体の衰弱も昨日から続けられた点滴で、ある程度回復されておられます。 このまま退院されて寮に戻られても構わない状態なのです。 

 お二方にお運びいただいたのは、その判断を仰ぎたく思いましての事です」 

「どういう事です?」 

「ここに入院をされたままにされるか、記憶回復をお信じになられて、学生としての生活にお戻しになられるか…です」 

「義勝、あなたはどうなのです?」 

「わからない…わからないんだ…」 

 頭を抱えて呻くように言う彼の苦悶の姿に、絶望のようなものを感じた。 

「会わせて…下さい」 

 武が院長を真っ直ぐに見つめて静かに言った。

「それからどうするか考えよう? 戸次先輩にとって、一番必要な事を考えて判断するべきだよ」 

「そうですね。 

 院長、彼に面会させて下さい」 

「わかりました」 

 病室のベッドの上で、雅久は座って窓を見つめていた。 記憶を失っても、彼の共感覚能力『色聴』は健在しているらしい。 音の聞こえて来る方向を楽しげに見つめて、穏やかに微笑んでいた。 

「戸次さん、お見舞いの方が来られました」 

「……誰?」 

 振り返った顔には以前の彼がまとっていた張り詰めた印象がなく、中性的な玲瓏とした美しさだけが存在していた。 そこここに巻かれた包帯や当てられたガーゼが痛々しくもあった。 

「戸次先輩、御園生 武です」 

 意を決して武が呼びかけると、雅久は首を傾げて呟いた。 

「綺麗…紫色の声…」 

「俺の声が…?」 

「雅久は以前からそう言っていた」 

 背後で義勝の声がした。 

「なる程、紫色ですか。 何となく武らしい気がします」 

「な…夕麿、何言ってんだよ、もう!」 

 真っ赤になった武に、雅久が鮮やかに声をあげて笑った。 

「こちらの方は綺麗な瑠璃色…」 

「私は瑠璃色ですか?」 

「雅久、どんな瑠璃色だ?」 

 義勝が問いかけると、彼は小首を傾げて夕麿を見つめた。 

「瑠璃色は瑠璃色ではないのですか?」 

 夕麿も不思議そうに呟いた。 

「透明なとっても綺麗な瑠璃色」 

「ほう…」 

「何です、義勝? 人の顔をジロジロ見て」 

「以前、雅久はお前の声を、氷の中で凍り付いた瑠璃色の炎のようだと表現していた」 

「ふふ、溶けちゃったから、綺麗なんだ。 じゃあ、葦名先輩は?」 

「紅蓮…」 

「確かにそれは、義勝らしい色ですね」 

 夕麿が笑う。 それにつられるように、雅久から笑みが零れる。 

 武と夕麿はしばらく取り留めのない会話を交わした後、病室を出て控え室に戻った。 

「如何なさいますか? 

 医師としての見解を申し上げますと、今のご様子から判断致しますと、ご一緒に皆さまと過ごされるのが、よろしいかと」 

 その言葉に武が頷く。 

「もし、このまま入院となるとどうなりますか?」 

「状態の改善が長期間みられない場合、精神科病棟にお移りいただく事になります。 その場合、面会は限定されますし、学院都市から出る許可はおりなくなります」 

「ダメ! それは絶対にダメだ! 御園生家としても、それは認めるわけにはいかない!」 

 冗談じゃない。 折角助けたのだ。 別の場所に閉じ込める為にそうしたんじゃない。 

 武は夕麿を振り返った。 夕麿はゆっくりと頷いて、義勝を見つめて言った。 

「義勝、腹を括りなさい。 あなたの雅久への愛情はこんなものですか? こんな事で挫けてしまう程、儚いものだったのですか?」 

「そんな…わけない…俺は…雅久を愛している」 

「ならばありのままを受け入れなさい。 私たちがサポートします。 

 院長、彼を退院させてください。 私は待合室の皆に説明して来ます。 

 武、退院手続きを頼めますか?」 

「わかった」 

 手続きを済ましている間に、寮から雅久の制服を取り寄せ、未だショックから覚めない生徒会メンバーと共に寮へと戻った。 
 
 武の関係者…という理由で、義勝と雅久の部屋も移動になっていた。 武たちの部屋の左側を貴之が一人で使用している。武の警護の為の配置らしい。 もう一方の右側の部屋が二人の新たなる住処となった。 

 だがエレベーターからこちら側への通路は特殊樹脂のドアで仕切られ、与えられたセキュリティーカードでロックを解除するか、内部から解除するしか入室は出来ないように設置されていて、銃弾や小型の爆弾ならば、ビクともしない重圧な構造になっている。 義勝はこの大袈裟さに少々げっそりしたが、武を階段から落とした犯人が未だ不明な事を思い出した。 

 最初、義勝は雅久と同じ部屋である事に戸惑いを見せた。 だが、セキュリティーの問題や彼の学院での生活の補助には、どうしても義勝でなくてはならない。 貴之に説得されるように、義勝は承諾した。 部屋の間取りなどは、左右は対象になっている以外は同じだという。 

 3LDKを貴之ひとりで使用しているらしいが…以前の生徒会上層部用よりかなり広い。 それでも武と夕麿の部屋ほどではないと聞かされ、肩を竦める武に苦笑する。 

 リビングの片側の壁は填め殺しのUVカットの樹脂になっており、少し高台になっている高等部の敷地の下に広がる森林地帯が臨める。 今はまだ涼しい山間部とはいえ残暑はまだまだ続いている。 やがて本格的に秋になれば、木々が紅葉しして鮮やかな色に染まる。 もっと気温が下がれば、朝靄に包まれる美しい風景が広がるのだ。 それは前の部屋でも一望出来たが、何と言っても窓の大きさが違う。 

雅久は窓に貼り付くようにして、眼下の景色を堪能していた。 その間に以前の部屋から間違いなく、全ての荷物が移動されているのを確認した上で、キッチンに立ってお茶を入れた。 

「雅久、お茶が入った」 

「あ…すみません」 

 義勝の声で我に返った彼は、慌ててソファに座って信楽焼の湯呑みを手にする。 雅久は日本茶が好きで、それも京都の宇治産のものでないとダメであった。 

 雅久は5歳まで旧都の花街で生活をしていた。彼が色聴能力を持ち舞いと和楽器に稀有な才能を示すまで、戸次家はそのまま花街の人間として放置する意向であった。稀有な才能と玲瓏な容姿。 本来ならば他者に羨望されるものが、雅久には仇となってしまった。 彼自身には何の罪も咎もない事だった。

「夕食はどうする? 食堂に行くか? 持って来させるのも可能だが?」

「あの…他の方々は、どうなさるのでしょう?」

「普通に降りると思うが?」

「では行きます。 その…部屋に籠もってしまったら、皆さま…心配されますから」

 皆に心配をかけたくない…と言って、義勝と二人が嫌だと言っているように感じられるのを避けようとする。

「無理はするな?」

「大丈夫です」

「ならば着替えるか?」

「はい」

「その手だと不自由だろう? 無理なところは言ってくれ。

 それと……」

 義勝は前もって回収しておいた互いのスクールリングを刻印を確かめて渡した。 この二人もリングを交換していたが、今は元通りに本人の物を手渡した。 義勝には自分の身を削るような痛みをもたらした。 それでも歯を食いしばって、愛する人が笑っていられるように、ただただその願いだけで微笑む。

「寮や高等部の敷地内は私服でも構わないが、それは付けておく決まりになっている」

「わかりました」

「俺も着替えるから…」

 屈託のない笑顔に胸が詰まる。 愛していると叫んでその場に押し倒して欲望のままに抱きたくなる。 笑みを浮かべた唇から、甘い吐息を思う様吐かせて、官能に啜り泣く声が聞きたい。

 義勝は自らの心が発する叫びに耳を塞いで、逃げるように自室に駆け込んだ。

 その後ろ姿を戸惑うように見つめる雅久がいた。



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