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悪意と害意
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何の進展もないまま休校が解かれた。
学祭の準備が始まり、この時ばかりは特待生も授業時間が減らされて様々な準備に取りかかる。 生徒会も多忙を極めて、その忙しさが武から忌まわしい事から遠ざけ、一時的にではあるが忘れさせた。
また雅久の気遣いから派生して、フルーツ中心に食べるのが呼び水になり、武は少しずつ食べ物を受け付けられるようになって来ていた。
あれから…ロッカーの事件からは何も起こっていない。 平穏無事に学祭の準備が進んでいる。 一般学生の武に対する嫌がらせも、警察官が警護として側にいる為、疑われるのを嫌ってなりをひそめた。
もっとも無視は続いている。
不安定なままの精神状態を支えているのは、夕麿の夜毎の熱い抱擁と生徒会メンバーの心遣いだった。
だが魔手はジリジリと迫っていた。 この安穏を武たちが味わっているのを、嘲笑いながら見つめていた。 彼らと共に笑顔で… …
最初は麗だった。
朝、登校途中、特別棟の前を歩いていた時だった。 下級生に呼ばれて振り向いたその瞬間、つい今し方まで立っていた場所に大きな植木鉢が落ちて来たのである。もし下級生が呼び掛けなかったら… 彼がそれに応えて動かなかったら… 生命の危険すら考えられる事態だった。
幸い麗は割れて飛び散った破片で、手の甲と頬に軽い擦過傷を負っただけで済んだ。 だがショックによる精神的ダメージで2日程寝込んだ。 それでも3日目には普段と変わらない姿で、生徒会業務に復帰したのは小柄なわりにタフな性格故だった。
次に狙われたのは、あろうことか良岑 貴之だった。
渡り廊下を歩いていると、不意に下から悲鳴のようなものが聞こえた。 麗の事もある。 慌てて下を覗き込んだ。
「おい、誰かいるのか?!」
誰かの姿は見えない。 ひょっとしたら下の階からかと、身を乗り出すようにして覗き込んだ瞬間、誰かが彼を抱え上げて手摺りの向こうへ落とした。
「う…くっ…」
鍛練を幼い時から欠かさず、複数の武道の有段者である彼は、その優れた感覚と反射神経でかろうじて、その階の手摺りの下方にある出っ張りにぶら下がった。
「痛ゥ…」
衝撃で傷めたらしい。 最初に出っ張りを掴んだ左腕に、灼け付くような痛みが走った。 腕の力を利用して下の階に降りるのは、この腕では不可能… …咄嗟に判断して周囲に視線を走らせた。
斜め後ろに樹がある。 右腕だけで飛べるかどうかは、一か八かだった。 だがこのままでは間違いなく力尽きて下まで落ちる。真下はコンクリートだ。 樹に飛び移れば落ちるスピードが死ぬ。 巧くすれば土の上に落ちる事が出来る。
このまま無様に落ちてたまるか… 貴之は左腕の痛みを噛み締めて、斜め後方へ跳躍した。 懸命に伸ばした右手が枝をすり抜けて行く。無理だったか… と思った瞬間に手が枝を掴んだ。 充分に彼の体重を支えられる太さだった。 しばらくそのままぶら下がり、呼吸を整えてから地面へと身を踊らせた。 受け身は取ったものの、かなりの衝撃で地面に叩き付けられた。 意識はそこで途絶えた。
目を覚ますと病院だった。 左腕は上腕と手首の二ヶ所で肉離れを起こしていた。 それとやはり打ち身で身体が動かせない状態だった。 傍らに渋い顔で義勝が立っていた。
「骨は折れていないそうだ」
肉離れによる発熱が下がれば、退院して良いと言う。
「お前が倒れているのを発見したのは、武だ。俺たちは彼の悲鳴を聴いて駈け付けたんだ…」
それだけで武がどんな状態に陥ったのかわかる。
「警察が事情を訊きたいそうだ。
入れるぞ」
黙って頷くと義勝は二人の警察官を招き入れた。 貴之はありのままを話し、突き落とした人物の姿を見ていないと告げた。
一瞬の出来事だった。 身の安全を最優先した結果だった。 真っ直ぐコンクリート舗装の上に落ちていたら、こんな怪我ではすまなかった筈だ。 自分自身の為でもあったが、何よりもそんな事態になったら、武がどんな状態になるか… …考えただけでおぞましかった。
気が付けばいつの間にか、武を大切にしなければという想いを持っていた。 恋愛感情ではなくこれは忠誠心だ。 将来、父親の跡を継いで警察庁へ…という想いは、あくまでも憧れから来た夢だった。だが武を護衛するうちに、誰かを守る難しさと喜びを知った。 いや…武だからかもしれない。 貴之を先輩と呼び、細やかな気遣いをする彼。 何事にも一生懸命で、素直な性格。 そして…恐らく、皇家の血の力。 人を惹き付けてやまない輝き。
自分の心にあるものを悟ったのと同時に、夕麿が武に対して深い愛情と共にやはり、強い忠誠心をも抱いているのを理解した。だからこの程度の怪我で済んだ事をむしろ喜んだ。
「義勝…」
「ん?」
「彼に…武さまに伝えてくれ。 すぐに元気になるから、自分を責めないでくれと… これは俺の油断と傲りが原因だ」
武の前では敢えて呼び捨てにして来た。 本人が好まないから。 だが身の内に宿った忠誠心は、彼を敬称を付けて呼びたがる。
「わかった。 伝えておこう。そろそろ痛み止めが効いて来ただろう。 ゆっくり休め、貴之」
朦朧とする意識の中で義勝の言葉に微笑み返した。
倒れている貴之を発見した武の悲鳴は凄まじかった。 かなり後方を歩いていた義勝と雅久が駆け付けた時は、警護の警察官が懸命に抱き止めている状態だった。
何があったのかは一目瞭然で最悪の事態だった。
夕麿はすぐに武を落ち着かせて寮に連れ帰った。 雅久もついて行かせた。 義勝には彼が標的にされるのが怖かった。 封印された記憶が、それによって解かれてしまうのを恐れた。だから、片時も側を離れたくなかった。 どうしても…という時は、武たちと一緒にいさせた。 夕麿もそれを了承していた。 不思議な事に雅久が武とどれだけ仲良くしても、夕麿は嫉妬に駆られないようだった。他の人間には血相を変えるというのに。 武もまた、兄に接するように懐いている。 それが雅久の精神状態を安定させているのも確かだ。
高辻に連絡してこの事態を知らせ、武と雅久の往診を頼んで貴之に付き添った。 帰り道、警察官が義勝にも警護としてついた。
正体のわからない相手。 ただわかっているのは、本当の標的が武である事。 そして…最早、狂気の領域に足を踏み入れた人間だという事。
夕麿の暗示がまだ完全に解けていない。 キィワードがわからない限り、他者に解くのは不可能だと言う。
義勝の心は益々重くなる一方だった。
だが、意外にも武の立ち直りは早かった。何かを決意したように、次の日にはいつものように生徒会室にいた。
4日後、熱と腫れがひいて退院して来た、貴之が登校して生徒会室に顔を出した。 左腕はギブスで固められて、肩から吊り下げられていた。 頬や額に落ちる時に当たった枝の付けた傷が、幾つかついていたが本人は平然としていた。
「皆さん、お茶が入りました。」
近頃は雅久がお茶を入れる。 生徒会メンバーは飲み物の好みがそれぞれ別れていてやたらに味に煩い。 特に紅茶党の夕麿は、気分を見て茶葉を変えて入れなければならない。 雅久は茶道華道も嗜む為、紅茶やコーヒーも誰よりも味わい深く入れる。 誰も雅久と同じか、それ以上には入れる事が出来ず、たまに武か正己が手伝う以外は任せっきりになっている。
ちなみに雅久は日本茶党である。
「えっと…雅久先輩、これ何?」
武は自分の前に出されたマグカップのオレンジ色の液体に戸惑って尋ねた。
「オレンジ・ジンガーというハーブです」
「オレンジ・ジンガー?」
「美味しいですよ? 武君は柑橘系好きでしょう?」
「あ、うん、ありがとう」
雅久は夕麿とは別の意味で過保護である。 兄と弟…と言うよりは、最近は姉が弟の世話をやくような図式になっている。 また始まったとばかりに苦笑して、コーヒーを一口啜る…
「飲むな!」
貴之が叫んだ。
口の中のコーヒーを吐き出して叫んだ。 咄嗟に夕麿が武の手の中のマグカップを払い落とした。 全員が顔色をなくし、即刻、警察官によってミネラルウォーターのタンクが調べられた。タンクに混入されていたのは酢だった。 今回は害のない物だったが、いつでも毒物を混入出来る…という脅かしでもあった。 ゾワゾワとした不快感と恐怖感が、背中を這い上がるような感覚。 誰もがもう何も手をつける気力もなく、押し黙って座っていた。
犯人の本当の目標は、武… …だがこれでは守り切れない。
ただ顔色こそ悪いが武は冷静だ。 唇を噛み締めて震えながらも、警察官が調べているのを見つめていた。
「武…口を開けて下さい。 そんなに噛み締めたら…唇が傷付いてしまってます」
慌ててポケットのハンカチを、武の唇に当てる。 室内にあるティッシュは、危険過ぎて使えない。
「あ、ごめんなさい」
ハンカチに付いた血を見て、深々と溜息を吐いた。
「いつまでこんな事をするつもりかな? 俺が気にくわないなら、小細工しないで正々堂々と来れば良いのに。笑っちゃうよね……俺をどうにかしても、夕麿はあげないよ?」
「武……」
「武君……」
全員が絶句する。 武の言葉は挑発にしかならない。 確かに狙いを武だけに絞られれば、警護はやりやすい。 武は顔を上げて、みんなを見回した。 その顔には不敵なまでの笑顔が浮かんでいた。
「武、一体どうしたのです? あなたらしからぬ事を……」
「翌々考えたらさ、夕麿、 何で俺たちがオロオロしなきゃならないの?勝手に憎まれて狙われてさ? この犯人、勘違いしてるよね? 俺をどうにかしたら、夕麿を自分に向かせられるって思ってるんだろう?
夕麿、その辺どう? 犯人の思惑通りなの?」
「有り得ません」
「だろう? 何、無駄な努力をしてんのかなぁ…笑えるよね…馬鹿じゃないの?」
いつになく饒舌な武の姿に、夕麿すら戸惑いを覚えた。 武の豹変がわからない。 あんなにも怯えて、夜も眠れずにいるというのに。
何故そんな事を口にする?
何故そんな事が言える?
顔色は相変わらず蒼白で、膝の上で握られた拳は固く握り締められて震えている。
「武、手を」
色が変わる程握り締められた手を開かせると、爪が掌に食い込んで皮膚を破っていた。 それを見て夕麿はみんなを守る為に、犯人を挑発しようとする武の想いを理解した。 夕麿はそっとその手を両手で包み込んで口付けた。
「私が愛しているのは、あなただけです、武」
優しくて美しい笑顔だった。 いつものノロケに見えて、しっかりとした挑発だった。 卑劣な行為を繰り返す輩にこれ以上、誰も傷付けさせない。 武が自分に犯人を惹き付けるなら、全力で守ってみせる。
夕麿は武を抱き寄せて口を開いた。
「今日の業務は不可能でしょう。 解散しましょう。
義勝、後をお願い出来ますか?」
「ん? ああ…わかった」
「武、帰りましょう。」
抱き寄せたまま立ち上がり、武の鞄も一緒に持った。 空いている腕を武の腰に回して、仲良く帰って行く。
義勝も気付いていた。
「あ~あ、何? ノロケて終わりなの、会長と武は?」
麗も目配せを義勝にして、呆れたように言い放つ。
「あれはもう帰ったら即、ベッドだな」
「義勝、下品ですよ?」
雅久が苦笑する。 この辺りのチームワークは、昨日今日の間柄ではない彼らには朝飯前だ。
「馬鹿言ってないで片付けろ、お前ら」
貴之がうんざりして言うと、麗が舌を出した。
「貴之、横暴!」
「煩い! 俺は怪我人だ!もう少しいたわれ!」
「そっちの暗幕を閉めてみて下さい!」
夕麿の指示が飛ぶ。 学祭に向けて、高等部の講堂を片付けとチェックが行われていた。 講堂は建築されて半世紀以上経つ古い建物で、幾度か手を入れられてシステムこそ最新式ではある。 しかしあちこちに無理があり、こうして事前のチェックをしないと、本番で機能しない事があるのだ。
「会長~左の11番の暗幕、動かないよ~」
学祭実行委員の生徒と一緒に、暗幕の作動確認をしていた麗が声を掛けた。
「またですか」
11の番号が振られている暗幕は、入学式のチェックでも作動せず当日は手動で閉めた。 その後修理が行われた筈だが再び作動しない。
「これ、ダメだね~」
麗のおどけた仕草に全員が吹き出す。 その向かい側で作業の全体を見ていた貴之が、キョロキョロとし始めた。 みるみるうちに表情が険しくなる。
「会長、武さまがいない!」
慌ててみんなが自分の周囲を見回した。
「いない…」
「探して下さい!」
「夕麿、お前はそこにいろ! 武が戻って来るかもしれん!」
義勝の言葉に駆け出そうとした夕麿が立ち止まった。
冷静にならなければ…… 歯を食いしばって自ら探しに行きたい衝動を抑えた。
「武…どうか無事でいて下さい…八百万の神々よ…彼を守り給え」
この国の信仰は神道であり、当然ながら貴族は神道である。 とは言っても今まで、神を信じた事も祈った事もなかった。 苦しい時の神頼みなど効果がないと、笑われるかもしれない。 聴き届けてもらえないかもしれない。 だが、祈らずにはいられなかった。
気が付くと暗闇の中にいた。 手足は縛られていて、動かそうとすると重い痛みを感じる。 口には猿轡を噛まされて、呼吸をするのがやっとだ。 身動ぎをするとすぐに壁に触れる。 どうやら人間一人がようやく入れる、狭い場所に閉じ込められたらしい。
暗闇の狭い空間。 それだけで人間は恐怖感を抱く。 窒息しそうに感じるのだ。
怖い… …怖い… …怖い……
パニックに襲われそうになる武を正気に引き戻したのは、脳裏をよぎった夕麿の顔だった。
(落ち着け…縛られているだけだ。 まだ生きてる… …夕麿を信じろ…… みんなを信じろ)
爆発しそうな心臓の鼓動の中、必死で呼吸を整えようとする。 もしここが完全に密閉された場所ならば、無駄な呼吸は生きられる時間が短くなる。
どれぐらい意識を失っていたのかはわからない。 大丈夫だ。 みんなが全力で探してくれている筈。
(落ち着いて体力と酸素を保持するんだ)
武に夕麿はいざという時のマニュアルを教え込んだ。 以前に御園生邸で話を聴いていたので、武は夕麿の言葉に耳を傾け懸命に頭に叩き込んだ。 何よりも必要な事は、パニックを起こさない事。 冷静に状況を判断して出来る事と出来ない事、やらなければならない事とやってはならない事を把握して実行する。
武は夕麿の言葉を頭の中で思い出す。 恐怖に揺らいでいた心が、やっと落ち着いた。
講堂の舞台裏にいたのが正午の少し前だった。 これは携帯で時間を確かめたから間違いはない。 誰かに背後から薬品のついた布をかがされて、意識が途切れたのはそのすぐ後だった。
どれくらい時間が経過したのだろう? あの状況ではそんなに遠くに移動させられてはいない筈だ。 生徒会では麗の次に小柄な武である。 ここのところめっきり体重が落ちて軽くなったが、それでも成長期の男子を、安易に運べない筈。
第一、あれだけの人数の目を欺くのは、不可能に思えた。
(だとしたら…ここはまだ、講堂の中?)
それも舞台側のどこかだろう。 ならば発見される可能性は高い。 安堵の溜息が出た。 静かに目を閉じて耳を澄ましてみるが、聞こえて来るのはかすかな機械音だけ。
どこにいるのか、懸命に考えてみる。 講堂には入学式以来だ。
講堂内の何処にも武の姿はなかった。
「どうやって外へ運び出した?」
「ねぇみんな、最後に武君を見たのいつ? 思い出して?」
麗の言葉に実行委員の言葉も含めて、時間経過を組み立て行く。
「では、舞台の袖に武君が入るのを見たのが最後…になりますね」
正午近くだったと2年生の実行委員が証言していた、空腹感で腕時計を見たらしい。
「今…何時?」
時間を問う、麗の声が震えていた。
「3時37分だ…」
「いないのに気付いたのが、1時過ぎだ…」
誰もが言葉を失う。 夕麿が何かに気付いたように息を呑んだ。
「どうした?」
「1時に不要品を搬出した筈です」
「まさか……その時に運び出したか?」
「ですが、万が一の為に中身のチェックは厳重に……という、会長のご指示に従ってます」
答えたのは下河辺 行長だった。
「僕も確認しましたから、間違いありません」
千種 康孝が続いて答えた。
「どんなものを搬出した?」
「古い暗幕が数枚……廃材……」
行長は書類の上を指差しながら、ひとつ一つ読み上げて行く。
「マジック用の箱…」
「待て……そうか、その箱だ!」
「確認しましたが?」
「あれは二重底になってた筈だ、蓋を開けて覗いたくらいではわからない」
「そこに武君を入れて搬出したと言うのですか、義勝……」
「すぐに学院の倉庫へ!」
警察官が複数駈け出した。 彼らにしても上手く出し抜かれたのだ。 拉致されたのは皇家の貴種。 万が一の場合、責任問題どころでは済まない。
「迂闊だった!」
貴之が苦々しく叫んだ。
「会長!?」
麗の悲鳴のような声に視線を走らせると、夕麿が床に膝をついていた。
「しっかりしろ、夕麿! お前がそんなんでどうする!」
義勝の叱責が飛ぶ。 夕麿は右手で制服の左胸を握り締めていた。
「あ……会長、武君の携帯は?」
「GPSか!」
貴之は飛び付くように、指示の為に起動したままの生徒会のノートパソコンを操作する。
「どうやら携帯の電源を切る暇はなかったらしいな」
GPSは学院都市の居住地区を示していた。 そこは生涯、都市を出て行く事が叶わない人々や、外部から赴任して来た人々が暮らす場所。 その地区の外れを示していた。
夕麿が立ち上がった。 携帯を手にして学院側と交渉する。 本来ならば都市警察に全任して、待っているのが当たり前である。 だが、夕麿は武を守ると約束したのだ。 天地神明に誓ったのだ。
「会長、変わって下さい」
貴之の言葉に携帯を手渡す。
「良岑です。 警察はダメです。悪戯に犯人を刺激して、武さまに危害を加える可能性があります。犯人の目標は武さま。 そして、夕麿さまを手に入れる事です。 我々の方が小回りがききます」
説得の言葉を口にしながら、貴之は腕を吊す三角巾を取り外した。
「大丈夫です。 武さまは救出します。ありがとうございます」
許可は下りた。
夕麿は実行委員たちや候補の生徒たちに口止めの上、作業を続けるように指示した。
「下河辺君、あなたにここの責任を任せます。
頼めますね?」
「はい」
彼は確かに武を嫌っている。 生徒会室でも一般校舎でも恐らく、率先して嫌がらせをしていた者のリーダーだっただろう。 だが生徒会業務の手伝いに於いて、手抜きもミスもなくむしろ優秀だと言って良い。
「GPS、携帯でも確認出来ました!」
「行きましょう、会長!」
実行委員も候補の生徒とも無言で見送る。
だが彼らはこの時、一人がこの場から姿を消しているのに気付いていなかった。
狭い場所から出されてすぐ眩い光に、目が慣れないままで目隠しをされた。作業着を来た男性のシルエットと、男性用香水の匂いだけを覚えている。 すぐにまた眠らされて気が付くと、ベッドの上らしく感じる所に横たえられていた。
聞こえて来るのはピアノの音。
『幻想即興曲』
寮の部屋で聴いたものより、音が硬い感じがするが、この弾き方は夕麿だ。何度か聴いているうちに、夕麿の弾き方の癖に気が付いた。指摘すると苦笑された。
だから…間違う筈はない。これは恐らく、昨年の演奏の録音データ。それにしてもこれはピアノが違う……というだけではない。
硬質の音色は悲鳴を上げているように聞こえた。 感じるのこれは1年前の夕麿の心。うっかりと触れてしまったら、砕けて散ってしまいそうな音。触れられる事を拒んでいたのではない、 触れられる事を恐れていたのだと。
どれほど苦しかっただろう。
どれほど悲しかっただろう。
夕麿はその想いを凍らせて孤独に生きていたのだ。 本当はこんなにも悲鳴を上げていたのだ。 武はその痛ましさに啜り泣いた。 夕麿の味わった孤独に比べたら、母の愛情を一身に受けて育てて貰った自分は、どれだけ幸せだろう。
「!?」
ドアが開く音がした。
「へえ…生意気な口を叩いていたから、逃げ出す算段でもしてるかと思ったのにな。この後に及んで怖くなったか?」
その声と話し方に武は凍り付いた。
〈彼〉が犯人だったなんて…!
「心配するな、もうすぐ夕麿さまも来る」
笑い声が響いた。
「その時がお前の最後だ、御園生 武」
狂気を帯びた言いように、武は恐怖よりも強い哀しみを感じた。
一軒家の前に夕麿たちは立っていた。
「先に私だけ入ります」
「会長、それは危険です」
「大丈夫です、貴之。 彼の目的は武の排除と、私を手に入れる事です」
不思議なくらい冷静になっていた。
「彼の説得を試みたいのです。 こんな不益な事は、彼にも何ももたらさない筈です」
「そうまで仰るなら、30分だけお任せいたします。 30分経過したら我々も中へ入ります。 その後、30分経過した時点で警官隊が突入します。
よろしいですね?」
「構いません」
毅然とした物腰に、全員が一歩下がった。
夕焼けに染まる家の玄関扉を、ゆっくりと開けた。ピアノの音がする。すぐにそれが、昨年の自分の演奏だと気付いた。靴を脱いで、引き寄せられるように左奥のドアを開けた。そこはリビングだった。
黒革のソファの上に縛られ、猿轡をされた武が横たわっていた。
「早かったですね、夕麿さま」
一人掛けのソファに、脚を組んで〈彼〉は座っていた。
「暗示通りに一人で入って来て下さいましたね」
その言葉に夕麿も武も息を呑んだ。 夕麿は自分の意志で一人で入った筈だった。 だが、こうなった時用の暗示がされていたとは…
「そういう使い方も出来るわけです。まあ、お座り下さい」
〈彼〉が差し示したのは、武がいるソファ。 夕麿は慌てて武の側に行き、猿轡を解放した。
「夕麿…ダメ…逃げて…」
長時間の猿轡で水分を失った口腔内はカラカラで、絞り出した声は嗄れていた。
「逃げられはしないよ、彼は」
「やめろ…もうこんな事は、やめてくれよ、板倉!」
そう全ては彼、板倉 正己の仕業だった。
「煩いな。 三人揃ったんだ、これで夕麿さまを俺のものにする」
「無駄な事を…最初のでわかった筈です。 私の身体は武にしか反応しません。
それだけはどんな暗示も不可能ですよ」
「だから武がここにいるんですよ、夕麿さま」
「やめろ…板倉!」
武の叫びに、正己はのけぞって笑う。
「さあ、始めましょう! キング、クィーンを抱け」
「夕麿!?」
【キング】という言葉で、夕麿は動きを止めて無表情になった。 【クィーン】という言葉で、後ろ手に縛られて動けない武の詰め襟のファスナーに手をかけた。
「夕麿、やめて! 板倉、やめさせて!」
音を立ててファスナーが下げられ、夕麿の指は中のシャツのボタンを外していく。 武は懸命に身悶えするが、縛られている上に、夕麿に馬乗りされて抗うのは不可能だった。
「やめて…」
全開になったシャツの中の素肌を夕麿の指が撫でる。 白い肌はこのところの夜毎の行為で、夕麿のキスの跡が無数についていた。
「凄いキスマークだな」
こんなのはイヤだと啜り泣く武を、正己は嘲笑うかのように見下ろす。
「ひィッ!ヤぁッ!」
乳首に爪を立てられて悲鳴を上げた。 夕麿に触れられているのに、知らない別人に触れられているようだった。 無表情な顔で瞳だけが欲望の炎に揺れている。
「イヤだ…夕麿ァ…」
泣いて懇願する声は届かない。 正己は嗤いながら夕麿の背後に回って手を伸ばし、彼の詰め襟の首元のホックを外しファスナーを下げた。
「夕麿!」
正己の行動にもう一度、夕麿を正気に戻そうとするが反応はない。
「無駄だよ」
正己の指は夕麿のシャツのボタンを外して、既に彼の肌を撫で回していた。
「綺麗で滑らかな肌だね、夕麿さま。
さあ、クィーンを抱くんだ、キング」
夕麿の手が武の制服のスラックスに移動する。 同時に正己の手が夕麿のスラックスを寛げる。
「さあ、武、夕麿さまに抱いてもらえよ」
「何を…するつもりなんだ…?」
「俺を抱けないみたいだから、俺が夕麿さまを抱くのさ。 俗な言葉で言う、3Pってやつ」
狂ってる……そうとしか言いようがなかった。
夕麿は中等部の事件以来、まだ完全に心の傷は癒えていない。
それなのに……
武は焦った。 すると夕麿の唇が武の唇に重ねられた。 武は躊躇わず夕麿の唇に歯を立てた。
「痛ッ…!?」
苦痛の声を上げて夕麿の顔に表情が戻った。 噛まれた唇から血が滴り落ちる。
「夕麿!」
「武、ありがとう」
夕麿は笑顔を武に向けながら、胸元に手を差し入れて撫で回していた正己を振り払った。
「随分とふざけた真似をしてくれますね。 こんな事をして何が面白いのですか?」
武を抱き起こして手の戒めを解く。
「大丈夫ですか、武?」
「感覚がない…」
「ちくしょう!」
正己は二人を睨み付けると叫んだ。
「キング! クイーンは裏切り者だ。 あなたを裏切った!
スマザード・メイト! クイーンを排除しろ!」
スマザード・メイト。 それはチェスで窒息を差す。 通常はキングがナイトによってメイトされる事を差す。
「うぐッ…夕…麿…」
夕麿の指が武の首に絡み、ピアノ奏者の強力で絞め付ける。 夕麿の頬を涙が零れ落ちる。
そこへ貴之たちが飛び込んで来た。
「夕麿!?」
義勝がその場の光景に息を呑んだ。 夕麿が武の首を絞める、その横で板倉 正己が嗤っていた。
「夕麿、手を離せ! 武が死ぬぞ!」
義勝と貴之が夕麿と武を引き離そうとする。 だが夕麿の手を掴んでいた、武の手が力無く落ちた。 ぐったりとなった武を見て夕麿の力が緩んだ。
「あ…あ…そんな……うわあああああ!!」
夕麿が頭を抱えて絶叫する。
「武! しっかりしろ!」
「義勝、どいて下さい!」
雅久が義勝をおしのけて、武の口許に手を当てた。
「呼吸をしてません……」
雅久は武の顎を上に向かせると、大きく息を吸ってその唇に吹き込んだ。
「武君、息をして下さい!」
悲痛な叫びで呼び掛けながら、繰り返し息を吹き込んだ。 するとピクリと武の身体が震え、次の瞬間に激しい咳をしてのたうち回った。
「武君、落ち着いて下さい。 もう大丈夫です」
雅久に抱き起こされ背を撫でられて、武は縋り付いて泣き出した。 窒息は呼吸が出来ない苦しみが恐怖を呼ぶ。
「夕麿…夕麿…!?」
我に返った武が、頭を抱えて絶叫を続ける夕麿に駆け寄った。
「武、こいつはどんかキィワードを使った?」
「夕麿をキングって…そしたら、催眠状態になった。
俺の事はクイーンって……クイーンが裏切ったから、排除しろと…」
「チェスか……もしかして、スマザードか?」
「うん…そんなだった。」
義勝は高辻医師から、暗示解除の方法を教えられていた。
「キング、審判の判定が出た。ゲーム・オーバーだ。 ゲームを終了しろ」
絶叫が不意に止まり夕麿の身体が、スローモーションのようにゆっくりと倒れた。
「夕麿!」
武が抱き止めるが未だ感覚の戻らない手では受け止められない。
義勝が抱き起こして頬を打った。
「う…」
目を開けて起き上がり、重い頭を振って意識をはっきりさせる。 蘇って来たのは武の首を絞めていた事。 目を見開いて振り返ると、雅久に支えられている武の姿があった。 白い首には赤黒く、絞められたら指の跡が残っていた。
「私は…私は…」
自分の両手を見つめ、武を見つめ…顔を覆い全身を震わせて、その場に泣き崩れた。 声を上げて泣き伏す夕麿に、誰も声を掛けられなかった。
触れる事も出来なかった。
武ですら動けなかった。
ただ『幻想即興曲』だけが、流れ続けていた……
学祭の準備が始まり、この時ばかりは特待生も授業時間が減らされて様々な準備に取りかかる。 生徒会も多忙を極めて、その忙しさが武から忌まわしい事から遠ざけ、一時的にではあるが忘れさせた。
また雅久の気遣いから派生して、フルーツ中心に食べるのが呼び水になり、武は少しずつ食べ物を受け付けられるようになって来ていた。
あれから…ロッカーの事件からは何も起こっていない。 平穏無事に学祭の準備が進んでいる。 一般学生の武に対する嫌がらせも、警察官が警護として側にいる為、疑われるのを嫌ってなりをひそめた。
もっとも無視は続いている。
不安定なままの精神状態を支えているのは、夕麿の夜毎の熱い抱擁と生徒会メンバーの心遣いだった。
だが魔手はジリジリと迫っていた。 この安穏を武たちが味わっているのを、嘲笑いながら見つめていた。 彼らと共に笑顔で… …
最初は麗だった。
朝、登校途中、特別棟の前を歩いていた時だった。 下級生に呼ばれて振り向いたその瞬間、つい今し方まで立っていた場所に大きな植木鉢が落ちて来たのである。もし下級生が呼び掛けなかったら… 彼がそれに応えて動かなかったら… 生命の危険すら考えられる事態だった。
幸い麗は割れて飛び散った破片で、手の甲と頬に軽い擦過傷を負っただけで済んだ。 だがショックによる精神的ダメージで2日程寝込んだ。 それでも3日目には普段と変わらない姿で、生徒会業務に復帰したのは小柄なわりにタフな性格故だった。
次に狙われたのは、あろうことか良岑 貴之だった。
渡り廊下を歩いていると、不意に下から悲鳴のようなものが聞こえた。 麗の事もある。 慌てて下を覗き込んだ。
「おい、誰かいるのか?!」
誰かの姿は見えない。 ひょっとしたら下の階からかと、身を乗り出すようにして覗き込んだ瞬間、誰かが彼を抱え上げて手摺りの向こうへ落とした。
「う…くっ…」
鍛練を幼い時から欠かさず、複数の武道の有段者である彼は、その優れた感覚と反射神経でかろうじて、その階の手摺りの下方にある出っ張りにぶら下がった。
「痛ゥ…」
衝撃で傷めたらしい。 最初に出っ張りを掴んだ左腕に、灼け付くような痛みが走った。 腕の力を利用して下の階に降りるのは、この腕では不可能… …咄嗟に判断して周囲に視線を走らせた。
斜め後ろに樹がある。 右腕だけで飛べるかどうかは、一か八かだった。 だがこのままでは間違いなく力尽きて下まで落ちる。真下はコンクリートだ。 樹に飛び移れば落ちるスピードが死ぬ。 巧くすれば土の上に落ちる事が出来る。
このまま無様に落ちてたまるか… 貴之は左腕の痛みを噛み締めて、斜め後方へ跳躍した。 懸命に伸ばした右手が枝をすり抜けて行く。無理だったか… と思った瞬間に手が枝を掴んだ。 充分に彼の体重を支えられる太さだった。 しばらくそのままぶら下がり、呼吸を整えてから地面へと身を踊らせた。 受け身は取ったものの、かなりの衝撃で地面に叩き付けられた。 意識はそこで途絶えた。
目を覚ますと病院だった。 左腕は上腕と手首の二ヶ所で肉離れを起こしていた。 それとやはり打ち身で身体が動かせない状態だった。 傍らに渋い顔で義勝が立っていた。
「骨は折れていないそうだ」
肉離れによる発熱が下がれば、退院して良いと言う。
「お前が倒れているのを発見したのは、武だ。俺たちは彼の悲鳴を聴いて駈け付けたんだ…」
それだけで武がどんな状態に陥ったのかわかる。
「警察が事情を訊きたいそうだ。
入れるぞ」
黙って頷くと義勝は二人の警察官を招き入れた。 貴之はありのままを話し、突き落とした人物の姿を見ていないと告げた。
一瞬の出来事だった。 身の安全を最優先した結果だった。 真っ直ぐコンクリート舗装の上に落ちていたら、こんな怪我ではすまなかった筈だ。 自分自身の為でもあったが、何よりもそんな事態になったら、武がどんな状態になるか… …考えただけでおぞましかった。
気が付けばいつの間にか、武を大切にしなければという想いを持っていた。 恋愛感情ではなくこれは忠誠心だ。 将来、父親の跡を継いで警察庁へ…という想いは、あくまでも憧れから来た夢だった。だが武を護衛するうちに、誰かを守る難しさと喜びを知った。 いや…武だからかもしれない。 貴之を先輩と呼び、細やかな気遣いをする彼。 何事にも一生懸命で、素直な性格。 そして…恐らく、皇家の血の力。 人を惹き付けてやまない輝き。
自分の心にあるものを悟ったのと同時に、夕麿が武に対して深い愛情と共にやはり、強い忠誠心をも抱いているのを理解した。だからこの程度の怪我で済んだ事をむしろ喜んだ。
「義勝…」
「ん?」
「彼に…武さまに伝えてくれ。 すぐに元気になるから、自分を責めないでくれと… これは俺の油断と傲りが原因だ」
武の前では敢えて呼び捨てにして来た。 本人が好まないから。 だが身の内に宿った忠誠心は、彼を敬称を付けて呼びたがる。
「わかった。 伝えておこう。そろそろ痛み止めが効いて来ただろう。 ゆっくり休め、貴之」
朦朧とする意識の中で義勝の言葉に微笑み返した。
倒れている貴之を発見した武の悲鳴は凄まじかった。 かなり後方を歩いていた義勝と雅久が駆け付けた時は、警護の警察官が懸命に抱き止めている状態だった。
何があったのかは一目瞭然で最悪の事態だった。
夕麿はすぐに武を落ち着かせて寮に連れ帰った。 雅久もついて行かせた。 義勝には彼が標的にされるのが怖かった。 封印された記憶が、それによって解かれてしまうのを恐れた。だから、片時も側を離れたくなかった。 どうしても…という時は、武たちと一緒にいさせた。 夕麿もそれを了承していた。 不思議な事に雅久が武とどれだけ仲良くしても、夕麿は嫉妬に駆られないようだった。他の人間には血相を変えるというのに。 武もまた、兄に接するように懐いている。 それが雅久の精神状態を安定させているのも確かだ。
高辻に連絡してこの事態を知らせ、武と雅久の往診を頼んで貴之に付き添った。 帰り道、警察官が義勝にも警護としてついた。
正体のわからない相手。 ただわかっているのは、本当の標的が武である事。 そして…最早、狂気の領域に足を踏み入れた人間だという事。
夕麿の暗示がまだ完全に解けていない。 キィワードがわからない限り、他者に解くのは不可能だと言う。
義勝の心は益々重くなる一方だった。
だが、意外にも武の立ち直りは早かった。何かを決意したように、次の日にはいつものように生徒会室にいた。
4日後、熱と腫れがひいて退院して来た、貴之が登校して生徒会室に顔を出した。 左腕はギブスで固められて、肩から吊り下げられていた。 頬や額に落ちる時に当たった枝の付けた傷が、幾つかついていたが本人は平然としていた。
「皆さん、お茶が入りました。」
近頃は雅久がお茶を入れる。 生徒会メンバーは飲み物の好みがそれぞれ別れていてやたらに味に煩い。 特に紅茶党の夕麿は、気分を見て茶葉を変えて入れなければならない。 雅久は茶道華道も嗜む為、紅茶やコーヒーも誰よりも味わい深く入れる。 誰も雅久と同じか、それ以上には入れる事が出来ず、たまに武か正己が手伝う以外は任せっきりになっている。
ちなみに雅久は日本茶党である。
「えっと…雅久先輩、これ何?」
武は自分の前に出されたマグカップのオレンジ色の液体に戸惑って尋ねた。
「オレンジ・ジンガーというハーブです」
「オレンジ・ジンガー?」
「美味しいですよ? 武君は柑橘系好きでしょう?」
「あ、うん、ありがとう」
雅久は夕麿とは別の意味で過保護である。 兄と弟…と言うよりは、最近は姉が弟の世話をやくような図式になっている。 また始まったとばかりに苦笑して、コーヒーを一口啜る…
「飲むな!」
貴之が叫んだ。
口の中のコーヒーを吐き出して叫んだ。 咄嗟に夕麿が武の手の中のマグカップを払い落とした。 全員が顔色をなくし、即刻、警察官によってミネラルウォーターのタンクが調べられた。タンクに混入されていたのは酢だった。 今回は害のない物だったが、いつでも毒物を混入出来る…という脅かしでもあった。 ゾワゾワとした不快感と恐怖感が、背中を這い上がるような感覚。 誰もがもう何も手をつける気力もなく、押し黙って座っていた。
犯人の本当の目標は、武… …だがこれでは守り切れない。
ただ顔色こそ悪いが武は冷静だ。 唇を噛み締めて震えながらも、警察官が調べているのを見つめていた。
「武…口を開けて下さい。 そんなに噛み締めたら…唇が傷付いてしまってます」
慌ててポケットのハンカチを、武の唇に当てる。 室内にあるティッシュは、危険過ぎて使えない。
「あ、ごめんなさい」
ハンカチに付いた血を見て、深々と溜息を吐いた。
「いつまでこんな事をするつもりかな? 俺が気にくわないなら、小細工しないで正々堂々と来れば良いのに。笑っちゃうよね……俺をどうにかしても、夕麿はあげないよ?」
「武……」
「武君……」
全員が絶句する。 武の言葉は挑発にしかならない。 確かに狙いを武だけに絞られれば、警護はやりやすい。 武は顔を上げて、みんなを見回した。 その顔には不敵なまでの笑顔が浮かんでいた。
「武、一体どうしたのです? あなたらしからぬ事を……」
「翌々考えたらさ、夕麿、 何で俺たちがオロオロしなきゃならないの?勝手に憎まれて狙われてさ? この犯人、勘違いしてるよね? 俺をどうにかしたら、夕麿を自分に向かせられるって思ってるんだろう?
夕麿、その辺どう? 犯人の思惑通りなの?」
「有り得ません」
「だろう? 何、無駄な努力をしてんのかなぁ…笑えるよね…馬鹿じゃないの?」
いつになく饒舌な武の姿に、夕麿すら戸惑いを覚えた。 武の豹変がわからない。 あんなにも怯えて、夜も眠れずにいるというのに。
何故そんな事を口にする?
何故そんな事が言える?
顔色は相変わらず蒼白で、膝の上で握られた拳は固く握り締められて震えている。
「武、手を」
色が変わる程握り締められた手を開かせると、爪が掌に食い込んで皮膚を破っていた。 それを見て夕麿はみんなを守る為に、犯人を挑発しようとする武の想いを理解した。 夕麿はそっとその手を両手で包み込んで口付けた。
「私が愛しているのは、あなただけです、武」
優しくて美しい笑顔だった。 いつものノロケに見えて、しっかりとした挑発だった。 卑劣な行為を繰り返す輩にこれ以上、誰も傷付けさせない。 武が自分に犯人を惹き付けるなら、全力で守ってみせる。
夕麿は武を抱き寄せて口を開いた。
「今日の業務は不可能でしょう。 解散しましょう。
義勝、後をお願い出来ますか?」
「ん? ああ…わかった」
「武、帰りましょう。」
抱き寄せたまま立ち上がり、武の鞄も一緒に持った。 空いている腕を武の腰に回して、仲良く帰って行く。
義勝も気付いていた。
「あ~あ、何? ノロケて終わりなの、会長と武は?」
麗も目配せを義勝にして、呆れたように言い放つ。
「あれはもう帰ったら即、ベッドだな」
「義勝、下品ですよ?」
雅久が苦笑する。 この辺りのチームワークは、昨日今日の間柄ではない彼らには朝飯前だ。
「馬鹿言ってないで片付けろ、お前ら」
貴之がうんざりして言うと、麗が舌を出した。
「貴之、横暴!」
「煩い! 俺は怪我人だ!もう少しいたわれ!」
「そっちの暗幕を閉めてみて下さい!」
夕麿の指示が飛ぶ。 学祭に向けて、高等部の講堂を片付けとチェックが行われていた。 講堂は建築されて半世紀以上経つ古い建物で、幾度か手を入れられてシステムこそ最新式ではある。 しかしあちこちに無理があり、こうして事前のチェックをしないと、本番で機能しない事があるのだ。
「会長~左の11番の暗幕、動かないよ~」
学祭実行委員の生徒と一緒に、暗幕の作動確認をしていた麗が声を掛けた。
「またですか」
11の番号が振られている暗幕は、入学式のチェックでも作動せず当日は手動で閉めた。 その後修理が行われた筈だが再び作動しない。
「これ、ダメだね~」
麗のおどけた仕草に全員が吹き出す。 その向かい側で作業の全体を見ていた貴之が、キョロキョロとし始めた。 みるみるうちに表情が険しくなる。
「会長、武さまがいない!」
慌ててみんなが自分の周囲を見回した。
「いない…」
「探して下さい!」
「夕麿、お前はそこにいろ! 武が戻って来るかもしれん!」
義勝の言葉に駆け出そうとした夕麿が立ち止まった。
冷静にならなければ…… 歯を食いしばって自ら探しに行きたい衝動を抑えた。
「武…どうか無事でいて下さい…八百万の神々よ…彼を守り給え」
この国の信仰は神道であり、当然ながら貴族は神道である。 とは言っても今まで、神を信じた事も祈った事もなかった。 苦しい時の神頼みなど効果がないと、笑われるかもしれない。 聴き届けてもらえないかもしれない。 だが、祈らずにはいられなかった。
気が付くと暗闇の中にいた。 手足は縛られていて、動かそうとすると重い痛みを感じる。 口には猿轡を噛まされて、呼吸をするのがやっとだ。 身動ぎをするとすぐに壁に触れる。 どうやら人間一人がようやく入れる、狭い場所に閉じ込められたらしい。
暗闇の狭い空間。 それだけで人間は恐怖感を抱く。 窒息しそうに感じるのだ。
怖い… …怖い… …怖い……
パニックに襲われそうになる武を正気に引き戻したのは、脳裏をよぎった夕麿の顔だった。
(落ち着け…縛られているだけだ。 まだ生きてる… …夕麿を信じろ…… みんなを信じろ)
爆発しそうな心臓の鼓動の中、必死で呼吸を整えようとする。 もしここが完全に密閉された場所ならば、無駄な呼吸は生きられる時間が短くなる。
どれぐらい意識を失っていたのかはわからない。 大丈夫だ。 みんなが全力で探してくれている筈。
(落ち着いて体力と酸素を保持するんだ)
武に夕麿はいざという時のマニュアルを教え込んだ。 以前に御園生邸で話を聴いていたので、武は夕麿の言葉に耳を傾け懸命に頭に叩き込んだ。 何よりも必要な事は、パニックを起こさない事。 冷静に状況を判断して出来る事と出来ない事、やらなければならない事とやってはならない事を把握して実行する。
武は夕麿の言葉を頭の中で思い出す。 恐怖に揺らいでいた心が、やっと落ち着いた。
講堂の舞台裏にいたのが正午の少し前だった。 これは携帯で時間を確かめたから間違いはない。 誰かに背後から薬品のついた布をかがされて、意識が途切れたのはそのすぐ後だった。
どれくらい時間が経過したのだろう? あの状況ではそんなに遠くに移動させられてはいない筈だ。 生徒会では麗の次に小柄な武である。 ここのところめっきり体重が落ちて軽くなったが、それでも成長期の男子を、安易に運べない筈。
第一、あれだけの人数の目を欺くのは、不可能に思えた。
(だとしたら…ここはまだ、講堂の中?)
それも舞台側のどこかだろう。 ならば発見される可能性は高い。 安堵の溜息が出た。 静かに目を閉じて耳を澄ましてみるが、聞こえて来るのはかすかな機械音だけ。
どこにいるのか、懸命に考えてみる。 講堂には入学式以来だ。
講堂内の何処にも武の姿はなかった。
「どうやって外へ運び出した?」
「ねぇみんな、最後に武君を見たのいつ? 思い出して?」
麗の言葉に実行委員の言葉も含めて、時間経過を組み立て行く。
「では、舞台の袖に武君が入るのを見たのが最後…になりますね」
正午近くだったと2年生の実行委員が証言していた、空腹感で腕時計を見たらしい。
「今…何時?」
時間を問う、麗の声が震えていた。
「3時37分だ…」
「いないのに気付いたのが、1時過ぎだ…」
誰もが言葉を失う。 夕麿が何かに気付いたように息を呑んだ。
「どうした?」
「1時に不要品を搬出した筈です」
「まさか……その時に運び出したか?」
「ですが、万が一の為に中身のチェックは厳重に……という、会長のご指示に従ってます」
答えたのは下河辺 行長だった。
「僕も確認しましたから、間違いありません」
千種 康孝が続いて答えた。
「どんなものを搬出した?」
「古い暗幕が数枚……廃材……」
行長は書類の上を指差しながら、ひとつ一つ読み上げて行く。
「マジック用の箱…」
「待て……そうか、その箱だ!」
「確認しましたが?」
「あれは二重底になってた筈だ、蓋を開けて覗いたくらいではわからない」
「そこに武君を入れて搬出したと言うのですか、義勝……」
「すぐに学院の倉庫へ!」
警察官が複数駈け出した。 彼らにしても上手く出し抜かれたのだ。 拉致されたのは皇家の貴種。 万が一の場合、責任問題どころでは済まない。
「迂闊だった!」
貴之が苦々しく叫んだ。
「会長!?」
麗の悲鳴のような声に視線を走らせると、夕麿が床に膝をついていた。
「しっかりしろ、夕麿! お前がそんなんでどうする!」
義勝の叱責が飛ぶ。 夕麿は右手で制服の左胸を握り締めていた。
「あ……会長、武君の携帯は?」
「GPSか!」
貴之は飛び付くように、指示の為に起動したままの生徒会のノートパソコンを操作する。
「どうやら携帯の電源を切る暇はなかったらしいな」
GPSは学院都市の居住地区を示していた。 そこは生涯、都市を出て行く事が叶わない人々や、外部から赴任して来た人々が暮らす場所。 その地区の外れを示していた。
夕麿が立ち上がった。 携帯を手にして学院側と交渉する。 本来ならば都市警察に全任して、待っているのが当たり前である。 だが、夕麿は武を守ると約束したのだ。 天地神明に誓ったのだ。
「会長、変わって下さい」
貴之の言葉に携帯を手渡す。
「良岑です。 警察はダメです。悪戯に犯人を刺激して、武さまに危害を加える可能性があります。犯人の目標は武さま。 そして、夕麿さまを手に入れる事です。 我々の方が小回りがききます」
説得の言葉を口にしながら、貴之は腕を吊す三角巾を取り外した。
「大丈夫です。 武さまは救出します。ありがとうございます」
許可は下りた。
夕麿は実行委員たちや候補の生徒たちに口止めの上、作業を続けるように指示した。
「下河辺君、あなたにここの責任を任せます。
頼めますね?」
「はい」
彼は確かに武を嫌っている。 生徒会室でも一般校舎でも恐らく、率先して嫌がらせをしていた者のリーダーだっただろう。 だが生徒会業務の手伝いに於いて、手抜きもミスもなくむしろ優秀だと言って良い。
「GPS、携帯でも確認出来ました!」
「行きましょう、会長!」
実行委員も候補の生徒とも無言で見送る。
だが彼らはこの時、一人がこの場から姿を消しているのに気付いていなかった。
狭い場所から出されてすぐ眩い光に、目が慣れないままで目隠しをされた。作業着を来た男性のシルエットと、男性用香水の匂いだけを覚えている。 すぐにまた眠らされて気が付くと、ベッドの上らしく感じる所に横たえられていた。
聞こえて来るのはピアノの音。
『幻想即興曲』
寮の部屋で聴いたものより、音が硬い感じがするが、この弾き方は夕麿だ。何度か聴いているうちに、夕麿の弾き方の癖に気が付いた。指摘すると苦笑された。
だから…間違う筈はない。これは恐らく、昨年の演奏の録音データ。それにしてもこれはピアノが違う……というだけではない。
硬質の音色は悲鳴を上げているように聞こえた。 感じるのこれは1年前の夕麿の心。うっかりと触れてしまったら、砕けて散ってしまいそうな音。触れられる事を拒んでいたのではない、 触れられる事を恐れていたのだと。
どれほど苦しかっただろう。
どれほど悲しかっただろう。
夕麿はその想いを凍らせて孤独に生きていたのだ。 本当はこんなにも悲鳴を上げていたのだ。 武はその痛ましさに啜り泣いた。 夕麿の味わった孤独に比べたら、母の愛情を一身に受けて育てて貰った自分は、どれだけ幸せだろう。
「!?」
ドアが開く音がした。
「へえ…生意気な口を叩いていたから、逃げ出す算段でもしてるかと思ったのにな。この後に及んで怖くなったか?」
その声と話し方に武は凍り付いた。
〈彼〉が犯人だったなんて…!
「心配するな、もうすぐ夕麿さまも来る」
笑い声が響いた。
「その時がお前の最後だ、御園生 武」
狂気を帯びた言いように、武は恐怖よりも強い哀しみを感じた。
一軒家の前に夕麿たちは立っていた。
「先に私だけ入ります」
「会長、それは危険です」
「大丈夫です、貴之。 彼の目的は武の排除と、私を手に入れる事です」
不思議なくらい冷静になっていた。
「彼の説得を試みたいのです。 こんな不益な事は、彼にも何ももたらさない筈です」
「そうまで仰るなら、30分だけお任せいたします。 30分経過したら我々も中へ入ります。 その後、30分経過した時点で警官隊が突入します。
よろしいですね?」
「構いません」
毅然とした物腰に、全員が一歩下がった。
夕焼けに染まる家の玄関扉を、ゆっくりと開けた。ピアノの音がする。すぐにそれが、昨年の自分の演奏だと気付いた。靴を脱いで、引き寄せられるように左奥のドアを開けた。そこはリビングだった。
黒革のソファの上に縛られ、猿轡をされた武が横たわっていた。
「早かったですね、夕麿さま」
一人掛けのソファに、脚を組んで〈彼〉は座っていた。
「暗示通りに一人で入って来て下さいましたね」
その言葉に夕麿も武も息を呑んだ。 夕麿は自分の意志で一人で入った筈だった。 だが、こうなった時用の暗示がされていたとは…
「そういう使い方も出来るわけです。まあ、お座り下さい」
〈彼〉が差し示したのは、武がいるソファ。 夕麿は慌てて武の側に行き、猿轡を解放した。
「夕麿…ダメ…逃げて…」
長時間の猿轡で水分を失った口腔内はカラカラで、絞り出した声は嗄れていた。
「逃げられはしないよ、彼は」
「やめろ…もうこんな事は、やめてくれよ、板倉!」
そう全ては彼、板倉 正己の仕業だった。
「煩いな。 三人揃ったんだ、これで夕麿さまを俺のものにする」
「無駄な事を…最初のでわかった筈です。 私の身体は武にしか反応しません。
それだけはどんな暗示も不可能ですよ」
「だから武がここにいるんですよ、夕麿さま」
「やめろ…板倉!」
武の叫びに、正己はのけぞって笑う。
「さあ、始めましょう! キング、クィーンを抱け」
「夕麿!?」
【キング】という言葉で、夕麿は動きを止めて無表情になった。 【クィーン】という言葉で、後ろ手に縛られて動けない武の詰め襟のファスナーに手をかけた。
「夕麿、やめて! 板倉、やめさせて!」
音を立ててファスナーが下げられ、夕麿の指は中のシャツのボタンを外していく。 武は懸命に身悶えするが、縛られている上に、夕麿に馬乗りされて抗うのは不可能だった。
「やめて…」
全開になったシャツの中の素肌を夕麿の指が撫でる。 白い肌はこのところの夜毎の行為で、夕麿のキスの跡が無数についていた。
「凄いキスマークだな」
こんなのはイヤだと啜り泣く武を、正己は嘲笑うかのように見下ろす。
「ひィッ!ヤぁッ!」
乳首に爪を立てられて悲鳴を上げた。 夕麿に触れられているのに、知らない別人に触れられているようだった。 無表情な顔で瞳だけが欲望の炎に揺れている。
「イヤだ…夕麿ァ…」
泣いて懇願する声は届かない。 正己は嗤いながら夕麿の背後に回って手を伸ばし、彼の詰め襟の首元のホックを外しファスナーを下げた。
「夕麿!」
正己の行動にもう一度、夕麿を正気に戻そうとするが反応はない。
「無駄だよ」
正己の指は夕麿のシャツのボタンを外して、既に彼の肌を撫で回していた。
「綺麗で滑らかな肌だね、夕麿さま。
さあ、クィーンを抱くんだ、キング」
夕麿の手が武の制服のスラックスに移動する。 同時に正己の手が夕麿のスラックスを寛げる。
「さあ、武、夕麿さまに抱いてもらえよ」
「何を…するつもりなんだ…?」
「俺を抱けないみたいだから、俺が夕麿さまを抱くのさ。 俗な言葉で言う、3Pってやつ」
狂ってる……そうとしか言いようがなかった。
夕麿は中等部の事件以来、まだ完全に心の傷は癒えていない。
それなのに……
武は焦った。 すると夕麿の唇が武の唇に重ねられた。 武は躊躇わず夕麿の唇に歯を立てた。
「痛ッ…!?」
苦痛の声を上げて夕麿の顔に表情が戻った。 噛まれた唇から血が滴り落ちる。
「夕麿!」
「武、ありがとう」
夕麿は笑顔を武に向けながら、胸元に手を差し入れて撫で回していた正己を振り払った。
「随分とふざけた真似をしてくれますね。 こんな事をして何が面白いのですか?」
武を抱き起こして手の戒めを解く。
「大丈夫ですか、武?」
「感覚がない…」
「ちくしょう!」
正己は二人を睨み付けると叫んだ。
「キング! クイーンは裏切り者だ。 あなたを裏切った!
スマザード・メイト! クイーンを排除しろ!」
スマザード・メイト。 それはチェスで窒息を差す。 通常はキングがナイトによってメイトされる事を差す。
「うぐッ…夕…麿…」
夕麿の指が武の首に絡み、ピアノ奏者の強力で絞め付ける。 夕麿の頬を涙が零れ落ちる。
そこへ貴之たちが飛び込んで来た。
「夕麿!?」
義勝がその場の光景に息を呑んだ。 夕麿が武の首を絞める、その横で板倉 正己が嗤っていた。
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義勝と貴之が夕麿と武を引き離そうとする。 だが夕麿の手を掴んでいた、武の手が力無く落ちた。 ぐったりとなった武を見て夕麿の力が緩んだ。
「あ…あ…そんな……うわあああああ!!」
夕麿が頭を抱えて絶叫する。
「武! しっかりしろ!」
「義勝、どいて下さい!」
雅久が義勝をおしのけて、武の口許に手を当てた。
「呼吸をしてません……」
雅久は武の顎を上に向かせると、大きく息を吸ってその唇に吹き込んだ。
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「私は…私は…」
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彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
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