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同級生
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「武、ちょっと来て下さい」
生徒会長執務室で、資料と格闘していた武を夕麿が呼んだ。 出てみると数人の一般生徒がいる。
「武、彼らを来期の生徒会執行部候補に決定しました」
言われて見回すと見慣れた顔があった。
「板倉!」
「武~!」
白い特待生の制服に囲まれて緊張していたのか、武に声をかけられて正己はは嬉しさのあまり武に抱き付いた。 すると夕麿が眉を吊り上げて割って入った。
「板倉君、武に気安く触らないで下さい」
「はあ…すみません」
引き剥がされて戸惑う正己に、執行部の全員が苦い顔をした。
「会長~みんなが困ってるでしょ~」
「嫉妬と独占欲も大概にしろ、夕麿」
「どうしてそう、武君が後から困る事をなさるんです、会長」
口々に非難されて赤くなって黙る夕麿に武は溜息吐く。 かつての『難攻不落の氷壁』も今は見る影もない。
「えっと…話、続けてくれる?」
武が頬を真っ赤にして促す。
夕麿はとろけそうな笑顔を返してから、一般生徒の制服を着た彼らに向き直った。
「まずは執行委員の補助として就いてもらいます。 2月の交代までに皆さんには、一通りの経験をつんでいただき、来期の役職を決定する予定です。 私の希望としては、それまでに特待生資格を皆さんが得て下さる事。
本年度の特待生は武ひとりですから現在、10人の編入枠が学院より提示されました。 つまりここにいない一般生徒にも、特待生編入資格が与えられる可能性があるわけです。
あなた方は私たち今季執行部が、様々な候補から選抜しました。 出来ればこのまま、来期の執行部入りを希望します」
特待生には学院在学中に途中編入出来るシステムがある。 特待生は特に成績が重要視される。ただ生徒会長のみは 出自が考慮される。身分の低い者に上の者が従いたがらないからである。 故に大抵生徒会長は、その年の2年生で一番出自の高い者が任命されるのが通例になっていた。
「最終的にはあなたの意向が、執行部人事を左右します。 どの役職に誰が相応しいかを見極めるのが、これからのあなたの一番の仕事になります」
「え……俺が来期の生徒会長に決まっちゃったの?」
確か1学期は候補だと言っていた筈…と武は心の中で不満を言う。
「本年度の特待生は武ひとりなんだから、そうなるのは当たり前でしょ~?」
麗がにっこり笑って言う。
「心配するな。 交代までにたっぷり鍛えてやる、覚悟しておけ、武」
「え…義勝先輩…あの…」
上から降って来た言葉に武は思わずたじろぐ。
「全員でたっぷり教育してやるから、覚悟しておけ。 課題が出来ない時には、お仕置きだぞ?」
義勝はそう言うと、意味ありげな眼差しで夕麿を振り返った。 夕麿はそれに悠然と微笑み返した。 二人の間で、武は複雑な顔をしていた。
「お前、やっぱりそっちの気あるだろ? 知ってるか? お仕置きだけじゃダメなんだぞ? ちゃんと褒美もやらないと…」
「誰に言ってるんです、義勝?」
「ほお…」
「ちょっと何の話してんだよ、二人とも!!」
武が首まで赤くなって叫んだ。 ドッと笑いがわき上がる。 生徒会執行部の皆は武の出自を知った上で、変わらないあり方で接する事を決めていた。 それが何よりも武自身が、望んでいるものであると理解しているからである。 学院側もそれを考慮して夕麿との結婚は、都市内で公表したが出自は内密にしている。 また学院内の情報屋と言われる者への口止めも貴之が徹底的に行った。 故に一般生徒でこれを知っているのは執行部の人間以外では、御披露目パーティーに招待された板倉 正己ただ一人である。 だからこそ彼は選抜されたとも言える。
生徒会メンバーは爆笑し、選抜された生徒たちが苦笑する中、一人だけ怒りに顔を染めている一般生徒がいた。
下河辺 行長。
入学式に新入生代表を辞退した武の代わりに挨拶をした人物である。 彼は特待生資格を得る試験で、僅かに成績の評価が足らず一般生徒になってしまった。 家柄も夕麿や司ほどではないもののそこそこの血筋である彼は、私生児で御園生の養子である武が特待生になり、現在高等部で一番高い出自を持つ(表向きは)夕麿を御園生に婿に迎えて、今度は次期生徒会長である。 中等部より夕麿に対して仄かな想いを抱いていた事もあり、我慢ならない心持ちでいっぱいであった。
しかも六条夫人が故意に御園生が、金で夕麿を買ったという噂を学院内に流していて、あの食堂での夕麿の謝罪を見ていない者は未だに武を嫌悪、あるいはもっと激しく憎悪の感情を抱いていた。
行長も憎悪を抱く一人だったが、表向きは知らない顔を決め込んでいた。 言わばこの選抜は夕麿に近付き武を貶める好機と思っていた。 彼にとって夕麿の横に当たり前のように立ち、生徒会メンバー全員に大切にされている武が憎くて憎くて仕方がなかった。
「では本日から、秋の紫霄学院祭の高等部の企画に入ります。 恒例行事ですがその年の生徒会ならではの色彩を出すのが通例となっています。 今回、武を中心にして、1年生に案を幾つか上げていただきます」
「監督や補助は私がさせていただきます」
「雅久は厳しいですよ、覚悟しておくのですね。
では始めて下さい。 私たちは資料室に行ってますから」
「あ、行ってらっしゃい」
武の言葉に笑顔で夕麿たちが出て行く。 残ったのは1年生と雅久、それに貴之。 彼らは会議用のテーブルに着き、武の後ろにさり気なく貴之が立った。 武の横に雅久が座って耳打ちする。
「武君、その、この前の…会長に叱られたの? ごめんね、私が無理やり聞き出したのに」
武はその言葉に首を振って答えた。
「約束を破ったのは俺だから。 雅久先輩こそ、気にしないで下さい」
「お茶を入れよう」
貴之の言葉に武が立ち上がりそうになると雅久が話し掛けた。
「武君は外部編入ですよね? 外の高校の学祭ってわかりますか?」
「以前住んでいた所が、公立校の近くだったからわかりますけど?」
「この昨年度の企画書を見て、どの辺りがどう違うのかまとめていただきたいのです」
「わかりました」
「お茶なら俺が…」
正己が名乗りを上げた。 雅久が敢えて武を引き止めた理由がわかったからである。 御園生邸で救出されて来た雅久の状態を、目の当たりにしている彼には記憶を失った話も伝えてある。それ以外の一般生徒には、事故で記憶が一部失われた……という事になっていた。
自分の過去と人間関係の記憶が消失した事実が知れ渡ると、様々な弊害が出る可能性がある。 学業や生徒会の活動には、今のところ支障はでていない。 余計な詮索や好奇の目から守る為にも、事実を明かさない…それがここの慣例でもあった。
雅久は全員に昨年度の企画書を資料として配り、正己を手伝ってお茶を配る。 当然、武に一番先に配られたわけだが、それもまた行長のプライドを逆撫でした。 だが誰もそれに気が付かない。 渡された資料に集中していたからである。
「えっと…雅久先輩、余りにも違い過ぎてよくわからないんですけど…?」
「説明して下さい」
「他校では学祭はまず、文化部の発表の場所になります。 それで、運動部や各クラスは模擬店などをするんです」
「模擬店? それは何ですか?」
模擬店などの説明に、武はかなり苦労した。余りにも学祭に対する認識が違う。 学院都市では、中・高・大が出入り自由になる以外は、保護者を初めとした外部の人間が入る事はない。 完全に閉鎖された地域での行事なのだ。 ただ学院の職員や都市で生活する人々も出入り自由になる。 それを祭りと呼んでいる状態なのだ。 文化的な発表会が行われるが、参加出来るのは一般生徒の一部に過ぎない。
「他校とここの一番違いは、生徒が全員参加で楽しむのを学祭と認識するかどうか…かな?」
「全員参加…ですか。 確かに準備と費用は掛かりますが、一考の価値はありそうですね」
「ここには体育祭もないし…」
「確かにないよね」
正己が会話に参加する。
「何故ないの?」
「かつてはあった記録はある」
「戦後、廃止になったようです」
「その分、学祭の日程が2週間に伸びたらしい」
「2週間全部を全員参加では、無理があるとは思うよ?」
「俺もそれは無理だと思う」
外部の学校の話になると中等部から編入した正己と武の独壇場である。 残りの生徒は興味深げに、頷きながら聞いていた。
「その辺りを今年の色彩にしたいですね」
雅久が色彩と言うと格別な感じがする。
「あの…」
一人が手を挙げておずおずと声を出した。
「何か良い案がありますか?」
「中等部や大学部との調整も必要だとは思いますが、それぞれに2日から3日程度の集中日をつくって、何かのイベントを織り込むのは如何でしょうか?」
「あ、なる程、えっと、名前教えて」
武の瞳が輝く。 自分は至って平凡なタイプと思っている彼は、その笑顔が他者を魅了する事を知らない。 皇家の血が持つ高貴な輝きが、彼の中で発動しつつあるのにすら気付いてはいない。
「千種 康孝と申します」
「千種か…よろしくな」
武の笑顔に雅久は同級生の中でどうしても浮いてしまう彼に、正己以外の友人をつくらせようとする夕麿の意図と優しさを見た。 記憶のない彼には以前の夕麿がどんな様子であったのかはわからない。 だが周囲の反応や聞かされたニックネームから考えて、今の彼が武と愛し合うようになって変わったらしいのはよくわかる。
夕麿にすれば自分たちは1学年上、いずれは卒業する。 どのような道を歩むとしても、この学院都市を出て行かなければならない。 一人残される武の為に同級生の友人は必要なのだ。 出自に左右されない確かな信頼を築ける友人を。 それも夕麿の愛情だと感じていた。
武は自分のおかれている状況に未だ戸惑っている。 夕麿がヨーロッパにルーツを持つ、『貴族の義務』を教えている最中だった。
『貴族の義務』~Nobility Obligeは、「身分の高い者は恩を施す」という意味である。 『Obligate(英訳)』には「恩恵を施す」の他に「道徳・法律上の義務を負わせる」という意味がある。 故に日本語では『貴族の義務』と呼ばれる。
「貴族たるもの、身分にふさわしい振る舞いをしなければならぬ」
という考えのもと自らを律して、謙虚で私欲に流されない姿勢を心掛ける。 日本や蓬莱では明治に入り『武士道』と基本的な精神が似ている為、皇家や貴族・官僚等のあり方として教育された。
戦後、貴族にも貧困が広がり成金との婚姻が増えつつある。ゆっくりと失われつつある『誇り』そのものが『貴族の義務』でもある。 夕麿は自分の実家である六条家さえ、その渦に巻き込まれつつあるのを憂う。 夕麿の『誇り』は亡き母と、彼女に従って六条家に来た乳母の教育の賜物だった。
どのような環境に投げ込まれても、夕麿を守って来た在り方。 それこそが『貴族の義務』という生き方。 だからこそ誇りある姿を貫きたかった。
夕麿は皇家直系男子としての誇りを武に教えたかった。 彼は皇家特有の血の輝きを持っている。 出自を告げて相手が反応するのではなく、武自身の所作や言葉が周囲を動かすようになって欲しいと。 だから武の出自を知っている者にまず示してみせる。 時には尊大である事も必要な事だと。 従う者に対する礼儀としての尊大さがあるのだと。 仕える者の役目や立場を守る為の尊大さが必要なのだ。 そういう事も含めて武に学んで欲しいと事ある毎に話し教えていた。
生徒会長になって同級生や下級生の頂点に立つ事で学べるものもある。 出自を新しく選抜した候補たちに伏せたままなのもそこから得るものがあるのを、現会長である夕麿自身が誰よりも理解しているからである。ちなみに学院では出自の身分を重視する。
例えば夕麿は摂関家である六条家の出身であり、母は皇家縁戚の宮家の女系の末裔である。 御園生に入り婿したが 外のルールでは入り婿した時点で元の身分はリセットされてしまう。しかし貴族社会では元々の 出自で立場が左右される。従って私生児として認識されたままである武は、彼らにすれば最も身分卑しき者という事になる。 ゆえに行長は武に対して憎悪の感情を持たずにはいられなかった。
その日は月曜日だが祝日だった。
このところ生徒会の雑務が多く、会長である夕麿は連日遅くまで詰めており、昨日の日曜日も朝からずっと夕方まで寮の部屋には戻らなかった。 武も昼過ぎまでは手伝っていたが、出来る事は限られていた為、貴之に送られて寮に戻ってそのまま夕麿の帰りを待っていた。
月曜日、武に出来る事は、夕麿たちに手作りのお弁当を届ける事だけだった。 武は貴之に連絡してわざわざ迎えに来てもらい、重箱を抱えて特別棟の生徒会室に来た。
「風紀委員長、あのご相談が……」
生徒会室の扉の前で、風紀委員らしい生徒が声をかけて来たので、武は貴之に手を振って一人で生徒会室へと入った。
室内には誰の姿もなかった。 武は重箱を会議室の机に置くと、会長執務室へと足を向ける。
ドアが少し開いていた。 夕麿や他の皆には、昨日のうちにお弁当の事は言ってはある。 それでも中で仕事をしているだろう夕麿に、声だけはかけて貴之を待って寮に帰ろうと思っていた。
武がノックをしようとすると中から微かに声が聞こえた。
「……メ…」
クスクス笑いに混じる声音はまるで睦言のように聞こえる。 夕麿が執務室を離れている間に、誰かが無断で宜しくない利用の仕方をしているのかもしれない。 相手を確認して夕麿に話す事にしようとそっと執務室を覗いた。
執務机が置いてある奥に、休息用のカウチがある。 その上でシャツのボタンを外して、上半身を露わにした生徒が横たわり、その胸に顔を埋める者の後ろ姿が見えた。
「ふふ……ダメですったら……今夜部屋で……」
横たわる者の顔は武の立っている位置からは見えない。 ただ制服の色は一般生徒の物だというのはわかった。
そして…… 組み敷く後ろ姿は、武が絶対に見間違う筈のない人物… …
「……夕麿……」
ショックの余りその後自分がどこをどう動いたのか記憶がない。 気が付くと寮の部屋のリビングに佇んでいて、ポケットで激しく携帯が鳴っていた。
貴之からだった。
「はい……」
「今、どこに?」
「すいません…考え事してたら…帰って来てました…」
一人で帰った事を詫びて携帯を切る。
零れ落ちる涙が止まらない。 床に崩れるようにへたり込んで涙を流し続けた。 今し方目撃した光景を、心が全力で拒否している。
信じたくない。 別の誰かだと思いたかった。
どれくらいそうしていたのだろう。 部屋を見回すと既に薄暗くなっていた。 ノロノロと立ち上がって灯りを点すと、ソファに座って考え込んだ。
この事は絶対に誰かに知られてはならない。 義勝や雅久にも。 誰かに知られれば必ず御園生に伝わる。 それは夕麿には死刑宣告にも等しい事態を招く。 御園生も祖父である皇帝も武を裏切った事を絶対に許さないだろう。 御園生の庇護を失えば、彼は学院都市から生涯出れない身になる。 それだけは防がなければならない。
武は自分との関係で夕麿の人生が、左右されてしまうのは我慢ならない。 あってはならない事だと思う。 だがそれがおとなたちの決めたルールならば、全てを隠してしまえば良いのだ。
夕麿を守る。
その為ならなんでもする。 自分を取り戻した武が真っ先に考えたのは、裏切りを責める事ではなく事実を漏らさないように陰徳する事だった。
辛くないわけはない。
悲しくないわけではない。
けれど一番に考えるのは愛する人の事。 夕麿が幸せならばそれで良い。 それが武の純粋な想いだった。
人間の心は移ろいやすい。 それを責めてはならないと。 もう充分に愛してもらった。 だから後は夕麿の望むままに。 武は噛んで飲み込むように、自分自身に言い聞かせた。悲しい顔、辛そうな顔はしてはならない。 変わりなく笑顔でいよう。 夕麿の幸せだけを祈ろう。 他には何もしてあげれないから。 全てをこの胸の内に納めて生きて行こう。
心は決まった…
夕麿が帰って来たのは、11時を少し過ぎた頃だった。
武は自分の部屋で、間もなく実施される前期試験の勉強をしていた。 途中、貴之から夕食をどうするかと連絡を受けたが、食材があるので自分でつくると返事した。 本当は食欲がなかったから、冷蔵庫のオレンジジュースをグラスに一杯飲んだだけだが…
「武、勉強ですか?」
寝室からかけられた声に軽く返事をする。
「すみません、疲れているので先に休みます」
「あ、うん…おやすみなさい」
「お休み」
確かに夕麿の声は疲れた感じを受けた。 程なく寝室の灯りが消され、武の耳に響くのは武自身がたてる音だけになった。
武の想いとは関係なく、夜は更けて行った。
次の日もその次の日も夕麿は遅くに帰って来た。 どちらも寝室越しに言葉を交わしただけで、顔を合わせていない。朝も起きると早々に出て行く。 昼休みも教室から姿を消し食堂にも来ず、5時限目の開始ギリギリに戻って来る。
3日目の深夜、武はそっと枕灯の薄明かりの下で眠る夕麿を見つめていた。 溢れそうになる涙をこらえて、指先で唇に触れる。 ただ無言でしばらく見つめて、枕灯を消して寝室を出た。
この3日、ベッドで眠ってはいない。 2日間は机にいつの間にか突っ伏して眠っていた。 今日はさすがに眠っておこうと、膝掛け用の毛布を手にリビングに降りた。 残暑はようやくおさまり出したので、空調が止まっていても大丈夫なように思えた。
暗闇の中にいると、これまでの事が夢の中の出来事のように感じる。 目が覚めると母と暮らしていたアパートに、いるのではないかと思ってしまう。何も知らなかったあの頃に戻れないのはわかっている。 知ってしまった想い、温もりを忘れる事も、消す事も出来ない。 大切に宝物のように守って行く。 それしか出来ないから。 武は膝掛けの角を握り締めて静かに目を閉じた。
「…武…武…?」
揺り動かされて目が覚めた。 しまった、寝過ぎたと、飛び起きると夕麿が覗き込んでいた。
「こんな所で何をしているんです」
ベッドで眠っていないのを知られてしまった。 武は懸命に動揺する心を静めて、夕麿を見上げて笑顔を向けた。
「なんか夕麿が疲れているみたいだったから…ゆっくり寝て欲しくて…あはは、早く起きようと思ってたのに寝過ごした。
バレちゃった」
ペロリと舌を出しておどける。
「馬鹿な事を…私の事より、もっと自分を大切にして下さい」
顔を曇らせる夕麿に武が慌てた。 余計な心配や心遣いをさせたくはない。 今、優しい気遣いをされたら、心が折れてしまう。
「ごめんなさい」
素直に謝罪すると夕麿は笑顔で武を抱き締めた。
「ありがとう、武。 お陰で良く眠れました」
「余り無理しないでね、夕麿」
身を預けて目を閉じる。 今は少しだけこの温もりに甘えていたかった。 誰かに返さなくてはならなくとも。 この瞬間だけは夕麿を独り占めしていたかった。
「今日は少し余裕がありますから、朝食を一緒に摂って登校しましょう」
「え……? いいの?」
花が咲いたような笑顔で見上げると、唇が重ねられた。 軽く触れるだけのキス。 心が震え、泣きたくなる。 他の誰かに心を移しても、夕麿はやっぱり優しい。
こうして側にいられるだけで良い。
食堂に降りて生徒会のみんなと共に朝食を摂り、賑やかに校舎へと向かう。 途中で正己たちも合流して、話題は前期試験へと移る。特待生には重要な意味を持つ試験である。 万が一、これの成績が定められた水準以下になると資格を剥奪されてしまう。 決して安泰な立場ではないという事だ。
武は1年生ただ一人の特待生として、水準どころか成績を落とす事自体許されない。
夕麿も生徒会長として、常にトップでいなければならない。すぐ後ろに義勝や貴之がいる。 わずかな失点で順位は動く。 多忙は言い訳にはならない。
試験は全ての教科に及ぶ。 一般生徒は幾つかの選択科目があるが、特待生はそれら全てを網羅しなければならない。 名誉と誇りに掛けて。
「武、また一緒に勉強してくれよ!」
正己が泣き付く。
「そんな余裕ないよ!」
いっぱい一杯だと悲鳴を上げると苦笑が漏れる。
そう誰も気付いていない。 これで良いのだ。 変わらずにいる事が自分の役目。 これもまた名誉と誇りを掛ける事。 夕麿が大切にするものを守る事。 それは自分にしか出来ないのだと、武は再び自分自身に言い聞かせた。
長時間、PCの液晶画面を見つめていると、頭の芯からズキズキと痛み出す。 夕麿は背もたれに身を預けて、深い溜息を吐いた。
「義勝、今日はこの辺で終わりましょう」
「今日もこんな時間か…今週中には何とかなりそうだな」
「そうですね。 さあ、寮へ帰りましょう」
「ああ」
二人は生徒会室を施錠し特別棟を施錠して寮へ向かう。
「武だが…」
「武が何か?」
「様子がおかしいように見えるんだが、何かあったのか?」
「別に…何もありませんが? どのようにおかしいと言うのです、義勝?」
「ちょっと見にはわからないんだが…笑い顔なのに目が時々笑ってない。
何か心当たりはないか?」
「ここのところ…ちゃんと会話をしてませんから…寂しいのを我慢してくれているのでしょう」
「だと良いが…武は溜め込む性格だって事を忘れるなよ」
「そうですね。 今少し注意してみます」
指摘されるまで伴侶の変化に、気付けないでいた自分を夕麿は叱りつけたくなった。 義勝は安易な事で他者の間に口出しする人間ではない。 口を出すからにはそれなりの理由がある。 この場合それ程、武の様子がおかしいと言う事になる。
「夕食は貴之や雅久が声を掛けても、自分でつくると言うらしい。 朝食は部屋で摂っているんだよな?」
「武が毎朝用意してくれますので」
「ちゃんと食べてるか? 雅久の話によると、昼食は軽いものしか摂っていないようだ。確か、例の慈園院の騒動の頃に、ストレスで似たような事になっていただろう」
「試験前でストレスがあるのかもしれません。ですが忠告は有り難くいただきますよ、義勝」
「雅久も心配している」
「彼にも礼を言っておいて下さい。 ところであなた方の方はどうなのです?」
義勝はその問い掛けに鮮やかに笑って見せた。
「ゆっくりと焦らず、それなりにな…」
「そうですか。 武が心配してましたから」
「ああ、俺たちは大丈夫だ」
「私は心配はしていません」
「じゃあな、お休み」
「ええ、おやすみなさい」
義勝と別れて部屋へ入ると、今夜も武は自室に籠もっていた。 螺旋階段を上がって寝室に入った。 連日のオーバー・ワークで、身体は疲れ切って重い。 制服からパジャマに着替えるのも億劫に感じる。
「武?」
声を掛けると、少し間を置いて返事が返って来た。
「余り根を詰めないで下さいね」
「うん、ありがとう。 夕麿こそ疲れてるんじゃない? 構わず早く寝て。 俺も区切りつけたら寝るから」
「すみません、その言葉に甘えさせて貰いますね」
「おやすみなさい」
「お休み」
優しい心遣いは変わらない。 壁越しの会話では、彼がどんな表情をしているのかはわからない。 だが今の夕麿にその余裕はなく、倒れ込むようにベッドに横になり、すぐに記憶が途切れた。
寝入ってしまったらしい。 目が覚めて枕元の時計を見ると、6時半をさしていた。 その瞬間、傍らにある筈の温もりがないのに気が付いて身を起こした。 枕は整えられたまま、彼が眠った形跡がない。
夕麿は慌てて隣の彼の部屋を覗いた。
武の姿はない。
寝室を出て螺旋階段を降りると、ソファで眠っているのを発見した。 残暑が終わり少しずつ気温が下がっている中で、膝掛けだけで眠っている。
「武…武?」
声をかけて身体を揺らすと目を覚ました。 ソファで眠っているわけを聞きはしたが、何となく違和感がある。
抱き締めると身を預けては来る。 だがいつもは縋り付いて来るのに… …唇を重ねても、やはり縋り付いて来ない。 向けて来る笑顔のほんの少し前、一瞬だけ武の瞳が悲しい色を帯びた。 寂しさ故のものではないと、直感的に思う。 言い知れぬ不安に心がざわ付く。
だが理由がわからない。
朝食を共に食堂で摂り皆と登校する間もずっと、武を観察して考えるがどうしてもわからない。
試験への不安に見せ掛けている… …本当の原因はそこにはないのではないか。 しかもそれは、間違いなく自分が関わるものだとなんとなく感じていた。
なのにわからない。 武の態度から察すると、恐らく聞いても簡単に話さないだろう。
どうすれは良い?
戸惑いながらも生徒会の方で、抱えている案件があと一歩で決着が付く。 不安を抱きながらままならぬ状態に、苛立ちながらもPCのキィを叩き続けた。
全てが片付いたのは、金曜日の8時頃だった。
「義勝、後をお願いします」
武の様子について義勝には話してある。
「わかったから、早く戻ってやれ」
駆け出して行く夕麿の背中に投げかけられた言葉を追い風に、全速力で寮の部屋に駆け戻った。
「夕麿…どうしたの?」
息を乱して戻って来た夕麿に武は驚いた顔をした。
「やっと片付いたので、あなたの顔が早く見たかったのです」
一瞬戸惑い、それから笑顔になる。
「何それ…」
だがどこか笑顔になり切れない顔が泣き顔に見えた。
手を伸ばすと僅かに退く。
「寂しかったでしょう? ごめんね、ずっと一人にして」
その言葉に武は小さく首を振る。
「食事は?」
「さっき、雅久先輩と貴之先輩と一緒に」
「そう」
会話が途切れる。
「俺…勉強があるから…」
沈黙を振り切るように、言葉を残して階段を上がって行った。
夕麿はしばらく上を見上げていたが、焦らずにゆっくりと武と向かい合おうと想い直して、バスタブに湯を溜め始めた。
ハーブ系の入浴剤を入れて、湯の中で身を解す。
「ふぅ…」
目が回るような一週間だった。 週明けからは試験準備期間になる。 さすがに前期試験のハードさは学院も心得ていて、週明けからは特待生も午前中のみの授業になる。
それにしても…… いつから武は様子が変わったのだろうか?
「痛ッう…」
一週間を振り返ろうとした途端、頭に痛みが走った。 同時にフラッシュのように、何かの断片のような記憶が浮かんで消えた。 それを追いかけて捕まえようとすると、再び頭痛が稲妻のように貫く。
何かがおかしい。
だが痛みに遮られて、追い掛けられない。 夕麿は頭痛が呼び起こす、眩暈と吐き気の中、早々に浴室から出た。 気力を振り絞って、リビングのソファに身を投げ出す。
ただの疲れとは明らか違う。
朦朧とする意識の中、異変を感じたらしい武が螺旋階段を降りて来るのが見えた。
武が部屋から出て来たのは、浴室のドアの音の響きが異様だったからだ。 普段の夕麿はドアの開閉に極力音を立てない。 それが乱暴としか言えない音がした。 様子を見に出て見ると、ソファに夕麿が倒れかかっていた。
「夕麿!」
階段を駆け降りて触れると、浴室から出たばかりだというのに、異様に体温が低い。 武は慌てて隣の部屋の貴之に助けを求める電話をかけた。 程なくして貴之だけではなく、義勝と雅久も駆け付けて来た。
「今、校医を呼んだから」
貴之と義勝が二人がかりで、夕麿を寝室に運び込んだ。
駆けつけた校医に、途切れ途切れに症状を話す夕麿の言葉に、義勝と雅久が顔を見合わせた。 校医は過労以外の原因を思い付かない様子だった。 処方した点滴が届くのを待つ間、義勝が校医にその場を任せてリビングに誘った。
「どうした、義勝?」
「症状が似ている」
貴之な問い掛けにポツリと呟かれた言葉に、雅久が頷いて言葉を繋いだ。
「私は…私が記憶を…記憶に関わりのある事に触れた時に、今の会長と同じ状態になります」
雅久の言葉に武と貴之が絶句する。
「義勝、私の主治医に連絡を。 事情を話してすぐに往診に来てもらって下さい。 もし似たような理由ならば、早く手を打たないと…いつまでも苦しみます。
私は義勝がすぐに薬を飲ませてくれますので、何とか治まるのですが…」
その言葉に武は苦しげに胸元を押さえて寝室を見上げた。
「俺…夕麿の側にいる…」
螺旋階段を駆け上がって寝室に入ると、夕麿はベッドの上でシーツを掻き毟るようにして苦しんでいた。 校医は青ざめて首を振った。
「痛み止めが効きません」
ベッドサイドのテーブルには、夕麿が吐いたらしいものがあった。
「夕麿…」
キングサイズのベッドに上がり、苦しむ夕麿を抱き起こした。 びっしょりと汗をかき、噛み締めた口から耐え切れない苦痛の呻きが漏れる。 握った手が凄まじい力で握り返され、彼が味わっている苦痛を物語っていた。
しばらくして、下でインターホンが鳴った。 どうやら義勝が呼んだ、雅久の主治医が来たらしい。彼は記憶を失ってから雅久は週に3回程、精神科の医師の診察を受けている。
恐らく下で誰かが説明しているのだろう。 誰も上がって来ない。 武は苦しむ夕麿を腕に抱いて苛立つ。するとまだ若いスーツ姿の男が寝室に入って来た。 その後に義勝たちが続く。
「失礼します」
彼は夕麿の手を取って、脈をはかる。
「痛み止めは?」
「投与しましたが、効いていません」
「ふむ」
医師はポケットから小さな包みを取り出し、夕麿の目前に差し出して包みを解いた。 中から出て来たのは、クラックの入った水晶玉。それに下からライトを当てて、穏やかな口調で語りかけた。
「夕麿さま…光の中心を見つめて下さい。 そう…ジッと見つめて…綺麗でしょう…」
武の手を握り締めていた手が落ちた。 驚いて見上げた武に医師は頷いた。
「やはり一度、誰かにかけられていますね。 反応が早いです。
伺ったご性格から判断しますと、最初のは恐らく向精神薬を飲まされた上ででしょう」
「向精神薬!? そんなもの…どうやって…」
「飲まされた可能性があるのは、生徒会室だな…夕麿が一人になったの月曜日の昼前後しかない。」
「昼前後…?」
武と貴之の声がハモった。 みるみるうちに武の顔が強張る。
「では月曜日の昼前後まで、記憶を遡っていただきます」
ゆっくりと順番に時間が遡って行く。 その日その時間、彼がどこで何をしていたのかがその口から語られる。
「大体何時かわかりますか?」
「最後に生徒会室を出たのは俺だ。 武をここへ迎えに来た」
「うん…12時10分くらいだったと思う」
「それから生徒会室へ向かった。前で一年生の風紀委員に声をかけられた時に見た腕時計は、20分を少し過ぎたくらいだ」
「では、あなたが生徒会室を後にしたのは、逆算すると12時くらいと考えるべきですね。
夕麿さま…今、良岑 貴之さんが生徒会室を出て行かれました。 武さまを迎えに行かれたのです」
夕麿が頷いた。
「12時です。夕麿さま、あなたは何をされていますか?」
「…ハッキングされた生徒会のPCデータの…被害状況をチェックしています…」
「ハッキング!?」
「月曜日の朝に発覚した。 俺はその時間、学院側に被害はないか調べに行っていた」
「時計を5分進めます。12時5分、あなたは何をされていますか? あなたは一人ですか?」
「チェックを続けています…一人です」
「では1分ずつ時計を進めて行きます。 誰かが執務室に入って来たら教えて下さい…6分…7分…8分…」
時計を進めて行く声に夕麿が、反応したのは16分になった時だった。 誰かがお茶を運んで来たと言う。
「それは夕麿さまがご存知の方ですか?」
夕麿は無言で頷く。
「その人物の名前を仰って下さい」
その言葉に夕麿は眉間にシワを寄せて首を振る。
「わかりました。 お茶は召し上がったのですね?」
また頷く。
「お茶の味は如何でした?」
「不味い…」
「でもあなたは、運んで来た方を気遣って飲まれたのですね?」
また頷く。
「それから?」
「眩暈がして…気分が悪くなりました…」
そこにいた全員が息を呑んだ。
「それから?」
「カウチに…少し休もうと…」
「それはご自分で判断されましたか?」
首を振る。
「お茶を運んで来た方が、すすめたのですね?」
頷く。
「それから?」
「武…」
「武さまが来られたのですか?」
首を振る。 戸惑うような素振りがあって、夕麿は口を開いた。
その内容に武が奥歯を噛み締め、他は怒りに顔を染めた。 お茶を運んだ人物は、カウチで夕麿を催眠状態にして命じたのである。自分を抱けと… …だが夕麿は武が目撃した状態までしか、命令を聞かなかった。
武を裏切れない… …そう呟いた。
「相手の名前は…?」
再びの問い掛けに、夕麿は激しく拒否反応を示した。
「これ以上は無理です。 夕麿さま、今から3つ数える間に、ゆっくりと目が覚めます。今あなたが話された内容を今度は覚えています。
1…2…3…目覚めます」
夕麿がゆっくりと目を開いた。
「私は…一体…」
「催眠術です、夕麿さま」
「催眠術? あ……」
お茶を運び催眠術にかけた人物を思い出していないが、それ以外はありありと記憶が蘇った。
「武…あの時、入って来たのは…」
「俺だよ…」
その言葉に夕麿が悲痛な顔をした。 途中までとはいえ、武以外の人間に触れた。 それを武は見た。彼の様子がおかしかった理由。 避けるような行動をとられた理由。 全てが理解出来た。
「武…私は…」
「夕麿が悪いんじゃない。ごめんなさい。 俺、夕麿を疑った」
あんな光景を見て平気な者などいない。 だが武は問い詰めも罵りもしなかった。 何も見なかったふり、何もなかったふりを続けてくれた。
「武…」
自分を抱き締めている手に触れて見上げると、武は笑顔を向ける。
「夕麿さま、今はお休み下さい」
精神科医の指示で、看護師が点滴を持って近づいた。 武は夕麿をベッドに横にならせ下がった。
腕に点滴針が刺され、途中の接続部分から別途薬剤が注入された。 程なく夕麿は規則正しい呼吸で眠った。
「武さまもこれをお飲み下さい」
水と共に差し出された錠剤を受け取り黙って飲んだ。 よく眠る夕麿に寄り添うように横になる。 すぐに眠気が襲い、彼もまた深く眠った。
それを見届けて、点滴を運んで来た看護師に任せて、全員がリビングに降りた。
「高辻先生、幾つか質問をさせて下さい」
「何でしょうか、良岑さん」
「まず、催眠術というのは誰にでも出来るものですか?」
「そうですねぇ…催眠術は医療行為です。 従って、医師免許がない者は行ってはならないのです。ですが…技術そのものは、さほど難しいものではありません。 メカニズムさえ理解すれば、ある程度使えるようになります」
「ある程度?」
「暗示にかかりやすい人は、簡単に出来ます。
ただし、夕麿さまの場合はそうは行かないでしょうね」
「だから向精神薬を使ったと?」
「恐らく。 脳の機能を一時的に低下させますから、簡単だったでしょう」
「その割には失敗したみたいだか?」
義勝が苦々しく吐き捨てる。
「命令の方法が間違っていた…という事です。 その辺りが素人の仕業と言えます」
「それは…やり方によっては…会長が命令を実行していたと?」
「可能性としては」
「武を傷付けるのなら、そっちの方が有効だからな」
「目的は…武君?」
「武を傷付けるのと…お二人を別れさせる事…でしょう」
貴之が溜息を吐く。
「武との結び付きが壊れると言うのは、夕麿には死刑宣告と同じだぞ…!」
「それがわかっていたから、武君は必死に隠そうとしたのです。 今なら、彼の様子がおかしかったのがよくわかります」
「高辻先生、夕麿はどうなりますか?」
「一応の症状はなくなったと判断出来ます。 日常生活に支障はないでしょう。ただ、しばらくは武さまと一緒に、休養をとられるべきですね。 診断書を学院側に提出しておきますから、前期試験は配慮されます」
「助かります」
「確か、この部屋は清掃などの雑用の方が配置されていましたね。 信用のおける看護士を派遣しますので、当分、その方はお断りになって下さい」
「それは俺から連絡しておきます」
「単刀直入に申しますと、催眠術をかけられたのが武さまの方でしたら、もっと危険だったと言えます。 あの方は自分に暗示をかける癖がおありになるように見受けました」
「何だかわかる気がします」
雅久が答えた。
「高辻先生、ありがとうございました」
「いいえ。 あなた方が気が付かなければ、騒ぎが大きくなったでしょう。 明後日、戸次さんの診察に来る時に、お二人の診察もいたします。
佐久間先生、これがお二人の処方箋です」
「お預かりします」
「では私はこれで」
「ありがとうございました」
全員が立ち上がって頭を下げた。 気が付くと、すっかり夜は更けていた…
夕麿は傍らの温もりを感じて目が覚めた。 武がぴったりと身を寄せて、愛らしい顔で眠っている。 微笑んで頬にかかる髪を指で払う。
「ん…?」
気怠げに目を上げた武の頬に口付けして抱き締めて囁いた。
「おはよう、武」
「あ…おはよう…」
と返事して飛び起きた。
「夕麿! 気分は?」
「大丈夫です。 もう頭痛も吐き気もありません」
「良かった…」
「心配させてしまいましたね。 それに…」
「もうあれは忘れる。 何もなかった」
「武…ありがとう」
重なる唇が互いをもっと求めようとしたその時、寝室のドアが遠慮がちにノックされた。
「入りなさい」
夕麿が身を起こして言うと、見慣れない青年が食事を運んで来た。
「君は…?」
武を守るように引き寄せて、鋭く誰何する。
「はい、高辻先生の指示でしばらく、お二人のお世話をさせていただく、看護士楠木 正信です」
「看護士…?」
「はい、そうです。 お二人には高辻先生と佐久間先生の双方から、休養なさいますように指示が出ております」
正信は二人に体温計を渡し、順番に脈をはかって手元のメモに書き込む。
「間もなく前期試験なのですが?」
「診断書が出されましたので、お二人は別途、試験をお受けになられます」
「わかりました」
試験が考慮された事で、何よりも武がホッとした顔をする。
彼は二人に気分などを聞いて、持って来た食事をベッドサイドのテーブルに置いた。
「今朝は消化の良いものを、という処方が出ていますので」
差し出されたのは粥だった。
「余り好きではないのですが…」
夕麿はそう呟くと粥を口に含んだ。 武は笑いながらやはり口に含む。
「食事も薬の内だとお思い下さい」
正信の言葉に夕麿が苦笑しながら、それでも茶碗を空にする。 ふと見ると武は途中で手を止めていた。
「武? 喉を通りませんか? 何なら喉を通りますか? 欲しいものは?」
「オレンジ・ジュースなら… でも本当に飲みたいオレンジ・ジュースは、ここにはないんだよなあ…」
「ではどこの物ならば、良いんです?」
「スーパーで普通に売ってるやつ…」
「どこが違うです?」
「……もういい…やっぱりいらない…」
「え…?」
「いらない…!」
新鮮な果物を絞ったジュースしか知らない夕麿には、武の言うスーパーのジュースが理解出来ない。 それがわかっていて、口に出してしまった事を武は後悔する。 ほとんど減っていない茶碗を返したら、武は何だか悲しい気持ちになってしまった。一度想ってしまった以前の生活に戻りたいという気持ちは、きっかけが解決しても郷愁として残っていた。
正信はちょっと武のそんな様子を観察してから言葉を紡いだ。
「脳を休ませる為に、高辻先生の許可があるまで、PCや携帯、テレビなどの液晶画面は禁止いたします。 読書も禁止です。生徒会の仕事もお考えになられませんように。
それらをお守り下さいますならば、室内での行動は自由にされて構いません。 これが朝のお薬です。ご気分が悪いなどの、体調の変化は速やかに申されますように、お願い申し上げます」
「つまんない…俺、今日は寝てる」
武は頭までシーツを被ってしまう。
夕麿としては少しがっかりだが仕方がない。 正信が階下へ降りたので自分の部屋へ行って、パジャマを普段着に着替える。 通常、パジャマで室内を歩き回る事はしない。 それは下着や裸で歩き回るのと同じと考えるのである。
夕麿は置いたままの制服や学生鞄を取りに降りてふと正信に向き直った。
「電話をかけたいのですが…?」
「短時間でしたら構いません」
その言葉に頷いて携帯を制服からだして、アドレス帳から目当ての番号を選んでコールした。
『はい』
「夕麿です」
『あら、珍しいわね?』
「実は武がここにはないオレンジ・ジュースが欲しいと」
『まあ…そんな事で夕麿さんを困らせて…』
「私にはよくわからないので」
『わかりました。 主人に言って、夕方までには学院に届けさせます。
今回の事、つい先程、学院側から説明をいただきました。 夕麿さん、余り無理はなさらないでね?』〕
「ご心配をおかけいたしました」
『一刻も早く犯人を見付けるよう、御園生からも強く要請しましたから。 あなたは治療に専念して下さいね?
武の事、お願いします』
「ありがとうございます。 それでは、よろしくお願いします」
取り敢えずはこれで武の望むものは届けられる。
夕麿はホッとして携帯を切って、リビング・テーブルに置き、制服と学生鞄を持って再び部屋へ足を運んだ。
夕方どころか昼過ぎには、届いたオレンジ・ジュースの1ダース入りケースが5箱、キッチンに積み上げられていた。 しかも丁寧にすぐ飲めるように冷やした状態で。急いで御園生 小夜子に礼の電話を入れると、有人氏の命で執事の文月が手配したと言う。
ちょうど昼食が出来上がったと言うので、ジュースも寝室へ運ばせて、正信をリビングに下がらせた。
「武、昼食の時間ですよ?」
まだベッドに寝ている武に声をかける。
「いらない」
くぐもった声だけが返された。 こんな時はどうすれば良いのか、夕麿にはわからない。 返事をした武にもわからない。
武は思う。 夕麿と自分の間には、越えられない距離があると。
それが悲しい。
それは夕麿にも感じられる事だった。
「すみません、武。 私は…外を余り知りません。 あなたがどんな場所で、どのような暮らしをして来たのかも、わからないんです」
学院都市では必要なものは何不自由なく揃えられている。 与えられないのは外部への自由。 高等部へ入学してから長期の休みには外へ出てはいたが、実家である筈の六条邸には戻る事は許されず、自分でどこかのホテルをとり、休みの間に滞在するのが精一杯だった。
親友である義勝はすでに、学院都市からの外出を許されない身であった。
今から思えば、もっと何かをするべきであったと後悔する。
「私は…何も知らないのです」
何も知らない……それすらも気が付かないで生きて来た。わからせてくれたのは、武。 けれど埋められない感覚の差に、戸惑いを感じて胸がつまる。正己や麗と外の事を話す武の笑顔。 それは自分には向けられる事はない。
それが寂しい。
それが辛い。
嫉妬すら覚える自分の浅ましさに、心を引き裂きたくなる。 いたたまれなくなって、部屋を出て行こうと踵を返すと、不意に武が飛び起きた。
「夕麿…ごめんなさい」
縋り付くような眼差しが、真っ直ぐに見上げて来る。
「あなたは何も悪くありませんよ」
「ううん。 人間はそれぞれ、生きて育った環境が違うんだから、違って当たり前だってのを忘れてた」
武は時折、こういう事を言う。 流転の人生を生きて来た母小夜子の人生観が、そのまま息子である武に反映されているのだろう。
「ね、夕麿。次の休みには、街に買い物に行こうよ、ね?」
夕麿の腕を引っ張って、ベッドに座らせて言う。
「それは、デートのお誘いですか?」
笑顔で答えた夕麿に、武が真っ赤になる。
「いや…あの…」
しどろもどろになりながら頭の片隅で、デートという言葉がグルグルする。
「うん!」
ああ、そうだった。 デートをした事がない。 学院の中で一緒にいるから、それが当たり前になっている。 そんな単純な事を忘れていた。
「夕麿はファーストフード、やファミレス知らないよね?」
「ここにはありませんから」
「よしッ!」
フォークやナイフを使わないで、手掴みでかぶりつくバーガーで驚いたり戸惑ったりする彼を見たいと思った。本当はこの学院での生活に、どうしても馴染めないでいた。 夕麿がいなかったら、生徒会のみんながいなかったら…
そんな不安が存在する。
身分とか出自とか、人間を判断する材料ではない。 そう思いながらも悠然と周囲に対峙する夕麿の姿は、その想いが庶民の憧れの裏返しであり、特権階級の人々の背負ったものを見ない、愚かさであるのでは…とも思ってしまう。
庶民の考え方や知識が常識と思っているものは、それは庶民の常識でしかない。
同時に特権階級の常識は、彼らの常識でしかない。
双方は相容れぬ部分と、曖昧な繋がりでバランスが保たれている。 どちら側も、片方の情報は操作されていて、本当が伝わるのは差し障りのない部分でしかない。
双方が重なる立ち位置にいる武には、その事が見えてしまう。 だが武には見えても、夕麿には見えない。 しかし夕麿には見えても、武には見えないものが存在する。
「俺ね…夕麿が他の人を好きになったって勘違いした時、たくさん出て来た想いの中で、自分を否定しちゃったんだ。俺より夕麿を理解出来る人がいるんだろう…むしろ俺は何にもわかってなくて、夕麿を困らせたり苦しめたりしてるんじゃないかって」
「武…」
「俺と夕麿は育った環境が違い過ぎるから、負担かけて…その…重荷になっちゃったんだろうって。 悲しいとか辛いとか…そういう感情もあったけど、俺じゃダメだったんだって。 じゃあ俺に何が出来るのか…と考えたら、とにかく、夕麿がここに閉じ込められてしまうような事態だけは防がなきゃと」
嫉妬
怒り
悲しみ
絶望
それらを封じ込めて武が選んだ事は、愛情からだとはわかっても……辛過ぎて儚過ぎる決意は諸刃でしかない。 本人が自覚出来ない程、既に傷付き疲れ果てている。しかも裏切りが裏切りでなく、誰かの作為的な悪意だった事実は、愛する人を信じなかったという刃になってまた自分を傷付ける。 誰かを守る為に自分が傷を負ってしまうのすら自覚がない。 他者を守る強さは時には、自分を蔑ろにする弱さの裏返しである場合がある。
武は余りにも脆い。 守りたい……と思う夕麿の腕をすり抜けて盾になろうとする。
「武…悪いのは私です。私がこれまで周囲にして来た事が、今、この身に返って来ているのですから」
忘れると言いながら、揺らぐ心の不安定さ。垣間見える幼子のような儚さ。 人間はたくさんの顔を持って、その時々で使い分ける。 武は常におとなの顔、物わかりの良い子供の仮面を被り続けて来た。 唯一の肉親である母親にすら、甘える事をしていなかった…と思えた。
「武、悲しい時は悲しい。 辛い時は辛い。 ちゃんと私に言って下さい」
ここでは手に入らないオレンジ・ジュース。 それを求めたわがままが、武の初めてのわがままだった。
「武、あなたが欲しいと言ったもの届いてますよ」
抱き締めて囁くと、青みがかった黒い瞳が見開かれる。 笑顔でテーブルを指差すと満面の笑みが零れた。
「昼食にしましょう?」
「うん…!」
余りの可愛さに唇を重ねて、強く抱き締めながら貪ってしまう。
「んふゥ…ンン…」
唇を離すと、武の目許がほんのりと染まっている。
「続きは昼食の後でね」
指で唇をなぞると、それだけで身体を戦慄かせる。 夕麿は昼食をベッドサイド・テーブルに移動させると、ジュースの紙パックを見せた。
「本当だ…ねぇ…どうやったの、夕麿?」
「お義母さんにお願いして、送っていただきました。 たくさんありますから、当分飲めますよ?」
「ありがとう…」
やはり武には笑顔でいて欲しいと、多少、腰にキたのを隠して夕麿は思った。
「ヤ…あ…ああッ…!」
「挿れるだけで、イッたのですか…?」
しばらく触れていなかったからと散々焦らされ、感じさせられた武は、挿れられただけであっさりとイッてしまった。
恥ずかしくて恥ずかしくて、両手で顔を隠して首を振る姿が、何とも愛らしい。
「ゴメンね。 ずっと一人にして」
首を振る武を抱き締めて耳に囁く。
「辛かった? 寂しかった?」
本当はそんなものではないだろうと思いながら言った言葉に、武は縋り付いて来た。
「寂し…かった…寂しかったよゥ…夕麿ぁ…」
「ゴメンね。 その分もシてあげましょうね」
ニッコリ笑って言うと、武は真っ赤になった。
一々反応が可愛い。
「そんな顔されたら、止まらなくなってしまいます…煽らないで、武」「あッ…あンッ…煽って…ない…夕麿…ひァ…激し…」
「今日は空っぽになるまで可愛がってあげます」
「そんな…」
妖艶な笑みを浮かべて告げられた言葉に、頬を一層染める。
「嫌?」
ちょっと残念そうに問い返すと、ふるふると首を振って縋り付いて消えそうな声で答えた。
「…シて…いっぱい…シて…」
「お望みのままに…」
「夕麿…夕麿…あンッ…あッあ…ンン…うれ…しい…」
「愛してます、武」
実は下に下りた時に高辻からの伝言がリビングで渡されていた。
今回のダメージはそれぞれがそれぞれの事情ゆえに、深く心を傷付けてしまっていると。特に武は環境の変化に対してのストレスの蓄積が著しい。だから今は溢れる愛情で包み込んで、支える必要があると。
側にいる事
抱き締めてあげる事
わがままを言わせる事
愛情には形がない……紡いだ言葉も空間に消えてしまう。 儚いからこそ、見えないからこそ、人間は言葉を紡ぎ触れ合う。不安定で不完全だからこそ、人間は求め合って不足を補おうとする。 人間はそれ故に深く迷い、 見えない先に戸惑う。 愛も憎しみも嫉妬も羨望も、迷うからこそ存在する。
この世に迷わない者はいない。 迷わない人間と思うのは、何かに目を閉じ、耳を塞いでいる自分を見ないから。
見ない事こそ罪。 知ろうとしない事こそ罪。
夕麿はつい半年前までの自分をその様に見ていた。
生徒会長執務室で、資料と格闘していた武を夕麿が呼んだ。 出てみると数人の一般生徒がいる。
「武、彼らを来期の生徒会執行部候補に決定しました」
言われて見回すと見慣れた顔があった。
「板倉!」
「武~!」
白い特待生の制服に囲まれて緊張していたのか、武に声をかけられて正己はは嬉しさのあまり武に抱き付いた。 すると夕麿が眉を吊り上げて割って入った。
「板倉君、武に気安く触らないで下さい」
「はあ…すみません」
引き剥がされて戸惑う正己に、執行部の全員が苦い顔をした。
「会長~みんなが困ってるでしょ~」
「嫉妬と独占欲も大概にしろ、夕麿」
「どうしてそう、武君が後から困る事をなさるんです、会長」
口々に非難されて赤くなって黙る夕麿に武は溜息吐く。 かつての『難攻不落の氷壁』も今は見る影もない。
「えっと…話、続けてくれる?」
武が頬を真っ赤にして促す。
夕麿はとろけそうな笑顔を返してから、一般生徒の制服を着た彼らに向き直った。
「まずは執行委員の補助として就いてもらいます。 2月の交代までに皆さんには、一通りの経験をつんでいただき、来期の役職を決定する予定です。 私の希望としては、それまでに特待生資格を皆さんが得て下さる事。
本年度の特待生は武ひとりですから現在、10人の編入枠が学院より提示されました。 つまりここにいない一般生徒にも、特待生編入資格が与えられる可能性があるわけです。
あなた方は私たち今季執行部が、様々な候補から選抜しました。 出来ればこのまま、来期の執行部入りを希望します」
特待生には学院在学中に途中編入出来るシステムがある。 特待生は特に成績が重要視される。ただ生徒会長のみは 出自が考慮される。身分の低い者に上の者が従いたがらないからである。 故に大抵生徒会長は、その年の2年生で一番出自の高い者が任命されるのが通例になっていた。
「最終的にはあなたの意向が、執行部人事を左右します。 どの役職に誰が相応しいかを見極めるのが、これからのあなたの一番の仕事になります」
「え……俺が来期の生徒会長に決まっちゃったの?」
確か1学期は候補だと言っていた筈…と武は心の中で不満を言う。
「本年度の特待生は武ひとりなんだから、そうなるのは当たり前でしょ~?」
麗がにっこり笑って言う。
「心配するな。 交代までにたっぷり鍛えてやる、覚悟しておけ、武」
「え…義勝先輩…あの…」
上から降って来た言葉に武は思わずたじろぐ。
「全員でたっぷり教育してやるから、覚悟しておけ。 課題が出来ない時には、お仕置きだぞ?」
義勝はそう言うと、意味ありげな眼差しで夕麿を振り返った。 夕麿はそれに悠然と微笑み返した。 二人の間で、武は複雑な顔をしていた。
「お前、やっぱりそっちの気あるだろ? 知ってるか? お仕置きだけじゃダメなんだぞ? ちゃんと褒美もやらないと…」
「誰に言ってるんです、義勝?」
「ほお…」
「ちょっと何の話してんだよ、二人とも!!」
武が首まで赤くなって叫んだ。 ドッと笑いがわき上がる。 生徒会執行部の皆は武の出自を知った上で、変わらないあり方で接する事を決めていた。 それが何よりも武自身が、望んでいるものであると理解しているからである。 学院側もそれを考慮して夕麿との結婚は、都市内で公表したが出自は内密にしている。 また学院内の情報屋と言われる者への口止めも貴之が徹底的に行った。 故に一般生徒でこれを知っているのは執行部の人間以外では、御披露目パーティーに招待された板倉 正己ただ一人である。 だからこそ彼は選抜されたとも言える。
生徒会メンバーは爆笑し、選抜された生徒たちが苦笑する中、一人だけ怒りに顔を染めている一般生徒がいた。
下河辺 行長。
入学式に新入生代表を辞退した武の代わりに挨拶をした人物である。 彼は特待生資格を得る試験で、僅かに成績の評価が足らず一般生徒になってしまった。 家柄も夕麿や司ほどではないもののそこそこの血筋である彼は、私生児で御園生の養子である武が特待生になり、現在高等部で一番高い出自を持つ(表向きは)夕麿を御園生に婿に迎えて、今度は次期生徒会長である。 中等部より夕麿に対して仄かな想いを抱いていた事もあり、我慢ならない心持ちでいっぱいであった。
しかも六条夫人が故意に御園生が、金で夕麿を買ったという噂を学院内に流していて、あの食堂での夕麿の謝罪を見ていない者は未だに武を嫌悪、あるいはもっと激しく憎悪の感情を抱いていた。
行長も憎悪を抱く一人だったが、表向きは知らない顔を決め込んでいた。 言わばこの選抜は夕麿に近付き武を貶める好機と思っていた。 彼にとって夕麿の横に当たり前のように立ち、生徒会メンバー全員に大切にされている武が憎くて憎くて仕方がなかった。
「では本日から、秋の紫霄学院祭の高等部の企画に入ります。 恒例行事ですがその年の生徒会ならではの色彩を出すのが通例となっています。 今回、武を中心にして、1年生に案を幾つか上げていただきます」
「監督や補助は私がさせていただきます」
「雅久は厳しいですよ、覚悟しておくのですね。
では始めて下さい。 私たちは資料室に行ってますから」
「あ、行ってらっしゃい」
武の言葉に笑顔で夕麿たちが出て行く。 残ったのは1年生と雅久、それに貴之。 彼らは会議用のテーブルに着き、武の後ろにさり気なく貴之が立った。 武の横に雅久が座って耳打ちする。
「武君、その、この前の…会長に叱られたの? ごめんね、私が無理やり聞き出したのに」
武はその言葉に首を振って答えた。
「約束を破ったのは俺だから。 雅久先輩こそ、気にしないで下さい」
「お茶を入れよう」
貴之の言葉に武が立ち上がりそうになると雅久が話し掛けた。
「武君は外部編入ですよね? 外の高校の学祭ってわかりますか?」
「以前住んでいた所が、公立校の近くだったからわかりますけど?」
「この昨年度の企画書を見て、どの辺りがどう違うのかまとめていただきたいのです」
「わかりました」
「お茶なら俺が…」
正己が名乗りを上げた。 雅久が敢えて武を引き止めた理由がわかったからである。 御園生邸で救出されて来た雅久の状態を、目の当たりにしている彼には記憶を失った話も伝えてある。それ以外の一般生徒には、事故で記憶が一部失われた……という事になっていた。
自分の過去と人間関係の記憶が消失した事実が知れ渡ると、様々な弊害が出る可能性がある。 学業や生徒会の活動には、今のところ支障はでていない。 余計な詮索や好奇の目から守る為にも、事実を明かさない…それがここの慣例でもあった。
雅久は全員に昨年度の企画書を資料として配り、正己を手伝ってお茶を配る。 当然、武に一番先に配られたわけだが、それもまた行長のプライドを逆撫でした。 だが誰もそれに気が付かない。 渡された資料に集中していたからである。
「えっと…雅久先輩、余りにも違い過ぎてよくわからないんですけど…?」
「説明して下さい」
「他校では学祭はまず、文化部の発表の場所になります。 それで、運動部や各クラスは模擬店などをするんです」
「模擬店? それは何ですか?」
模擬店などの説明に、武はかなり苦労した。余りにも学祭に対する認識が違う。 学院都市では、中・高・大が出入り自由になる以外は、保護者を初めとした外部の人間が入る事はない。 完全に閉鎖された地域での行事なのだ。 ただ学院の職員や都市で生活する人々も出入り自由になる。 それを祭りと呼んでいる状態なのだ。 文化的な発表会が行われるが、参加出来るのは一般生徒の一部に過ぎない。
「他校とここの一番違いは、生徒が全員参加で楽しむのを学祭と認識するかどうか…かな?」
「全員参加…ですか。 確かに準備と費用は掛かりますが、一考の価値はありそうですね」
「ここには体育祭もないし…」
「確かにないよね」
正己が会話に参加する。
「何故ないの?」
「かつてはあった記録はある」
「戦後、廃止になったようです」
「その分、学祭の日程が2週間に伸びたらしい」
「2週間全部を全員参加では、無理があるとは思うよ?」
「俺もそれは無理だと思う」
外部の学校の話になると中等部から編入した正己と武の独壇場である。 残りの生徒は興味深げに、頷きながら聞いていた。
「その辺りを今年の色彩にしたいですね」
雅久が色彩と言うと格別な感じがする。
「あの…」
一人が手を挙げておずおずと声を出した。
「何か良い案がありますか?」
「中等部や大学部との調整も必要だとは思いますが、それぞれに2日から3日程度の集中日をつくって、何かのイベントを織り込むのは如何でしょうか?」
「あ、なる程、えっと、名前教えて」
武の瞳が輝く。 自分は至って平凡なタイプと思っている彼は、その笑顔が他者を魅了する事を知らない。 皇家の血が持つ高貴な輝きが、彼の中で発動しつつあるのにすら気付いてはいない。
「千種 康孝と申します」
「千種か…よろしくな」
武の笑顔に雅久は同級生の中でどうしても浮いてしまう彼に、正己以外の友人をつくらせようとする夕麿の意図と優しさを見た。 記憶のない彼には以前の夕麿がどんな様子であったのかはわからない。 だが周囲の反応や聞かされたニックネームから考えて、今の彼が武と愛し合うようになって変わったらしいのはよくわかる。
夕麿にすれば自分たちは1学年上、いずれは卒業する。 どのような道を歩むとしても、この学院都市を出て行かなければならない。 一人残される武の為に同級生の友人は必要なのだ。 出自に左右されない確かな信頼を築ける友人を。 それも夕麿の愛情だと感じていた。
武は自分のおかれている状況に未だ戸惑っている。 夕麿がヨーロッパにルーツを持つ、『貴族の義務』を教えている最中だった。
『貴族の義務』~Nobility Obligeは、「身分の高い者は恩を施す」という意味である。 『Obligate(英訳)』には「恩恵を施す」の他に「道徳・法律上の義務を負わせる」という意味がある。 故に日本語では『貴族の義務』と呼ばれる。
「貴族たるもの、身分にふさわしい振る舞いをしなければならぬ」
という考えのもと自らを律して、謙虚で私欲に流されない姿勢を心掛ける。 日本や蓬莱では明治に入り『武士道』と基本的な精神が似ている為、皇家や貴族・官僚等のあり方として教育された。
戦後、貴族にも貧困が広がり成金との婚姻が増えつつある。ゆっくりと失われつつある『誇り』そのものが『貴族の義務』でもある。 夕麿は自分の実家である六条家さえ、その渦に巻き込まれつつあるのを憂う。 夕麿の『誇り』は亡き母と、彼女に従って六条家に来た乳母の教育の賜物だった。
どのような環境に投げ込まれても、夕麿を守って来た在り方。 それこそが『貴族の義務』という生き方。 だからこそ誇りある姿を貫きたかった。
夕麿は皇家直系男子としての誇りを武に教えたかった。 彼は皇家特有の血の輝きを持っている。 出自を告げて相手が反応するのではなく、武自身の所作や言葉が周囲を動かすようになって欲しいと。 だから武の出自を知っている者にまず示してみせる。 時には尊大である事も必要な事だと。 従う者に対する礼儀としての尊大さがあるのだと。 仕える者の役目や立場を守る為の尊大さが必要なのだ。 そういう事も含めて武に学んで欲しいと事ある毎に話し教えていた。
生徒会長になって同級生や下級生の頂点に立つ事で学べるものもある。 出自を新しく選抜した候補たちに伏せたままなのもそこから得るものがあるのを、現会長である夕麿自身が誰よりも理解しているからである。ちなみに学院では出自の身分を重視する。
例えば夕麿は摂関家である六条家の出身であり、母は皇家縁戚の宮家の女系の末裔である。 御園生に入り婿したが 外のルールでは入り婿した時点で元の身分はリセットされてしまう。しかし貴族社会では元々の 出自で立場が左右される。従って私生児として認識されたままである武は、彼らにすれば最も身分卑しき者という事になる。 ゆえに行長は武に対して憎悪の感情を持たずにはいられなかった。
その日は月曜日だが祝日だった。
このところ生徒会の雑務が多く、会長である夕麿は連日遅くまで詰めており、昨日の日曜日も朝からずっと夕方まで寮の部屋には戻らなかった。 武も昼過ぎまでは手伝っていたが、出来る事は限られていた為、貴之に送られて寮に戻ってそのまま夕麿の帰りを待っていた。
月曜日、武に出来る事は、夕麿たちに手作りのお弁当を届ける事だけだった。 武は貴之に連絡してわざわざ迎えに来てもらい、重箱を抱えて特別棟の生徒会室に来た。
「風紀委員長、あのご相談が……」
生徒会室の扉の前で、風紀委員らしい生徒が声をかけて来たので、武は貴之に手を振って一人で生徒会室へと入った。
室内には誰の姿もなかった。 武は重箱を会議室の机に置くと、会長執務室へと足を向ける。
ドアが少し開いていた。 夕麿や他の皆には、昨日のうちにお弁当の事は言ってはある。 それでも中で仕事をしているだろう夕麿に、声だけはかけて貴之を待って寮に帰ろうと思っていた。
武がノックをしようとすると中から微かに声が聞こえた。
「……メ…」
クスクス笑いに混じる声音はまるで睦言のように聞こえる。 夕麿が執務室を離れている間に、誰かが無断で宜しくない利用の仕方をしているのかもしれない。 相手を確認して夕麿に話す事にしようとそっと執務室を覗いた。
執務机が置いてある奥に、休息用のカウチがある。 その上でシャツのボタンを外して、上半身を露わにした生徒が横たわり、その胸に顔を埋める者の後ろ姿が見えた。
「ふふ……ダメですったら……今夜部屋で……」
横たわる者の顔は武の立っている位置からは見えない。 ただ制服の色は一般生徒の物だというのはわかった。
そして…… 組み敷く後ろ姿は、武が絶対に見間違う筈のない人物… …
「……夕麿……」
ショックの余りその後自分がどこをどう動いたのか記憶がない。 気が付くと寮の部屋のリビングに佇んでいて、ポケットで激しく携帯が鳴っていた。
貴之からだった。
「はい……」
「今、どこに?」
「すいません…考え事してたら…帰って来てました…」
一人で帰った事を詫びて携帯を切る。
零れ落ちる涙が止まらない。 床に崩れるようにへたり込んで涙を流し続けた。 今し方目撃した光景を、心が全力で拒否している。
信じたくない。 別の誰かだと思いたかった。
どれくらいそうしていたのだろう。 部屋を見回すと既に薄暗くなっていた。 ノロノロと立ち上がって灯りを点すと、ソファに座って考え込んだ。
この事は絶対に誰かに知られてはならない。 義勝や雅久にも。 誰かに知られれば必ず御園生に伝わる。 それは夕麿には死刑宣告にも等しい事態を招く。 御園生も祖父である皇帝も武を裏切った事を絶対に許さないだろう。 御園生の庇護を失えば、彼は学院都市から生涯出れない身になる。 それだけは防がなければならない。
武は自分との関係で夕麿の人生が、左右されてしまうのは我慢ならない。 あってはならない事だと思う。 だがそれがおとなたちの決めたルールならば、全てを隠してしまえば良いのだ。
夕麿を守る。
その為ならなんでもする。 自分を取り戻した武が真っ先に考えたのは、裏切りを責める事ではなく事実を漏らさないように陰徳する事だった。
辛くないわけはない。
悲しくないわけではない。
けれど一番に考えるのは愛する人の事。 夕麿が幸せならばそれで良い。 それが武の純粋な想いだった。
人間の心は移ろいやすい。 それを責めてはならないと。 もう充分に愛してもらった。 だから後は夕麿の望むままに。 武は噛んで飲み込むように、自分自身に言い聞かせた。悲しい顔、辛そうな顔はしてはならない。 変わりなく笑顔でいよう。 夕麿の幸せだけを祈ろう。 他には何もしてあげれないから。 全てをこの胸の内に納めて生きて行こう。
心は決まった…
夕麿が帰って来たのは、11時を少し過ぎた頃だった。
武は自分の部屋で、間もなく実施される前期試験の勉強をしていた。 途中、貴之から夕食をどうするかと連絡を受けたが、食材があるので自分でつくると返事した。 本当は食欲がなかったから、冷蔵庫のオレンジジュースをグラスに一杯飲んだだけだが…
「武、勉強ですか?」
寝室からかけられた声に軽く返事をする。
「すみません、疲れているので先に休みます」
「あ、うん…おやすみなさい」
「お休み」
確かに夕麿の声は疲れた感じを受けた。 程なく寝室の灯りが消され、武の耳に響くのは武自身がたてる音だけになった。
武の想いとは関係なく、夜は更けて行った。
次の日もその次の日も夕麿は遅くに帰って来た。 どちらも寝室越しに言葉を交わしただけで、顔を合わせていない。朝も起きると早々に出て行く。 昼休みも教室から姿を消し食堂にも来ず、5時限目の開始ギリギリに戻って来る。
3日目の深夜、武はそっと枕灯の薄明かりの下で眠る夕麿を見つめていた。 溢れそうになる涙をこらえて、指先で唇に触れる。 ただ無言でしばらく見つめて、枕灯を消して寝室を出た。
この3日、ベッドで眠ってはいない。 2日間は机にいつの間にか突っ伏して眠っていた。 今日はさすがに眠っておこうと、膝掛け用の毛布を手にリビングに降りた。 残暑はようやくおさまり出したので、空調が止まっていても大丈夫なように思えた。
暗闇の中にいると、これまでの事が夢の中の出来事のように感じる。 目が覚めると母と暮らしていたアパートに、いるのではないかと思ってしまう。何も知らなかったあの頃に戻れないのはわかっている。 知ってしまった想い、温もりを忘れる事も、消す事も出来ない。 大切に宝物のように守って行く。 それしか出来ないから。 武は膝掛けの角を握り締めて静かに目を閉じた。
「…武…武…?」
揺り動かされて目が覚めた。 しまった、寝過ぎたと、飛び起きると夕麿が覗き込んでいた。
「こんな所で何をしているんです」
ベッドで眠っていないのを知られてしまった。 武は懸命に動揺する心を静めて、夕麿を見上げて笑顔を向けた。
「なんか夕麿が疲れているみたいだったから…ゆっくり寝て欲しくて…あはは、早く起きようと思ってたのに寝過ごした。
バレちゃった」
ペロリと舌を出しておどける。
「馬鹿な事を…私の事より、もっと自分を大切にして下さい」
顔を曇らせる夕麿に武が慌てた。 余計な心配や心遣いをさせたくはない。 今、優しい気遣いをされたら、心が折れてしまう。
「ごめんなさい」
素直に謝罪すると夕麿は笑顔で武を抱き締めた。
「ありがとう、武。 お陰で良く眠れました」
「余り無理しないでね、夕麿」
身を預けて目を閉じる。 今は少しだけこの温もりに甘えていたかった。 誰かに返さなくてはならなくとも。 この瞬間だけは夕麿を独り占めしていたかった。
「今日は少し余裕がありますから、朝食を一緒に摂って登校しましょう」
「え……? いいの?」
花が咲いたような笑顔で見上げると、唇が重ねられた。 軽く触れるだけのキス。 心が震え、泣きたくなる。 他の誰かに心を移しても、夕麿はやっぱり優しい。
こうして側にいられるだけで良い。
食堂に降りて生徒会のみんなと共に朝食を摂り、賑やかに校舎へと向かう。 途中で正己たちも合流して、話題は前期試験へと移る。特待生には重要な意味を持つ試験である。 万が一、これの成績が定められた水準以下になると資格を剥奪されてしまう。 決して安泰な立場ではないという事だ。
武は1年生ただ一人の特待生として、水準どころか成績を落とす事自体許されない。
夕麿も生徒会長として、常にトップでいなければならない。すぐ後ろに義勝や貴之がいる。 わずかな失点で順位は動く。 多忙は言い訳にはならない。
試験は全ての教科に及ぶ。 一般生徒は幾つかの選択科目があるが、特待生はそれら全てを網羅しなければならない。 名誉と誇りに掛けて。
「武、また一緒に勉強してくれよ!」
正己が泣き付く。
「そんな余裕ないよ!」
いっぱい一杯だと悲鳴を上げると苦笑が漏れる。
そう誰も気付いていない。 これで良いのだ。 変わらずにいる事が自分の役目。 これもまた名誉と誇りを掛ける事。 夕麿が大切にするものを守る事。 それは自分にしか出来ないのだと、武は再び自分自身に言い聞かせた。
長時間、PCの液晶画面を見つめていると、頭の芯からズキズキと痛み出す。 夕麿は背もたれに身を預けて、深い溜息を吐いた。
「義勝、今日はこの辺で終わりましょう」
「今日もこんな時間か…今週中には何とかなりそうだな」
「そうですね。 さあ、寮へ帰りましょう」
「ああ」
二人は生徒会室を施錠し特別棟を施錠して寮へ向かう。
「武だが…」
「武が何か?」
「様子がおかしいように見えるんだが、何かあったのか?」
「別に…何もありませんが? どのようにおかしいと言うのです、義勝?」
「ちょっと見にはわからないんだが…笑い顔なのに目が時々笑ってない。
何か心当たりはないか?」
「ここのところ…ちゃんと会話をしてませんから…寂しいのを我慢してくれているのでしょう」
「だと良いが…武は溜め込む性格だって事を忘れるなよ」
「そうですね。 今少し注意してみます」
指摘されるまで伴侶の変化に、気付けないでいた自分を夕麿は叱りつけたくなった。 義勝は安易な事で他者の間に口出しする人間ではない。 口を出すからにはそれなりの理由がある。 この場合それ程、武の様子がおかしいと言う事になる。
「夕食は貴之や雅久が声を掛けても、自分でつくると言うらしい。 朝食は部屋で摂っているんだよな?」
「武が毎朝用意してくれますので」
「ちゃんと食べてるか? 雅久の話によると、昼食は軽いものしか摂っていないようだ。確か、例の慈園院の騒動の頃に、ストレスで似たような事になっていただろう」
「試験前でストレスがあるのかもしれません。ですが忠告は有り難くいただきますよ、義勝」
「雅久も心配している」
「彼にも礼を言っておいて下さい。 ところであなた方の方はどうなのです?」
義勝はその問い掛けに鮮やかに笑って見せた。
「ゆっくりと焦らず、それなりにな…」
「そうですか。 武が心配してましたから」
「ああ、俺たちは大丈夫だ」
「私は心配はしていません」
「じゃあな、お休み」
「ええ、おやすみなさい」
義勝と別れて部屋へ入ると、今夜も武は自室に籠もっていた。 螺旋階段を上がって寝室に入った。 連日のオーバー・ワークで、身体は疲れ切って重い。 制服からパジャマに着替えるのも億劫に感じる。
「武?」
声を掛けると、少し間を置いて返事が返って来た。
「余り根を詰めないで下さいね」
「うん、ありがとう。 夕麿こそ疲れてるんじゃない? 構わず早く寝て。 俺も区切りつけたら寝るから」
「すみません、その言葉に甘えさせて貰いますね」
「おやすみなさい」
「お休み」
優しい心遣いは変わらない。 壁越しの会話では、彼がどんな表情をしているのかはわからない。 だが今の夕麿にその余裕はなく、倒れ込むようにベッドに横になり、すぐに記憶が途切れた。
寝入ってしまったらしい。 目が覚めて枕元の時計を見ると、6時半をさしていた。 その瞬間、傍らにある筈の温もりがないのに気が付いて身を起こした。 枕は整えられたまま、彼が眠った形跡がない。
夕麿は慌てて隣の彼の部屋を覗いた。
武の姿はない。
寝室を出て螺旋階段を降りると、ソファで眠っているのを発見した。 残暑が終わり少しずつ気温が下がっている中で、膝掛けだけで眠っている。
「武…武?」
声をかけて身体を揺らすと目を覚ました。 ソファで眠っているわけを聞きはしたが、何となく違和感がある。
抱き締めると身を預けては来る。 だがいつもは縋り付いて来るのに… …唇を重ねても、やはり縋り付いて来ない。 向けて来る笑顔のほんの少し前、一瞬だけ武の瞳が悲しい色を帯びた。 寂しさ故のものではないと、直感的に思う。 言い知れぬ不安に心がざわ付く。
だが理由がわからない。
朝食を共に食堂で摂り皆と登校する間もずっと、武を観察して考えるがどうしてもわからない。
試験への不安に見せ掛けている… …本当の原因はそこにはないのではないか。 しかもそれは、間違いなく自分が関わるものだとなんとなく感じていた。
なのにわからない。 武の態度から察すると、恐らく聞いても簡単に話さないだろう。
どうすれは良い?
戸惑いながらも生徒会の方で、抱えている案件があと一歩で決着が付く。 不安を抱きながらままならぬ状態に、苛立ちながらもPCのキィを叩き続けた。
全てが片付いたのは、金曜日の8時頃だった。
「義勝、後をお願いします」
武の様子について義勝には話してある。
「わかったから、早く戻ってやれ」
駆け出して行く夕麿の背中に投げかけられた言葉を追い風に、全速力で寮の部屋に駆け戻った。
「夕麿…どうしたの?」
息を乱して戻って来た夕麿に武は驚いた顔をした。
「やっと片付いたので、あなたの顔が早く見たかったのです」
一瞬戸惑い、それから笑顔になる。
「何それ…」
だがどこか笑顔になり切れない顔が泣き顔に見えた。
手を伸ばすと僅かに退く。
「寂しかったでしょう? ごめんね、ずっと一人にして」
その言葉に武は小さく首を振る。
「食事は?」
「さっき、雅久先輩と貴之先輩と一緒に」
「そう」
会話が途切れる。
「俺…勉強があるから…」
沈黙を振り切るように、言葉を残して階段を上がって行った。
夕麿はしばらく上を見上げていたが、焦らずにゆっくりと武と向かい合おうと想い直して、バスタブに湯を溜め始めた。
ハーブ系の入浴剤を入れて、湯の中で身を解す。
「ふぅ…」
目が回るような一週間だった。 週明けからは試験準備期間になる。 さすがに前期試験のハードさは学院も心得ていて、週明けからは特待生も午前中のみの授業になる。
それにしても…… いつから武は様子が変わったのだろうか?
「痛ッう…」
一週間を振り返ろうとした途端、頭に痛みが走った。 同時にフラッシュのように、何かの断片のような記憶が浮かんで消えた。 それを追いかけて捕まえようとすると、再び頭痛が稲妻のように貫く。
何かがおかしい。
だが痛みに遮られて、追い掛けられない。 夕麿は頭痛が呼び起こす、眩暈と吐き気の中、早々に浴室から出た。 気力を振り絞って、リビングのソファに身を投げ出す。
ただの疲れとは明らか違う。
朦朧とする意識の中、異変を感じたらしい武が螺旋階段を降りて来るのが見えた。
武が部屋から出て来たのは、浴室のドアの音の響きが異様だったからだ。 普段の夕麿はドアの開閉に極力音を立てない。 それが乱暴としか言えない音がした。 様子を見に出て見ると、ソファに夕麿が倒れかかっていた。
「夕麿!」
階段を駆け降りて触れると、浴室から出たばかりだというのに、異様に体温が低い。 武は慌てて隣の部屋の貴之に助けを求める電話をかけた。 程なくして貴之だけではなく、義勝と雅久も駆け付けて来た。
「今、校医を呼んだから」
貴之と義勝が二人がかりで、夕麿を寝室に運び込んだ。
駆けつけた校医に、途切れ途切れに症状を話す夕麿の言葉に、義勝と雅久が顔を見合わせた。 校医は過労以外の原因を思い付かない様子だった。 処方した点滴が届くのを待つ間、義勝が校医にその場を任せてリビングに誘った。
「どうした、義勝?」
「症状が似ている」
貴之な問い掛けにポツリと呟かれた言葉に、雅久が頷いて言葉を繋いだ。
「私は…私が記憶を…記憶に関わりのある事に触れた時に、今の会長と同じ状態になります」
雅久の言葉に武と貴之が絶句する。
「義勝、私の主治医に連絡を。 事情を話してすぐに往診に来てもらって下さい。 もし似たような理由ならば、早く手を打たないと…いつまでも苦しみます。
私は義勝がすぐに薬を飲ませてくれますので、何とか治まるのですが…」
その言葉に武は苦しげに胸元を押さえて寝室を見上げた。
「俺…夕麿の側にいる…」
螺旋階段を駆け上がって寝室に入ると、夕麿はベッドの上でシーツを掻き毟るようにして苦しんでいた。 校医は青ざめて首を振った。
「痛み止めが効きません」
ベッドサイドのテーブルには、夕麿が吐いたらしいものがあった。
「夕麿…」
キングサイズのベッドに上がり、苦しむ夕麿を抱き起こした。 びっしょりと汗をかき、噛み締めた口から耐え切れない苦痛の呻きが漏れる。 握った手が凄まじい力で握り返され、彼が味わっている苦痛を物語っていた。
しばらくして、下でインターホンが鳴った。 どうやら義勝が呼んだ、雅久の主治医が来たらしい。彼は記憶を失ってから雅久は週に3回程、精神科の医師の診察を受けている。
恐らく下で誰かが説明しているのだろう。 誰も上がって来ない。 武は苦しむ夕麿を腕に抱いて苛立つ。するとまだ若いスーツ姿の男が寝室に入って来た。 その後に義勝たちが続く。
「失礼します」
彼は夕麿の手を取って、脈をはかる。
「痛み止めは?」
「投与しましたが、効いていません」
「ふむ」
医師はポケットから小さな包みを取り出し、夕麿の目前に差し出して包みを解いた。 中から出て来たのは、クラックの入った水晶玉。それに下からライトを当てて、穏やかな口調で語りかけた。
「夕麿さま…光の中心を見つめて下さい。 そう…ジッと見つめて…綺麗でしょう…」
武の手を握り締めていた手が落ちた。 驚いて見上げた武に医師は頷いた。
「やはり一度、誰かにかけられていますね。 反応が早いです。
伺ったご性格から判断しますと、最初のは恐らく向精神薬を飲まされた上ででしょう」
「向精神薬!? そんなもの…どうやって…」
「飲まされた可能性があるのは、生徒会室だな…夕麿が一人になったの月曜日の昼前後しかない。」
「昼前後…?」
武と貴之の声がハモった。 みるみるうちに武の顔が強張る。
「では月曜日の昼前後まで、記憶を遡っていただきます」
ゆっくりと順番に時間が遡って行く。 その日その時間、彼がどこで何をしていたのかがその口から語られる。
「大体何時かわかりますか?」
「最後に生徒会室を出たのは俺だ。 武をここへ迎えに来た」
「うん…12時10分くらいだったと思う」
「それから生徒会室へ向かった。前で一年生の風紀委員に声をかけられた時に見た腕時計は、20分を少し過ぎたくらいだ」
「では、あなたが生徒会室を後にしたのは、逆算すると12時くらいと考えるべきですね。
夕麿さま…今、良岑 貴之さんが生徒会室を出て行かれました。 武さまを迎えに行かれたのです」
夕麿が頷いた。
「12時です。夕麿さま、あなたは何をされていますか?」
「…ハッキングされた生徒会のPCデータの…被害状況をチェックしています…」
「ハッキング!?」
「月曜日の朝に発覚した。 俺はその時間、学院側に被害はないか調べに行っていた」
「時計を5分進めます。12時5分、あなたは何をされていますか? あなたは一人ですか?」
「チェックを続けています…一人です」
「では1分ずつ時計を進めて行きます。 誰かが執務室に入って来たら教えて下さい…6分…7分…8分…」
時計を進めて行く声に夕麿が、反応したのは16分になった時だった。 誰かがお茶を運んで来たと言う。
「それは夕麿さまがご存知の方ですか?」
夕麿は無言で頷く。
「その人物の名前を仰って下さい」
その言葉に夕麿は眉間にシワを寄せて首を振る。
「わかりました。 お茶は召し上がったのですね?」
また頷く。
「お茶の味は如何でした?」
「不味い…」
「でもあなたは、運んで来た方を気遣って飲まれたのですね?」
また頷く。
「それから?」
「眩暈がして…気分が悪くなりました…」
そこにいた全員が息を呑んだ。
「それから?」
「カウチに…少し休もうと…」
「それはご自分で判断されましたか?」
首を振る。
「お茶を運んで来た方が、すすめたのですね?」
頷く。
「それから?」
「武…」
「武さまが来られたのですか?」
首を振る。 戸惑うような素振りがあって、夕麿は口を開いた。
その内容に武が奥歯を噛み締め、他は怒りに顔を染めた。 お茶を運んだ人物は、カウチで夕麿を催眠状態にして命じたのである。自分を抱けと… …だが夕麿は武が目撃した状態までしか、命令を聞かなかった。
武を裏切れない… …そう呟いた。
「相手の名前は…?」
再びの問い掛けに、夕麿は激しく拒否反応を示した。
「これ以上は無理です。 夕麿さま、今から3つ数える間に、ゆっくりと目が覚めます。今あなたが話された内容を今度は覚えています。
1…2…3…目覚めます」
夕麿がゆっくりと目を開いた。
「私は…一体…」
「催眠術です、夕麿さま」
「催眠術? あ……」
お茶を運び催眠術にかけた人物を思い出していないが、それ以外はありありと記憶が蘇った。
「武…あの時、入って来たのは…」
「俺だよ…」
その言葉に夕麿が悲痛な顔をした。 途中までとはいえ、武以外の人間に触れた。 それを武は見た。彼の様子がおかしかった理由。 避けるような行動をとられた理由。 全てが理解出来た。
「武…私は…」
「夕麿が悪いんじゃない。ごめんなさい。 俺、夕麿を疑った」
あんな光景を見て平気な者などいない。 だが武は問い詰めも罵りもしなかった。 何も見なかったふり、何もなかったふりを続けてくれた。
「武…」
自分を抱き締めている手に触れて見上げると、武は笑顔を向ける。
「夕麿さま、今はお休み下さい」
精神科医の指示で、看護師が点滴を持って近づいた。 武は夕麿をベッドに横にならせ下がった。
腕に点滴針が刺され、途中の接続部分から別途薬剤が注入された。 程なく夕麿は規則正しい呼吸で眠った。
「武さまもこれをお飲み下さい」
水と共に差し出された錠剤を受け取り黙って飲んだ。 よく眠る夕麿に寄り添うように横になる。 すぐに眠気が襲い、彼もまた深く眠った。
それを見届けて、点滴を運んで来た看護師に任せて、全員がリビングに降りた。
「高辻先生、幾つか質問をさせて下さい」
「何でしょうか、良岑さん」
「まず、催眠術というのは誰にでも出来るものですか?」
「そうですねぇ…催眠術は医療行為です。 従って、医師免許がない者は行ってはならないのです。ですが…技術そのものは、さほど難しいものではありません。 メカニズムさえ理解すれば、ある程度使えるようになります」
「ある程度?」
「暗示にかかりやすい人は、簡単に出来ます。
ただし、夕麿さまの場合はそうは行かないでしょうね」
「だから向精神薬を使ったと?」
「恐らく。 脳の機能を一時的に低下させますから、簡単だったでしょう」
「その割には失敗したみたいだか?」
義勝が苦々しく吐き捨てる。
「命令の方法が間違っていた…という事です。 その辺りが素人の仕業と言えます」
「それは…やり方によっては…会長が命令を実行していたと?」
「可能性としては」
「武を傷付けるのなら、そっちの方が有効だからな」
「目的は…武君?」
「武を傷付けるのと…お二人を別れさせる事…でしょう」
貴之が溜息を吐く。
「武との結び付きが壊れると言うのは、夕麿には死刑宣告と同じだぞ…!」
「それがわかっていたから、武君は必死に隠そうとしたのです。 今なら、彼の様子がおかしかったのがよくわかります」
「高辻先生、夕麿はどうなりますか?」
「一応の症状はなくなったと判断出来ます。 日常生活に支障はないでしょう。ただ、しばらくは武さまと一緒に、休養をとられるべきですね。 診断書を学院側に提出しておきますから、前期試験は配慮されます」
「助かります」
「確か、この部屋は清掃などの雑用の方が配置されていましたね。 信用のおける看護士を派遣しますので、当分、その方はお断りになって下さい」
「それは俺から連絡しておきます」
「単刀直入に申しますと、催眠術をかけられたのが武さまの方でしたら、もっと危険だったと言えます。 あの方は自分に暗示をかける癖がおありになるように見受けました」
「何だかわかる気がします」
雅久が答えた。
「高辻先生、ありがとうございました」
「いいえ。 あなた方が気が付かなければ、騒ぎが大きくなったでしょう。 明後日、戸次さんの診察に来る時に、お二人の診察もいたします。
佐久間先生、これがお二人の処方箋です」
「お預かりします」
「では私はこれで」
「ありがとうございました」
全員が立ち上がって頭を下げた。 気が付くと、すっかり夜は更けていた…
夕麿は傍らの温もりを感じて目が覚めた。 武がぴったりと身を寄せて、愛らしい顔で眠っている。 微笑んで頬にかかる髪を指で払う。
「ん…?」
気怠げに目を上げた武の頬に口付けして抱き締めて囁いた。
「おはよう、武」
「あ…おはよう…」
と返事して飛び起きた。
「夕麿! 気分は?」
「大丈夫です。 もう頭痛も吐き気もありません」
「良かった…」
「心配させてしまいましたね。 それに…」
「もうあれは忘れる。 何もなかった」
「武…ありがとう」
重なる唇が互いをもっと求めようとしたその時、寝室のドアが遠慮がちにノックされた。
「入りなさい」
夕麿が身を起こして言うと、見慣れない青年が食事を運んで来た。
「君は…?」
武を守るように引き寄せて、鋭く誰何する。
「はい、高辻先生の指示でしばらく、お二人のお世話をさせていただく、看護士楠木 正信です」
「看護士…?」
「はい、そうです。 お二人には高辻先生と佐久間先生の双方から、休養なさいますように指示が出ております」
正信は二人に体温計を渡し、順番に脈をはかって手元のメモに書き込む。
「間もなく前期試験なのですが?」
「診断書が出されましたので、お二人は別途、試験をお受けになられます」
「わかりました」
試験が考慮された事で、何よりも武がホッとした顔をする。
彼は二人に気分などを聞いて、持って来た食事をベッドサイドのテーブルに置いた。
「今朝は消化の良いものを、という処方が出ていますので」
差し出されたのは粥だった。
「余り好きではないのですが…」
夕麿はそう呟くと粥を口に含んだ。 武は笑いながらやはり口に含む。
「食事も薬の内だとお思い下さい」
正信の言葉に夕麿が苦笑しながら、それでも茶碗を空にする。 ふと見ると武は途中で手を止めていた。
「武? 喉を通りませんか? 何なら喉を通りますか? 欲しいものは?」
「オレンジ・ジュースなら… でも本当に飲みたいオレンジ・ジュースは、ここにはないんだよなあ…」
「ではどこの物ならば、良いんです?」
「スーパーで普通に売ってるやつ…」
「どこが違うです?」
「……もういい…やっぱりいらない…」
「え…?」
「いらない…!」
新鮮な果物を絞ったジュースしか知らない夕麿には、武の言うスーパーのジュースが理解出来ない。 それがわかっていて、口に出してしまった事を武は後悔する。 ほとんど減っていない茶碗を返したら、武は何だか悲しい気持ちになってしまった。一度想ってしまった以前の生活に戻りたいという気持ちは、きっかけが解決しても郷愁として残っていた。
正信はちょっと武のそんな様子を観察してから言葉を紡いだ。
「脳を休ませる為に、高辻先生の許可があるまで、PCや携帯、テレビなどの液晶画面は禁止いたします。 読書も禁止です。生徒会の仕事もお考えになられませんように。
それらをお守り下さいますならば、室内での行動は自由にされて構いません。 これが朝のお薬です。ご気分が悪いなどの、体調の変化は速やかに申されますように、お願い申し上げます」
「つまんない…俺、今日は寝てる」
武は頭までシーツを被ってしまう。
夕麿としては少しがっかりだが仕方がない。 正信が階下へ降りたので自分の部屋へ行って、パジャマを普段着に着替える。 通常、パジャマで室内を歩き回る事はしない。 それは下着や裸で歩き回るのと同じと考えるのである。
夕麿は置いたままの制服や学生鞄を取りに降りてふと正信に向き直った。
「電話をかけたいのですが…?」
「短時間でしたら構いません」
その言葉に頷いて携帯を制服からだして、アドレス帳から目当ての番号を選んでコールした。
『はい』
「夕麿です」
『あら、珍しいわね?』
「実は武がここにはないオレンジ・ジュースが欲しいと」
『まあ…そんな事で夕麿さんを困らせて…』
「私にはよくわからないので」
『わかりました。 主人に言って、夕方までには学院に届けさせます。
今回の事、つい先程、学院側から説明をいただきました。 夕麿さん、余り無理はなさらないでね?』〕
「ご心配をおかけいたしました」
『一刻も早く犯人を見付けるよう、御園生からも強く要請しましたから。 あなたは治療に専念して下さいね?
武の事、お願いします』
「ありがとうございます。 それでは、よろしくお願いします」
取り敢えずはこれで武の望むものは届けられる。
夕麿はホッとして携帯を切って、リビング・テーブルに置き、制服と学生鞄を持って再び部屋へ足を運んだ。
夕方どころか昼過ぎには、届いたオレンジ・ジュースの1ダース入りケースが5箱、キッチンに積み上げられていた。 しかも丁寧にすぐ飲めるように冷やした状態で。急いで御園生 小夜子に礼の電話を入れると、有人氏の命で執事の文月が手配したと言う。
ちょうど昼食が出来上がったと言うので、ジュースも寝室へ運ばせて、正信をリビングに下がらせた。
「武、昼食の時間ですよ?」
まだベッドに寝ている武に声をかける。
「いらない」
くぐもった声だけが返された。 こんな時はどうすれば良いのか、夕麿にはわからない。 返事をした武にもわからない。
武は思う。 夕麿と自分の間には、越えられない距離があると。
それが悲しい。
それは夕麿にも感じられる事だった。
「すみません、武。 私は…外を余り知りません。 あなたがどんな場所で、どのような暮らしをして来たのかも、わからないんです」
学院都市では必要なものは何不自由なく揃えられている。 与えられないのは外部への自由。 高等部へ入学してから長期の休みには外へ出てはいたが、実家である筈の六条邸には戻る事は許されず、自分でどこかのホテルをとり、休みの間に滞在するのが精一杯だった。
親友である義勝はすでに、学院都市からの外出を許されない身であった。
今から思えば、もっと何かをするべきであったと後悔する。
「私は…何も知らないのです」
何も知らない……それすらも気が付かないで生きて来た。わからせてくれたのは、武。 けれど埋められない感覚の差に、戸惑いを感じて胸がつまる。正己や麗と外の事を話す武の笑顔。 それは自分には向けられる事はない。
それが寂しい。
それが辛い。
嫉妬すら覚える自分の浅ましさに、心を引き裂きたくなる。 いたたまれなくなって、部屋を出て行こうと踵を返すと、不意に武が飛び起きた。
「夕麿…ごめんなさい」
縋り付くような眼差しが、真っ直ぐに見上げて来る。
「あなたは何も悪くありませんよ」
「ううん。 人間はそれぞれ、生きて育った環境が違うんだから、違って当たり前だってのを忘れてた」
武は時折、こういう事を言う。 流転の人生を生きて来た母小夜子の人生観が、そのまま息子である武に反映されているのだろう。
「ね、夕麿。次の休みには、街に買い物に行こうよ、ね?」
夕麿の腕を引っ張って、ベッドに座らせて言う。
「それは、デートのお誘いですか?」
笑顔で答えた夕麿に、武が真っ赤になる。
「いや…あの…」
しどろもどろになりながら頭の片隅で、デートという言葉がグルグルする。
「うん!」
ああ、そうだった。 デートをした事がない。 学院の中で一緒にいるから、それが当たり前になっている。 そんな単純な事を忘れていた。
「夕麿はファーストフード、やファミレス知らないよね?」
「ここにはありませんから」
「よしッ!」
フォークやナイフを使わないで、手掴みでかぶりつくバーガーで驚いたり戸惑ったりする彼を見たいと思った。本当はこの学院での生活に、どうしても馴染めないでいた。 夕麿がいなかったら、生徒会のみんながいなかったら…
そんな不安が存在する。
身分とか出自とか、人間を判断する材料ではない。 そう思いながらも悠然と周囲に対峙する夕麿の姿は、その想いが庶民の憧れの裏返しであり、特権階級の人々の背負ったものを見ない、愚かさであるのでは…とも思ってしまう。
庶民の考え方や知識が常識と思っているものは、それは庶民の常識でしかない。
同時に特権階級の常識は、彼らの常識でしかない。
双方は相容れぬ部分と、曖昧な繋がりでバランスが保たれている。 どちら側も、片方の情報は操作されていて、本当が伝わるのは差し障りのない部分でしかない。
双方が重なる立ち位置にいる武には、その事が見えてしまう。 だが武には見えても、夕麿には見えない。 しかし夕麿には見えても、武には見えないものが存在する。
「俺ね…夕麿が他の人を好きになったって勘違いした時、たくさん出て来た想いの中で、自分を否定しちゃったんだ。俺より夕麿を理解出来る人がいるんだろう…むしろ俺は何にもわかってなくて、夕麿を困らせたり苦しめたりしてるんじゃないかって」
「武…」
「俺と夕麿は育った環境が違い過ぎるから、負担かけて…その…重荷になっちゃったんだろうって。 悲しいとか辛いとか…そういう感情もあったけど、俺じゃダメだったんだって。 じゃあ俺に何が出来るのか…と考えたら、とにかく、夕麿がここに閉じ込められてしまうような事態だけは防がなきゃと」
嫉妬
怒り
悲しみ
絶望
それらを封じ込めて武が選んだ事は、愛情からだとはわかっても……辛過ぎて儚過ぎる決意は諸刃でしかない。 本人が自覚出来ない程、既に傷付き疲れ果てている。しかも裏切りが裏切りでなく、誰かの作為的な悪意だった事実は、愛する人を信じなかったという刃になってまた自分を傷付ける。 誰かを守る為に自分が傷を負ってしまうのすら自覚がない。 他者を守る強さは時には、自分を蔑ろにする弱さの裏返しである場合がある。
武は余りにも脆い。 守りたい……と思う夕麿の腕をすり抜けて盾になろうとする。
「武…悪いのは私です。私がこれまで周囲にして来た事が、今、この身に返って来ているのですから」
忘れると言いながら、揺らぐ心の不安定さ。垣間見える幼子のような儚さ。 人間はたくさんの顔を持って、その時々で使い分ける。 武は常におとなの顔、物わかりの良い子供の仮面を被り続けて来た。 唯一の肉親である母親にすら、甘える事をしていなかった…と思えた。
「武、悲しい時は悲しい。 辛い時は辛い。 ちゃんと私に言って下さい」
ここでは手に入らないオレンジ・ジュース。 それを求めたわがままが、武の初めてのわがままだった。
「武、あなたが欲しいと言ったもの届いてますよ」
抱き締めて囁くと、青みがかった黒い瞳が見開かれる。 笑顔でテーブルを指差すと満面の笑みが零れた。
「昼食にしましょう?」
「うん…!」
余りの可愛さに唇を重ねて、強く抱き締めながら貪ってしまう。
「んふゥ…ンン…」
唇を離すと、武の目許がほんのりと染まっている。
「続きは昼食の後でね」
指で唇をなぞると、それだけで身体を戦慄かせる。 夕麿は昼食をベッドサイド・テーブルに移動させると、ジュースの紙パックを見せた。
「本当だ…ねぇ…どうやったの、夕麿?」
「お義母さんにお願いして、送っていただきました。 たくさんありますから、当分飲めますよ?」
「ありがとう…」
やはり武には笑顔でいて欲しいと、多少、腰にキたのを隠して夕麿は思った。
「ヤ…あ…ああッ…!」
「挿れるだけで、イッたのですか…?」
しばらく触れていなかったからと散々焦らされ、感じさせられた武は、挿れられただけであっさりとイッてしまった。
恥ずかしくて恥ずかしくて、両手で顔を隠して首を振る姿が、何とも愛らしい。
「ゴメンね。 ずっと一人にして」
首を振る武を抱き締めて耳に囁く。
「辛かった? 寂しかった?」
本当はそんなものではないだろうと思いながら言った言葉に、武は縋り付いて来た。
「寂し…かった…寂しかったよゥ…夕麿ぁ…」
「ゴメンね。 その分もシてあげましょうね」
ニッコリ笑って言うと、武は真っ赤になった。
一々反応が可愛い。
「そんな顔されたら、止まらなくなってしまいます…煽らないで、武」「あッ…あンッ…煽って…ない…夕麿…ひァ…激し…」
「今日は空っぽになるまで可愛がってあげます」
「そんな…」
妖艶な笑みを浮かべて告げられた言葉に、頬を一層染める。
「嫌?」
ちょっと残念そうに問い返すと、ふるふると首を振って縋り付いて消えそうな声で答えた。
「…シて…いっぱい…シて…」
「お望みのままに…」
「夕麿…夕麿…あンッ…あッあ…ンン…うれ…しい…」
「愛してます、武」
実は下に下りた時に高辻からの伝言がリビングで渡されていた。
今回のダメージはそれぞれがそれぞれの事情ゆえに、深く心を傷付けてしまっていると。特に武は環境の変化に対してのストレスの蓄積が著しい。だから今は溢れる愛情で包み込んで、支える必要があると。
側にいる事
抱き締めてあげる事
わがままを言わせる事
愛情には形がない……紡いだ言葉も空間に消えてしまう。 儚いからこそ、見えないからこそ、人間は言葉を紡ぎ触れ合う。不安定で不完全だからこそ、人間は求め合って不足を補おうとする。 人間はそれ故に深く迷い、 見えない先に戸惑う。 愛も憎しみも嫉妬も羨望も、迷うからこそ存在する。
この世に迷わない者はいない。 迷わない人間と思うのは、何かに目を閉じ、耳を塞いでいる自分を見ないから。
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夕麿はつい半年前までの自分をその様に見ていた。
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